第49話 豊漁の予兆
投網を投げると、最初から20匹ほどのドットトラウトが網にかかった。
「今日は特別な日になりそうだな」おじいさんがぽつりと呟いた。
特別な日という言葉に大漁というだけではない別の何かを感じた。
「鮫が現れるとか?」気になったので聞いてみた。
「ああ、鮫か……そうかもしれないがな」と言いながら、光るトラウトを網から一匹ずつビクに移していく。
投網を手繰り寄せると、輝く湖面にもう一投した。お祖父さんが続けて網を打つのは珍しい。網は湖に被さるように大きく開いて落ちた。その瞬間、網の中で驚くほどたくさんのドットトラウトが跳ねるのが見えた。
「今日は早めに引き上げたほうがよさそうだな」
「獲れ過ぎですね」と笑って言うと、「獲れ過ぎはよくないからな」と独り言のように言った。
「なにか起きますかね」お祖父さんの顔を伺った。
「あんた、ナーシュを知ってるか? あいつの消えた日にそっくりだ」
思わず湖底を覗き込んだ。会ったこともないのにナーシュさんの影がそこに見えたような気がした。
「今日は早めに漁を切り上げて、ジノ婆のところにだけ寄って戻るとしよう」
結局、霧が晴れるのを待つこともなく、ビクは一杯になってしまった。なぜ何かが起きる日に限ってトラウトがたくさん獲れるのかはお祖父さんにもわからないという。
漁の道具を片付けると舟を北に向けた。
「わしの後をしっかりついてくるんだぞ」強い口調だった。
帆掛け船はアメンボウのように水の上を滑って進む。それに対してこちらの櫓を使って漕ぐ船はどうにも効率が悪い。ちょっと気を抜くとすぐにお祖父さんの舟との間が開いてしまう。もう若くはないので、10分もすると息が切れてくる。そうすると、こちらの様子を察したお祖父さんがしかたなく舟のスピードを落とす。
「景色が揺れて見えるようならすぐに言うんだぞ」と心配そうにこちらを見た。
なにも聞いてはいないが、お祖父さんも同じような体験をしたことがあるに違いないと思った。
さらに、10分も進むと、ジノ婆さんのいる出島が見えてきた。同じ湖でも北のほうは霧が深いようだ。気温の差があるのだろう。南の沼地とはちょっと違った土地になるせいか、木々が茂る雑木林のような景観に変わる。農業にはやはり適さないように見える。
お祖父さんの指示で、舟を桟橋にしっかりくくりつけた。今日は舟を流されるような天気でもないだろうと思ったけれど、地元の人にしかわからないこともあるのかもしれないから、言われた通りに何度も何度も杭にロープを巻きつけた。
先に出島に上がったお祖父さんのジノ婆さんを呼ぶ声が聞こえた。舟を降りてからあの時と同じように、またユイローの匂いがしてきたのでちょっと心配になったが、すぐにあとを追って出島に向かった。お祖父さんがジノ婆さんを呼び続けている。足が悪いのにどこかに出かけたのだろうか。
柵を越えて出島に入ろうとしたときに一瞬足元を何かに取られた。おかしい、また普段と何かが違い始めている。顔を上げると、目の前の景色がずれ始めているのがわかった。湖があのときと同じように光り、一点に集中しはじめている。よく見るとドットトラウトだった。数えきれないほどのトラウトが湖の中心に向けて集まっている。お祖父さんが心配していたのはやはりこのことだったのだ。集まったトラウトの輝きが水面を盛り上げる。それと合わせるように光の粒子が弾け飛ぶ。
水面が今にも張り裂けそうなほどに大きく膨れ上がり始めた。
その時、光を背景にして立つ人の影を感じた。一人……いや、二人か……。お祖父さんとジノ婆さんがこちらに手を差し伸べてくれているようにも見える。すでに喉は自由を失って、助けを求めることさえもできない。三度も同じ失敗をしたことを責める声も聞こえてくる。
もがいても、騒いでも、光り輝く景色は焦点を合わせさせてくれないし、手足の自由が戻るわけでもない。なぜ、何度も同じような目に会うのだろう。コノンさんのお祖父さんは今どうなっているのだろう。この前のトラピさんとナミナさんのように、この状況にまったく気づいていないのか、それとも同じような目にあっているのだろうか。
このまま、ここに戻れないとしてもそれは本望だろうと自分自身に言い聞かせた。
ゆっくりと揺れ続けていた景色が光を受けて走馬灯のようにぐるぐると回転しはじめた。そして、光とひとつになって空に向かって吹き上げるように登った。それは徐々に黄金色の束となってねじれ、うねりながら太い光の柱となったと思ったら、一気に天まで立ち上った。
遠くのほうで、鮫はまもりじゃ、という声が聞こえた。ジノ婆さんの声だろうか。まもり……マモリ……何かの護りか。
その声は消えることなく止まったままに遠ざかって行く。音が時間とともに消えず、もののように止まる。それは意識の中にとどまっているということとも違う。いろいろな音が止まっていくに連れて、ブオーンという不快な濁った音に変わっていく。
それを待っていたように真っ黒な闇が辺りに立ち込め始める。明かりを閉じ込めてしまう闇の大きさは計り知れない。世界を包むのは光ではなく、闇なのではないかとさえ思える。それほどに闇の力は強く大きかった。
漆黒の闇と思っていたのは、深い深い緑色の世界だった。光がすっかり消え去っていたために限りなく黒に見えたのだろう。真っ暗闇と思われた世界には緑が微かに残されていたのだ。
緑の痕跡を少しでも見つけようと目を凝らしていると、闇に散らばる六界柱が何処かを起点に徐々に広がっていくのがわかった。それも闇の中にあるためにほんのかすかにしか見えない。
気がつくと首から下げていた虹の石がわずかな光を放っていることに気がついた。
「そうか。この石が闇の世界にあって唯一明かりを発し六角柱を照らし出しているのか……」
この前もこの虹の石をたくさんの鮫が取り囲むように集まっていたことを思い出した。彼らもあの真っ黒い目で微かな明かりに引き寄せられていたのだろうか。
虹の石のほんの微かな光だけが、暗黒の中に唯一の光を発している。どこかでコピが呼ぶような声がした。それと合わせるように、ひとつの六角柱との距離が狭まっていくのがわかった。あの六角柱の向こう側にコピたちがいるように感じた。そこにみんなのいるウォーターランドが待っている。そう思った。
六角柱はどんどん近づいてくる。いや、こちらが近づいているのかもしれない。それとともに暗闇にどこからともなく明かりが差し込んできた。
自分はどこに行くのだろう。すでに、ジノ婆さんとお祖父さんのいるオールドリアヌではないどこかに意識は移っているようだった。後ろの方に鮫の姿が見えた。あの巨大なミドリ鮫だった。
こちらを追っているように見えたが、明かりが強くなり始めたところで、大きく身体を反転させ来た方に頭を返した。あっという間に鮫の後ろ姿は闇の深みへと消えて見えなくなってしまった。
そのあとは、意識が途切れたときのように、頭の中が白い光で満たされた。書き残されたすべての記憶が強烈な光でかき消されていくようだった。




