第23話 水に映る顔
ノートを読んでいるうちに、夕暮れが近づき日も少し傾いてきた。ここがノートの主が実際にいる場所であるなら、夕闇になる前にこの灯台に戻ってくるだろう。そんなありえないことを思わずにいられないほどにウォーターランドとそっくりで、まったく異なる場所にいる。
顔を合わせるのを避けるために、一度灯台を離れることにした。灯台から沼への道は雑草が伸び放題で、人が住んでいるとするならあまりに手が入れられていなかった。リブロールのあるはずのところを見ると、ウォーターランドにリブロールをつくる前の景色そのままだった。海側につくったデッキも波除もないので、海の波がそのまま岩場の岸に打ち寄せている。ただ、建物がないだけではない何か理由のわからない違和感があったのでしばらくそこに座って景色を見ていた。
もし、水平線に船でも見えたときにはどう考えればいいのだろう。それが、船長の船であったとしたら、頭の中はますます混乱するばかりだ。船長と自分、それにノートの主が同時に会することになったらと想像するだけで眩暈がしてくる。
船長に「先に着いたので待ってました」と言うと、「それはありがたい」と感謝され、「こちらがノートさんです」と紹介する。「はじめまして、お会いできて光栄です」という会話が交わされる。「こちらは、はじめてですか」という問いかけに「定期船なのでときどき立ち寄りますよ」と船長が答える。「そうでしたか。よかったら灯台にも寄ってください」と誘われ、二人でノートさんの住まいを訪ねる。「かわいい猫ですね」というと「インク」という名前ですと聞かされる。「どちらから来られましたか」と質問されて、「メーンランドのほうから」と答えると、「実は私もリアヌシティのほうから来たばかりなんです」と言われる……。
ありえない。だいたい今は一体いつなんだということだ。ウォーターランドに正確な時計なんてないと言っても限度というものがある。それじゃあ、今はいつかと考えると、ノートのあった時間が唯一の拠り所になる。ということは200年前……。どうしてここにいるのかは、夢の中と考えさえすれば解決するというわけだ。夢の中でさえあれば……助かる。慌てず目覚めを待とう。
どの波も同じように打ち寄せてくるばかり。灯台も色形こそ違うものの同じ場所に見える。エバンヌやリブロールがないことだけが違和感を感じさせているとも思えない。なにかが決定的に違うと思いながらも、時間だけが過ぎて行った。
そして夕日が落ちるときになってやっとその決定的な違いに気づいた。信じられないことに夕日が東側に沈んでいたのだ。これは地球の自転が変わったということか、それとも島の向きが変わったのか。それともまったく別の島にいるのか。自然の原理原則と思われることさえ違うこの世界は一体どこなのだろう。
同じ島だと思い込んでいる自分の記憶の方が違っているということか。もはや、同じということの意味することさえわからなかった。記憶と現実のどちらが正しいかと問われれば、目の前にある事実のほうが正しいに決まっている。たとえ、それが自然摂理に反するようなことであってもだ。時空を鏡で反転させるなどということはありえないだろうけど、できればそうであってほしいと思うほどに頭が混乱していた。
目の前で起こっている現実を受け止めることができなくて、浮力を失った飛行船のように下がり始めた太陽を追うように東に向かって歩いた。あの太陽はほんとうに同じ太陽なのだろうか。もはや、自分の目さえも信じることができない。夢が覚めることを何度も何度も祈った。出島の巫女が夢から呼び戻してくれないだろうか。それともノートの主と会うことで何か救われることでもあるのだろうか。
太陽はこちらの不安をよそに東へとすべるように落ちていく。途方に暮れてチャルド川の方へ行ってみると川幅こそ多少の違いがあるものの、そこには同じように川が流れていた。水面を眺めていると、ぴょんと魚が跳ねた。広がる水門を見ているとまた別のところで魚が跳ねる。夕間詰めの捕食の時間なのだろう。自然のなにげない営みを見ていると、不安な気持ちがおさまるから不思議だ。しばらく見ているとその繰り返しがぴたりとやんだ。上の方から笛を吹くような鳴き声が聞こえたので見上げるといつのまにかナツヨビが飛んでいた。水面に目を戻すと、その影が写っていた。
朝から何も飲まず食わずでいたことに気づき、川の水をすくおうとして水面に手を伸ばしたときに、さらに信じられないことが起こっていることに気づいた。水に映った自分の顔が別の男の顔だったのだ。思わず両手で自分の顔を覆ってしまった。水に同じように顔を隠す男の姿が映った。その顔は見たこともない人だった。いったいだれなのだろう。若かったころの自分なのだろうか。今まで一度も見たことのない人だ。これが夢の世界であるなら、早く元に戻して欲しいと願わずにはいられなかった。何か自分を確認できるものはないかと思い、コピからもらった虹の石を探したけれど、みつけることができなかった。ここへ来る途中でなくしてしまったのだろうか。自分が自分であることさえ信じられなくなりそうな恐怖感に襲われた。
深夜になっても灯台に明かりが灯る気配もない。焚き火で暖を取るようなことはしなかったのだろか。沼のほうに行くとボートが一艘置いてあったので、少し沖に出て海から灯台を見てみることにした。
時間はちょうど、西の水平線から月が目覚めて昇りはじめるところだった。舞台が暗転し太陽と主役を交代した月は見たことがないほどに大きく威圧的だった。そして今夜の月は夜の太陽と見紛うほどに赤く燃え上がっていた。




