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仮想の水 - Waterland of Inworld  作者: uota
第2章  彷徨
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第2章 第24話 海の使者

 夕暮れの空には雲一つなかった。暗闇への不安もあるけれど、今夜は月明かりが闇を照らしてくれるだろう。このまま目が覚めなければ、一人この島で夜を過ごすことになる。まるで、ノートの主の最初の夜を迎えるような気分だ。違うのは灯台にすでに暮らしている人がいること。身に危険を感じるようなものがいなければいいが、そんな保証はどこにもない。今夜は眠れないかもしれない。いっそのこと海に出ていた方が安全かもしれないと思った。


 沼の方に見えたボートは長い間使われていないように見えた。メーンランドから渡る時に使ったのがこんなボートだったとしたら、相当の勇気が必要だったろう。ただ、この島の周りを廻る程度であればなんとかなりそうだ。さいわい今夜は凪いだ穏やかな海だった。


 海に漕ぎ出してすぐに、時計と反対回りに向きを変え灯台の裏側を目指した。北側は比較的浅瀬が多いはずなのでなにかあったときも安心だと思ったからだ。真っ赤な月は水平線を離れ、星で埋め尽くされた夜空に海面からはじかれたようにぽんと浮かび上がっていた。いつのときも変わらないのはこの星空だけだ。夜空までもが違っていたならば、この世界はもはや自分の知るどの世界でもなくなるという不安にかられるだろう。


 沖に少し出たところで、なにか大きなものにぶつかり、船底を激しく擦った。暗闇のせいで何が起こったかわからなかったが、大木にロープをくくりつけて湿った地面を引きずったときと同じような鈍く長い音がした。このあたりは浅瀬のはずなので、潮の関係でボートも通れないような浅瀬ができていたのだろうか。

 気になって水の下を覗き込むとキラキラと緑色に明滅する透明な何かが、ボートの下を前方方向に向かって進んでいるのが見えた。ときどきボートがその上に乗り上げるようにして、前に押し出されているように感じる。水深は予想していたのと違って、思った以上に深く見えた。


 そのとき、どしんという激しい衝撃とともに後ろからなにかがぶつかった。危うく海に投げ出されそうになり、ボートの縁にしがみついた。振り返ると、大きな柱が水中から突き出て、それが船を前に押すようにしている。しかし、柱のように見えたのは赤い月明かりのせいだった。それが大きなヒレであることに気づくのに時間はかからなかった。ボートの後ろの水面に突き出たヒレは透明感のある深みのある緑色だった。ノートでしか知らないあのミドリ鮫、それも想像もできないほどの大きさのミドリ鮫だった。巨大な鮫の背中に乗ったボートはどんどんスピードをあげていった。それは灯台を通り越して、水面に浮かぶ赤い月のほうに向かっているように思えた。島はみるみる小さくなって行く。


 さすがに身の危険を感じて、遠ざかる島に目を向けると、その後ろに島を包み込むように横たわる大きな影が見えた。最初は雲の影かと思ったが、しばらく見ているうちにそれが陸地だということに気づいた。雲でなければそれ以外に思いつくものがなかったというのが正しかったかもしれない。昼は視界に入らなかった陸地が見えることに自分の目を疑った。しかし、それはままぎれもない現実だった。

 それにしてもこんな近いところに大陸が見えるというのはどういうことだろう。それも島の南側の目と鼻の先に……いや、月との関係でいうと北側になるのか? あれがノートの主が渡ってきたメーンランドだというのだろうか。こんなに近い位置にあったとは。蜃気楼かとも思ったが、そうだとしたらそれはあまりにも鮮明すぎた。まるでノートの世界に入ったかのような現実に驚くばかりだった。


 鮫は想像していたよりもはるかに巨大だった。背ビレがなければ鯨と見間違えただろう。その大きさに反して、その泳ぎ方は鮫とも思えないとても優雅なものだった。まるでこの海の守り神であると言わんばかりに、威厳すら感じさせた。迷うことなく真っ直ぐに進むミドリ鮫は明らかに目的を持って何かを目指していた。


 これ以上島から離れると戻れなくなると思い、ボートを傾けて鮫の背中から離れようとしたときに、世界が崩れてしまいそうなほどの地鳴りがした。いや、地鳴りではなく大気が軋んだというほうが正しいかもしれない。まるで地震のような波動が空間を形作るすべての粒子を震わせたようだった。そして、それまで見えていた星空がガラス細工のように割れて地上に落ち始めた。赤い月さえもが上下に大きく割れ、半分が海に落ちそうになっている。これが夢でなければなんだというのだろう。


 一瞬のことだった。鮫が大きく寝返るように身体をよじらせたかと思うと、海底に向けて大きく方向を変えた。ボートはいとも簡単に空中に投げ出され、そのまま回転し船首から海に落下していった。ボートと離れた身体は、時間が間延びしたようにゆっくりと海面に落ちた。目の前が、無数の泡でいっぱいになり、泡のひとつひとつに鮫の姿が映った。


 どこまでも紺碧な海に、揉まれるように回転する赤いボートとのたうつようにしながら海底に向かう鮫の輝く緑、この世のものと思えない幻想的な時間が流れた。


 海底に向かうにつれ、海流が渦巻きのようになって吸い込まれていく。まるでこの島から、どこか違うところへ流れ出て行くような……呼吸はすでにできなくなっている。間もなく、視界も無数の白い泡に遮られボートも鮫もなにも見えなくなった。

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