第33話 レンズ磨き *
天候が崩れるとさすがの飛行船と言えども休まざるを得ないが、幸い昨日、今日と好天に恵まれた。トラピさんを乗せた飛行船はもうそろそろリアヌシティの郊外あたりまで行っただろうか。
今日は、しばらくやっていない灯台のレンズ磨きでもしようと思い立ち朝から準備をはじめた。小さい灯台とはいうものの照射灯のレンズの表面はでこぼこで、それなりの大きさもあるので、部屋ひとつを掃除するぐらいの手間はかかる。
近海を通る船は多くはないものの、岩礁や浅瀬の多いこのあたりでは灯台の役割も大切だ。船長も灯台のランプだけは忘れずに磨いてくれと口癖のように言っている。島民にはわからないが船乗りにとっては、灯台が唯一広い海で安全な航海の見守ってくれるもの。たかがレンズ磨きと片付けられない大切な仕事なのだ。昔はオイルの灯火を使っていたそうだが、今は風の力を借りて電気が蓄えられ夜のあいだ闇を照らす。考えてみると、この灯台が島でもっとも近代的な施設なのかもしれない。でもそれを支えているのが雨の日も晴れの日もわけ隔てなく吹く風という自然の力というのもおもしろい。
灯台に着くと、いつものようにインクが迎えてくれた。眠そうな目でこちらを見ている。みんなから慕われているインクがいてくれる限りこの灯台も安泰だろう。少なくとも忘れられる心配をしないでいい。
机に目をやると引き出しが少し開いていた。開けてみるとだれかが見たのか、ノートに栞がはさまれていた。出発前にトラピさんが来たのかもしれない。栞のページを開いてみた。
***** ノート *****
島の少し高くなっているところでは、いたるところに果実のなる木が自生しています。リアヌシティで売られている食用の果物と比べると人の手がかけられていない分見た目こそ見劣りはしますが、その味は飛び抜けておいしく、人ひとりが空腹を満たすのには十分すぎるほどの量です。ところが、食べる人もいないだろうと安心していると、その果物が一夜にして食い荒らされてしまうことがあります。この実を好物にする渡り鳥の群れでも来るのでしょうか。目覚めると熟したものだけ選んですっかり食べ尽くされています。
中でも飛びぬけておいしいのが、私がピーチプルと名づけた淡いピンク色の果物です。名前で想像がつくかもしれませんが 、桃とリンゴを掛け合わせたような見た目で、柔らかく果肉がとても口当たりのいい果物です。もし、この世に楽園と呼ばれるところがあるなら、このピーチプルのなる土地がそれにもっともふさわしいように思います。食べる時にこぼれ落ちる果汁の雫はこの世のものとは思えないほどのおいしさです。至福に味があるなら、まさにこのピーチプルに違いありません。
おもしろいものでは野菜のような果実もあります。葉を巻き込んだような実が木になります。こちらは鳥も好まないようで、熟すとぽとりと落ちてしまいます。こんな果物はこれまで一度も見たこともありません。こんなものが木になっていることが ほんとうに不思議です。こればかりは見た人にしかわからないでしょう。
これらの植物の写生を何度か試みてはいるのですが、なかなか納得のいくものが描けません。記録として価値のある絵にならないのです。子供のころから絵を描くことより外を走り回っているほうが好きだったのですが、こんなことならもう少しきちんと習っておけばよかったと今更ながらに後悔しています。
おいしい食べ物に出会うといつもあのジギ婆さんのことを思い出します。貧しくて普段なかなかおいしいものを口にすることのない婆さんに持っていってあげればどんなに喜ぶだろうかと思うのです。
婆さんは二度と帰って来られないと言っていましたが、未だにその言葉の意味するところはわからないままです。島に渡る時に使ったボートはしっかり陸にあげて蔦で縛り止めてありますし、同じ道を辿ればいつでも戻れそうな気もします。あえて言えば、こんな楽園のような場所から急いで帰ろうとは誰も思わないということでしょうか。もし、過去にだれかがこの島に来ていたなら、私と同じように考えたに違いありません。それほどに居心地のいい場所なのです。
行方のわからなくなった爺さんはこの島には足を踏み入れなかったのかもしれません。踏み入れていれば、あんなに慌てた手紙を書くこともなかったでしょう。そう考えてみると、私が消えたはずの島にいること自体も不思議に思えてきます。
一ヶ月ほどの予定だったこの旅も、リアヌシティを発ってもう2ヶ月を過ぎようとしています。新聞社の人たちも私の行方を捜し始めているかもしれないと思うと少し申し訳なく思うのです。
***** ノート *****
トラピさんは、200年以上前のジギ婆さんの何かを探そうとしているのだろうか。もっともノートを書いた本人の名前がわからないから、手がかりはジギという名前以外にはないのだけれど。
「おじゃまします」
ノートを読みふけっていて、入口に人が立っているのにまったく気がつかなかった。
「こちらの灯台は入らせてもらっていいのでしょうか?」
「どうぞどうぞ」あわててノートを片付けた。
「島ははじめてすか?」
「はい、最近知りました」
よく見ると手に小さく折りたたんだ島便りを持っている。
「あ、それ……」
「港で配られていたチラシをいただいて 」
「そうでしたか。それを見てこちらに?」
「そうなんです。本当に何も知らなくて……」
「もしかして、昨日の飛行船ですか?」
「あ、そうです。このチラシに書いてあった水玉の鳥が迎えてくれました。ほんとうにいるんですね。感激しました」
「ほんとうなんですよ。驚いたでしょ。あんな鳥なかなかいないですよね」島便りを見て来たという人とはじめて会って、大人げもなく興奮している自分がおかしかった。
「島の印象はどうですか?」
「想像していた通りのところだったので、もう少し近ければ毎週来たいぐらいです」
ザックを背負っているところをみると、この子も野営のつもりで来たのだろう。最近の女性は元気がいい。
「この灯台は上に上がれますか?」
「ええ、もちろんですよ。ただ、階段が急なので気をつけてください」
「じゃあ、失礼して……」
インクが案内人にでもなったつもりなのか先に駆け上がって行った。はじめて来た人には、今でもこの灯台が島巡りの目標のひとつになるだろう。島で唯一目立つ建物といっていい。
上がったまましばらく降りて来る気配がなかったので、「どうですか」と上のほうに向かって声をかけてみると、「海が丸く見えます! 大きな水玉みたいできれい。夜見るときっと宇宙にいるようですよね」と返事が返って来た。
「そうなんです。宇宙に放り出されたみたいな気分になりますよ」
客人はその後もずっと海を眺めているようだった。ときおりカメラのシャッターを切る音が聞こえる。それ以外には、波の音だけしか聞こえない。
どうやらこの調子だと、照射灯のレンズ磨きはまた先送りになりそうだ。船長の来るまでに終らせられるだろうか。
結局1時間ほどして女性は降りてきた。ありがとうございましたとひとこと言って、そのまま出口に向かった。その後ろ姿は何か考えごとでもしているように見えた。
背負っているザックが動いたので見ると、ウサギが顔を出していた。インクがふーふー言っている。ネコとウサギとは相性が悪いのかなと思う。
小さな女性は名前も告げないままにエバンヌのほうに向かって行った。島便りの配られている様子をもう少し聞きたかったけれど、ここは配られていることがわかっただけでもよしとしよう。早速ミリルさんに報告して次の島便りも考えないと。




