第1章 第32話 飛行船
日差しが目にまぶしい。リブロールのソファで眠ってしまったようだ。グラスの水を一息に飲み干す。昨日は、いい気分になって遅くまで酒宴の席を楽しんだ。ノーキョさんの新作ワインが口に合ったのか、久しぶりのパーティーが楽しかったせいか、ついついアルコールがすすんでしまった。
机の上を見るとエモカさんのパンが置いてある。お土産に持たされたのだろうか、帰り道のことはほとんど覚えてない。少しのお酒で曖昧になってしまう記憶というのは何なのだろう。人は忘れるから生きられると聞いたことがある。それも程度の問題だという注釈が必要だろう。
窓から外を見ると、ブランコのポールに張られた紐に、洗ったばかりのテーブルクロスが揺れている。ミリルさんが朝の日課にしている洗濯をもう済ませたようだ。洗濯物とかまどの白い煙がいつものように島の朝を告げる。日の差し込み具合からすると朝というよりお昼に近い時間かもしれない。
いつものように、なんでもない白い紙を出して昨日の楽しい夜のことを書く。これが週間になったのは、島便りをつくりはじめてからだ。身の回りで起こったことを紙に書いて、最後に今日の日付をダイアル式のスタンプで押す。うまく力を加えないと文字がかすれてしまうので注意がいる。黒いスタンプを押したときに、1枚のなんでもない紙がこの世界で意味を持つ特別なものに変わっていく。これが記憶というものなのかもしれない。そしてスタンプとともに記憶が記録としてこの世界に刻まれる。いつまで続けられるかわからないけれど、ノートの主の後を次ぐ気持ちで島の記憶を残していけたらと思う。
「オルターさん、こんにちは!」
「あれ? トラピさん、なんだか今日はよそ行きの装いじゃないですか」
いつものシャツ姿とは違い、白地に青いストライプのジャケットが新鮮だった。手には身体ほどもありそうな大きなバッグを持っていた。 おそらく荷物の少ないトラピさんの生活道具一式が入っているのだろう。
「実は、来週開催される、メーンランドのお祭りに呼ばれたもので、今日はこの足で島を立ちます。しばらく、会えませんが、またすぐ戻ってくるので」
「それはそれは。また急な話ですね」
「予定は以前から決まっていたんですが、ナミナさんがこちらに来ることもあったので、ぎりぎりになってしまいました。 まあ、旅芸人はいつもこんなものです」
「ナミナさんといっしょに?」
「彼女たちは後から合流の予定です。島が気に入ってしまったみたいで」
「そうなんですね。でも、今日は船が入る日ではないのでは?」
「ああ、それで今回は飛行船にしました。次の船だと公演に間に合わないので」
最近は飛行船も時々見かける。巨大な風船を2つつけた熱気球だ。空港のようなしゃれたものもないし、上空の気流が安定しないこの地域には低空で飛ぶ飛行船がいいのだそうだ。荷物の制約はあるらしいけれど、大きくてもカバンひとつぐらいなら載せてもらえるのだろう。旅行することのない私は飛行船がどういうスケジュールでこの島に来るのかさえも知らない。
「メーンランドですか。もう、どんなところだったかも忘れてしまいました。どちらのほうに?」
「それが、例のリアヌシティなんですよ」
「おお、そうなんですか!」思わず大きな声を出してしまった。あのノートの主が住んでいたところにトラピさんが招かれるなんて、これはなにかの縁に違いない。
「リアヌシティまで行く機会なんてなかなかないですからね。僕もそちらのほうでなければ、しばらく島でゆっくりしたいと思っていたんですけど。向こうで何かみつかるかもって期待してしまいますよね」
「ほんとです。これは楽しみだな。トラピさんもすっかりトレジャーハンターだ。飛行船だとリアヌシティまでどのぐらいで行けますか?」
「普通便でまる1日というところですね。明日の夕方までには着いているのかな。というか着いてないと困るんですけど」
「便利になったものだな。私も機会があったら行ってみたいとずっと思っていて……」
「オルターさんのためにもしっかり見ておきます。来られた時の観光コースも考えてきますね」
「いやいや、トラピさんはお仕事だから……」
「だいじょうぶですよ。公演の間に空き時間も結構あるので」
あまり無理は言えないけど、講演の合間にいろいろな情報を集めてもらえるならうれしい。
「それでは、そろそろ出発の時間なので」
「あ、気をつけて。公演の成功祈ってますよ」
「ありがとう。オルターさんもお元気で。向こうからハトポステルを出しますね」
飛行船はいつも沼地の西側に面した草原に降りる。リブロールからもちょうど見えるあたりだ。まだ機影も見えないから到着は少し後だろうと思っていたら、トラピさんが店を出たところでリブロールの上を大きな影が覆った。
ぶおーん、ぶおーん……
小さなエンジン音が風に乗って聞こえる。気がつかないうちに飛行船は島のすぐ上まで来ていたようだ。10人乗りほどの飛行船はゆっくりと旋回しながら草原のほうへ向かう。風を切るプロペラの音も少しづつ回転を緩めてゆっくりとした周期になっている。
力を抜いてベッドに横たわるようにふわりと着地すると、階段がするするっと地面に下ろされて2、3人の人が降口に立った。トラピさんは降りる人が終ると、操縦士らしき人とひと言ふた言話すとこちらに手を振りながら乗り込んだ。ミリルさんも見送りをしているようだ。コピもいっしょにいる。昨日の夜に、予定を聞いていたのかもしれない。
ナツヨビが船を追うイルカのように飛行船の周辺を飛んでいる。風音にも似たその独特の鳴き声が聞こえる。飛行船から降りた人たちは水玉模様の鳥の歓迎に驚いていることだろう。
しばらくすると飛行船は何もなかったかのようにまた静かに地面を離れた。そして風に押されるようにして、ゆっくり、ゆっくりと大空の中に溶け込んでいった。




