最終話 青い文鎮、始動
千歳から深夜の札幌へ戻り、稀昭が営む小さな修理工場に帰り着いた頃には、日付が変わろうとしていた。
シャッターをくぐると、工場の中には見知った顔が揃っていた。
技術オフィシャルを終えた稀昭と、HQ業務で真っ白に燃え尽きていた藍華。それから、同じくHQで働き続けていた楓だ。
「遅かったわね、和希。どこで道草食ってたのよ」
「悪りぃ悪りぃ。ちょっと千歳まで出稼ぎに行ってた」
和希はにやりと笑い、ポケットから土埃のついたR項の茶封筒と、智紀から受け取ったタイヤ運搬代の一万円を取り出した。
楓の前のテーブルへ、並べて置く。
「ほら、今日の上がりだ。これで次戦、なんとかなるだろ?」
楓は茶封筒の中身と一万円札を確認し、スマホの電卓を叩いた。
「……これに私の分と、次の給料から回せる分を足せば、エントリー費と最低限のガソリン代はなんとかなるわね。ただし、次戦まであんたの主食はもやしよ」
「うげぇっ、またもやし生活かよ……! 俺、もやし炒め食うのもう飽きたんだけど!」
「自業自得じゃん。あとキー、せいぜいもやし食べて頑張りなよ」
パイプ椅子に座った藍華が、夜食の塩味のカップラーメンを啜りながら笑った。
和希はそのカップを恨めしそうに見つめる。
「お前はいいよな、麺が食えて」
「働いたし」
「俺も働いたわ!」
そんな二人のやり取りを聞きながら、稀昭がガレージの奥に鎮座する青いZC31Sのカバーを外した。
「資金の目処が立ったなら、もうこれは『ただのデカい文鎮』じゃないね」
オレンジ色の投光器に照らされたスイフトスポーツ。
前回のラリーで左のドライブシャフトを折ったあと、左右とも競技用の強化品へ交換され、再び走る日を待っていた。
ボンネット先端では、相変わらずメロン熊が不敵に牙を剥いている。
「……ああ。待たせたな」
和希は歩み寄り、ロールケージを跨いで運転席へ潜り込んだ。
自分の身体に馴染んだフルバケットシートの深いホールド感。掌に収まるステアリング。
軽トラの直角シートとは、やはり違う。
背中を預けただけで、ようやく帰ってきた気がした。
今日はずっと、外から競技車を見ていた。
石を浴び、弁当を待ち、黄旗を手に立ち続けた。
自分が走る時にも、ああして誰かが道の先で待っているのだ。
和希はステアリングを握り直した。
「楓。次戦は、今までよりコンマ5秒……いや、コンマ7秒早くノートを読んでくれ」
「は?」
助手席のドアを開けて覗き込んだ楓が、怪訝そうに眉をひそめる。
「あんた、また勢いだけで突っ込む気じゃないでしょうね」
「違う。もっと手前で準備したいんだ。直前に慌てて曲げるんじゃなくて、姿勢を作る時間が欲しい」
和希の脳裏に、林道のジャンクションを駆け抜けた黄色い33が蘇る。
午前中はブレーキをロックさせ、午後には同じ場所を綺麗に抜けていった。
千歳へ向かう軽トラの中で聞いた、智紀の言葉。
過給の感触も、フロントが逃げる難しさも、自分の31とは違っていた。
「……あの33と同じ走りをしても仕方ねぇんだよな。俺たちの31なら、NAの反応を使って、もっと細かく姿勢を作れるはずだ。だから、次の情報を少し早めに欲しい」
「それでコンマ7秒?」
「まず、そのくらいから試したい」
「じゃあ、次のレッキで合わせましょ。早く読めばいいってものでもないんだから」
「ああ。頼む」
楓は黙って和希の顔を見た。
疲れているはずなのに、目だけはもう次のコーナーを追っている。
「外から見て、何か掴んだみたいね」
「……悔しいけどな。あいつら、速かった」
「でしょうね」
「でも、勝てねぇって決まったわけじゃない」
前戦のSS2終了時点では、クラス3位だった。
最後まで走り切れなかった悔しさも、自分たちの速さが通用した手応えも、和希は忘れていない。
楓の口元が、ゆっくりと緩んだ。
「……上等じゃない。今度は速さも完走も、両方取りにいくわよ」
「望むところだ」
不敵に笑い合う二人へ、稀昭が近づいてきた。
ツナギのポケットからスマートキーを取り出し、和希へ放る。
「じゃあ、そろそろ起こそうか。近所迷惑にならない程度にね」
「おう」
キーを受け取った和希は、センターコンソールのドリンクホルダーへ置いた。
クラッチを踏み込み、ステアリングコラムのイグニッションノブを捻る。
――キュル、キュル、キュルキュル、ぷすん。
「……おい、稀昭。二万キロ病出てんぞ」
「あーーー、プラグ変えとくよ。アクセル煽ってエンジンかけて」
「締まらねぇなぁ……」
苦笑しながらアクセルペダルを軽く踏み込み、もう一度ノブを捻る。
――キュル、キュル、ブォンッ!!
今度こそ、M16Aが目を覚ました。
始動の一声がガレージに響き、やがて低いアイドリングへ落ち着いていく。
和希はステアリングへ掌を戻した。
微かな振動が、指先から伝わってくる。
手間も金もかかる青い相棒。
その面倒を見てくれる親友。
隣には、次の走りを一緒に考えるコ・ドライバーがいる。
「……次は、勝つぞ」
「まず完走ね」
「壊さないでよ」
「あとキー、勝ったらカルビ弁当ね」
「お前、ほんとそれ諦めねぇな!」
藍華が、カップラーメンを片手ににっと笑った。
つられて稀昭が笑い、楓も運転席へ向けていた顔を緩める。
笑い声の下で、M16Aが低く脈打っていた。
青い文鎮は、もう沈黙していない。
彼らの終わらない週末が、またここから始まる。




