第1話 レッキ
ラリーは、アクセルを踏み込む前から始まっている。
和希がその言葉を痛感するのは、競技区間(SS)を低速でトレースする、この「レッキ(下見走行)」の時間だ。
制限速度を遵守し、鮮やかな青いZC31Sスイフトスポーツが山道を登っていく。少し荒削りなM16Aエンジンの鼓動。それは和希にとって、自らの心拍と重なる身体の延長のような感覚だった。
和希の視線は、獲物を追うように鋭く動く。
道のうねり、木立の切れ目から差し込む光、そして路面のわずかな色の変化。
本番では時速100kmオーバーで通り過ぎてしまう景色を、今はスローモーションのように脳に焼き付けていく。
「……右4、タイトゥン2、クローズ」
和希が、フロントウィンドウの先を見据えたまま、リズムを刻むように吐き出す。
助手席の楓は、その言葉を逃さずペースノートへ書き留めた。激しく揺れる車内でも、彼女のペン先は迷わない。
「了解。4から2へ、出口クローズ……ここ、かなり回り込んでる?」
「ああ。クリップを過ぎてから一気にきつくなる。欲張ると外に放り出される」
「オッケー。『タイトゥン2・キープイン』。イン側に残るようにノートをまとめる」
しばらく進むと、楓がふと顔を上げた。
「和希、ここ。アスファルトがパッチワークになってる」
「……ああ。本番の速度域だと、足がついてこなくて跳ねるな」
「『ジャンプ気味・挙動注意』ね」
白紙だったノートが、二人の言葉で「命」を持っていく。
それは単なる地図ではない。限界速度の先にある景色を共有するための、二人だけの聖書だ。
(俺は道を“感じ”、楓はそれを“記録”する)
どちらか一方の感覚がズレただけで、マシンは容易に崖下へ消える。
ようやくSSのフィニッシュラインを越え、リエゾン(移動区間)に入ると、車内の空気はわずかに緩んだ。
和希は窓を少し開ける。山あいの冷たい風が、頭の熱をさらっていく。
ZC31Sのギアを5速に入れ、巡航に移る。
助手席では、楓がペンを置き、指の関節を小さく鳴らした。
「……お疲れ様。結構、攻めたノートになったね」
楓の声は、先ほどまでの事務的で鋭いトーンから、いつもの落ち着いた響きに戻っていた。
「ああ。あの『右4タイトゥン2クローズ』。あそこをスムーズに抜けられれば、次のストレートでトップスピードに乗せられる。勝負どころだ」
「信じて読み上げるわ。でも、イン側の泥、本番までに掻き出されてなきゃいいけど」
ラリーは、後の出走順になればなるほど、前の車がカットしたイン側の泥や砂利が路面にぶちまけられる。
レッキで見ている路面が、本番もそのままとは限らないのだ。
「それは運か、あるいは俺の嗅覚次第だな」
和希が少しだけ不敵に笑う。
ふと視線を落とすと、楓が膝の上で、走り書きだらけのノートを愛おしそうに撫でていた。
「ねえ、和希。このスイフト、次は足回り、少し固める?」
「……いや、今のままでいい。跳ねる箇所が多いから、しなやかさがあった方が粘れる」
最新のラリーカーのような電子制御はない。
頼れるのは、自分の手足の延長であるこのメカニカルな感覚と、隣に座る彼女の言葉だけ。
「了解。じゃあ、私は今のセットアップに合わせたリズムで読み上げる。……今夜、もう一回ビデオで見直す?」
「ああ。宿に着いたら、インカー映像と突き合わせよう。一箇所、どうしても距離感がしっくりこないストレートがあった」
レッキが終わっても、二人の「準備」は終わらない。
やがて、国道の先にセイコーマートの看板が見えてきた。
それを目にした途端、和希は空腹を思い出した。
「……腹減った」
「私も。寄っていこうか」
楓がノートを閉じる音を聞きながら、和希はウィンカーを出した。
駐車場へスイフトを滑り込ませ、空いている区画に停める。
エンジンを切る前に、助手席のノートへちらりと目をやった。
(このノートの通りに走れば、俺たちはもっと速くなれる)
それは確信に近い予感だった。
和希はキーを戻し、夕暮れの空気の中へドアを開けた。




