↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/36

第1話 レッキ

 ラリーは、アクセルを踏み込む前から始まっている。


 和希(かずき)がその言葉を痛感するのは、競技区間(SS)を低速でトレースする、この「レッキ(下見走行)」の時間だ。


 制限速度を遵守し、鮮やかな青いZC31Sスイフトスポーツが山道を登っていく。少し荒削りなM16Aエンジンの鼓動。それは和希にとって、自らの心拍と重なる身体の延長のような感覚だった。


 和希の視線は、獲物を追うように鋭く動く。

 道のうねり、木立の切れ目から差し込む光、そして路面のわずかな色の変化。

 本番では時速100kmオーバーで通り過ぎてしまう景色を、今はスローモーションのように脳に焼き付けていく。


「……右4、タイトゥン2、クローズ」


 和希が、フロントウィンドウの先を見据えたまま、リズムを刻むように吐き出す。

 助手席の楓(かえで)は、その言葉を逃さずペースノートへ書き留めた。激しく揺れる車内でも、彼女のペン先は迷わない。


「了解。4から2へ、出口クローズ……ここ、かなり回り込んでる?」

「ああ。クリップを過ぎてから一気にきつくなる。欲張ると外に放り出される」

「オッケー。『タイトゥン2・キープイン』。イン側に残るようにノートをまとめる」


 しばらく進むと、楓がふと顔を上げた。


「和希、ここ。アスファルトがパッチワークになってる」

「……ああ。本番の速度域だと、足がついてこなくて跳ねるな」

「『ジャンプ気味・挙動注意』ね」


 白紙だったノートが、二人の言葉で「命」を持っていく。

 それは単なる地図ではない。限界速度の先にある景色を共有するための、二人だけの聖書(バイブル)だ。


(俺は道を“感じ”、楓はそれを“記録”する)


 どちらか一方の感覚がズレただけで、マシンは容易に崖下へ消える。


 ようやくSSのフィニッシュラインを越え、リエゾン(移動区間)に入ると、車内の空気はわずかに緩んだ。

 和希は窓を少し開ける。山あいの冷たい風が、頭の熱をさらっていく。


 ZC31Sのギアを5速に入れ、巡航に移る。

 助手席では、楓がペンを置き、指の関節を小さく鳴らした。


「……お疲れ様。結構、攻めたノートになったね」


 楓の声は、先ほどまでの事務的で鋭いトーンから、いつもの落ち着いた響きに戻っていた。


「ああ。あの『右4タイトゥン2クローズ』。あそこをスムーズに抜けられれば、次のストレートでトップスピードに乗せられる。勝負どころだ」

「信じて読み上げるわ。でも、イン側の泥、本番までに掻き出されてなきゃいいけど」


 ラリーは、後の出走順になればなるほど、前の車がカットしたイン側の泥や砂利が路面にぶちまけられる。

 レッキで見ている路面が、本番もそのままとは限らないのだ。


「それは運か、あるいは俺の嗅覚次第だな」


 和希が少しだけ不敵に笑う。

 ふと視線を落とすと、楓が膝の上で、走り書きだらけのノートを愛おしそうに撫でていた。


「ねえ、和希。このスイフト、次は足回り、少し固める?」

「……いや、今のままでいい。跳ねる箇所が多いから、しなやかさがあった方が粘れる」


 最新のラリーカーのような電子制御はない。

 頼れるのは、自分の手足の延長であるこのメカニカルな感覚と、隣に座る彼女の言葉だけ。


「了解。じゃあ、私は今のセットアップに合わせたリズムで読み上げる。……今夜、もう一回ビデオで見直す?」

「ああ。宿に着いたら、インカー映像と突き合わせよう。一箇所、どうしても距離感がしっくりこないストレートがあった」


 レッキが終わっても、二人の「準備」は終わらない。


 やがて、国道の先にセイコーマートの看板が見えてきた。

 それを目にした途端、和希は空腹を思い出した。


「……腹減った」

「私も。寄っていこうか」


 楓がノートを閉じる音を聞きながら、和希はウィンカーを出した。

 駐車場へスイフトを滑り込ませ、空いている区画に停める。


 エンジンを切る前に、助手席のノートへちらりと目をやった。


(このノートの通りに走れば、俺たちはもっと速くなれる)


 それは確信に近い予感だった。

 和希はキーを戻し、夕暮れの空気の中へドアを開けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。