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姫騎士は、異世界人の少女と血の約束を交わす  作者: null
六章 黒耀の蝶

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黒耀の蝶.2

死んだように生きているくせに、生き続けられなくなることが何よりも怖い。

 アリアは、自分の言葉で深白の目の色が変わったのを確かに感じ取っていた。


 仮面を被るのが上手で、真贋の読めない言葉を巧みに操る彼女だが、今回ばかりは見誤ってはいないことだろう。


 深白はゆっくりと頷くと、「本当に、アリア様は綺麗な人ですね」と儚げな微笑を浮かべる。


 本気で言っているのか、皮肉なのかは分からない。だが、今はそれどころではない。


 ミセリコルデの柄に、改めて力が込められる。彼女の技量をもってすれば、心臓を一突きすることぐらい、容易いだろう。


「…深白、アリア、様」


 不意に、シスターが今にも消えそうな声を出した。隙間風みたいだと思った。


「どうした、シスター」


 深白も視線だけで応じれば、シスターは血の気を失った顔をほんの少し歪ませて続けた。


「あの子たちを、お、願い…」

「――分かっている。当たり前だ、あぁ、当たり前のことだ。民は守る。孤児だろうと、辺境の村人だろうと、ローレライの誇りに誓って…!」


 ぎゅっと、シスターの手を取る。枯れ木みたいだ、力が、命がない。


 この手で、色んなものを守ろうとしてきたのだと思うと、アリアは胸がいっぱいになって、また涙をあふれさせた。


 やがて、シスターはぜいぜいと苦しそうに息を荒くし始めた。息をするのも本当に苦しいのだろう、穏やかな思い出の強い顔が、酷く歪んでいた。


 再度、深白が短剣の狙いを定めた。しかし、それが押し込まれる前に、もう一言だけ、シスターが言葉を残そうとした。


「アリア、様、深白のことも…」


 直後、激しくシスターが吐血しながら咳き込んだ。


 ミセリコルデの先端が、今にも解放のために突き動かされそうななか、アリアは、懸命にシスターの手を握り、叫ぶように、しかし、祈るように応える。


「心配するな…!深白のことも私に任せておけばいい。だから、貴方は――」


 ずん、と握った手を通して衝撃が伝わってくる。一際強い吐血と痙攣があった後、時計の針が止まるみたいに緩慢に、シスター・ノームの命が絶対的な『静』に飲まれていく。


 胸が締め付けられるような痛みのなか、アリアは固く目を閉じた。あふれかえった涙が頬をつたい、シスターの亡骸に落ちていく。


「…貴方は、どうか安らかに…」



 横たわるシスターの瞳をそっと閉じたアリアは、数秒、静かに目をつむりじっと硬直していたのだが、そのうち、長く息を吐いてからすっくと立ち上がった


「行こう。エキドナを探すぞ」


「姫様…」と気遣わし気な声をプリシラが発すれば、その主は彼女ではなく深白を見つめた状態で応じる。


「私たち王族の役目は、ここで両膝をつき、涙を流し続けることではない。――民を守る。ただそれだけだ。たとえ、そこが辺境だろうとな」


 お前たちにも付き合ってもらうぞ、と短く添えたアリアの言葉は毅然としていた。先ほどまで大粒の涙をこぼしていた女のものとは、到底思えないほどに。


「もちろんなのです」と少しだけほっとした様子でプリシラが返事をする。


 深白のほうは、瞳の色こそ陰ってはいたが、スカートの裾を広げて恭しく頭を下げる余裕はあるようであった。


「エキドナが向かうとしたら、人の多いところだろう。誰かが襲われる前に避難を促す。それか、先に見つけて討つぞ」


 アリアは、コツコツ、と踵を鳴らして礼拝堂から外へと向かう道を進んだ。両脇に規則的に並べてある古い長椅子の間を貫く姿は、海を割るモーゼの話を彷彿とさせた。


 凛と伸びた背筋、青い炎の如き精神を持つ彼女に相応しい白銀と深い青の鎧。腰から垂れ下がるコートの部分も、颯爽と前へ進むアリアという風に導かれ、勇ましく揺れている。


 人間の本質は『悪』であると深白は語ったが、その一方で、今、彼女の中に疑念も浮かんでいた。


 果たして、アリア・リル・ローレライという女性が月光の如き白い輝きは、本当にふとした拍子で黒く穢れてしまうのだろうか…という疑問だ。


 夕焼けを反射する青の装甲が、鮮やかに輝く。本当に、彼女自身が月そのものであるかのように眩しい。


 深白はその美しさに惹かれ、小走りで駆け出していた。


 深白は、鮮烈なきらめきを、アリアのそばで目に焼きつけていたいと強く願っている自分に気付き、困惑しながらも、相手の横につく。


「私も、お手伝いします」

「…ああ、助かる。今回ばかりは、絶対に打ち倒さねばならない。シスターの意思を尊ぶためにも、そして、この胸のなかに宿る、いかんともし難い苛立ちを解き放つためにも…!」


 横から覗くアリアの灰色の瞳には、色とりどりの感情が絶えず入れ替わっている。


 深白自身、シスター・ノームの一件、思うところがないわけではなかった。


 他人同然の自分を助け、孤児たちと同様に恵みを与える陰で、孤児たちを思うがゆえに文字通り悪魔にさえ魂を売ったシスター。その成れの果てが自刃であれば、世の中はやはり諦観に支配されていると確信していいだろう。


 どうして、自分を助けてくれたのか。それだけは確かめたかったが…仕方がない。散る間際に雄弁であるか、寡黙であるかを選ぶことは、去り逝く者に許された数少ない権利なのだ。


(…鈍いな)


 自分自身の反応、感情の機微について、深白はそう考える。


(一応、恩人だったんだけど…)


 年々鈍化していく自分の感情と精神。諦めという病魔に侵された心は、こうして壊れていくものか。


 そのことすら別にどうでもいい、と考え、アリアの背中を追う。


 今はただ、この背中を、月を見ていたい。


 自分と違って、『生きている』彼女のことを…。


 深白自身、錆びたブリキの心が動いていることに気が付かずに頭を動かしていた。


 そのためだろう。次の瞬間起こる出来事に対し、一歩反応が遅れたのは。


 何かが静かに動く気配がした。違うことを一生懸命に考えていた脳みそは、その空気の揺れを、後ろから歩いてきているプリシラのせいだと誤認してしまった。


「ひ、姫様――」


 逼迫したプリシラの声が途切れる。直後、聞こえてきたのは何かが割れ、粉々になる大きな音。


「何だ!?」と声を上げて反射的に振り向くアリアと同じように体を動かせば、礼拝堂と廊下をつなぐ扉の先に、青く巨大な鱗をした丸太のような胴がずるりと天井からぶら下がっているのが分かった。


「…エキドナ!」


 声を発する前に、深白はその体にナイフを突き立てようと動いたが、あっという間にエキドナは上へと戻り、二人の前から姿を消した。


「くそ、プリシラはどこだ!?」


 礼拝堂へと飛び込めば、教壇の辺りにプリシラの姿はあった。


 砕けた椅子の木片に囲われて横たわるプリシラは、どう見ても無事ではない。五体満足ではあるが、椅子が砕けるほどの衝撃――あの太い尾の一撃を食らったのだとしたら、骨ぐらいは折れていてもおかしくはない。何度か呼びかけているが反応はないことから、気を失っているのは間違いないだろう。


「プリシラ、聞こえないのか!」とアリアが駆け出す。不用意だ、と深白は一歩遅れて後を追ったところ、二人とプリシラの間に立ちはだかるように、礼拝堂の大きな梁に体をかけてエキドナが姿を現した。


「ようやく面倒な子が大人しくなったわ。あの子の甲高い可愛らしい声を聴いていると、恐ろしくて背筋が粟立っちゃうのよ」


 青い表皮をしたエキドナの体には、いくつか真新しい傷ができている。乾いてはいるが、出血の痕も少なくない。


「さて…あの子の毒さえなければ、貴方たちに勝ち目はないわ。どうするのかしら?」

「…貴様、そこをどけ!」


 アリアが透き通るような青い剣を抜き放ち、霞に構える。


「うふふ、どくわけがないじゃない」ずるり、と梁から垂れた体に続き、エキドナの長く太い胴体が礼拝堂の床を舐める。「相当手こずらせてくれたわね、お人形さん。…少し、お仕置きしなくてはね」


 刹那、床に垂れていた尾が跳ね上がり、その先端でアリアの体を弾き飛ばそうとした。


 アリアはそれを剣の腹で受け止めると、少し後ろに押されながらも姿勢を保ち、自らの構えの隙間から相手を睨みつけて告げた。


「ほざくな。私のほうはもう、『お仕置き』程度では済まないほどに腸が煮えくり返っているぞ。オフィールの言ったように、蛇革にしてくれる!」


 ぎらぎらとした怒りをまとうアリアに、エキドナだけでなく、深白もぴりっとうなじの毛が逆立つのを感じた。


 あの質量の攻撃を、剣と身一つで余裕をもって防ぎきる力にも驚いた。しかし、それ以上に、今しがた吹き飛ばされて横たわる部下の姿を目撃したばかりなのに、相手の攻撃を受け止めようという胆力のほうが愕然とさせられる。


 アリアは死ぬことへの恐怖を忘れているのだろうか。


 深白は、自分よりも強大な相手と対峙することに何の躊躇もないアリアの背中を見て、そう考えた。


 自分は、死ぬことが怖い。


 死んだように生きているくせに、生き続けられなくなることが何よりも怖い。


 だからこそ、勝ちの目が薄くなった今、逃亡するタイミングばかりを考えている。


 プリシラだって、すでに死んでいるかもしれない。ここで戦うことにメリットはないのではないか?


 …アリアはそんな想像、一ミリもしていないのだろう。躊躇する深白の前で弾かれたように駆け出した。


 エキドナとの間合いを詰める。


 馬鹿の一つ覚えみたいな尻尾攻撃をやめた彼女は、奥の手とも言えた頭部のフードを下ろし、アリアを噛み殺してしまおうと迫った。



 青い鱗が夕日を跳ね返し、輝いている。


 死すらも魅了し踊らせる、魔性のきらめきだ。


 その輝きをかいくぐり、アリアは直進する。


 フード型の頭部が展開され、そこについた何本もの牙が自分の身を穴だらけにしようと狙う。


 避けるつもりはなかった。もはや、プリシラの援護が望めない以上、真っ向からやって叩き潰す以外ほかはないと判断したのだ。


 牙が立てられるタイミングを見定め、加速を乗せた袈裟斬りを叩きつける。


 刹那、火花が散った。同時に来る凄まじい衝撃に身を押されるが、相手も同様にたじろいでいる。引くわけにはいかない。


 全身の筋肉を稼働して衝撃に抗い、再び前方向に剣閃を瞬かせる。


 痺れるほどの衝撃。今度は明らかに力負けしていた。


「人間の身で、真っ向勝負なんて、呆れるわね!」


 エキドナが言う。


 アリアはぎゅっと歯を食いしばると、表情一つ変えずに衝撃を押し返し、全身全霊で唐竹割りを繰り出す。


 次はエキドナのほうが弾き返された。


「きゃっ!?」


 魔族のイメージからは程遠い悲鳴を上げて後退するエキドナ目掛け、さらに全身するアリア。


 エキドナはそれに対して、忌々しそうな顔を隠さずに大きく尻尾を払った。


 想像より早く到達してきた尾の一撃を、アリアは横から浴びた。どうにか剣を間に挟んだものの、その衝撃はやはりおぞましく、彼女の170センチを越える背丈が容易く浮き上がり、そのまま孤児院の壁に叩きつけられた。


「ぐっ…!」


 追撃がくる。予想していても、鈍い痛みと衝撃で数秒、体の動きが遅くなる。


 剣で防御を、と考えていると、エキドナが用意していた追撃が別の方向へと向いた。


「貴方も、いつまで経っても邪魔なのよ、死神!」


 エキドナの側面から短剣を投擲しつつ迫っていたのは、深白だ。


 自分と違って、深白は尾の旋風を鮮やかに宙返りしてかわした。重力を感じさせない様はそのまま数秒続き、アリアに、ひらり、ひらりと舞う黒い蝶を思わせた。


 その隙に立ち上がり、両手に剣を携え、間合いを詰める。痛みのせいで速度が出ないが、それは前に進まない理由とはならない。


 エキドナの注意が一瞬でこちらに向く。今度は逆に、深白がその隙を突いて、尾にミセリコルデを突き立てた。


 だが、やはりプリシラの毒がないと肉質が軟化しないのか、まともに刃が通らない。


 それでも、アリアは駆けた。深白を見て苛立たしげにしている今がチャンスだった。


 胴体に飛び乗り、曲がりくねった道を上る。巨大な頭部がこちらを睨むが、臆することはなかった。自分のほうが数瞬速い。


 アギトが開かれる。恐ろしい牙の向こうに美しい女性を模したエキドナの姿がある。その表情は怪物そのもので、醜く歪んでいた。


 殺意の扉が閉まる前に、中へと飛び込む。無鉄砲とも取れる策だったからだろう、エキドナは一瞬驚き、怯んだ様子を見せた。


「近づくまでに苦労したぞ」


 深く両腕を引き、十分に力を込めてから、アリアはそれを真っ直ぐ放った。


「ここは、私の間合いだっ!」

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