黒耀の蝶.3
綺麗な、ものは…綺麗なままで…
渾身の刺突は、強い抵抗感に阻まれながらも、エキドナの体に深々と突き刺さった。
うめき声と共に大きく彼女が揺れる。その波の強さに、アリアも踏みとどまるので精一杯だった。
「どうだ…!?」
何とも言えない手応えに、半信半疑で顔を上げたそのとき、薄気味悪い笑みを浮かべたエキドナと目が合った。
その瞬間、幼少期、自分が初めて見た魔族のことを思い出した。
(あの目だ。あのときも、あんな冷徹な目が私を見ていた)
過去に想いを馳せた、一秒にも満たない時間のことだった。
アリアの左肩を強烈な痛みが走った。
ぎらりと光る爪が、見事に肩に食い込んでいる。
その衝撃を受けて、アリアはエキドナの頭部から弾き出されるように落下する。
「アリア様!」
深白の悲鳴が耳に届くかというタイミングで、体が礼拝堂の床に叩きつけられる。
(確かに切っ先はエキドナの体を貫通したというのに、まるで意に介していない…!なんという、生命力。やはり、プリシラの毒無しでは…!)
息ができず苦悶に喘いでいると、いつの間にかそばに寄ってきていた深白に肩を支えられた。
「アリア様、動けますか」
いつもの冷静な声音。全く、たいしたものである。
「あ、ああ、どうにかな」
足を奪われてなくてよかった、と付け足しながら、深白の力も借りて立ち上がる。華奢な体つきだが、相変わらず奇妙な力強さが彼女にはあった。
そんな二人を眺め、エキドナはしみじみと言う。
「本当に見事なものね、貴方たち。いえ、皮肉ではないわ。人間がたった二人だけで魔族である私に向かって来るなんて、並大抵の覚悟ではないもの」
「褒められても、あまり嬉しくないですね」
深白が苦笑しながらそう告げれば、エキドナはやはり、どこか不気味そうに目を細める。アリアは、深白を見てそうそう何度も苦い顔をする理由がまるで分からなかった。
「…冷静に聞いてほしいのだけれど、ここは一つ、デニーロやノームのように私と手を組むのはどうかしら?」
「なに?」
「抵抗感があるのは分かるわ。けれど、私が人と協力して得られたものは大きかったわ。それは彼らにとっても同じ。――魔族や人間だと考えるから、色々と不都合が多くなるのよ。ビジネスパートナーとでも思ってもらえれば、違った視点が生まれるのではなくて?」
魔族や人間だとか考えるから、不都合が増える…。
なるほど、一理ある。
人間は得てして、カテゴライズするのが大好きな生き物だ。
そのほうが便利だと考え、人は『区別』し、そして、いつしか『差別』する。
自分とは違う生き物しか存在しないこの世界で、その違いに切っ先を向けて謗ることもあれば、見下すこと、軽んじることもある。
この国に蔓延る病魔もそうだ。富と貧困は常に表裏一体。
富める者は貧しきものを見下し、貧しき者は富める者を恨む。
これがこの世の縮図なのかと、顔を伏せる時もある。
小娘一人では、世界はおろか、利権に支配された自分の国ですら変えられない。
無駄を追う、青臭い子どものすることかもしれない。
だが……それで納得できないから、私はこうしてここにいる。
アリアは面を上げてエキドナを睨みつけた。
「一考の余地もないな」
自分の中で渦を巻く感情を、一つ、一つ、脳を回転させて言語化していく。
「私はな、エキドナ。人間だから、魔族だからという点にこだわらない、というお前の考え方は否定しない。むしろ、光明を得たような気分にすらなった」
「だったら、どうして拒むのかしら」
「それは…お前が、人の生き死にをビジネスにすら例えたからだ、エキドナ」
真っ直ぐ相手の瞳を覗き込む。知性あふれる瞳が、わずかに揺らいだ。
「人と魔族が平和に時を共にするためのビジネスになら、私は惜しみなく手を貸そう。だが、立場の弱い者から搾取するためのビジネスなら、私が出せるものは唾以外ない。断言する」
後で振り返ってみれば、それはとんでもない発言だった。決して、打倒魔族を掲げているローレライ王国の第一王女が言っていい言葉ではない。
エキドナは目を細めると、「残念ね、お人形さん」と短く言い放ち、尻尾を高く持ち上げた。
思い切り、叩き潰すつもりだ。
「アリア様、来ます。回避を!」
深白の声に従い、横にかわす。
巨大な質量が木の床に穴を空け、粉塵を巻き上げる。凄まじい衝撃だ。
「くっ…臆しはせん。行くぞ、深白!」
アリアが覚悟を決め、青い剣を霞に構えたそのとき、唐突に礼拝堂の扉が音を立てて開いた。
「なんだ…!?」
振り返った深白とアリアは、扉の先から現れた者の姿を見て愕然とし、同時に、ぞっとする気分に駆られた。
扉の向こうから青い顔をして歩いてきたのは、孤児院に住まう子どもたちだった。
少し考えれば、予想できる事態だった。
こんなに大きな音を立てているのだ。建物全体だって揺れているから、異変を感じ取って様子を見に来る子どもたちがいたって、何もおかしくはない。
今までやって来なかったことを鑑みるに、もしかすると、こうなることを危惧したシスターが自分の部屋から出ないように忠告したかもしれない。しかし、時として、子どもは英雄に匹敵するほど勇敢になるものだ。
「何をしている、下がっていろっ!」
アリアが叫ぶ。
駄目だ。そんな言い方じゃ、萎縮してしまって逆に動けなくなる。
案の定、びくり、と肩を跳ね上げた三人の子どもは身を寄せ合って動けなくなってしまう。
そして、ただでさえ芳しくない状況なのに、エキドナが見せた態度のせいで、二人はもっと血の気を失うようなこととなった。
エキドナが、ちろり、と先が二つに割れた舌を出したり、しまったりして微笑む。
「まぁ、とっても美味しそう」その言葉に、ぴたりとアリア、深白は硬直する。「ノームのせいで、『子どもだけ』はお預けだったの。私は子どもが一番の大好物だというのに…ふふ、酷いことよねぇ」
残酷の矛先が、子どもたちを捉える。
エキドナの考えていることが、恐ろしいほど分かってしまった。
「みんな、逃げてっ!」
高い声が轟く。深白は、それが自分自身の切羽詰まった声だと気づいたとき、自分のことながら仰天した。
胸を焼く焦燥――死んだように生きていると世捨て人を気取っていた自分に宿っていた、形容し難い想い。
エキドナが子どもたちに向かって尻尾の先端を容赦なく伸ばすのと、深白がアリアから離れて飛び出していくのは、ほとんど同じタイミングだった。
「深白!」アリアが名を呼ぶも、深白は止まらない。
びゅん、と空を切り、加速する両者。
一刻を争う瞬間の狭間で深白の頭に蘇っていたのは、かつての記憶。
知らない町で迷子になっているとき、『お母様』に声をかけられ手を引かれた、真っ白い冬。
恐怖のために、やめて、という声も出せず、お母様に血をすすられたあの夜。
そして、どうしようもない渇きから、初めて子どもを攫い、その血をすすってしまった、罪業深きあの夕焼け空の下。
誰かを犠牲にすることでしか生きられなかった。
そう、生きられなかったのだ…生きられなかった…はずだ。
(綺麗なままでなんて…いられなかったんだ)
したくもない言い訳が、頭のなかを巡る。まるで、まだ自分のどこかにエデンとも呼ぶべき希望が残っていると信じたがっているみたいに。
(あぁ、夕焼けが眩しいや)
天窓の向こうから差し込む、真っ赤な夕日。
それは、血の色。
『私』を一冊の本にするのなら、きっと、どのページもこの鮮烈の彼方で鈍く輝く色によって塗りつぶされていることだろう。
影が影を追う。今の私がいつかの私を追うように。
…どうでもいいことを、考えている。
深白は、迅雷を彷彿とさせる機動力でエキドナの尻尾を追い越すと、子どもたちの前に立ち、ミセリコルデでその先端を弾いて軌道を逸らす。
「きゃっ!」
幼い悲鳴が、初めて血をすすったあの日を思い出させる。
あぁ、頭が痛い…。
「あのねぇ!?邪魔しないでもらえるかしら、貴方!ようやく巡ってきた最高のディナーなのよっ!」
激昂するエキドナの声に加えて、二度、三度と尻尾の先端が突き立てられる。
全弾、かろうじてさばく。だが、怒りのためか、彼女の攻撃速度はギアを上げてきていた。
「みんなで孤児院の外に出て!」
「み、深白お姉ちゃん、でも――」
「お願いだから、さっさと行って!」
なぜ、こんな危険の前に飛び出した?
こんなもの、断頭台の下に自ら首を差し出しているようなものではないか。
恐怖の足枷をどうにか緩めた最年長の孤児から、部屋の外へと後退していく。
それでいい、と最後の一人が立ち去ろうとした刹那、エキドナが攻撃の角度を変える。
「待ちなさいっ!」
もたげられる尻尾。その狙いは、自分ではなく最後尾の子ども。
体がとっさに動いた。
断じて、正義感などではない。
悪人の自分は、そのようなものとはもう無縁だから。
深白の手が孤児の一人の背中を突き飛ばし、部屋の外へと叩き出した直後、彼女の背中を尾の切っ先が貫く。
筆舌尽くしがたい痛みと、肉が体の中から外へと押し出される感覚。直後、深白は大量の血を口から吐き出した。
(ははっ…馬鹿みたい――これは、致命傷かな…)
自分の体を貫通している尾を見下ろし、薄く微笑んでいると、ずるりと勢いよく尾が体から引き抜かれる。
ドボドボと地面に流れ落ちていく自分の血を見て、気の遠くなるような恐怖を覚えたが、深白はあくまで顔に出さず、カタカタと震え、失禁している子どもに自分のおぞましい姿を見せないようにと扉を閉めた。
パタン、と扉が閉まる。かつて、健全な未来の扉が閉ざされたときに聞いた音にとても似ていた。
遠くでアリアが何やら叫んでいたが、その声もよく聞こえない。
不意に、シスター・ノームの言葉が蘇る。
『あの子たちを、お、願い…』。
違う。
私は、シスターの願いを聞いたのではない。
…だったら、なぜだろう。
なぜ、他人のためになんか、命をすり減らす?
いや、分かり切っていたことだ。
――誰もが簡単に悪人へと堕ちる。
そうだ…だからこそ…だからこそ…。
「綺麗な、ものは…綺麗なままで…」
自らの意識が闇に引きずり込まれていくのを感じながら、深白はうわごとのようにそう呟いていた。
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