(4)
「とにかく、たいすけくんを捜さないと」
一瞬湧いた憤りは、池田さんの苦しそうな顔に打ち消されてしまった。
薫がそう言って後を追おうとすると、瑛太は首を横に振り、薫とは反対方向に足を踏み出した。
「俺は帰る」
目を見開く。
「なんで! 何も解決してないし、こんなところで放り出せないよね!?」
叫ぶと、瑛太は顔だけで振り返り、「また薫のおせっかいがはじまった」と、大きなため息を吐いた。
「あとは家族の問題だろ。赤の他人の俺たちが口出すのは違う。――大体、あんな糞ガキ、どうなったって知ったことか。甘やかしてるから、あんなふうにスポイルされるんだよ」
瑛太の声色が、明らかに変わっていた。
いつもの淡々とした瑛太とは違う、ひどく憤った声に薫の顔がこわばる。
「うちのじいちゃんと同じ。あのガキは、可愛い可愛いって甘やかされてるうちに、修造みたいになるんだ」
「違う」
薫は思わず否定した。
彼の従兄への非難の言葉の裏には、たいてい自分自身への嫌悪がある。
薫は知っている。
小さいころ、修造ばっかり褒められる。俺ばっかり叱られる。じいちゃんは、俺が可愛くないから。そう言って泣いていた瑛太を知っている。
「違うよ」
甘いのと甘やかすのは違う。可愛いからこそ、叱るのだ。叱られているからといって、可愛がられていないわけではないのだ。
瑛太は比べている。甘やかされた修造と、厳しくされた自分。どちらがより大事にされているのかと、愛情を計っている。
薫はきっぱりと言い切る。
「こどもに厳しくするのは愛だよ。こどもが立派に育つようにっていう、祈りだよ」
だから、傷つかないで。薫は言葉に願いを込めた。
瑛太の足が、ピタリと止まった。
いつの間にか、神社にたどり着いていた。
大きな木々が日を遮っている薄暗い神社には、ぽつんと人影があった。
「たいすけくん」
たいすけくんは、本殿の脇にかがみ込んでいた。
鳥居をくぐって駆けつけると、途方に暮れた目で見上げる。
「さっきの……おねえちゃんとおにいちゃん……」
たいすけくんは、眉が下がっていた。帰るに帰れない、そんな様子だった。
薫はそっと近づくと、声をかけようとして――隣に立った影にぎょっと目をむいた。
「そなた、本当は、あの婆が好きでたまらぬのだな。なのになぜ、『大嫌い』などと反対のことを申すのだ」
瑛太は、眼鏡を外していた。
(カミサマ!?)
いつの間に起きたのだろうと思った薫は、自分がいる場所が本殿だと気がつく。
もしかしたら、たいすけくんの祈りに反応したのかもしれない。
たいすけくんは、きょとんとした顔でカミサマを見ている。
かと思うと、言われた言葉を理解したのか、時間差で目を見開く。
「ち、ちが――好きなんかじゃない!」
だが、カミサマは彼の主張を一蹴する。
「婆の関心を引きたくてしょうがなかった。何をやっても相手にしてくれないから、いっそ婆の大事ないちごに手を出した。ちがうか?」
「そ、そうなの?」
あまりにも意外な仮説に、薫も一緒になって驚いた。
たいすけくんは耳まで真っ赤になって泣きそうになっている。その表情が答えになっている。
「ちが……う」
だが、たいすけくんは否定した。
すると、カミサマは肩をひょいとすくめ、あっさりと引き下がった。
「そうか。ならば、ずっとそうして本当の願いを隠しておれば良い。心を偽ったままでは、いくら祈っても、いつまでたっても神に届くことはないのだからな。――薫、帰るぞ」
カミサマは鳥居をくぐると、駅へ向かう。薫は慌てて引き留めようと追いかける。
「待って、カミ――」
カミサマと言いそうになった薫が、たいすけくんの目を気にしてそれを呑み込んだときだった。
「待って、おにいちゃん、おねえちゃん!」
振り返ると、たいすけくんが目に涙をためて、駆け寄ってきた。
「僕、ばあちゃんと元通りになりたいんだ……!」
「元通り?」
仲直りではないのだろうか?
気になって薫が尋ねると、たいすけくんはたどたどしい口調で言った。
「ばあちゃん、変わっちゃったんだ。前は僕が悪いことするといっぱい怒った。でも、このごろは怒らなくなったけど……前みたいに、優しくなくなっちゃった」
「おばあちゃん、前と違うの?」
たいすけくんは力いっぱい頷く。
「ばあちゃん、鬼みたいに怖かったけど……だけど、いいことをするとめちゃくちゃ褒めてくれた」
「鬼……そうなんだ?」
先程の池田さんからは、想像もできない。
「いつからかは覚えてないんだけど、どんな悪いことやっても、しょうがないな、っていう顔するだけになっちゃって。最初は、ヤッターって思ってたけど、いいことしても、あんまり褒めてもらえなくなって……。僕、怒られても、優しいお婆ちゃんに戻ってほしかった。
だから、だからおにいちゃんが言ったみたいに、大事ないちごを盗ったら昔みたいに怒るんじゃないかって思って。そしたら元に戻るんじゃないかって……」
たいすけくんは、ぐいと目元を長袖のシャツで拭う。
目も頬も真っ赤だ。
「おばあちゃんが変わったきっかけとか、わかる?」
「ううんと……ね」
たいすけくんは目を泳がせて、ふと畑の方を見た。
「あ、そうだ! いちご!」
「いちご?」
「一年生のときだった……かなあ。ビニールハウスの中で走り回って、植えたばっかりのいちごをダメにしちゃったんだけど、ばあちゃん、怒らなくってびっくりしたんだ……。前だったら、めちゃくちゃ怒ったはずなのに」
たいすけくんはしょんぼりする。
一年生――そのころに原因があるのかもしれない。
カミサマなら何かわかるだろうかと、鳥居を振り返った薫は、思わずぽかんと口を開けた。鳥居の向こうには、瑛太の影も形もなかったからだ。
「え、え!? まさか本気で帰った!?」
帰るとは言っていたけれど、本気だとは思わなかった。
たしかに毎回気まぐれなカミサマだけれども、これだけ関わっておいて放置とは、あんまりではないか。
(あ、それか、瑛太に戻って……そのまま帰っちゃったとか……)
だとすると、先程の薫の言葉は届かなかったということだ。
それは悲しくて、寂しい。
「おねえちゃん?」
たいすけくんに袖を引っ張られて薫ははっとした。
(あぁ、わたしだけでも力にならないと……!)
いつの間にか瑛太に頼ろうとしていた事に気がついて、薫は自己嫌悪に陥る。
たいすけくんが不安そうにしているのを見て、これではいけないと顔を上げる。
カミサマに憑かれたままだったとしたら、瑛太も心配だけれど、津田沼に買い物に行って帰ってこれるくらいなのだから、きっと一人でも大丈夫だと思った。
薫は自分を励ますように笑った。
「おねえちゃんが一緒に行ってあげるから。おばあちゃんとお話してみよう?」
*
「くっそかっこわりい……」
白昼夢から醒めてみると、瑛太は神社の表参道を通り抜けたところだった。
駅は反対側。どうやらカミサマは帰るつもりはないようだった。
あのカミサマは、本当に気まぐれだ。
隙あらば瑛太の意識を乗っ取ってしまう。
瑛太が精神的に、それか体力的に弱っているときを狙ったかのように現れては、余計なことをやらかすのだ。
そして今回は、おそらく、薫の願い事に反応して現れた。
『傷つかないで』
薫の心の声が、瑛太には聞こえた気がした。羞恥心のせいで、自らカミサマに意識を引き渡したと言ってもいい。
あのたいすけという糞ガキが、修造に重なって仕方がなかった。だから修造に腹を立てるのと同じように、理性を失って腹を立てていた。
祖父に叱られてばかりだった自分。
どうして自分ばかり、厳しくされるのかわからなかった。
一緒に手伝いをすれば、修造ばかりが褒められ、一緒にサボれば、瑛太ばかりが叱られた。
それは、修造が口がうまいことが原因だとわかるようになったけれど、時既に遅し。瑛太の心には『叱られてばかりなのは、自分が可愛くないからだ』という傷が、しっかりついてしまっている。
それを薫は知っていた。知っていて、痛みから守ろうとしてくれたのだ。
『こどもに厳しくするのは愛だよ』
そんなこと知っている。知っているけれど、納得できないのだ。
できて当たり前、できなければ叱られて、褒められたことのない瑛太には。
「あ~~~、まじ、うざい。お前は俺の母ちゃんかよ」
理解してもらえるのは嬉しいのに、心の奥底まで見透かされているのは恥ずかしくてたまらない。
薫がではなく、この状況が、嫌でたまらない。
早く抜け出したいと思うのに、姉だった彼女は母にまでなろうとしている。壁はどんどん高くなっている気がする。
頭をかきむしりたくなった瑛太は、前方に現れた人影を見て手を止めた。
「……池田さん? どうしてここに?」
「たいすけは昔から、ここに逃げ込むからね」
「じゃあ、迎えに? やっぱり説教に来たんですか?」
瑛太は尋ねる。
単純な興味だった。あの様子だと、孫の頭が冷えるのを待つのではないかと思ったのだ。
そもそも孫という存在は、責任なく愛玩して良い存在のはず。教育については親が責任を負うからだ。
だから、猫可愛がりする池田さんの行動自体はおかしくない。叱るのは親がやればいい、そういうスタンスなのかもしれないと思った。
だが、たいすけというこどもの行動を見ると、何か違和感があった。
最初は少しずつこっそり盗んでいたくせに、今日は大勢の友人を連れてきた。
住宅地にある畑に集団で盗みに入るなど、見つけてくれと言っているようなものだ。それがわからないほど、幼くは見えなかった。
(それに、あの顔)
何かを待ち構えるような目も気になった。
(糞ガキは……怒られたがってたように見えたんだけど)
考える瑛太の前で、池田さんは口を開いた。
「説教? いいや。叱るなと息子の嫁に言われてる。教育の方針が違ってね。昔と今じゃやり方が違うって。一緒だと思うがねえ」
池田さんは苦しげにため息を吐いた。
「昔から口出しすると嫌な顔されていたけど、あっちも仕事をしていて手が足りないからって我慢してたんだろうね。これ以上、口出しするようだったら、家を買ってよそに引っ越すって。幼稚園を卒園したら急に言い出して。園の送り迎えが終わったから用済み、とでも言うようだったよ。だから……寂しくて農地を借りたんだ」
(待機児童問題とか嫁姑問題とか……そういうやつか。どこの家庭もめんどくさいな)
瑛太は自分の身に当てはめて眉をひそめる。
「悪いことは悪い。叱らないとだめになるって言ったんだけど、『母さんは厳しすぎる』ってさ。たいすけが泣いてたのが気に食わなかったんだろうかね。こどもが泣かなくなったころには、親の役目も終わるってのに」
「なのにこのままにしておくんですか? だとすると、あの子は糞ガキのままです」
遠慮のかけらもない瑛太の言葉にも、池田さんは怒らない。その通りだと思っているのだろう。
「でも離れたくないんだ。糞ガキでも可愛い孫だ。会えなくなるのは嫌なんだ。
いいんだよ、わたしが叱らなくても、あの子は馬鹿じゃないからいつか気づくよ。お稲荷様が見てるって、ちゃんと知ってるんだ」
池田さんがそう言ったときだった。
「――僕を叱ったらお母さんが嫌がるの?」
こどもの声が背中で響き、瑛太は後ろを振り向いた。
参道から現れたのは二つの影。
「だから、ばあちゃん、怒らなくなったの?」
糞ガキ――たいすけの隣に立っている薫が、同じことを目で問うていた。
池田さんは「そんなことはないよ」と、悲しげに微笑むだけだ。
だが、たいすけはそれが嘘だとすぐにわかったようだ。
視線をとがらせて、池田さんに訴える。
「こんなの嫌だよ。悪いことして怒られないのは、気持ち悪い。ばあちゃん言ってただろ、『ばあちゃんにバレなくても、お稲荷様が見てるよ』って。僕、叱られなくなって、ずっと気持ち悪かったんだよ」
「叱られたいのかい? 変な子だね」
池田さんは目を丸くする。
「叱られるのは嫌いだ。だけど、ちゃんと謝ったら、ばあちゃん、『えらいえらい』っていっぱい褒めてくれたよね。僕――前のばあちゃんに戻ってほしい。叱られたくないけど、褒められたいんだ!」
力いっぱいの訴えに瑛太は思わず目をそらす。自分の過ぎ去った過去と比べると、とても見ていられなかった。
自分もあんなふうに訴えればよかったのではないだろうか。
褒められたいと、修造みたいに素直に甘えればよかったのではないだろうか。
そんな思いが突き上げてきて、息苦しくなった。
(だけど、今更だ)
目をつぶると意識が遠のきそうだった。
いっそまた逃げてしまいたいと思う瑛太の手を、誰かが掴んで現実に引き止める。
はっと目を見開くと同時に、手は離れた。
「息子たちとちゃんと話し合うことにするよ。この子のためは、何が一番いいのかって」
池田さんがありがとう、と笑っていた。
たいすけもお礼を言って、二人手を繋いで帰っていく。
指先に残った温かな感触が、風に攫われないようにと握りしめる。
目線を下ろすと、薫が小さく笑った。
「ひとまず終わったよ。瑛太、帰ろう?」




