第12話 意志、胎動す
人生において、これほどまでに明けくれるなと希った夜があっただろうか。静寂の中に響く己の息遣いがこんなにも耳障りな夜があっただろうか。眠ってしまうことがここまで恐ろしいと感じた夜があっただろうか。
丑三つ時を過ぎてなお、未だに横になることもできない体は悲壮感に包まれ、一刀は宛がわれた部屋の寝台上で膝を抱えていた。
「…………」
これはまったくもっての愚行だ。今は思い悩んでいる時ではない。明日という日の重要性を鑑みれば、無理やりにでも瞳を閉じて、少しでも英気を養うべき。明日の決戦で敗れるようなことがあれば、未来のすべてを失ってしまうかもしれないのだから。
しかし、だからこそ、一刀はどうしても恐ろしいかった。横になり瞳を閉じているうちに、知らず知らず眠りへと誘われ、次に目が覚めた時にはもう、夜が明けてしまっていることが。
「……くそっ」
皆と一緒にいる時はまだマシだった。恋たちの手前ということもあり、戦の話をしていても、まだ前向きでいられた。明日こそは戦場に立たなければならないという現実も、まだ受け止められた。覚悟を決めなければという気概を持てていた。
ところが、軍議を終えて、いざ月明りだけが差し込む真っ暗な部屋でひとりになればこのざまだ。
不安がどうしようもなく胸を締め付ける。焦燥感が心の安定を常に惑わす。
怖気づくとはまた違う。もっと混沌としていて、それでいて得体の知れない不快な何かが肌に纏わりつくような感覚だ。
おそらくは戦場というものを知識としてしか知らず、何一つ実感を伴わないことが要因のひとつなのだろう。
「戦、合戦、戦争……」
言葉でならいくらでも表現できる。想像だって膨らませられる。理解もできる。なのに、その核心に触れることはどうしてもできない。
半年前まで平和な現代日本で暮らしていた者にとって、命がけの戦場など非現実側の出来事だ。そこにはただ漠然とした概念が転がっているばかりで現実味がまったくない。すべてがぼやけていて、実体は掴めず、実感が何ひとつ伴わないのだ。
しかし、わからないからこそ、逆にはっきりしていることもある。
それは、この夜が明ければ、一刀は我が身をもってその真髄を味わうことになるということだ。
「――嫌だッ! いやだ、いやだ、いやだ、経験なんてしたくない。見たくない。知りたくない。ずっとわからないままでいさせてくれよ!」
嘆きは呆気なく闇に沈む。
どれだけ強く願っても、時は止められない。水が高きから低きに流れるように、必ず時は訪れてしまう。残酷なまでに平等だ。
「……みんな今頃どうしてるのかな」
不意にかすめた、現世の記憶。やはり、今宵は眠れそうもない。
一刀は強く膝を抱えて、明日が来ないことを祈り続ける。窓から覗く、東京では絶対に拝むことのできない美しい煌星たちを、憎らしく見上げながら。
***
翌朝は眩いほどの快晴だった。
青光を取り込む虹彩が痛みを錯覚するほどの見事な秋晴れ。戦日和、と言っていいのかはわからないが、少なくとも両軍は持てる力を遺憾なく発揮できる天候に恵まれた。
城下の朝は早い。
戦支度は日の出と共に始まり、決戦に臨む緊迫感は刻一刻と高まっていく。
負ければ終わりだ。敗北の先には間違いなく凄惨な未来が待ち受けている。悲劇的な結末を回避するためには勝つしかない。敵を力で捻じ伏せ、自力で勝利を奪い取るしかない。
もはや倫理や道徳の出番は終わったのだ。人間同士の殺し合いがいかに不毛であろうとも、勝者と敗者の大原則は絶対にして普遍。
死にたくなければ、殺される前に相手を殺す。それは戦乱の世において当然の理であり、人類誕生の遥か太古より連綿と受け継がれる自然の法則だ。
もちろん不安はある。恐怖もある。未練だってある。どれだけ戦場が身近な時代であっても葛藤は生まれる。
人の心とは、痛みに慣れはしても不感になるわけではない。多くの者にとって、戦とは忌避の対象であることは変わりない。しかし、闘争のくびきから逃れられぬ以上、誰もが強がるように、ただ勝利を求めるしかないのだ。
たとえどんな犠牲を払おうとも。隣に並ぶ者と今生の別れになろうとも。己が命が尽きようとも。友のために。愛する者のために。家族のために。生きる居場所を守るのために。綻びそうになる決意をそういった様々な理由で雁字搦めにして、己が心を一振りの刃として研ぎ上げていく。
余計な感情や道理は削ぎ落とし、勝利を得ることだけに徹していく。殺す覚悟と殺される覚悟を練り上げていく。兵士も民も。男も女も。老いも若きも。濮陽に住まうすべての者たちがそうやって戦支度を整えていく。
そして、ついにその時はやってくる。
先ず動くのは黒山党軍。彼らは部隊を三つに分け、前日と同様に西門と南門へ、睦固と白繞の軍勢各一万が進軍を開始。残る約三万の本隊は干毒自らが率いて東門へと進む。
一方、これに対する濮陽軍の布陣は、西門に霞の兵三百。南門に恋の兵百。そして、東門に一刀と管輅の兵四百となっている。つまり現時点で東門における戦力は四百対三万。比率にして七十五倍にも及ぶ圧倒的な差だった。
巳の初刻(午前九時頃)、東門を目指す于毒軍は一斉に渡河を開始した――。
***
一刀は見ていた。
対岸の河原を埋め尽くした敵兵が、河の流れを堰き止めんばかりの勢いで次々と飛び込み、胸元まで水に漬かりながらも、手にはそれぞれの得物を握り締めて水中を進む光景を。
そのおぞましさは筆舌に尽くし難い。なにせ眼下に蠢く万の人間は、例外なくすべて自分たちを殺すためにやってくるのだ。
人が人を殺すために団結し、行動する。それもこれだけ巨大な殺意が存在することに、彼の身体は芯の芯から戦慄していた。
敵の軍勢が河の中ほどまで進んだ。
動き出した戦場はもう止まらない。恐怖によって緊縛された男の頭上を、矢音の一団が飛翔する。
「――放てええええ!!」
部隊長の命に従って、敵の進軍を阻むため次々に放たれた矢群は天空に大きな曲線を描く。上空から落下の速度を加えたそれは、水中で動きの鈍った敵兵に容赦なく襲い掛かった。
「――――」
矢の雨が、水面と敵兵を打つ。
何人もの人間が一斉に動かなくなる。水流を赤く濁す屍が一瞬で量産された。それでも彼らは誰一人として前進をやめようとしない。
味方の血を掻き分け、死体を押しのけ渡河を続ける。そこに再び五月雨の矢が降り注ぎ、また人が死ぬ。その繰り返しだ。
何度も再現される死。人が死ぬ。この一瞬にも何十人もの人が死に、次の瞬間にはより多くの命が失われる。これは紛れもなく無残な所業のはず。なのに戦場では誰も人の死など一顧だにしない。
初陣の一刀にしてみれば、その光景こそまさしく狂気。城壁から見下ろす現実は、夜通しかけて想像したものとは大きく異なっていた。
――く、狂ってる……。
あまりに呆気ないのだ。人が死ぬにしてはあまりに淡白で無造作すぎる。もっと重たいはずであろう人の死が、道端の枯葉と大差なく散乱している。
そこには命の尊厳や誇りもなく、劇的な何かが絶対的に足りていない。特別であって然るべき人の生死がこんなにも雑多に転がっていていいのか。いや、これではダメだ。人の命は崇高。ゆえに死は特別あるべき――そう思い込み、死を遠ざけることで精神の安定をはかっていた男には、到底、受け入れがたい現実だった。
――これが戦……?
強張る表情をぐしゃりと歪め、一刀は顔をそむける。だが、
「――目を逸らすでない! しっかり前を見んか! いいか一刀、これはおぬしが自ら首を突っ込んだ結果じゃ。この光景を責任もってその目に焼きつけよ」
冗談じゃなかった。誰がこんな未来を望んだというのか。
どこに責任がある? なぜ勝手に殺し合い勝手に死んでいく者を見届ける必要がある? そう反論しようと顔を上げた一刀だったが、寸前のところで自分の誤りに気づいてしまい唖然となる。
――死んでいく……? 馬鹿か俺はッ! よく見てみろ。死んでいくんじゃない。これは俺たちが、俺が……、殺しているんだ。
どれだけ受け入れがたい光景であろうとも、今、一刀は戦場に立ち、そして直接手を下さずとも、殺し合いをしているのだ。傍観者を気取って実感を拒絶しても、その事実から逃れられはしない。
戦場の音。戦場の臭い。戦場の色。戦場の風。戦場の味。いくら無視しようとしても五感を通して流れ込んでくる生々しい現実はもう誤魔化しようがなく、その瞬間、不意に頭を過ぎったのは管輅に教えを乞うたあの夜の記憶だった。
「……ホント馬鹿なんだろうな俺」
あの時、なぜ不殺の誓いを笑らわれ、老人の顔が一瞬だけ寂しげに見えたのかが、今ならよくわかる。
その信念こそ戦場にはもっとも不要な異物だからだ。
見ての通り、人なんて戦が始まってしまえば、理由がなくとも簡単に死ぬ。ここには映画や小説の登場人物のような気の利いた演出は一切ない。ただ殺し、ただ殺される。力なき者から消えていき、運を掴んだ者だけが生き残る。
当然だ。戦場を支配しているのは、やはり狂気なのだから。
「…………」
今更ながらに痛感する己の甘さ。一刀は見つめる情景にきつく唇を噛み締め、
――それでも俺は……。
嫌だった。戦場の空気に触れてもなお、直接的に人を殺めることはどうしても憚られる。と同時に、それがどうしよもなく卑怯な思考だということはわかっていた。不殺とは所詮、自分の手を汚すのが嫌だから他者に押し付けているだけ。ただの我がままだ。
――くそっ!!
なにより、これから成さねばならないことを思うと、自己嫌悪の感情はより加速していく。情けない。ただ情けない。結局、北郷一刀という人間の本質は何も変わっていなかった。そのことが心底情けなくて涙が出そうだった。
だが、彼にはもう長々と感傷に浸っている暇はない。
決死の敵兵は続々と河を渡りきり、雄たけびを上げながら城門を目掛けて殺到している。不本意だろうと何だろうとこれを止めなければ、こちらが終わる。ならばどうするか。
「さあ、くるぞ一刀!」
とうとう、先頭の一団が城門に取り付く。
一刀は腰から宝剣を抜いた。それは明確な戦闘の意志。誰を守り、誰を殺し、誰のために戦い、誰の命を生かすかの選択。
「……わかってるさ」
周回遅れの覚悟をようやく固めた男が、相変わらず鞘の抜けぬ宝剣を敵に突き立てる。
――ごめんなさい……。
一刀は命令を下した。
「――開門ッ!!」
号令にしたがって、鉄城門が自重の軋みをあげながらゆっくりと開かれていく。思わぬ事態に居合わせた敵兵は呆気に取られ、止まった足で何事かと顔を見合わせる。
戦場に訪れた不意の停滞。敵味方双方の視線を一手に集めて開かれる城門。やがて、人ひとり分の隙間が開くと音も止み、そこから現れたのは思いもよらぬ人物だった。
「――りょ、りょりょ、呂布だァァアアアアアアアアアアアアア!!」
それは方天画戟を担ぐ死出の告げ人。本来ならば東門にいるはずがない恋の姿。彼女の持ち場は南門で、開戦間もないこの時に、ここにいてはならない者だ。
「なっ、なんであの化け物がこっちにいるんだよ!! 南門にいるのは確認していたんだろうッ!?」
「ま、まさか、もうやられちまったってのかよ!?」
否だ。この場にいる者たちには確かめようもないことだが、南門の敵軍は事前の方策通りに本格的な交戦を避け、一定距離を取ったまま牽制役を務めている。それにいくら恋が天下無双とはいえ、これほどの短時間で万の敵を平らげ、東門に移動するのは不可能だ。
ではなぜ恋がここにいるのか。答えは単純明快。敵軍が到着する前から恋は東門にいたのである。つまり、敵が偵察で確認した南門の恋は偽装。すべては陳宮の策だった。
彼女は前日の戦闘中から既に、城内の者から恋と張遼の影武者を務められる者を探していた。
緒戦で圧倒的な恐怖を植えつけられれば、以後、南と西ではまともな戦闘にならないと戦況を読み、またそうならなければ勝利は得られないと考え、だからこそ大勝利を求めたのだ。
あとは二人の服を着た影武者をただ城壁の上に立たせておけば十分だ。その上で、念のため敵の動向が掴めるまでは、本物も隠れてそれぞれの門に待機させておき、敵本隊の動きに合わせて移動すれば、策は成る。
そして、すべて陳宮の思惑通りに動いた戦場では、恋の剛撃を食らった敵兵が順次、吹き飛ばされていた。
「――ウギャアアアァ!?」
「に、逃げろおおおおおおおおおおお!!」
城門前は瞬く間に悲鳴の渦となり、押し寄せる敵兵の波がビタリと止まる。それどころか恋が一歩踏み込めば、それに合わせて人波も引く。戦線はたったひとりの人間の登場で文字通り形を変えた。
そのあまりに超絶な戦いぶりに、上から眺める管輅と一刀は口をあんぐり。
「……ワシも長いこと生きておるが、これほど人から外れておる武は初めて見るわい。信じられん」
「……ハハハ。な、なに、あれ? 人がピンポン玉みたい飛んでくんだけど……嘘でしょ……?」
確かに強いとは聞いていた。緒戦の結果を鑑みれば、関羽さんと同様に並々ならぬ力を持っていると、一刀も思っていた。
しかし、これはもうモノが違う。目にした恋の強さは想像の遙か彼方。想定外の規格外。というよりフィクションの領分だ。
「――ヒィッ、こっちにくるなァ! う、うわああああああああああ!!」
「い、いやだァアアア!! 俺はまだ死にたくな――ガッアァ!?」
その人外と予期せず鉢合わせた敵兵はたまったものではないだろう。決死の渡河を完遂した後、目の前にいきなり武神が登場すれば誰だって狼狽もする。戦意を完全に挫かれた前線の渡河部隊は折角渡った河に自ら飛び込み、死に物狂いで我先にと逃げ出していた。
しかし、河中には渡河の最中で立ち往生している者が既に多数あり、水中はあっという間に混乱と混雑でごった返し、溺死者が出るほどの惨状と化す。
「よし、そろそろワシらも移動じゃ」
「あ、ああ、うん」
一刀は頷きつつ、敵軍をたったひとりで圧倒する恋の背に視線を向ける。
「恋、ありがとう。……頑張って」
北郷隊三百名は事前の作戦通り移動を開始した。
***
于毒は驚きを隠せなかった。
「どうなっている……? なぜだ? なぜここに呂布が……?」
彼女が南門の守備に就いているのは斥候に確認させた。ならば、どうして対岸の兵士たちはその呂布に蹂躙されているのか。
「ふざけるな……! なんのために東門までやってきたというのだッ!」
渡河という厄介を了承したのは化け物二人を避けるため。渡河で被る損害の方がまだマシだと判断したからだ。
なのに今、目の前にある光景は渡河と呂布という最悪の組み合わせ。なにより、あの強さは一体なんなのか。あれは本当に同じ人間なのか。自軍の兵士たちが紙屑同然に蹴散らされていく様は、悪夢でも見ているかのようだった。
「こ、これほどまでとは……」
天然の要害に人外の武まで加わるこの地は、垣根なしの死地と言えよう。張遼もこれと同等の武だというなら、なるほど。二人の腹心があれほど怯えるのも無理はなかろうと、干毒は認識を改める。
すぐに指示を出した。
「くっ、後退だ! 渡河途中の者も全員、直ちにこちらの岸に上げさ――」
「おっと、それは悪手です。いけませんよ将軍」
しかし、隣に立つ黒衣の外套がそれを止める。いつの間にそこにいたのか。彼は薄気味悪い笑みを口元に浮かべながら、
「今部隊を下げてはなりません。それこそ敵の思う壺です」
「馬鹿な!? ならば貴様はあの化け物と真正面からやり合えというのか!! どれだけの損害がでると思っている!!」
「いえいえ。私は兵を下げてはならぬと申しているだけで、やり合えとは申しておりません」
「……なに?」
つまり、と男は言った。
「今にして思えば、わざわざ城壁の上に立っていたのは、こちらに存在を確認させやすくするため。南の呂布は我らの心理を読みきった上での偽装だったのでしょう。とすると、あるいは西の張遼も偽装やもしれませんが、まあ、いずれにしろ、呂布と張遼が本当に増えたわけではありません。ここに本物の呂布がいる以上、南と西どちらかは必ず当たり。そうと分かれば将軍はここで呂布に城内へ戻られない程度に牽制をしつつ、西と南の各軍に攻撃開始の命令を出すというのはいかがでしょうか? 本物の張遼をひいた方にも多少の被害はでるでしょうが、許容の範囲内かと」
何がそんなに愉快なのか。男は終始、くつくつと薄ら笑いを浮かべて対応策を提示する。その様子は非情に不愉快だが、しかし、言っていることの正しさはわかる。
「……よし、伝令だ! 両将に攻撃を開始するように伝えろ!」
「ふふ、ご健闘をお祈りします」
攻防戦は次の局面へと進む。
***
「行け、おめえたち! 化け物はいねえんダ!! とっとと突っき破レエエエエエエエッ――!!」
「「おおおおおおおおおおおおお!!」」
白繞の野太い声と喚声が響く南門は、一刀の到着に間髪いれず猛攻が始まった。
敵は四尺(五メートル)はゆうにあろう丸太を数人で担ぐ破城槌部隊を中央に縦列で並べ、その両脇に梯子部隊を広く展開させている。
対して、防衛側は城門前にあらん限り矢の弾幕を張りながら、間隙に差し込まれる無数の梯子から登ってくる敵兵と格闘だ。
兵数の差は圧倒的。陳宮のおかげで相手取る敵は三万から一万に減ったものの、こちらはわずか四百名。怒涛の攻めを水際で懸命に食い止めるその働きは、既に奮闘と呼べる戦いぶりだった。
「な、なんだよこれ! いくらなんでも数が違いすぎるだろ! くそ、くそっ!!!」
「無駄口叩いとらんで、手を動かさんか!!」
一刀と管輅も城壁に立ち、無限に伸びる梯子を倒し続けている。ただ、実戦経験の乏しい二人の動きは緩慢だ。
敵も必死なのだ。こちらの動きを阻害しようと下から無数の矢が飛来する。少しでも気を抜けば命を失いかねない状況に身が竦む。
南門の防衛戦は早くも正念場を迎える。
息つく暇もない。二十五倍の兵量差を埋めるには、苦しくても全員が全力疾走を続けるしかない。
時間経過で削られていく体力と気力は膨大だ。極限の緊張感の中、互いを励まし合いながら、なんとか防衛線を維持しているが、敵の攻勢は一向に衰えを見せない。
被害の数なら明らかに敵側の方が多いものの、その割合がまったく違う。交代の人員を新たに後方から投入できる敵方とは違い、一刀たちに余力は皆無。ひとり誰かが倒れるごとに、その負担がそのまま全体に重くのしかかり、消耗度はこちらの方が何倍も激しい。このままではどちらの限界が先に訪れるかなど誰の目にも明らかだ。
しかし、それでも彼らは愚直に耐え続けるしかなかった。
もう策がない。陳宮からの最後の指示は南門を死んでも守れ、それだけだ。守将が初陣のド素人なのだから、現場での臨機応変な采配も望むべくもない。
戦闘開始から半時あまり過ぎると、北郷部隊には変調の兆しが見え始める。
戦線を維持できない。決壊の時はすぐそこまでやってきている。それでも彼らを支え、突き動かしていたものは、北郷一刀という名の希望だった。
「――諦めるな!! 我らには北郷さまがついておられるんだ!!」
「そうだ! 天の御遣いさまに続けええええ!!!」
彼らは一刀を信じて戦っている。天の御遣いという虚像に縋って散っていく。本当は何の力もない男に未来を託して。無能な男を守って死んでいく。
今も一刀を庇うように立っていた兵士の首を、横から矢が貫いた。
返り血を顔からまともに浴び、一刀の視界が閉ざされる。両手で急いで血を拭い、すぐに視界は回復したが、血濡れた真っ赤な手のひらと、鼻孔に充満する生々しい鉄の匂いで、一刀は嘔吐した。
「――う゛ぼっ」
たとえ今日知り合った者でも、互いに命を預けて戦う同志。それが次々と目の前で死んでいく。白い聖フランチェスカの制服を赤く染めるのは敵の血ではなく、すべて戦友の血だ。
――お、俺は何をしてるんだ……?
何もしていなかった。何もできなかった。一刀はどうしよもなく怖かった。
死んでいく仲間の眼差しが。絶命の最中にも、希望を見つめて死んでいく彼らに対して、何も応えてあげれないことが――。
「何を呆けておるんじゃ!! まずいぞ一刀!!」
「ッ!?」
気がつけば城壁上に侵入した敵兵が防衛線の一角を切り崩しにかかっている。敵兵は一点の穴から見る間に溢れ、今すぐ塞がなければ、南門はその勢いにたちまち飲みこまれてしまうだろう。
だが、そうして梯子隊の迎撃ばかりに意識が集中してしまうと、今度は門への意識が薄れ、射幕がおざなりになったところを、破城槌部隊が一気呵成に攻め立てる。
「突き破れ!! もういっちょ!!」
「突けええええええええええ!!」
「「オオオオオオオオオオオオオオオオオオ」」
こちらの行動は常に後手。ひとつの不利を挽回しようすれば更なる不利が生じてしまう。状況は加速度的に悪化していき、焦りが焦りを呼ぶ負の連鎖は、もはや、上も下も止まらない。
「――北郷さま!!」
一刀は動けなかった。
鼓膜には皆の救いを求める声がこびりついているのに、目だけは散りゆく者たちから離せない。
この決壊寸前で土壇場な状況でも、彼らはまだ諦めていない。北郷一刀を救世主だと信じて抗い続けている。
いや、それは信じるというよりも、せめて希望を抱いて死にたいという願望に近いものかもしれない。
だとしても、一刀にとめることなどできなかった。
向けられる願いも。募る想いも。頬を伝う涙も。
――俺は何をしてるんだよ……!
溢れる感情は怒りとは違う。こぼれる想いは悲哀でもない。
どこまでも申し訳なくて。ただ情けなくて。必要だったからとはいえ、偽りの希望を語り、ノウノウと生きながらえている自分自身が悔しくて。
――俺に恋のような力があればっ……!!
もしそうなら、救えるだろう。真の救世主として数多くの者を救えただろう。しかし、そんな力はどこにもない。いくら願ってみたところで叶わぬ妄想でしかない。一刀はただの無力な高校生なのだから。
「北郷さま! このままでは城門がもちませんっ!」
「――――」
切羽詰まった兵士の声にも、一刀には返す言葉がない。
結局、最後はこれだ。何度も何度も何度も味わってきた無力感。惨めに思い知らされる現実。また既知感だらけの結末かと一刀は力なく俯き、
――俺は何がしたいんだよ!!
それでも、宝剣を握る手は焼けるように熱い。閉じた瞳からは迸る情熱が止まらない。胸に滾る何かがもう抑え切れない――!
「……知るか」
弾けた理性。踏み出す情動は涙を散らし、その身は戦場を駆ける。
「力があるかどうかなんて、もう知るかッ!!」
「――なっ、待たんか一刀! どこへ行く気じゃ! おぬし何を――!」
管輅の制止を振り切り、一刀は走る。たとえ自分が何者であろうとも、やるべきことはたったひとつなのだから。
――ああ、怖い。漏らしそうなほど怖いさ。こんな所、本当はもう逃げ出したいさ!
敵が死ぬ。味方が死ぬ。人が死ぬ。当たり前のように人が人を殺し合う世界。平和な日本に住んできた男の常識を軽く飛び超える世界。ここはそういう世界だ。
――でも、俺は今までこんなにも生きるってことを実感したことはなかった!
平和な日常を漫然と過ごし、一日一日をただ生きる。そこは何もしなくたって生きていける世界だった。
だから生が揺らいでいた。意識する必要もないほど守られていたから。
だがここは違う。乱世では、ただ生きることにも覚悟が必要だった。
――逃げてきただろ。元の世界でも。この世界でも。散々、流されて生きてきただろ!
時に力がないと諦め、覚悟が足りないと目をつぶり、都合のいい情に流され、最後は嘆くだけで、誰かの助けを待つ。この繰り返しだ。
じいさんや恋たちを巻き込んだ今もそう。椿を傷つけた時もそう。劉備さんの誘いを断った時もそう。才能がないからと竹刀を捨てた時もそうだった。
――誰の人生だよ。たまには自分のケツくらい自分で拭けよ! それともあれか? これも天の御遣いとかいう訳のわかんない何かのせいだってか!!
違う。もう卒業すべきだ。したり顔で悲劇を理由に己を正当化して、動けないフリをすることからは。
胸には託された想いがあるはずだ。死んでいった人々の尊い願いが詰まっているはずだ。偽りだろうが何だろうが、夢を見せたのは一刀なのだ。だったら、彼らの意志を蔑ろすることは決して許されないはずだ。
――無謀? 無知? 力不足? ああ、そうだよ。その通りだよ。そんなこと俺が一番わかってる! けど、だから何だよ!!
戦場で果てる命に理由はなくとも、無意味じゃない。意味はある。絶対に無駄にしてはいけない。それが一刀の背負うべき責務。それを知ってしまったから。だから――もうここまでだ。
「これが俺の、北郷一刀の意志だ――――ッ!!」
決意の咆哮に重なったのは鉄がねじ曲がり、木材が割れる一際大きい粉砕音。そして、無残にこじ開けられた城門の奥には男が立っていた。
たった一人で。立ち塞がるように。手には鞘の抜けぬ宝剣しっかりと握り。正面だけを見据えて。積み重ねた鍛錬を無我夢中で思い出して。震える膝を無理やりとどめて。
一刀は微かに笑う。
後悔はない。強がりは……多分にあるが、今は少しだけそんな自分が誇らしく、初めて踏み超えた一線にやっと胸を張れそうだから。
さあ、沸き起こる突撃の鬨に向けて啖呵きろう。
「ここは、通さない」
一世一代の時に格好つけて何が悪いと、今度は確かに笑い――、一刀は動いた。
まずは迫る正面からの斬撃を剣の腹で左へ受け流し、態勢が崩れた敵兵に脇腹への横蹴りを一撃。
そのまま流れに逆らわず回転し、右から斬りかかる男を掻い潜り、すれ違いざまに抜き胴の二撃。
途切れず左から襲ってくる槍の刺撃には、切っ先でわずかに軌道をずらし、掠める矛先を髪に感じながらも鋭く踏み込み、諸手突きの三撃。
咄嗟の迎撃で一刀は先頭の三者を三様に返り討ちにしてみせる。
途端、味方の歓声と共に敵の出足が急激に鈍った。彼らにしてみれば、城門でたったひとり相手に迎撃されるという展開は前日から散々、味わされている。おそらく恋たちに植えつけられた恐怖心が必要以上に一刀を警戒させたのだろう。
その隙に一刀は深い息を吐く。
生まれて初めて味わう武者震い。人を殴り飛ばした不快な手ごたえとは別に、剝き出しの生と、身を切るような緊迫感に痺れていた。
***
「――なんやて!? もう抜かれた言うんか!」
「はい! 城内にどれほどの侵入を許しているかはわかりませんが、城門が破られたとの知らせです。張遼さま、いかがいたしますか? 援軍を送りますか?」
「……いや、あかん。このままや。御使いさんには悪いけど、こっちもそない余裕あらへんし、戦局を動かすんは音々の仕事や」
城壁上からの知らせに、城門前で仁王立ちの霞は、眼前の敵陣へ鋭い敵意をぶつけていた。
かの部隊が存命の内は、霞も軽々に動けない。少なくとも南の救援に向かうのは、これを退けてからだ。
だと言うのに、肝心の敵軍は攻撃を仕掛けてきた思えば、僅かの戦闘後、元通り牽制の姿勢を維持している。おそらく、霞が城内へ戻れば、同じことが繰り返されるだろう。
睦固という敵将が無能でないことは、これまでの戦闘でわかっている。いくら挑発しても無駄だし、打って出るわけにはいかない以上、寡兵のこちらとしては、膠着とは決して悪い状況ではなく、それは東も同様のはずだ。
つまり霞も動けず、恋も駄目。濮陽軍に残されている駒は、宮城で戦況を分析し、各所に指示を送る音々だけだ。
「ここまでは音々の読み通りに進んだんや。あとは……」
「――張遼さま!! 今、新たな知らせが! 東門の敵軍に動きあり。軍を割り、多くの兵士を南へ送ったと!!」
「…………」
決定打にも思える知らせに、チッ、と霞は舌打ちを鳴らす。
ここから先の策は霞も聞いていないのだ。というより、戦況に合わせて臨機応変に音々が対応することになっている。
「さあ、どないするつもりや音々?」
***
一刀は死に物狂いだった。
一、二、三、四――止まぬ斬撃を無心で逸らし、避けるのみ。もはや反撃の余力はない。いや、仮にあったところで、一刀は相手に致命傷を与えることができない。どうしても心がブレーキを踏む。
戦場で敵に情けをかけるという呆れるほどの愚行だ。それが敵の激しい攻勢へと繋がっていた。
死なずとわかれば恐れる必要もなし。一刀に対する警戒心もすっかり薄れ、敵は心置きなく殺到。城内に続々と侵入する。
南門は上も下も敵兵で溢れていく。押し留めようにも数が圧倒的に違う。完全制圧されるまであと何分もつかもわからない。
そして、それは一刀も同様だ。
多勢に無勢。初めての実戦。敵が手にする得物はすべて真剣。
鍛錬の時よりも、恐怖心から動作のひとつひとつが大きくなり、余計な力も入ってしまう。命を懸けた真剣勝負は体力、気力の消耗も著しく、あとどれだけ身体が動いてくれるか、一刀本人にもわからない。
――くっそ……負けるか! 死にたくねえよ! 死んでたまるか!
そんな状況でも、一刀はよく戦っている。窮地にも心は折れず、時間稼ぎを懸命に続ける。逆を言えば、攻めに変な色気を出さず、全精力を生き長らえることに注ぐことで堪えられている側面もあった。
珍しい剣技で誤魔化せているが、実のところ敵の兵卒と一刀の間に大した力量差はない。もし一刀が安易に中途半端な攻めを仕掛けていればとっくに斬られていただろう。すべての感覚を防ぐことだけに集中しているからこそ、瀬戸際で踏みとどまっていられるのだ。
しかし、それではジリ貧だ。絶望的な戦況を一変させるには、やはり圧倒的な力が必要で。このままでは、すぐに死なずとも必ず敗北は訪れてしまう。
――違う。弱気になるな。逃げるな。戦え俺! できもしないことは考えるな!
ただ最善を尽くすのみ。そう自らを励まし、捌く剣に残る力を込め抵抗する。が、それがよくなかった。
「――ぅッ!!」
芯に響く金属音と、腕に走る衝撃の振動。疲労と焦りから力んだ身は、振り下ろしの一閃を受け流しきれず、まともに伝導してしまう。
生じた一瞬の硬直――。
「しまっ――」
左肩から鮮血が舞う。
突かれた槍に反応が遅れ、その矛が肉を切り裂いた。
一刀は飛び下がり、身を焼かれるような激しい熱を感じたそれを見る。
――き、斬られた……血が……血が!!
じくじくと止め処なく溢れる液体は信じられないほど綺麗な赤だ。腕を伝い左袖をあっという間に染めていく。
「いやだっ……」
死への恐怖は動揺を生み、動揺は弱さを生む。そして戦場で弱みを見せれば、敵はここぞとばかりに牙を剥く。
「――ッウワアアアアアアア!?」
左腕はまともに力が入らない。一刀はほぼ右腕一本で無理やり迫る白刃を受け流し、弾き、叩く。だが、両手でやっとだったものを、片手で、さらに冷静さまで欠いた状態で捌ききれるわけがない。
とにかく一度、間が欲しい、ひと呼吸でいいから吐きたい。そんな弱気に流れた心は、あろうことか彼を攻勢へと駆り立てる。
「くるな!! くるなああああああああ!!」
一刀は周囲の敵を払いのけるように剣を振り回すが、そんなもの当たるわけがない。いや、むしろ自殺行為に等しく。
生まれる隙。不可避の死角。袈裟の激痛が背に走る。
「――ぐァッ!?」
今止まれば――死ぬ。
そう直感した一刀は、奇声をあげながら、やたらめったら剣を振る。出鱈目でも不恰好でも何でもいい。愚直に死線を越えるしかない。
それが幸いした。あまりの狂乱に怖気づいた敵兵は攻勢を緩め、包囲が少しだけ遠巻きになる。ようやくひと呼吸できた。
荒れる息をわずかに整え、一刀は背中を伝う血の感触に顔が歪む。
血が暖かいのだ。痛みより温もりを感じられる。己の血潮に鳥肌が立つ。
それは有限だから。定量を超えれば、例外なく死が訪れる。滴る血の一滴は死への導火線なのだから。
「……死んでたまるかよ!!」
しかし、無情にもそれは着実に迫っていて。
不意に包囲が割れた。
「どけ、あとはオラがやるダ」
奥から巨躯が現れる。手巨大な木製の棍棒を腕鳴らしとばかりに軽々と振り鳴らして。
おそらく、あれは白繞というこの部隊の将軍だろう。
恋にさんざんっぱら恐怖を植えつけられたせいか、ずっと姿を確認できなかったが、ここにきての登場だ。その顔には、これまでの鬱憤をすべて晴らしてやるとばかりに、やる気の色が浮かんでいる。
「いやいや……、それはないって、さすがにきついって……ハハ」
一刀がひきつり、ぎこちなく笑うのは単なる開き直りだった。
こちらは既に満身創痍な状況で、あんな超重量の得物を片手でブンブン振り回す怪力をどう相手しろというのか。
ストレス発散代わりに殺されるなんてまっぴらだが、一刀はひと目で悟った。勝てないと。勝てるわけがないと。
それでも、意地だけが両膝を支え、剣を構えさせる。
白繞が、棍棒を振り上げた。
最後の瞬間まで足掻けと思考を動かす。
ゆうに五十斤はあろう巨塊が、一刀を目掛けて振り下ろされる。
「潰れろオオオオオオオ!!」
「――!?」
受け流そうと合わせた宝剣は、一切の抵抗も許されず弾かれる。白繞自身の力も加わる棍棒が生み出す破壊力は、到底、一刀が太刀打ちできる代物ではなかった。
宝剣は甲高い音だけを残して宙を舞い、死の破壊が直撃する――かに思われたが、前髪を掠めた棍棒は大地を叩く。
迫力に負け、初めから逃げ腰だったのが幸いした。そのままバランスを崩して一刀は尻餅をつく。
「おい! よけるんでネェ!!」
「…………」
次は避けられない。
痺れの残る右手に宝剣はなく、左腕は痛みで力が入らない。流した血と極限の緊張で体力も底をついた。
棍棒を構えなおす巨漢の男を、もはや、ただ悠然と見上げることしかできない。
生きていたい。死にたくない。こんなところで諦めたくない。なのに体はもう応えてくれない。
白繞が両手の棍棒を見せつけるように高々と振り上げる。
「……上出来でしょ? 俺にしては」
涙で滲む視界に、破滅の一撃は落ちた。
「――――」
即死だ。痛みを感じる暇もない。頭蓋は粉々に砕かれ、きっと見るも無残な死体が出来上がってるんだろうなぁ――と一刀は思い、まだ死んでいないことに気づく。
恐々と目を開き、ゆっくりと顔上げる。
「……は?」
華奢な腕が棍棒を素手で受け止めていた。
***
東門、呂布が城内へ姿を消す――。
対岸に布陣する于毒は忌々しくその一部始終を見つめていた。
――まだ生贄をよこせというのか、化け物め!!
先陣で渡河を終えた第一部隊は、既に半数以上を食い破られ壊滅状態だ。それでも撤退を許さず城門前に残しているのは、あの化け物をこの場に釘付けにしておくための餌が必要だからだ。
しかし、捨て駒にされた兵士たちが大人しく餌役をこなすかといえば、そうではない。
当然、逃げる。少しでも離れようとする。必然的に餌は遠巻きになり、化け物は巣穴に戻ってしまった。引きずり出すには、またひとあたりするしかなく、無数の死者がでるだろう。
忌々しい。一刻も早く、こんな馬鹿げた戦を終わらせたい。そこで于毒は軍は二つに分けることにした。
一方はこのまま東門の抑えとして残す五千。残る二万以上の兵士はすべて南門への増援としたのだ。
これならば南は白繞の部隊と合わせ三万以上の兵力になる。渡河の必要もなく、呂布、張遼のいない城門ならあっという間に攻略できるはず。
名案だと頷く于毒はすぐに軍を動かす。そして、残した五千から二千の兵に渡河を命じた。
城壁からの矢幕は変わらず続くが、当初と比べれば半数以下に減っている。おそらく守兵の多くは南に移動したのだろう。
いくからの死者を出しながらも、比較的容易に先頭が対岸に到達する。
「おかしい。城門が開く様子もなし……か。ということは、まさか、は、はは! 呂布め日和ったか?」
渡河を終えた部隊が先陣と合流し、ついに攻城を開始しても、やはり呂布は姿を見せない。
ここで于毒は確信する。ここにあの化け物はもういない。こちらの動きに合わせて、南の救援に向かったに違いないと。
勝機だ。
これまで死地だったこの場所が、逆に最大の狙い目になった。ならば進むしかない。
「全軍、前進だ!!」
于毒は高々と右腕を掲げ、進軍を指示する。既に攻城を続ける前線に、待機させていた後続を合わせれば、碌な守将もおらず百にも満たない守備兵に、自ら率いる五千の軍勢が何を恐れる必要がある?
于毒は河に飛び込んだ。後続を先頭で引っ張り、だが、次の瞬間。
「――今なのです!」
敵の号令を皮切りに、城壁に溢れんばかり立ち上がる伏兵。攻城中の味方の頭上から、石やら瓶やら包丁やら様々ものがおびただしく降り注いだ。
「なっ、なんだあれは!?」
腰まで河に浸かったまま驚愕する于毒。彼の目に映ったものは千を超える濮陽の民たちの姿だった。
***
第一の策は偽装で敵の裏をかき、最大勢力の部隊に恋をぶつけることが目的だった。しかし、陳宮はわかっていた。それは所詮、その場凌ぎでしかなく、成功しても敵は必ず恋との戦闘を避け、一刀が守る南門が危うくなることを。
そこで準備したのが第二の策である。彼女は来るべき時のために粛々と義勇兵を募っていたのだ。
その来るべき時とは二つ。
ひとつは城門を突破され、陥落となった時。いよいよとなれば、陳宮はできる限り多くの人命を救うために民と宮城に立て籠るつもりでいた。義勇兵には犠牲がでてしまうが時間さえ稼げれば、前線から恋と霞を呼び戻せる。そうなれば街への略奪行為は止められなくとも、城外への脱出は図れるかもしれない。
それから、残るもうひとつ。こちらは起死回生の時である。ただそれには二つの条件があった。
第一に、東西門どちらかの敵部隊がかなり消耗していること。
第二に、それまで南門が持ちこたえていること。
以上が満たされた時にだけ発動する秘策。音々は義勇兵を率いて、霞または恋と守将を入れ替わる。そして南門に羅刹を投入し、一気に戦況を塗り替えるというもので、これが陳宮の描いた勝利へのか細い軌跡だ。もっとも、乗り越えるべき条件が高すぎて、機会は訪れないだろうと踏んでいた。
まず第一条件からして、他力本願的な要素が大きいのだ。今回のようにわざわざ軍を割ってくれるか、無謀にも真正面から恋、霞に特攻してくれるのを期待するだけ。だから陳宮はこの策を味方にも伏せた。薄氷の希望に縋るより、もう後はないと奮起を煽る方がよほど建設的だと判断したのだ。
裏を返せば、陳宮はいざとなれば一刀や管輅を捨て駒にすることも想定していたとも言える。無論、恨みつらみや、好き嫌いの話ではなく、あくまで戦略的観点からの判断だ。
軍師という人種はどこまでも冷徹で、臆病な生き物。常に最悪を想定して動くのが性。その最悪を回避するための優先順位において、一刀の価値は相当に低かった。
けれど、そんな軍師の想定を見事に裏切って、一刀は薄氷を渡りきり、ここに策は成る。
「な、なななな、なんでおめえが!!!」
「ユルサナイ」
恋、来る。
しかも表情だけは戦闘中でもおっとりとしていたはずの彼女が、今は敢然たる殺気をぶっ放している。それも敵のみならず、味方ですら身が竦むような特級の殺意をだ。
棍棒を挟み、恋の半身と対峙する白繞は、許容量を遙かに凌駕する恐怖に震えながら、これでもかと腕を引く。自らの手を放せば、とりあえず逃げられることにも気づかず。放せ、放せ、と錯乱する男は軋む棍棒を目一杯引くがビクともしない。それどころか、次第に木が割れる乾いた音を立てながら、あろうことか恋の指が棍棒にめり込んでいき――ついには片手の握力のみで、棍棒を毟り割る。反動で白繞は大きくよろめき、後方に倒れた。
「ひいい、ひ、ひアアアアアアアアア」
冷酷に見下ろす恋の瞳は、普段の愛らしさを欠片も残していない。激する感情とは逆に、より無へ。純然たる殺意だけが瞳を覆う。
足取りは余命を宣告するかのように、ゆっくりと大地を踏み固めて正確に距離を潰していく。右手の中で抉り取った木片が、さらに砕かれ粉々に散る。
戦場の空気を一変させる超常の武威。一刀は固唾を飲んで、通り過ぎていく恋を見守っていた。
――これが、恋……?
間近で触れる圧迫感は、とてもひとりの人間が放っているものとは思えない。大自然を前に霊験灼然だと感じるのに近い感覚だ。もはや大小を意識する次元ですらない。
そんな馬鹿げた規模の威圧と余儀なく対面する白繞は、倒れた体勢のまま、駄々をこねる子供のように手足をばたつかせて摺り下がることしかできず、
「あ」
何の前触れもなく、肉厚の胸板に方天画戟が突き刺さる。強烈な踏み込みと同時に穿つ刃は、巨漢を浮き上がらせ、易々と貫通して見せた。
「――ア、アア゛ァ゛ァァァアアア」
大量の吐血でむせ返る男の野太い悲鳴が、その場にいるすべての人間を縛り付ける。誰もが凄惨な光景に目を奪われる。画戟を強引に抜き、噴出した返り血で、深紅に滴る恋の姿に震撼する。
「れ、恋……?」
恋が得物を両手に持ち替えた。白繞が一刀に対してそうしたように方天画戟を高々と振り上げる。
力なく天を仰ぎ横たわる白繞へと、躊躇なく一直線に振り降ろされた渾身の一撃は、彼の胴体を腹部で両断した。
「――――」
遥か後方の空間まで断絶するような凄まじい一閃。切り離された白繞の体は、切り口から血を吐き出し、赤池を作り上げる。
まさに圧倒的。まさに不条理。敵兵は白繞の無残な最期を目の当たりにして、完全に戦意喪失。恐慌の叫喚が奔流となり、一斉に城外へと飛び出した。
そして、一度傾いた戦況は東門から到着した敵の増援も一気に攫う。
白繞討死と呂布出現の報により、戦線は瞬く間に崩壊。彼らは東門で先ほどまで恋と相対していただけに、よもやの再会となれば、混乱具合は凄まじい。落ち着けという方が難しいだろう。
約二万もの軍勢が、たったひとりの人間を恐れ、散り散りになって逃げ惑う。
しかし、怒れる武神は甘くない。何より、これまでとは決定的に状況が異なる。それは恋が城外への追撃が可能という点だ。
これまでは各城門の防衛が最優先事項だったために恋、霞、一刀がそれぞれを担当し、持ち場を放棄しての追撃は不可能だった。が、今は義勇兵と陳宮が防衛の一翼を担っている。ゆえに、恋が怒れるまま攻勢にまわっても何も問題がなく。
「逃げ、逃げろオオオオオオオオオォ!!」
「うわあ!? いやだ、こっちに来るなああ、たすっ、助けてくれええええええええ!」
驚異的な脚力で間合いを潰し、殺意を込めた一撃は、敵兵を斬るというより破砕する。遠目からは血しぶきが爆散するかのように吹きあがり、恋の位置が探さなくても一目でわかる。
文字通り、地獄絵図と化した南門は、恋の執拗なまでの蹂躙が続いた。そのさまはただの殺戮。子供が虫を追いたて、無慈悲に踏む潰していくのと変わらない。
無垢がゆえの残虐性とでも言えばいいのか。鳴り止まぬ悲鳴の中、味方の歓声はどこにもない。
一刀の声も、今の彼女には届きそうもなかった。
***
濮陽から南東に十里。東門からなんとか撤退した于毒は、林中に身を潜め、束の間の休息を取っていた。
「まさかこれ程とは……おのれぇ濮陽の連中め!!」
大敗だ。
南門では白繞が討死、部隊は送った援軍も合わせて壊滅。西門は白繞の死を知るや否や即撤退。最後まで交戦を続けた干毒も、張遼が現れて撤退を余儀なくされた。
忌々しい記憶が何度も何度も甦る。
于毒は無理やり溜飲を下げるため竹筒の水を乾いた喉に流し込むと、クソッ、と最後に吐き捨てた。
悪態をつきたくなるのも無理はない。失意の瞳に映る光景は、戦前に思い描いてた結末とはあまりにも程遠いのだ。
そこにあるのは五万の軍勢による勝利の喝采ではなく、地べたに倒れこみ、心身ともに疲れ果てた兵士たち。その数も今や千にも満たない。
何が悪かったのか。どこで間違ってしまったのか。誰のせいなのか。
自分以外の何かに原因を求め、不毛な追及が加速していく。
歯軋りが止まらない男の前に、音もなく黒い影が現れたのは、そんな時だ。
彼は確かな嘲りを滲ませていた。
「おお、これはこれはご無事でしたか将軍殿」
「――ば、盤古!! 貴様ァ、よくもノウノウと……!! この責任をどう取るつもりだ!!」
「責任? はてさて、何をおっしゃっているのですか? 濮陽軍なぞ吹けば飛ぶような代物だったではありませんか?」
「どこがだ! 呂布と張遼、それに兵士や民たちの抵抗も、貴様の話とは何もかもが違ったではないか!!」
「おやおや、これは異なことを。それにつきましてはきちんと対応策を示したはずですよ?」
「ハッ、あれが策だと!? 笑わせる。この有様を見てみろ! この役立たずが!!」
干毒は盤古にすべての責任があるとでも言いたげに声を荒げ、顔先までにじり寄る。
盤古の纏う気配が鋭く変化した。
いつもの薄ら笑いは消え、はじめて感情らしきものを垣間見せ、
「……愚かな。責任転嫁は関心しませんよ将軍」
「なんだと!!」
「私は、東門で呂布を足止めしてほしい、とは言いましたが、軍を分けて南に送るなどという愚策を指示した覚えはありませんが?」
言葉遣いこそ変わらないが、声色には明らかな侮蔑が篭っている。無能なのはお前だ、と。
その不気味な迫力に、干毒はやや気勢を落とし、
「そ、それは……」
「それに北郷一刀が多少なりとも力の使い方を身につけていたことには、私も驚きましたが、それでも解放に至っていたわけでない。そんな彼に手こずったのを、私の落ち度にされても困ります」
「……解放だと? 貴様、一体なんの話をしている」
「おっと、これは少ししゃべりすぎましたか。まあ、将軍には関わりのないことなので、どうぞお気になさらないでください。それに、どうやら楽しいおしゃべりの時間もここまでのようですから」
「なに? どういう意味――」
「すぐにわかりますよ。あ、そうでした。最後に一応、礼を言わせてください。あなたは実に無能でしたが役立たずではありませんでした。ありがとうございます、無能でいてくれて。それでは」
「な――ふざけるなッ!! おい! 貴様、さっきから言いたい放題、待たんか!」
人を小馬鹿にするように、木の裏側に隠れる盤古を于毒は追う。
しかし、太い幹の反対側に彼の姿はない。そんなはずはないと、ぐるりと一周しても、やはりどこにも見当たらず。周囲の兵士に聞いても誰も彼の姿を見た者はない。人がひとり影も形もなく忽然と消え去ってしまった。
あまりに突拍子もない現象に、于毒は狐につままれたような心境で、盤古が最後に立っていた場所をぼんやり眺める。
いっそ今までのことがすべて夢か幻だったら――そんな悲しい妄想をすぐに苦々しい現実が打ち壊した。
「――ほ、報告します! 前方より砂塵が!!」
「睦固か!」
「いえ、それが、掲げられている旗が将軍ものではないと……」
「な、なん、だとッ!? まさか新たな敵だというのか!?」
“すぐにわかりますよ”
甦る盤古の台詞に、于毒は立ち眩みがして、近くの幹に寄りかかる。
慌てて駆け寄る兵士を手で制し、天を仰ぎながら大きな息をひとつ吐くと、地べたに腰を落ろす。
そして考えることを止めた。
思い出したのだ。奴が続きの台詞で“最後に”と告げていたことを。それが何を意味するかは考えるまでもない。
指示を待つ兵士たちに、戦の準備をしろ、とシワ枯れた声で命じると、背中の幹にどっしりと体重を預け、力なく開いた口に竹筒を傾ける。
水は空だった。
クソ、と竹筒を投げ捨てると、于毒は眼を閉じた。
***
「――いっつうッ!」
「こら動くでない! 全く。無茶しよってからに、馬鹿者め」
宮城、執務室にて。上半身裸の一刀は管輅から傷の手当てを受けていた。
幸いなことに、一刀の追った傷は腱や神経に達するまでは至らず、自然治癒で完治を望めるものだった。まあ、それでもしばらく安静が必要なくらいには、十分な負傷者である。一刀は管輅の治療を受けるために、背もたれを抱き抱える形で椅子に腰かけていた。
治療の間、老人の小言が永遠に続く。
やれ思慮が足りないだの、やれお人よしだの、やれ無鉄砲だの、やれ少しは師の言うことは聞けだの。驚くほど流暢に小言が溢れてくる。
よくもまあここまで口が回るなと感心しながらも、すべて耳タコなので適当に聞き流していると、唐突に執務室の扉が開いた。
「御使いさん、生きとるか!」
部屋に勢いよく飛び込んできたのは張遼だ。
扉を開けるなり、ちょうどパックリ開く背中の傷口を目にした彼女は、わちゃーと顔をしかめる。
その顔色に一刀もつられ、
「え、そんなに酷いの……?」
「ん、あー、まぁ別に酷くはないで? なんちゅーか綺麗なもんや。美味そうな桃色しとるし」
「いや美味そうって。別に傷口の見た目とか聞いてないから。変な気使ってくれなくていいからって、それより、そっちこそ怪我……は、うん。なさそうだね」
「ウチが賊ごときに遅れをとるわけないやろ。そんなんええから、今は自分の心配だけしとき」
「うん、でも大丈夫。痛みはあるけど、なんとか――あおうッ!」
「動くな。ちゃんと前を向いとれ。これから傷口を縫い合わせるんじゃ。泣き叫ぶのは勝ってじゃが、じっと我慢せよ」
容赦なく針が皮膚を貫くと、一刀は目を見開いて背もたれにしがみつく。今度は張遼の方が感化されて顔を背けた。
一刀の額には脂汗が浮き上がり、痛みから鳥肌が立ち、体が震える。強く奥歯を噛んで懸命に悲鳴を堪える。麻酔がどれほど偉大な発明だったかを思い知りながら、そうして耐えること五分。縫合が終わった。
「よし、あとは薬草を塗って終いじゃ」
「……ハ、ハハハハ、斬られた時より痛かった気がするよ」
わかるわー、と張遼が深く頷いているのを見ると、どうやら今のは戦あるあるだったらしい。
涙目男の気分を紛らわそうとしてくれているのだろう。張遼が会話を続ける。
「そうそう、御使いさんの武勇伝聞いたで。男を上げたみたいやん?」
「男を上げたって……、そんな大層なもんじゃないよ。結果はこの通りだし。恋がいなきゃ絶対死んでたし。皆の活躍に比べたら俺なんてさ」
「何いうてんねん。御使いさんは御使いさんや。全力を尽くしたんやろ? そないな傷おっても諦めんと生き抜いたんやろ?」
「……まあ」
「なら、この傷は誉れの証や」
そのまま傷口を軽くツンツンされ、イター!、と叫んで首だけ振り向くと、彼女は悪戯が好きそうなネコ目でこちらを覗いていた。
「ウチの地元の風習やねん、これ」
「うそつけ!」
「嘘ちゃう嘘ちゃう。ホンマやて。これやると傷の治りが早なるねんて」
「めちゃくちゃ顔が笑ってるけど!」
悪びれもせずケタケタと笑う彼女に、一刀もつられて笑みがこぼれる。確かにこれが彼女流の励まし方なのかもしれない。
ただ同時に、一刀は強い違和感も覚えていた。
ギャップと言ってもいい。こうして見せる愛らしい一面と、戦場での彼女、いや、彼女たちの姿がどうも合致しない。
鮮烈な体験を消化できずにいる。とりわけ悪鬼羅刹のごとく暴れまわる恋の姿が頭から離れない。
あれをどう処理すればいいのやら。今は隣にいない彼女と、今後どう接すればいいのかを考えてしまう。
恋は人間の持つ二面性が、あまりにも両極端すぎるのだ。静と動、冷静と情熱、理性と本能、普段の恋と箍が外れた恋。一刀は両者をすんなりと等記号で結ぶことができない。
おもむろに口をついた問いかけは、そんなやりきれない感情からだった。
「ねえ、張遼さんはその、どうして戦うの?」
「はあ? なんやそれ?」
「職業軍人、って言っても通じないか。えっと、武将? 武官? になった理由っていうか、切っ掛けっていうかさ」
「……そら、その、ウチが最強になるためや」
少しだけ恥じらいながら答える張遼。その初々しい仕草に一刀の意識は磔にでもされた気分だった。
まるで夢を語るように、どこか照れくさそうで、誇らしげな表情から紡がれた言葉の意味。根本的な部分で大きな思い違いをしていたことに、一刀は気づかされる。
これまでの経験で、ここがどういう世界なのかを多少は理解したつもりでいた。
平時と戦時との距離感の違いだ。ここは元の世界より、ずっと身近に戦があり、生と死がある。そう解釈をしていた。
だが、そうではない。近いとか遠いとかの問題ではなかった。
彼女の顔を見れば一目瞭然だ。瞳を輝かせながら無邪気に最強を語る。それは幼き頃の自分と重なる。
二人の違いは、剣道というスポーツの場でそれを目指すか、命をかけた戦場で示すかの違いだけ。つまり、彼女には平時と戦時なんて隔たりがそもそも存在しないことがわかる。
この世界の人々にとって、戦とはあくまで日常の一部にすぎず、衣食住の中に溶け込んでいる。ゆえに、止むに止まれぬ事情があって、仕方なく戦場に身を置いている――などという希望的観測は蒙昧に過ぎる。
少なくとも彼女は自らの意志で戦っているのだから。
「戦が、好きなんだ?」
「そら戦は武人の晴れ舞台や! 血踊り肉沸くってもんやろ?」
「……そっか」
否定なんて、できるわけがない。
しかし、肯定することもできない。今はせめて悟られないように、茶化すことで精一杯だった。
「けど、最強ってどうなの?」
「な、なにがや! 最強ええやん! かっこええやん!」
「いや、さすがに子供っぽいでしょー。そこはほら、自分の限界に挑戦したいとかさ、武の頂に少しでも近づきたいとか色々言い方があるわけじゃん? なのに最強って、いかにもすぎるじゃん。じいさんもそう思わない?」
「これ一刀。人の夢を笑うものではない。たとえどれだけ単純でもじゃ」
「――誰が単純でおめでたい奴や! なんや二人して……自分かて天の御使いとか痛い肩書名乗っとるちゅーか、え、わろたんか?」
「まさか。笑ってない笑ってない」
「嘘や、わろたんやろ! じいさん言うてたやん!」
「笑てないってば、ふふ」
「あー!! やっぱり、わろとるやん! ムキー!!」
耳まで赤くして必死に言い返してくる姿は可愛らしいが、これ以上怒らせるのは身の危険を感じる。
ごめんごめん、と一刀は素直に謝り、
「それより張遼さんさ、言うおう言おうと思ってたんだけど、俺のこと御使いさんって呼ぶのやめてよ。あれ色々ときついから。一刀でいいから」
「なら、その張遼さんってのもやめーや。むず痒いねん。ウチのことは霞でええ」
「うん、わかっ…………はい?」
あまりにも自然な流れだったため、一瞬、そのまま受け入れそうになってしまうが、その名は彼女の真名のはず。ということは……。
「いやいやいやっ!! だってそれってあの、えええ!?」
「かまへん。ウチも真名を預けることにした」
腰に手を当て、彼女は大きく胸を張る。ただでさえサラシで巻いただけの露出度高めの豊胸が強調され、一刀は目のやり場にこまるが、それどころじゃない。
事が事だ。
今は、うわーすっごいバインバインだなーとか、柔らかそうだなーとか考えている場合ではなく、
「で、でもなんで急にそんな、真名なんて――」
「急ちゃうやろ。そら出会って日は浅いけどや、もう戦友やん? 最後まで戦った仲やん?」
「いや、凄い誤解されそうな言い方するのやめてくれませんか」
「それに恋かて懐いとるし。十分信用できる男やと思ったんや」
「……そう言われましても」
「なんや、ウチの真名は受け取られへん言うんか? 初めてやったのに……。怖かったけど勇気出したのに……。ウチは本気やったのに……酷い」
顔を伏せて、よよよと、床にしなだれる彼女は今にも泣き出しそう。
ふんだんに誤解を招きそうな言い回しはともかく、よくよく考えれば、命と同じくらい大切な真名を受け取り拒否とは、どうなのだろう。もしかしたら断るにしてもそれ相応のやり方があるとか。いや、それ以前に物凄く失礼な事なのかもしれない気がしてきて、
「わわっ! もう、わかったよ! 受け取ります! 謹んで頂戴いたします! だから立ってほら!」
「うぅぅ……ほんまか? 嘘やない?」
「もちろん本当だよ、霞さん!」
「……"さん"いらん」
「え、あ、じゃあ、霞! これでいい? ね?」
すると霞は何事もなかったように立ち上がる。覗かせる顔に涙の痕跡はなく、霞は笑う。
「にっしっしー」
完全なる嘘泣きだ。やられた。
これが女の最終兵器かとモヤモヤした気分ながらも、なんとなくそんな気はしていた。それにやっぱり一刀はどこか嬉しくて。
美人は得だなと再認識しつつ、よろしくね、と手を差し出すと、霞は少し照れながら握手に応えてくれる。
背中を少し強めに叩かれた。
「いっ――――!!」
「処置は済んだぞ。いつまでもニヤけとらんで、上着を着んか。着替えは机の上じゃ」
「く、口で言えよ! 傷口開くだろが!!」
「やかましい。それより張遼殿よ。残りの二人はまだ戻っておらんのか?」
「ああ、音々は戦の後始末や。念のため周辺に斥候飛ばすていうとった。恋の方はやっと落ち着いた思たら、散歩いうてフラフラどっかに消えてもうた」
「ふむ」
と、その時。執務室の部屋が外れそうな勢いで開かれ、ちょうど話題の二人が部屋に飛び込んできた。
血相を変えた陳宮は、そのまま霞の腕を掴み、
「――霞! す、すすすっ、すぐにここから離れるのです!」
「なんやそない慌てて。まさか黒山の奴ら戻ってきたんか?」
「違うのです! もっとやっかいな奴が来たのです!」
「もっとやっかいな奴? ……誰や?」
「曹操です! 曹操軍が現れやがったのです!!」
「――げぇ、それはあかん!」
何やら騒がしい二人を横目に、一刀の傍には恋がやってくる。
両手一杯に野草を抱えて。恋はそれをそっと差し出した。
「これで治る?」
そこにはどう見ても薬草になりそうもない草葉も混ざっているが、そんなことはどうだっていい。恋の気持ちは痛いほど詰まっている。
一刀の返事を待ち、小首を傾げるいつもの愛らしさこそが、何よりの良薬だ。
「ありがとう、恋」
一刀は野草を受け取る。
腕の中にある深い緑たち。子供の頃によく嗅いだ懐かしい香りがした。
こぼれ落ちないように少しだけ顔を埋める。
――ほんと、馬鹿だよな俺って。
恋は恋なのだ。
戦場での恋も。今の恋も。
二面性のどちらを好むかは一刀の問題だが、好まざるを否定するのは、あまりに身勝手で愚かだろう。
どちらかが本性ではない。どちらも彼女であり、どちらも一面にすぎない。だから、ありのままを受け入れればいい。
誰にも聞こえない声でごめんねと呟き、野草の中から顔を上げると、恋は可愛らしく小首を傾げたままだった。
読んでいただきありがとうございます。
なんだかもう、加筆&修正の次元から離れ、全面改装になっています。
話が進むごとにその傾向が顕著になってきて、今回はもうほぼ全部書き直したような……。
内容はほとんど変わってないんですけどね。
ご感想、ご意見お待ちしてます。




