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第13話  岐路

「驚いたわ……本当に大した被害もなく撃退したのね」


 勝利の余韻に浸る街を、華琳は数人の護衛を引き連れて歩いていた。

 王肱軍と黒山党の激突を知ったのは二日前のこと。知らせを受け、ただちに王肱の敗北を予見した華琳は、濮陽の窮地を救うべく、最短で戦支度を整え、どの勢力よりも早くこの地に参じた。しかし、今、目の当たりにしている光景は、その慧眼をもってしても想定外のものだった。

 通りの家々は略奪もされず、民にこれといった被害もなく、千にも満たない兵力で五万の軍勢を追い返すとは思いもしなかった。

 それは呂布と張遼の助力があったという情報を得た今でも変わらない。

 彼女たちは確かに強い。が、それだけではこの状況を作り出すことはできない。武力だけでは届きえない。まだ他にも何か要因があるはず――。

 華琳がそう考えていると、脇に控える供のひとりが何やら新たな情報を掴んだようだ。兵士からの報告を受けると、すぐにこちらへ駆け寄り、


「華琳さま。どうやら呂布と張遼の他に、陳宮もこの地にいるそうです」

「そう。なら、この絵図を描いたのは陳宮ということかしら?」

「おそらく」


 頷く彼女の名は夏侯淵。真名を秋蘭。曹操幕下の屋台骨と言える夏侯姉妹の妹で、華琳の従姉にもあたる。

 均整のとれた身体は、合理性を好む彼女らしく繊麗で、静かな湖面を思わせる明度の高い青髪も、機能美を求めてか、短めにまとめ後部へと流れる。一部残る前髪は琥珀色の右目にかかり、彼女の知的な神秘性を演出するのに一役買っている。

 秋蘭は少しだけ戸惑いの色を見せながら、こう続けた。


「それから、なんでも天の御使いを名乗る北郷という男が、彼女らと共に部隊を指揮し、勝利に貢献したとの情報も届いています」

「北郷……? まさかその男、北郷一刀と言う名ではないでしょうね?」

「な、なぜそれを? まさか、その男をご存じなのですか?」

「……本当に驚いたわ」


 思い出すのは小生意気な態度と、鞘の抜けぬ剣を熱心に振る彼の姿。

 華琳は不意打ちの邂逅に目を細め、


「それで、その男と彼女たちは今どこに?」

「宮城にて休息中とのことです。ですが、こちらの接近を把握されていたとなると……」

「大人しく待っているはずがない、わね」


 断じた言葉に、ある者が急に声を荒げた。


「――なっ、それは困ります、華琳さま!!」


 二人の会話に堪らず割り込んできたのは夏侯惇。真名を春蘭。秋蘭の姉にして、家臣団の筆頭を務める人物だ。

 男性と並んでも見劣りしない長身の体格は、女性特有の柔らかさは残しつつも、徹底的に鍛え上げられている。おかげで豊かな二つの膨らみは、引き締まった肉体と本人の無頓着が相まって存在感たっぷり。

 腰まで届く総髪も彼女の一本気な性格をよく表し、濃密な藍色の髪は猛る荒波を彷彿とさせ、力強い隻眼は鮮紅。閉じる左目には蝶をかたどる眼帯が、色鮮やかな羽を広げて留まる。

 そして、この眼帯こそ春蘭が戦前の軍馬の如くいきり立つ理由で、張遼との因縁を象徴するものであった。


「落ち着け、姉者。四方の門にはすでに我らの兵士が固めている。そう簡単には城外へ逃げられない」

「どうかしら? 力づくでとなったら長くは持たないかもしれないわね」

「そんな!! 今日こそは奴との決着をつけられると楽しみにしていたのに!!」


 春蘭は先の虎牢関の戦いにおいて、張遼と壮絶な一騎打ちを繰り広げた。

 二人の実力は伯仲。激しい打ち合いは二十合を越え、なおも勝敗は見えず。

 だが、終わりは唐突に訪れた。

 長期戦の様相を見せ始めた矢先、一本の流れ矢が春蘭の左目を貫く。不慮の惨事に、春蘭は膝をつき、張遼は一騎打ちに水を差されたと偃月刀を下げ、勝負は持ち越しになっているのだ。

 ちなみにその後、春蘭は自ら矢を引き抜き、生み育ててくれた両親に悪いと、くり貫いた目玉をひと飲み。このあまりにも豪胆な逸話も手伝い、夏侯惇元譲の名は広く世に知られることになる。

 ともあれ、春蘭としては見逃してもらった感がどうしてもついて回り、再戦を強く望んでいるというわけだ。


「……ぬぅぅううっ! 私は先に行くっ! 逃さんぞ張遼!!」

「――あ、姉者!? 待て!!」


 妹の制止も聞かず、春蘭はとんでもない速度で駆けていく。

 あっという間に小さくなる姉の背中を、秋蘭はなんとも言えない表情で見送り、


「……姉者をわざと焚きつけましたね? 華琳さま」

「ふふ、こういう時のあの娘は勘がいいから。探す手間が省けるでしょ? それに張り切ってる春蘭は可愛らしいじゃない」


 確かに、と力強く秋蘭は同意するが、


「ですが、よろしいのですか? 華琳さまの思惑通りに姉者が張遼を見つけたとして、その、そのまま、もし城内であの二人が本気で暴れでもしたら、大変なことになりませんか?」

「大丈夫よ。いくら春蘭でもそれくらいは弁えて…………」


 しばしの沈黙の後、二人は少しばかり歩を速めた。


***


 一方その頃、宮城を抜け出した逃亡組は、何故か通りのど真ん中で揉めごとの真っ最中だった。

 一刀は霞に言う。 


「いっ――嫌だからな絶対! こればっかは無理だからな!」

「我侭言うとる場合か! はよう乗らんかい!」

「んなこと言われたって……恥ずかしいだろ! っていうかなんで俺まで逃げなきゃいけないんだよ!」

「しゃーないやろ! 恋が一刀も一緒やいうて動かへんのやから!」

「だからって、そんな、おんぶはないだろ、おんぶは……!」


 眼前にはこちらに背を向け屈む霞が、両腕をパタパタと羽ばたかせて、はようはようと急かしている。

 ことの発端はこうだ。

 命に別状はないとはいえ、怪我人の一刀に全力疾走は酷だ。そこで、ここまでは恋が一刀を小脇に抱えて走ってきたのだが、対面の小脇にいる陳宮からの苦情と、傷口への負担の大きさから一時停止を余儀なくされ、代替案として登場したのがおんぶだった。

 初めは恋が背負おうと腰を丸めたが、陳宮から猛烈な抗議が入り、我先にと恋の背へしがみつく。そこで、霞がしゃーないと腰を折ったわけなのだが……。


「やっぱ、無理!」

「何がや! 音々みたく、ガバーっときたらええだけやん!」

「だ、か、ら! それが無理なんだよ!!」

「なんでやねん!」


 男なら女性に負ぶさること自体がまず、どこかこう抵抗を感じるというか、沽券にかかわると言うか、妙に照れてしまうものだ。

 その上で、問題になってくるのは霞の大胆な身形だ。

 彼女の上半身は申し訳程度に胸を覆うサラシと肩掛けだけ。瑞々しい柔肌はあちこちに(ちりば)められ、ふわりと結い上げた後ろ髪は美しいうなじを惜しげもなく晒している。

 そこへ抱きつけと言われてもだ、一刀くんは純情爆発なお年頃。豊かすぎる想像力で二の足を踏んでしまう。

 結果、乗れ! 嫌だ! の応酬がしばらく続きことになり、第一次反抗期を迎えた母子のような言い争いが往来の中で勃発したというわけだ。


「やれやれ……」


 実にくだらない光景を見せられ、呆れる管輅。ちなみに彼は一刀の荷物を担がされている。


「まったくです」


 陳宮は口では文句を言いつつも、とても幸せそうに恋の背に頬擦り。

 恋はいつも通り、のほほんと遠くを見つめているが、おもむろに、ぼそりと呟いた。


「……くる」


 何が? と疑問に思うのも束の間。次第に、なにやら地鳴りのような低音の連続音が聞こえてくる。皆が揃ってそちらを向くと、前方より凄まじい速度で接近する砂塵を目視。そして、長い髪を浮動させて、七、八尺(百六十から八十センチ程)はあろう波形の大剣を振りかざす、大女の姿を確認。


「張ォォォ遼ォォオオオオオオオオ~~~~~~!!」


 霞の顔色が変わった。


「――ちょ、あかん! 夏侯惇や! 逃げるで!!」


 間髪入れず、霞は短距離走選手ばりの踏切で、低空から一刀の腹をかちあげる。ガフー、と声を上げ“つ”の字に折れる男を肩に担いだら、そのまま全力疾走。

 恋と管輅もすかさず後に続き、腹部の衝撃で、一瞬、呼吸の詰まった一刀もすぐに顔を上げた。


「あれが……夏侯惇か」


 この世界では当たり前のように英雄たちが女性化する。しかも漏れなく美人にだ。最近はもう驚きより、どんな変化をしているかを少し楽しめるようになってきた。それがいいことなのか、悪いことなのかはさておき、見るからに彼女の身体能力は尋常じゃなさそうだ。


「ふはははは! この私から逃げられると思っているのかーーーーー!」


 夏候惇はべらぼうに足が速い。声もでかい。長身から繰り出される躍動感あふれる走りは、一刀というハンデを差し引いても、霞に引けを取らない。それがそっくりそのまま強さに当てはまるとは限らないが、とりあえず並みではないし、何より声がでかい。胸もでかい。おそらくは人外系の方だろう。


「やばいって! 追いつかれるって! めっちゃ怖いって!」

「うっさいお荷物! 舌噛まんように、だーっとれ!!」


 霞はさらに速度を上げるが、引き離すまでには及ばない。

 逆にじりじりと追手は迫る。やはり、一刀を担いでいる分だけ劣勢のようだ。彼女は管輅や恋には目もくれず、一直線にこちらへ向かってくる。

 激しい息遣いと縮まる距離。いよいよ、担がれる荷物男と夏候惇の視線が至近距離で重なり――、


「えっと、あの、はじめまして……?」

「でぇっりゃあああああああああああ!」

「――なんでええええ!?」


 夏候惇は踏み切って大跳躍。振り上げた大剣を自重ごとこちらに叩きつける。

 とてつもない破壊力を秘めるだろう一撃を目の当たりにして、一刀は瞬時に死を直感するが、間一髪のところで、霞が真横へ飛び退き、事なきを得る。

 不意に対象を失った一撃は大地へ刺さり、建物解体用の鉄球でも打ち付けたかのような衝撃音と共に大量の砂埃を巻き上げた。

 まともに食らっていたら本当に即死だろう。勢いで投げ出され、地面に転がる一刀は少しチビリそうだった。


「さあ、あの日の続きだ! 構えろ張遼!」


 砂がぱらぱらと舞降る中、夏候惇は煙幕を切り裂いて、着地で体勢を崩し、片膝をつく霞へ大剣を突きつける。


「……あー、もう」


 霞が求めに応じるように立ち上がると、周囲に恋や管輅もすぐに集まった。


「これは何やら因縁がありそうじゃのう?」

「虎牢関でちぃっとな。けど幸い、狙いはウチだけみたいや。皆は先行き。野暮用済ませてすぐに追いかける」

 

 嘘だ。どう考えても野暮用で済む相手ではない。いや、仮に済んだとしても、時間をかければかけるほど、更なる追手が現れる危険性は高まるはず。この場を上手く切り抜けられたとしても、簡単に合流できるとは思えない。

 ならば、一刀にその選択肢はありえなかった。


「いやいや、どっちかと言うと、俺が残って時間稼ぎする場面じゃないかなこれ。もともと逃げる必要ないし」

「……はぁ?」


 全身の砂をパンパンと払いながら一刀が霞の隣に並ぶ。

 続けざまに恋も反対側に立ち、背中の陳宮が肩越しで、


「それは名案なのです! そうと決まれば、さあ、この馬鹿を置いて今すぐ――」

「だめ、みんな一緒」

「恋殿おおおおおおおおおおおおおお」


 さらには管輅も不承不承と一刀の隣に立つ。


「軍師殿の意見に賛成したいのは山々なんじゃが、残念なことにこれ以上この阿呆が無茶すると、ワシが椿に何を言れるやらわからんのでな」


 一同は霞を中心に、ずらりと横に並び立つ。

 誰も逃げる気はなし。もちろん、危険は承知の上。ここまでくるともう理性どうこうではなく、気分の問題だ。

 反抗期の問題児が、いつの間にか四人に増えていた。


「な、何しとんねん! 逃げろ言うてるやろ! 誰が並べ言うた! 邪魔や!!」

「嫌だ」「嫌」「嫌です」「嫌じゃ」

「――なにがっ!?」


 霞の決死の覚悟を、一刀たちは完全に無視。怒鳴り声も混じるが、どこ吹く風で、四人の意思は固く。

 それでも霞は、なんとかしようと脅迫紛いの説得を続けるが、四人は澄ます顔で聞き流す。

 イライラの限界に達した霞は、とりあえず一刀の頭を一発、平手で叩いた。


「――いったあああ!? なんで!!」

「なんとなしや!!」 


 そして、すっかり置いてけぼりの夏候惇は不思議なやり取りを前に、何だコレは? と目をパチクリ。口を挟んでいいものなのか、しばらく様子を見ていたが、しかし、我慢の限界が訪れるまでに、それほど時間はかからなかった。


「貴様らっ! なにをしている! まさか私と張遼の一騎打ちを邪魔する気か!」

「ま、まった! ちゃうねん、こいつらは関係ないねん! すぐどかす!」

 

 はよ行け! と霞はすかさず促すが、


「嫌だ」「嫌」「嫌です」「嫌じゃ」

「――なにがやねん!!」


 やっぱり始まる不毛な応酬。本気で霞は怒鳴り散らすが、誰も聞く耳を持たない。


「おい! 私をほったらかしにするな!!」

「うっさいねん! 今、忙しいんや! 見たらわかるやろ! かまってちゃんか!」

「なっ、誰がカマドウマちゃんだ! 私は断然、トノサマバッタが――って、ええい! 今はそんなことどうでもいい! 私はあの日の決着をつけにきたのだ! 正々堂々と戦え張遼!! 貴様らも、これ以上、邪魔をするというのなら、容赦は――」

 

 しない。勇ましくそう続くと思われた台詞は、しかし、意外にもそこで立ち消える。

 夏候惇が忌々しく見つめる先。恋の存在がそうさせたのだ。

 いくら夏候惇でも天下無双は警戒するし、霞と恋の二人がかりなんて状況になるのは避けたいのだろう。その辺の心情がすごくわかりやすく顔にでている。どうやら嘘をつくのは苦手なタイプのようだ。

 陳宮も抜け目なくそれを観察していたようで、恋の肩からひょっこり覗く顔が、にやりと笑う。 


「ひと言いいですか? 先ほどから邪魔邪魔と言われるのですが、こちらも邪魔をしたくて邪魔をしてるのではないのです」

「……なに? ならさっさとどこかに行けばいいだろう! 止めはしないぞ」

「いえ、そういうわけにはいかないのです。なぜなら正々堂々という割には、夏候惇殿は卑怯なのですから」

「なんだと! 私のどこが卑怯だというのだ!」


 恋の背中から飛び降りた陳宮は続ける。


「だってそうではないですか? こちらは昨日から先ほどまで黒山党と戦っていたのですよ? 目だった傷はなくても、当然、体力も気力も消耗しているのです。それを今しがた万全で現れた者が一騎打ちで戦えというのは、本当に正々堂々だと言えるのですか?」

「ぬ、ぬう?」

「もし夏候惇殿が、なおもこれを正々堂々だと主張されるのなら、こちらにも考えがあるのです。本当は二人の決着に水を差したくはないでのですが、やむを得ません。恋殿に助力してもらうことにするのです」

「う、そ、それは……ぐぅ」


 ぐうの音のぐうを一刀は生まれて初めて聞いた。人間、追い詰められると本当にぐうと言うらしい。

 陳宮は夏候惇をさらに畳みかける。


「おや、どうやら夏候惇殿も本意ではないご様子ですね。よかったのです。なら、ひとつ提案なのですが、我々に宿を用意してもらえないですか?」

「……宿だと?」

「はい。そこで一晩ゆっくり休養をとり、明日、改めて一騎打ちを行うのはどうでしょう? これならお互い万全。正真正銘の正々堂々の戦いができます。二人の決着に相応しいと思うのですが」

「おお! それはいい! よし、今すぐ宿を取ってきてやろう! で、宿はどこだ。私はここに来たばかりでよくわからん」

「確か、そこの角を左に曲がって、少し行った先にあったと思います。あ、我々はここで大人しく待っていますので、ご安心を」

「よし、わかった!」


 と、今にも駆けだしそうだった夏候惇が、寸前でピタリと止まる。何かを第六感で察知したのか、こちらに疑いの目をじろりと向け、


「ひょっとして、逃げるつもりじゃないだろうな? 本当にここで待っているな? 嘘じゃないな?」

「もちろんです」


 誰もが嘘だとわかりそうな、その答えを聞くや否や。いってくる! と彼女は本当に宿を取りに行ってしまった。実に単――、いや、純情な性格をしているようで、助かった。

 彼女が角を曲がり、姿が見えなくなると、陳宮は急いで恋の背中に飛びつき、


「今なのです!」


 号令に合わせて一同は一斉に逆方向へ駆け出す。が――、その足が二歩目を踏み出すことはなかった。

 

「どこへ行くつもりかしら? ひどいじゃない。あの娘の純真な心を弄ぶなんて」


 そこには、ひとりの少女が立ち塞がる。

 一刀にも見覚えのある姿だ。そう、それは陳留で出会ったあの――、


「ああー!! き、君はっ!」

「ええ、また会ったわね一刀」


 少女が一刀の名を口にした瞬間、一同の注目は何故か一刀の元へ集まった。

 中でも霞はもっとも刺々しい視線を送り、


「……どういうことや。一刀、アレとどないな仲や? 返答次第じゃただではおかんで」

「ぶ、物騒だないきなり。どうもこうも、別にこの前、じいさんの付き添いで行った陳留で、ちょっと声をかけられて、それで少し話しただけだけど……?」

「ならアレとぐるってわけやないんやな?」

「いや、ぐるも何も、彼女の名前も知らないし俺」


 少女がくすくすと笑う。


「そういえば、あの時は名乗らなかったものね。なら改めて。わたしは陳留太守、曹孟徳。よろしくね一刀」

「……は? たいしゅ? そうもうとく? はい? いや、え、だって、それって、あの、まさか……」

「こいつが曹操や」


 ええええええええええ!! とあげる一刀の絶叫と同時、少女が右手をさっと掲げると、隠れていた兵士が一斉に周囲を取り囲む。そこに夏候惇と彼女を連れ戻した新たな女性が合流して、完全に詰みだ。

 霞たちは抵抗を諦め、その身柄は宮城へと移されることになった。


***


「――単刀直入に言うわ。呂布、張遼、陳宮。私のモノになりなさい」


 まんまと逃亡を阻止された一行は場所を移し、ここは謁見の間。空位の玉座に腰を下ろす少女は晴れ晴れしくそう告げた。

 そこから階段を幾段下った先、伸びる真っ赤な敷物の上で、五人は横一列に並ぶ。

 横柄な要求に開口するのは、さっきからずっと悪態をついている霞からだった。


「はぁ? 冗ー談やない。んなもん、断るに決まっとるやろ?」

「断れる立場にないことくらい、わかっているでしょう」

「月や詠の仇が何を言いやがるのです! どんな立場だろうと、おまえに従うはずがないのですよ!」


 続く陳宮にも激しい怒りが見られ、謁見の間をあっという間に険悪さが増す。

 隣に立っているだけの一刀は早くも気が気じゃない。何かのきっかけがあれば、すぐにでも乱闘が始まりそうな緊迫感に息を飲むが、それでも少女はあくまで淡々と話を続ける。


「仇、ねぇ? 悪政で民を虐げる董卓と、それに与する者を討つことが仇? いいえ、それは義に則る天意に等しいでしょう。感謝されることがあっても、恨まれなければならない道理が、どこにあるのかしら?」

「――違う! 月も、詠も、悪くない! 優しかった!!」


 口下手で寡黙なはずの恋が、ついと割って入った。それもあのド級の殺気をばら撒きながら。

 玉座の袖に控える夏候惇は、堪らず剣を構えようとするが、少女はこれまた涼しい顔で無用だと手をかざす。


「そう。なら、やはり、すべては麗羽の虚言だったようね」

「虚言って……、じゃあ董卓の悪政は嘘だったってことか?」

「せや。こいつらはなんも悪うない月に、訳のわからん難癖つけて、攻めてきよったんや!」

「…………」


 一刀が黙した理由、それは霞たちを襲った理不尽に対するもの、ではない。

 歴史の決定的な乖離だ。

 董卓の専横が虚偽だったなんて歴史を、一刀はこれまで聞いたことがない。知っている正史とは明らかに違う。

 確かに大局的観点からすれば、董卓の権勢は連合軍により失墜、謀計によって生涯を終えると本筋に沿っているようにも見える。しかし、彼女たちの話を聞くうち、それは大同小異と言うより、たまたま重なる部分があると表現した方がしっくりくるのだ。

 特に董卓――彼女たちが月と呼ぶ者の最期がそう。

 正史に(したが)えば、彼女の最期は恋の裏切りによって生じるはず。ところが、恋を見れば裏切るどころか、心酔しきっているように見受けられる。もともと性別が入れ替わっているのだから、性格や人間関係も多少の変化があるのは許容の範疇と言えなくもない。が、しかし、それがここまで歪み、さらには死因にまで及ぶというなら話は変わる。

 何千年続く歴史だろうと、それはあくまで人が生きた足跡の集合体でしかない。その核たる登場人物が性別も、性格も、さらに生き死にまで変質を持つというなら、もはや同一の生涯を全うする方が奇跡的と言えるのではないか。

 敢えて反論するのであれば、伝わる正史が捏造で、こちらこそが真実だったという可能性もある。ただ、どちらにせよ以前から懸念していたひとつの疑惑が、確証に変わってしまう。

 つまり、この世界で正史の知識は役にたたず。過信すれば、逆に足元を掬われかねないということ。最大の優位性が失われることを意味するのだ。

 一刀は少なからず動揺する。それはそうだろう。彼の武器は正史を含めた現代の知識だけなのだから。その一部に不良品が混じっているとなれば、今後の身の振り方は、より慎重さが求められ――などと、呑気に気落ちしている場合ではなかった。

 隣で、ついに霞がキレた。


「ウチらが狙う本命は袁紹や。せやけどな、ついでに、その首もらったってもかまわへんで? やったろか? ああん?」

「――なっ、やめろ霞!」


 今にも飛び掛かりそうな霞の腕を一刀は慌てて掴む。

 

「あら。素手で春蘭に挑もうなんて、さすがね。けど、無駄な努力はやめておきなさい」

「無駄じゃない」

「――ちょっ、恋っ!?」


 反対の手で一刀は恋の腕も引き寄せるが、それで二人が止まるわけがない。グイグイ引きずられ、二人の足が階段にかかったところで、夏候姉妹が呼応するように前へ迫り出す。

 互いの戦意がぶつかり、壇上に散る火花。

 ただ、それでもなお、少女だけはこの状況を楽しんでいるかのように、肘掛に頬杖をつきながら言う。


「まったく。そんなことだから負けたのよ。あなたたちは」

「上等や! 表でえ!!」「……ヤる」

「やめろっての!!」


 背中の傷も忘れ、一刀は二人の腰にしがみつき、なんとかギリギリで抑える。

 すると、へぇ、と少女は関心したように呟き、思いがけないことを口にする。


「ねえ、もし董卓と賈駆、生きていると言ったら信じるかしら?」

「「――――」」


 霞と恋の体がビクンと震えて、途端に力が抜けた。そして、二人は、いや、三人は喜怒哀楽すべてを詰め込んだ顔で壇上を見やる。


「生きているわよ。ほぼ間違いなく」


 揺れる思い。

 おそらくそれは惜別。どれだけ願っても、手の届かない無二の人。

 おそらくそれは悲哀。口には出さずとも、悲しみに暮れない日など一日もなく。

 おそらくそれは追慕。もう夢路でしか会えない彼女たちを想い眠る幾夜を越えて。

 おそらくそれは雪恨。着せられた暴君の汚名だけは、必ず雪いでみせると。

 だから、諦めるしかないと思っていた希望を見せられ、三人の心は大きく揺さぶられたに違いなく、始まる少女の説明はこうだ。

 まず、洛陽陥落時に一番手で宮城へ乗り込んだのは劉備・公孫賛軍であること。

 その劉備から董卓、賈駆を討ち取ったとの報告を受けたわけだが、連合軍としての本格的な首検分はされていない。要するに、二人の死は証言のみに根拠を置き、偽装ならいくらできる状況だったというわけだ。

 そこに、戦後の宮中で劉備が保護した侍女たちの姿が多数、目撃されているという状況を加味すれば……。


「その中に董卓や賈駆もいたとみて、まず間違いないでしょう。劉備の性格を知っていれば、誰にでもわかりそうなものよ」


 一刀は迷わず頷いた。

 彼女のことだ。きっと二人を助けようとしたに違いない。


「ほんまか!? ならほんまに……二人は……」

「……生きてる?」

「はい、はいっ、恋殿! 月も詠も生きて……生きてっ……!!」


 涙を浮かべて恋の胸へ飛び込む陳宮。恋もようやく実感が沸き、ぎゅっと陳宮を抱きしめる。

 その横で依然として、霞だけは少女から視線を外そうとしない。瞳の敵意はとうに失せ、代わりに縋るような眼差しで、どうか真実であってくれと今一度、問う。


「なんでや……? なんで月たちを見逃した?」

「よほどの馬鹿でもない限り、洛陽の実情を見れば、噂に聞く暴虐とやらに疑問を持つわよ」

「だから見逃した言うんか?」

「ええ。もともと連合に参加したのも、あなたと呂布を手に入れることが最大の目的だったのよ。あとは諸侯の立ち位置も含めた現状を把握できれば必要十分。正直、麗羽の嘘にも、董卓の生死にも、興味はなかったわ。大義だなんだと声高に叫んでいても、程度の差はあれ、他の連中も似たようなものでしょう」


 そうか、と震える小さな声。霞は陳宮ごと包むように恋へ飛びついた。

 頬を寄せる三人は泣き笑い。溜めに溜め込んだ感情をぶちまけて、心の底から涙を流し、祝った。何度も、何度も、互いを固く抱きしめて。

 その(まばゆ)いばかりの表情は見ている方の胸が詰まるほどで。一刀は貰い泣きを堪えるために、視線を逸らし、壇上、何故か大泣きする夏候惇が映りこみ、吹き出してしまう。

 変わる世界で、変わらぬもの。

 つい先ほどまで戦場に身を置いていた三人と。地べたに座り込み、啜り泣く彼女たちとのコントラストは、一刀の心を強く打つ。彼女たちはどれだけ強くても、やっぱり女の子なんだ、と。

 それから、しばし三名+夏候惇のしゃくり声が落ちつくのを待っていた少女は、改めてこう訊ねる。


「さて、これで仇敵扱いされる理由はなくなったのだけれど。まだ私の誘いを拒むのかしら?」

「な、何を言ってやがるですか。月と詠が生きているとわかったのです。誰がそんな誘いを受けるかなのです!」


 恋の胸から飛び降りる陳宮は胸を張ってそう言い切る。親愛の主人が無事だと知れば、誰だってそう答えるだろう。霞も恋も、もちろん同意見だ。

 だが、このもっとも明瞭な答えが、ここまで終始ご機嫌だった少女の表情に影を落とす。

 がっかりね、と露骨な溜め息を吐き、


「賊軍の撃退はあなたの策と聞いていたのだけれど、何かの間違いだったようね」

「なんですと!!」

「いい? 世間では、今も董卓と賈駆は()()()()()のよ。逆に、だからこそ生きていられるとも言えるわね」

「……何が言いたいねん? 小難しい問答はもう結構や。ともかく、ウチらは劉備んとこに――」

「行ってどうするつもり? ()()()()()あなたたちが」


 少女の意図に、いち早く理解を示したのは陳宮だった。次いで夏侯淵と管輅も合点がいき、最後に一刀。

 自力で解答を得たのはここまでで、人外の武人組は揃って首を捻り、やむなしと少女の解説が始まる。

 その要点は、董卓と賈駆の平穏が偽死によって成り立っている点に尽きた。

 今はおそらく名前も身分も捨て、新たな人生を送っているはず。だからこそ、彼女たちは生きていられる。

 しかし、恋たちは違う。文字通り汚名を脱ぎ捨てた董卓たちとは異なり、世間的には未だ暴君の片棒を担いだ悪名は健在だ。

 仮に劉備が無条件で霞たちを受け入れたとしても、状況はそう簡単なものではない。

 もし、そうなれば確実に諸侯へ刺激を与えることになるだろう。とりわけ、袁紹あたりには強い刺激を。下手をすれば、開戦の口実にされかねない。


「つまり――、あなたたちが二人の身を案じるのなら、近づかないことこそが最善なのよ」


 実に明快な解説に一刀は何度も頷く。が、少女の傍で、一名、まだ理解できてない残念な子がいた。


「むむむぅ? なあ秋蘭、今のは結局、どういう――」

「姉者。後で説明するから今は黙っていてくれ」

「むう」


 彼女はきっと、あれだ。典型的な脳筋――もとい、肉体労働専門の人なのだろう、と一刀は生暖かく見守る。が、身近にもうひとり専門職の人がいて。


「会っちゃ、ダメ?」

「れ、恋殿。えーっと、だからそれはですね」


 これには少女も、んんっ! と口に手を当て咳払い。パッと集まる一同の視線をぐるりと見回し、そして――、


「最後に、もう一度だけ聞きましょう。私に仕えない。この曹孟徳が存分に使いこなしてあげるから。いいわね?」

「「…………」」


 こうして、恋、霞、陳宮の三人は苦渋の沈黙をもって、少女の軍門に下ることとなった。


***


 意外な決着からほどなく、三者の表情はそれぞれ特徴的なものだった。


「離れ離れでも……二人は生きとる。なら、それで十分やな」


 霞は会えない寂しさより、二人が無事に生きていてくれることの方がよっぽど嬉しいらしく、その幸せを前向きに願っている様子だ。

 なってしまったものはもう仕方ない、と彼女らしく割り切っている感がある。


「不味いですよ。これは不味いのです。よりにもよってあの曹操とは……」


 こちらは、絶賛、後ろ向きの陳宮。

 悲壮感というか。決死の覚悟というか。時より新たな主を恨めしそうに眺めては、恋殿は命に代えても守り抜いてみせます! と何かに誓っている。

 いや、まあ、これはこれである意味、前向きなのかもしれない。


「……お腹、減った」


 はい。ザ・マイペースガールの恋には前向きも、後ろ向きもなく、空腹具合が重要なようで。軽く俯きながら、お腹をさすさすする姿は、確かに何としてでも守り抜かなければいけない気にさせられる。かわいい。

 ともあれ、一時はどうなるものかと心配したが、なんとか無事に終わったと、一刀もようやく一息。今になって怪我の痛みがぶり返してきたが、とりあえず管輅と帰りの相談を始める。

 しかし、やっぱりというか、当然というか、あの少女がそうすんなりと終わらせてくれるわけがなく……。

 突然の宣告が悪戯に響いたのは、そんな時だった。


「あ、それからついでに、北郷一刀。あなたも私のもとへ来なさい」

「「えええええええ!!」」


 驚く皆の視線を背で受け、一刀は固まった。

 背中の傷がズッキンズッキンと馬鹿みたいに痛み、脂汗と冷や汗がダラダラと流れ、

 ――え? いや、ないないない。俺? ないないないない。ハハ、そんなわけないし。あっぶね、返事しちゃいそうだったし。これってアレじゃん? ほら、前から知り合いが歩いて来てさ、こっちにすっごい手を振るわけ。けど、そこまで親しい間柄でもなくて、おっかしいなー、何これどうしよーって悩んでたら、実は背後の別人に手を振ってた的なアレ。ひとりですっごい気まずい気分になるアレだよ! 結構きついよねアレ。手を振り返しちゃった日には、もう目も当てられないから。俺なんて、苦し紛れにそいつの後ろにいた全然知らない人に手を振ってるフリしたもん。え? まさか? みたいな顔されても違いますから。俺も後ろの人に手を振ってますからー! って。でもまあ……、そいつとすれ違った後は、もっと気まずい感じになっちゃうんだけどね、あははははは。


「おい貴様! 華琳さまのお言葉を無視するとは何事だ!!」

「――ほうわっ!?」


 現実逃避は夏候惇の怒声で引き戻される。

 一刀はゆっくりと振り返り、そして、気づく。少女があの日と同じく悪ーい顔をしていることに。


「どうなの一刀? 返事をなさい」

「ちょ、ちょっと待ってよ! どうして俺なんかを……?」

「質問に質問で返すのは関心しないわ。けどいいでしょう、答えてあげる。興味が沸いたから、それだけよ」

「興味? 俺に? 自分で言うのも悲しくなるけど、なんの取り柄もない男だぞ!」

「そんなこと見ればわかるわよ。その凡夫に、呂布や張遼が真名を許しているから、興味があるんじゃない」

「いや、それは色々と事情が……って、とにかく! 俺は使えるような男じゃない! それだけは断言できる!」


 考え直してもらうためとはいえ、自分がいかに駄目男かを全力で売り込まなければならいのは、心に刺さるものがある。

 色んな意味で涙ぐましい。取りようによっては、すごく謙虚な人と映るかもしれないという微かな幻想でなんとか己を励ましながら、一刀は一生懸命ダメアピールを続ける。

 もっとも、この少女には今更、何を言っても無駄だったのだが。


「うるさいわね。使えるか使えないかは私が判断することよ。あなたが己をどれだけ卑下しようと、私にとって有用ならそれ以上でも以下でもないの。それに、使い物にならないようなら、すぐ処分するだけだから何も問題ないでしょう」

「え、処分……?」


 人権とは。尊厳とは。処分とは何なのか。

 一先ず描く未来は悲惨なものだ。きっと殺処分に違いない、と背筋がぞっとする一刀は、涙声で管輅に助けを求める。が、自分のことじゃろとあっさり見捨てられ、


「一刀? 返事を。早く」

「うぅっ」


 断わるのは怖い。処分も嫌。でも、このまま沈黙を続けていては、おそらくどんどん立場が悪くなるだけだろう。

 ニヤニヤと明らかに楽しんでいる少女が歩み寄り、切羽詰る男はようやく腹を決め、


「え、えーと、じゃあその、非常に申し訳ないんですけど――」


 不意に接近する少女。

 まるで口付けをせがむように胸元を引き寄せられ、耳元で潤んだ唇が囁いた。


「言葉には気をつけなさい。不味いんじゃないかしら? 今、私の機嫌を損ねると」

「――――」


 間近の上目遣いは完全なる魔性。艶の方ではなく、邪な方だが。

 立て続く二種類のドキッリに、一刀は暴れる鼓動をなんとか沈めながら、どういう意味だと思考を巡らす。

 ――俺が断れば、腹いせに恋たちにも害が及ぶという意味か? ……いや、違うな。彼女たちはどうしても手に入れたかった人材のはずなんだから、こんなことくらいで……。なら、まさか董卓と賈駆か? いやでも、そんなことをすれば……。

 見えない思惑に、結論は中々まとまらず。だが、少女は容赦なく――。


「"申し訳ないんだけど"の続きはまだかしら?」


 時間切れだと今日一の笑顔で言う。

 こうなってはもう、選択の余地など無いに等しかった。


「っ……ああ、もう! 曹操軍の末席に、加えては頂けないでしょうか!」

「ふふっ、いい返事よ。いいでしょう、力の限り励みなさい」


 半ば自棄(やけ)の臣下の礼に、少女は会心の高笑いだ。

 一刀もとりあえず笑うことにした。


「アハハハハ。ハハ、ハァ……」


 遠くを見つめて、カラカラと。


「なあ、じいさん、どうしよ?」

「しるか馬鹿者――!!」


 ここに脅迫めいた主従の契りは交わされる。

 その奉戴は成り行き任せもいいところで、流された感は否めない。まあ、同情の余地は多分で、一刀らしいと言えばらしいが。

 なんにしろ、それは紛れもなく大きな岐路となる。


 北郷一刀は曹孟徳を頂く。


***


「戦ってたんだよな……、俺」


 独り言の答えは脳裏に焼き付けられた鮮明すぎる映像と、痛む傷で十分だろう。

 怒涛の展開からようやく解放され、時間のできた一刀は、ひとり城壁の上。夕暮れ空に佇んでいる。

 本当なら安静が必要な体を引きずり、昇った内壁。さすがに街を抜け、外壁まで行くのは無理があり、ここらで妥協に。

 一刀はどうしても見たくなったのだ。敵も味方も、多くが死んだ、あの場所を。戦場を。

 絶対に風化させないために。刻みつけておくために。

 けれど残念ながらここからでは、いくら背伸びをしてみても外までは見えず、背に痛みが走るだけ。

 ――なら、せめて。

 ここで刻もう。戒めの言葉を。


「殺したんだ、人を」


 直接は手を下さずとも、部隊を指揮して命を奪った。味方も敵も。なおさら罪深い、と一刀は思う。

 不殺だなんだと(のたま)い、何をした?

 言うことだけは一丁前、やったことは半人前以下ではないか。

 睨みひとつで敵を釘付けにした霞とは違う。単に己が手を汚すのを嫌い、他人の手を汚させただけ。思えば恋の、あの凄まじいモノを引き起こした一因もそこにある。

 自己嫌悪で見つめる頼りない掌を、一刀は強く握った。

 葛藤。それは殺を認めない信念と、不殺に甘えた嫌悪。理想と現実だ。

 安易に殺人を許容するつもりはさらさらない。問題なのは不殺を貫くことで、どうしても弊害が生まれることだ。

 なら、それをどう解消する? その自問に一刀はいつまでも答えを見出せなかった。

 それはそうだろう。もとの近代日本ですら、法律上、自衛のための殺人は許容され得る。善悪の前に、方法論として他に解決が望めないのだから。

 それを、この乱世で覆そうと? 思い上がりもいいところだ。

 結局、一刀の理想など、だったらいいなの夢物語でしかない。何をどう言い繕おうと、殺意を持つ相手への対処は先に殺してしまうのが、もっとも確実で効果的なのだ。

 だが、それでも一刀は理想を追った。

 譲れない。諦められない。捨てられない。偽善的で。独断的で。短絡的で。非合理的なのも全部、自覚している。でも、割り切ってしまったら、取り返しのつかない大事な何かを失ってしまう。一刀はそんな気がしてならなかった。

 夕刻の風に優しく吹かれて、答えの見つからぬ時が刻々と過ぎる。

 気づけば、涙が静かに頬を伝っていた。

 理由は自分でもよくわからない。

 生きている実感を改めて得たからかもしれない。死んでいった者たちへの哀悼からかもしれない。緊張の連続からの反動かもしれない。情けない自分への失望からかもしれない。

 ただ、つらつらと涙は流れ続け、止めるタイミングは、しばらくのちにやってきた。


「こんな所で何をしておるんじゃ」


 呼びかけに急いで涙を袖で拭い、振り向くと夕焼けに輪郭の沈む管輅が、探したぞ、と近づく。

 眩しさにかざした手を下げ、一刀は答えた。


「ちょっと、考え事」

「……戦のことか?」

「うん。まあ、ね」

「下手な考え休むに似たりじゃ。同じ休むなら寝台の上にせい」

 

 確かに下手な考えだ。見つからない答えを求めて、こんな場所まで来てしまったのだから。

 一刀は軽く苦笑いして、視線を移した。眼下。橙色に染まる濮陽の街へ。


「俺さ、もっともっと強くなりたい。甘すぎだった。何もできなかった。今のままじゃ駄目なんだ」

「……ならば、殺さずもこれまでか?」


 ややあって、一刀は見下ろす首を横に振る。


「ううん。俺はやっぱり誰も傷つけたくない。だから、無茶な理想を貫くだけの力が少しでも欲しいんだ」

「どういう意味じゃ?」

「この戦で俺には死ぬか、相手を殺すか。その二つしか選択肢がなかった。でも、もし力があったら。例えば、恋や霞みたいな。そしたら選べる道は他にもあったんじゃないかって」


 それは、と口を挟んだきり、管輅は黙する。

 だよなー、と矩形の胸壁に手を置く一刀は、夕空に身を乗り出した。

 浮かぶのは腹ばいの体と、また苦笑い。わかってる、と口ずさみ、


「どれだけ馬鹿げた考えかなんてさ。けど、そこだけは曲げたくないんだ」

「…………」


 それは突き詰めれば、戦わずにして勝つということだ。まさに究極の勝利と言えよう。

 孫子の有名な一節にもこうある。『百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり』と。

 だが、それは至難がゆえに善の善。万人が望みながらも、万人が()いた道。

 しかも、百戦百敗の男がそれを成そうと言うのだから、沈黙で済んでいるだけ優しいものだ。

 さらに言えば、


「それを……あの主人の下で叶えると言うのか?」

「しょーがないでしょ。成り行きとはいえ返事しちゃったし。それに、これでも真面目に頑張ってみようと今は思ってるんだよ」

「わかっておるのか? あれは覇王と称される者じゃ。すなわち、この乱世を力で治めようとする者じゃぞ?」


 ブラブラと揺れていた足は地に戻り、一刀は頷きながら首を掻く。


「わかりたくないけど、わかってる。相性悪いだろうねきっと」

「悪いどころか正反対じゃて」


 曹孟徳は覇道を行く。その道において、情け容赦は排他されるべきもの。目指すは武力による天下統一だ。

 平和を願う心は同じであっても、一刀の求めるものとは道筋がまったく異なる。

 ゆえに、二つの道は漸近(ぜんきん)線。限りなく近づくことはあっても、決して交わることはなく、絶対に相容れない。


「けど、逆にそんな覇王の下でだからこそ、やれることもあると思うんだ」

「仮にそうじゃとして、あれがおぬしの言葉なんぞに耳を傾けると思っておるのか?」

「――うっ。そこはほら、その、あれだよ。諦めずに? 頑張るだけ? みたいな?」

「なんじゃその根拠もなければ思慮もない、煮詰まった汁粉も驚くほどの甘ったるい考えは……」


 前向きなのは結構なことだが、世の中、それだけでまかり通るほど甘くはない。

 正直者が報われて、夢追い人が大成するのは、基本的に想像と物語の中だけだ。

 現実は往々にして、正直者が泣きを見て、夢追い人は不相応な高望みに潰れるか、相応な平凡に妥協するもの。残酷にできている。

 毎度のことながら管輅は大いに呆れ、一刀もどんなお説教が始まるのかと身構える。しかし、どういうわけだか、今日の老人は大人しかった。


「……ならば思う通りに励んでみるがよい」

「え?」


 思いがけない反応に、少し戸惑っていると、

 

「折角じゃ。景気づけ代わりに、ワシもあのことについて伝えておくかのう」

「あのこと……?」

「うむ。おぬしがワシのもとを訪れた理由。すべての始まり、おぬしの予言についてじゃ」


 予言――その単語ひとつで妙な胸のざわつきを覚えて、呼吸が早くなる。

 管輅は言った。


「北郷一刀。おぬしこそ紛れもなく、ワシが予言に見た天の御遣い人じゃ」


 重い。息苦しい。何か途轍もないモノが両肩に圧し掛かったと一刀は感じる。

 それはやはり忌避の感情からだろう。

 ずっと避けてきた。今でこそ、形式的に御遣いを名乗ることにはなったが、それでもまだ決め手というか、最後の一線というか、管輅からの明言だけは避けられていた。

 一刀にとって予言の詳細とは、現世に戻るための垂涎の情報でありながら、いつからか最大の禁忌ともなっていたのだ。

 だが、それもここまでにしよう。

 一刀は喉を鳴らして覚悟の息を飲み込み、


「――とはいっても、その、なんじゃ。実のところ、おぬしがどのように乱世を治めるのかは皆目、知らん」

「はい……?」


 気張っていた肩はカクンと落ちる。

 知らんとはこれ如何に。なら一体何を根拠にして? と思うのは当たり前の流れで。

 それについては曰く、


「ワシの予言とは知っての通り、未知を断片的に垣間見るものじゃ。しかも己の意思とは関係なしに、一方的に見せられるだけの極めて不完全なもの。よっておぬしについて見たのは三つの場面だけじゃ」


 つまり、老人が予言で見たものとは、


「ひとつ。おぬしがこの世界に降り立つ光」

「目が覚めたら山の中だった時のあれか。……光ってたんだ俺」

「二つ。その者が持つ宝剣」

「ああ、だから南皮で初めて会った時、あんなにジロジロと」

「そして三つ。それは、笑顔じゃ」

「うんうん。救世主と言えばやっぱ笑顔だよなぁ。あ、今、気づいたんだけど、英雄と笑顔って漢字で書くと字面が似てるよね!」 

「おお、確か似てる言われれば、似ておるな! かっかっか」

「――かっかっか、じゃねえよ! 似てねえよ! つか、なんだよ笑顔って!!」


 一刀の追及に、管輅は何かを思い出すように遠くを見つめ、


「その者の周りは、それはそれは暖かい笑顔で包まれておったんじゃ。この荒んだ乱世では考えられぬ心の底からの笑顔での」

「……なにそれ? じゃあ、じいさんはそれだけで俺を天の御使い人だと……?」

「それだけとはなんじゃ。それだけとは。実際、おぬしは天から降ってきたし、ワシにはわかる。あの笑顔こそが乱世の終わりを象徴するものじゃと」

 

 少しだけムキになって答える老人に、一刀はもう我慢の限界だった。


「ぷっ――あははっ、あはははははははははっ なんだよそれっ!」

「な、何がおかしい! それほど皆よい笑顔をしておったんじゃ! おぬしに何がわかる!」

「ご、ごめんごめん。だって、くっ、違うんだ。俺はてっきり、ほら。大軍勢を相手に戦う? とかさ、敵の大将を討ち果たす? みたいなのを想像してたから……だっ、だから、はははははっ――」

「わ、笑うでない! じゃから最初に、おぬしが何を為すかなんぞ知らんと言ったではないか!」


 気恥ずかしさで、茹でタコのように真っ赤な管輅を他所に、一刀は笑う。

 腹を抱え、傷口が痛むと盛大に。ひと笑いする毎、肩の荷が溶け込んでいくという、なんとも不思議な感覚を覚えながら、涙をこぼして笑った。

 結局の話、天の御遣いが世界を救うという予言は明確なものではなかった。

 それはあくまで管輅が見て感じたことを、手前勝手に紡ぎ合わせただけの曖昧な未来。世界を救うなどとは甚だしい、小さな小さな希望なのかもしれない。

 しかし、一刀にとっては仰々しい予言なんかより、よっぽど実感しやすくて。おまえが世界を救うんだと言われるより、誰かを笑顔にできると言われた方が遥かに嬉しくて。


「ねえ、そこにじいさんはいた?」

「ワシがか? いや、多くの者がおったからのう。一瞬ではすべて把握しきれんかったわい」

「そっか。じゃあ、きっとじいさんも、それから椿も、そこにいたと思うよ。てか、いてくれないと困る」

「なっ、馬鹿者め! 何を生意気なことを……」


 覚悟の重圧は、いつの間にか、柔らかな温もりに変わり。地平線へ沈みゆく夕日と同様、心へ穏やかに馴染んでいく。

 見上げれば、輝きだした星たちに、見たい笑顔が重なっていく。

 椿に管輅。恋、霞、陳宮も。平原の人々に、南皮のおやっさんや劉備さんたち。思い浮かぶその数の多さに一刀自身が驚かされて、

 ――それくらいの恩返しはしないとな!

 ずっと揺らいでいた己の存在理由が、少しだけ実像を伴った気がした。

 芯に一本。そこから始めてみようと。ボロボロの体に活力が沸いてくる。

 ところが、やる気の視線を戻せば、何故か管輅の表情は思い詰めたように固いままで、白髪の頭が深々と下がり、


「それと、すまん。おぬしは以前、もとの世界にはどうすれば戻れるかと聞いたな? その答えじゃが……残念ながらワシには何もわからん」


 やめろよ、と一刀はすぐに抱き起こし、


「いいよ。謝らなくたって。俺だって、そうじゃないかなって覚悟はしてたさ」


 よしんば解決法があったとしても、人智を大きく超えた奇跡を簡単に再現できるのかと疑っていた。

 どっちにしたって、簡単ではないと。何より、異世界に飛ばされたのは管輅のせいではないのだから。


「でも、そっか。これで手掛かりも完全になし、か」

「……いや。手掛かりと呼べるかはどうかはわからんが、これだけは言える。おぬしがこの世界に降り立った意味は必ずあるはずじゃ。なれば、もし天界に戻れるとするなら、それはその使命を果たした時かもしれん」


 ならその意味、使命とは? と問われれば――、わかるわけがない。

 またもすまん、と低頭の管輅を遮る一刀は、意外にも憑き物が落ちたようにすっきりしていた。

 十分だった。

 たとえ使命とやらがわからなくとも、本人のやりたいことは、漠然とだが見つかったのだから。

 それに、どこかでホッともしている。

 世界に滞在を許されたような気がして。駆け足でゴールを切らなくてもいい。もう少し、皆と歩んでいける。そのくらいにはもう、一刀はこの世界に愛着を覚えていて、

 ――この絶景も見納めにはまだ早いよな!

 邪魔な建造物も。無粋な人工灯も。淀んだガスもない。まっさらな夜には、満天の星空がすっかり広がっていて。

 一刀はありがとうを告げると、宮城に戻ることにした。

 今日はぐっすり眠れそうだ。


***


 華琳は城壁にもたれ掛かれ、暗がりに潜んで夜空を仰ぐ。

 濮陽に新たな統治体制を敷くために、各所へ指示を飛ばし、ようやく、ひと段落ついたところで、息抜きがてらに外にでたら、思わぬ場面に出くわしてしまう。

 さっさとその場を後にすればよかったものの、軽い好奇心から漏れ聞こえてくる会話につい聞き耳を立ててしまい、結局、最後まで付き合うことに。おかげで、機会を完全に逸して、こうして、まるでコソ泥のように二人が立ち去るのを待っていたのだが、何故か老人の方が一人残り、いつまでたっても帰る気配がない。

 これはひょっとして、こちらの存在に気づいているのでは? と華琳が思った時だ。


「いつまでそうしておられるつもりか?」

「……あら、やっぱり気づいていたの」


 華琳は腕組みしたまま、月明りの元へ姿を現す。


「盗み聞きとは感心せん趣味じゃのう?」

「人聞きの悪い冗談はやめてちょうだい。今しがた、たまたま居合わせただけよ」

「ほっほ、物は言いようとはこのことじゃな」


 これに少しだけムッとする華琳は、


「しつこいわね。こっちはわざわざ話の邪魔にならないよう気を使ってあげただけでしょう? それより、報告でも一刀が天の御遣いだ、なんて笑い話が上がっていたけれど……まさか本物だとは、ねぇ?」


 "ねぇ"の部分をやたら強調、仕返しとばかりに含みを持たせてみたりして。

 管輅の目力が少しだけ鋭くなる。


「……どうするつもりじゃ?」

「ふふっ、あなたでも弟子の心配はするのね。でも安心なさい。何もしないわ。救世の予言なんて端から興味ないもの」


 組んだ腕を片方解いてヒラヒラ。他意はないとおどけてみせる。

 一息。

 貴殿らしい、と管輅も緊張を解き、


「それにしても弟子、か」

「あら、違うの? 一刀に剣術を指南したのはあなたでしょう?」

「その通りじゃ。相違はない。一刀は間違いなくワシの弟子じゃ。ただの、何分、これまで弟子なんぞ取ったことがなくてのう。改めて口にされると、何やら不思議な感じがするもんじゃと」


 そう、と華琳は珍しく優しい笑みをつくり、


「随分と手のかかる弟子のようね?」

「呆れるほどに。じゃが、これが中々どうして、光る一面もあってのう」

「結構なことじゃない。けど、あの甘さは頂けないわ」

「……何が今しがたじゃ。いつから聞いておったかと思えば、ほとんど最初からではないか」


 さて、なんのことかしら? と、とぼけてみせると、管輅も、然り、と笑い、


「一刀は甘い。まだまだ現実と理想を割り切れないでいる。指摘されるまでもなく、かねてよりの懸念じゃった」

「なら、どうして止めなかったの? ここのままだと、死ぬわよ? あなたの愛弟子は」

「……はっきりと言いおるのう」

「周りくどいのは嫌いなのよ」


 じゃろうな、と管輅は渋い顔をするが、またも、然り、と頷き、


「じゃが、貴殿とて武に生きる者。一刀の抱く志がどれだけ尊いかもわかるであろう?」

「尊いですって? あれでは尊いどころか妄想の類よ」

「たしかにのう。否定はせん。ワシもそう思って捨てた道じゃからな。ゆえにワシは一刀がひたすらに眩しく見えるんじゃ」

「…………」


 らしくない、と華琳は思った。陳留の謁見の時とは印象ががらりと変わっているのだ。

 あの時、管輅は強烈な異才を放っていた。

 どこに権力者へ向かって、凶事を延々垂れ流す馬鹿がいるのか。普通は誤魔化す。実際に、華琳もそういう場面を幾度となく目撃してきた。

 そのせいもあって、とかく易者や人相見といった、佞言(ねいげん)をさも真実であるかのように語り、そこに微塵の後ろめたさも持たぬ厚顔な輩を嫌ってきた。

 だが、管輅は違った。

 真偽は別として、卜占なんて不誠実なものに命を張った。出る卦だけを信じて、彼は誠実であった。それは到底、俗人に真似できることではない。だから華琳は称えたのだ。

 だというのに、これは何だ? 言っていることは世俗に塗れ、凡庸そのもの。これではまるで孫を溺愛でするただの好々爺のようではないか。

 そう思ったからこそ、華琳は言うべきことを言った。


「けれど、閃光とは月夜の闇と大差ないものよ」


 どちらも、視界はあらず。すなわち、善も程度を誤れば悪となる。過ぎたるはなお及ばざるが如しだと。


「重ねて然り。じゃから曹孟徳殿、一刀のこと、どうかお頼み申す。この通りじゃ」


 管輅は惜しみなく深々と頭を下げてみせる。

 その姿はやはり、不肖の弟子、いや孫を送り出すただの老人にしか見えなくて。

 なるほど。老賢も人の親ね、と、今は亡き祖父・曹騰の面影をそこに見ながら、華琳は託された後事を受諾する。


「……あなたに頼まれるまでもない。あれはすでに私の所有物よ。だから、安心なさい。あっさり死なないくらいには鍛えてあげるから」

「恩に着る」


 かくして、一刀本人はとんと知らぬ内。闇夜の会談はしめやかに終わりを迎えるのであった。


***


 誰もいないはずの外壁、南門上の一点。闇夜の上空を濃い黒に塗り潰すソレは、人知れず、不気味に笑う。

 ただ、その笑い声は人間の耳にはそうと認識できないほど不吉で、まったく別の何かにしか聞こえない。


「――素晴らしい。これは重畳」


 漂う言霊は亡者に捧ぐ祝詞(のりと)。あるいは、生者を(くび)呪詛(じゅそ)。聞く者すべてが泣きながら笑い、生きながらに死へと誘われる冥府の調べ。

 間違いなく狂っている。悉く外れている。それは、この世に()()()()()()()()()()だった。

  

「くくっ、ようやく開演の刻だ――踊れや踊れ、哀れな道化よ」


 不可視の鳴動が大気を揺さぶり、特異の黒は波及の中で常夜に融けた。 


『足掻けや足掻け、愛しき道化よ――!』


 怖気が走る凶兆の余韻が、白々しいまでの静寂にこだまする。

 岐路の先に待ち受ける災いは、確かに蠢き始めていた。

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