(花嫁のアナスタシア)
――午後四時十五分。
大陸南東部、ミヨイ湖畔。
「良い景色ですね。こうやって、アナタを胸に抱いて見る湖の風景は格別です」
王立学園、学園長のブルカ・マルカは、気を失っているアナスタシア・ニコラエヴァ第四王女を、お姫さま抱っこのまま抱えていた。文字通り、姫を胸に抱いているのだ。学園長は満足した表情を浮かべている。
学園内では決して見せない、柔和な表情。
アナスタシアは、学園の制服を着せられていた。
教皇庁から転移魔法で瞬時にこの場所に移動した学園長は、彼女のステイタスカードを体内から取り出して、制服を装備させたのだった。
制服を着せるまでの下着姿は、存分に目に焼き付けている学園長である。
もちろん、魔法アイテムにその時の映像を保存している。
「山腹に開いた大穴から、夕陽がのぞいていて絶景ですよ。四千年前に真円の美しい湖を作り出したアナタは、今度も、観光名所を誕生させましたね。ウフフ」
「クー、クークー」
軽い寝息を立てているアナスタシア。その広いおでこに掛かった金色の髪の毛を撫でてやる学園長であった。
湖面を涼やかな風が渡り、白波を立てる。涼風は、学園長の着る白ローブとアナスタシアのチェックのスカートとを揺らしていた。
「さて、行きますか。花嫁さん」
湖に突きだした桟橋上の彼は、自分の肩に掛けていた白いローブを足元に落とす。
その下に着込んでいたのは、ニコラエヴァ王家の男子が着る正式な軍装であった。
純白の服が、西日を受けて血の色のように赤く染まる。
王家の男子は学業を修めた十八歳になると、大陸国家ティマイオスの軍隊に入隊する決まり事がある。
だが、直系の男子が長らく誕生しなかったので、皇太子の軍服はずっとニコラエ宮殿の展示室に飾られたままだったのだ。
白の詰め襟の服。
胸には過去からの勲章が飾られ、両肩には金色の糸にて編まれた肩章があった。
そして合わせの部分には、金ボタンがズラリと並ぶ。学園ブレザーの安物の金メッキボタンとは違い、18金を使用している豪華さだ。
その裏面には、ティマイオスの貨幣造幣局の刻印が入っている。
学園長の足元で、緩やかな風が吹く。今のは自然風とは違い、彼が空力魔法にて巻き起こした気流だ。
空気の流れが瞬時に彼の体にまとわりついていき、球形になる。風力は徐徐に強くなる。
風に吹かれて舞い上がった学園長のローブは、そのままミヨイ湖に落ちて沈んでいくが、彼には関心無いようであった。
学園長の体が静かに湖面上に浮いていた。球形の結界を作った彼は、そのまま湖面を滑り、湖の中心地点で停止した。
「お姉ちゃん。行くよ」
アナスタシアに優しく微笑み掛ける学園長であった。
瞬時に球体は湖面に沈み込む。水の抵抗をモノともしない速度だ。
あっという間に、湖底の遺跡入口までに到達する。胸に抱く姫さまを凌駕する驚異の魔法力であった。
◆◇◆
――午後六時四十五分。
赤色人の都市アケメネス。ザラスシュトラ邸宅。
「ふぁーい。食った食った。満腹や、満足や」
ポン、ポ、ポーン!
普段の着慣れている黒頭巾団の衣装に替えていたミーシャは、木製の椅子の上でアグラを掻き、黒いタンクトップからのぞいている自分のお腹を叩いていた。完全なくつろぎモードだ。たらふく食べて満杯になり、膨張した胃袋のせいでポッコリと膨らんでいるのだった。
「えへへ、いい音。マリヤも叩いてイイ?」
ミーシャの隣に座っていた彼女は、下から見上げるようにお願いする。顔の前で両手を合わせている。
「エ、エエで……」
黒い頭巾の下から、冷や汗を流す大盗賊であった。
あのサディストのアナスタシア第四王女そっくりの風貌で、上目遣いにお願いされると、満更悪い気にはならないのだ。
お付きのサラ・ザラスシュトラが、ミーシャのことを強く睨んでいた。逆らえそうにもない。
言われた通りに、体をマリヤに預ける。
ポン、ポン、ポポ、ポン、ポーン♪
ポーン、ポ、ポ、ポ、ポ、ポ、ポ、ポ、ポ、ポン、ポポポン♪
「威勢の良い、腹鼓だな」
食事の後片付けを終えたクロエ・ブルゴーが、食卓に戻ってきて言った。
両手を使い、リズミカルにミーシャのお腹を叩くマリヤを見ての言葉だ。
「ややや、やめてもらえんかな」
ミーシャはウンザリしたような顔になる。臭い餌を前にして、文句を言いたげなドラ猫のような表情だ。
「えー、面白いのに!」
頬を膨らませ、口の先を尖らせる。
「オモロイのは、嬢ちゃんだけヤで」
そう言われて皆の顔を見るマリヤ。
「あ……」
目が合ったカイトは、マリヤの青い瞳の中に吸い込まれそうになる。
一緒に遊ぼうよ――そんな風に訴えてきている。
慌てて目線を逸らしてしまった。
「もう、飽きた!」
そう言って、座っていた席から離れたマリヤは、二階へと駆け上がって行った。
「で、殿下! き、キサマぁ! 殿下を愚弄するとは、不敬罪で死刑だぞ」
サラはカイトを睨みつけた後に、マリヤの後を追いかけて行った。
(え? ボクが悪いの?)
納得のいかないカイトではあったが、姉のアンナとケンカをしたときにも――抜けた顔が気に入らないだのウジウジした態度が気に入らないだの――難癖を付けられることには、慣れきっていた。
しかし、今の相手の正体は、七歳の幼女なのだ。本の些細な出来事で、へそを曲げてしまう。
「ハーア……」
溜息を吐いて、足取り重くサラの後ろを付いていく。カイトは少しも悪く無いのに、叱られることは決定しているからだ。
階段の手すりに手を乗せる。
バサッ、バサ!
鳥の羽ばたく音がした。それも、音からして巨大なる鳥だ。羽音が直ぐそばから聞こえた気がして、音の方向に体を向ける。
階段の踊り場には、明かり取り用の小さな窓がある。
開いたままの窓からは下弦の月が、赤く妖しく光っていた。
その月明かりに映し出される奇っ怪なシルエット。
「カラス?」
カイトは高い位置にある窓から、無理をして顔を出す。
目を懲らすと、正体は巨大な黒カラスであることが分かる。
階段の向かいにある部屋のバルコニー。その手すりに掴まっているのだ。
バサ!
ゆったりと羽を動かしている。
「わ!」
羽を広げた大きさは、ゆうに2メータルはある。カイトを横にしたよりも長いのだ。怪鳥を前にして、少しチビリそうになる。
「めめめめ、目が、四つある」
カイトは更に驚く。横に二つ、縦に二列の目が赤く輝き、カイトの顔を瞳に映し出していた。
これが噂に聞く『魔法カラス』なのだろうか――カイトは思う。
足が三本あれば確定だ。目線を怪鳥の足元に移した時だった。
『オマエハ、キエル』
(しゃ、しゃべった!)
カイトは、階段の踊り場で尻餅を突く。人間の声だった。故郷のガリラヤ村の九官鳥の喋る調子の外れた甲高い声ではない。落ち着いた低い男の声だった。
『オマエハ、キエサルノダ』
(消える? 消え去る? 誰が? ボクが?)
モンスターが喋っただけで驚愕であったが、カイトの将来について何か言っているのだ。
予言なのだろうか?
だが、意味が理解出来ない。
人間が消える――とは、どういう状態を示しているのか?
人が死んで、ステイタスカードのみ状態になるまで、しばらくの日数が必要となる。そして、カードは残されるので「消える」とは言えないのだ。
「オイ、何している! カイト君も作戦当事者だ。これから、アンナの……いや、アナスタシア殿下の奪回作戦の会議の予定だぞ」
階段の下からクロエが呼んでいた。
「え? 作戦会議? あの、クロエさん。窓の外に……」
視線をクロエから戻し窓を指差すが、怪鳥モンスターの姿は影も形もなく消え去っていた。
羽ばたく音さえも聞こえなかった。
「外がどうした? まさか、追っ手か?」
険しい顔のクロエが、両手でスカートを抱え、二段飛ばしで階段を昇って来た。そうして、踊り場の窓から外に顔を出す。
「イヤ、今は何も居ないんですけどね」
苦笑いするカイト。
(言っても、誰も信じてくれないからな)
カイトはあきらめの表情を浮かべ、ゆっくりと階段を昇っていく。
「ヤダったら、ヤダ! ヤダもん!」
何やらお怒りの様子のマリヤだった。
カイトがサラの部屋に戻ると、部屋主のベッドの上で正座しているマリヤが、頬を膨らませて駄々をこねていた。
「それを殿下、どうかお堪え下さい。クロエ姉さまからの提案ですが、私もその案に賛成するのです」
ベッド横の床板に頭を付けて、土下座するサラ・ザラスシュトラだった。
「どうしたんです?」
カイトは部屋に居る人々を一人ずつ見てから言った。
追っ手に怯える緊張感はすっかりと消えていた。先ほどの魔法カラスの一件も、頭の隅に追いやられていた。
「あーん。ま、クロエはんは正論やけどな、ウチには判断は出来ヒン」
窓際に立つミーシャは困った表情であった。カイトに向けて助けを求めるような、哀願するような目だった。
「カイト君、聞いて! みんな酷いのよ。マリヤに女王さまになれと言うの。サラちゃんも同じ事言うから、嫌いなの! 女王さまの仕事が大変なのは、お母さまを見ていれば分かるわ。そんなメンドくさい事は、アンにやらせればいいのよ!」
プイ――横を向くマリヤだった。
彼女から本音が漏れる。仮に、王宮の悲劇が無かったとしたら、第一王女のオリガ、第二王女のタチアナが王位継承権を返上して、マリヤにお鉢が回って来る。しかし、妹のアナスタシアに押しつけるつもりであったのだ。
「ですが、殿下。そのアナスタシア殿下は、敵の手に落ちました。そうなれば、王位継承権の上位にあらせられまするマリヤ殿下が、女王への名乗りを上げるのが、正しい道かと思われます」
ゆっくりと立ち上がった彼女は、マリヤに寄り添う。そうして、優しく説いて聞かせるサラであった。
「もう、アンったら、肝心な時に役立たずなんだから!」
幼小の頃から、一歳年下の自分の妹を良いように使ってきたマリヤだったのだ。
「ぼ、ボクもま、マリヤ殿下が、女王になられるとイイ……いや、よろしいかとぞ、存じ上げます」
かしこまった言葉を発するのは、敬語に慣れないカイトであった。辿々しく言葉を選ぶ。
「知らない!」
ポン!
マリヤが叫んだと同時に、何とも情けない音がした。
「ぴ、ピーちゃん!」
ゼリーモンスターのピーちゃんは、頭の横の羽を懸命に動かして、カイトの胸に飛び込んでくる。
素っ頓狂な声を発した彼は、慌てて受け取っていた。
「ピピ、ピィー!」
何やら抗議の声をあげているピーちゃん。この場に居る皆に対して、含むところがある様子だ。しきりに小さな羽を動かしている。
「嗚呼……そうだった」
クロエは両手で頭を抱えている。
「で、殿下……。その、情けない哀れなお姿は……」
サラは床に手を付き、ガックリとうな垂れていた。
ショックなのだろう。敬愛する王女殿下の正体は、最弱のゼリーモンスターであったのだ。
始めて目にして、取り乱していた。
「お嬢ちゃんが女王さまに就任したとしても、都合が悪くなったらモンスターに変化するんやな。こんなんが一般庶民に知れ渡ったら、王家は滅亡の道を一直線やで」
ミーシャは、少し離れた場所に立ち、この状況を冷静に分析していた。
「ピピ! ピピ!」
そうだ! そうだ!
肯定の意味で、カイトに抱かれたピーちゃんは、羽を動かしながらそう鳴いていた。
まるで他人事のようである。
◆◇◆