(逃亡のマリヤ)
◆◇◆
――午後四時五分。
大陸ティマイオス南西部、赤色人の国。ザラスシュトラ邸宅。
ヒュン!
「うんしょ」
「んニャ!」
「殿下、大丈夫ですか?」
「えっと、あら……」
「うわ!」
砂漠に周囲を覆われた赤色人の国。その中心都市が『アケメネス』だ。街の上空では赤い砂塵が舞い、西側の山塊を赤紫色に霞ませている。
聖戦士の高レベル者のサラ・ザラスシュトラは転移魔法の能力を使い、王都ティマイオスの王立学園高等部女子寮から、自分の実家にまで一瞬にして移動したのであった。
赤色人の指導者の住む屋敷だが、塀などの外囲いは無く、警備する兵士の姿も無く、周囲に向けて実にオープンな造りの建物であった。
家屋自体も、仰々しいまでの派手さはない、見た目も質素な造りの二階建ての家だった。
白い壁と、赤い屋根のコントラストの差が鮮やかな、実に芸術的センス溢れる建物であった。
「追っ手は、居ないようだ」
サラの従姉である――同じく聖戦士のクロエ・ブルゴーは、転移完了後、窓際まで直ぐさま移動し、外の様子を伺っていた。小柄な可愛らしい外見には似合わず、射るような鋭い視線を何カ所かに向けていた。
「へー、エヘヘ、エエ部屋やんかー。乙女チックで、メルヘンやんかー」
しっくいで塗り固められた四方の白い壁。その中に固い黒檀を丁寧に細工した家具が並び、調和の取れている部屋だ。その家具の上方に、花柄の模様が絵の具で鮮やかに描かれている。緑の少ないこの都市住人の精一杯の努力なのだ。
大盗賊で大占い師のミーシャ・フリードルは、興味深そうにして室内の衣装タンスを開ける。引き出しの一番下の段には、小さく綺麗に丸められて並べられている……パンツの列。
「ひゃ! や、やめて下さいよ!」
部屋の主であるサラはミーシャの元に駆け寄って、彼女が手にしていた可愛らしい下着を奪い取る。
「結構、エッチな下着やったな」
ヘヘヘ――ミーシャは歯を見せて笑っていた。両手に持って広げて見せたのは、絹のスケスケの赤色下着だった。
「母が、無理矢理に持たせたんです! 嫁入りするときに持って行けと、何分気の早い母親なんです!」
サラは必死に、自分の趣味ではないと主張する。赤褐色の彼女の全身が、真っ赤に変化していた。
黒眼帯をした彼女の顔は、より赤色が濃くなっていた。
「ねー。髪の毛がボタンに絡んじゃったみたいー。取れないよー」
この部屋のベッドに倒れ込んでいたマリヤ・ニコラエヴァ第三王女は、顔を上げて一同を見る。困っている自分を助けてくれそうな、お人好しの人物を選別していた。
「あー、動くと余計にこんがらがっちゃいますよ」
マリヤと一緒にベッドに横たわっているのは、我らが勇者カイト・アーベルであった。
彼の制服の胸ボタンに、マリヤの綺麗な長い金髪が絡みついているのだ。
「もう、痛い痛い。誰か、ハサミ持って無いの? ちょん切っちゃえ!」
絡まったパズルを解くのが面倒になったのか、マリヤは強引な手段に出ようとする。
流石は、アナスタシアの姉である。短気な面が、時々に垣間見られる。
「ででで、殿下。ご立派な御髪が勿体ないです。この場合、切るのは――エイ――コチラの方です」
シャキン!
銀色の大きな刃がきらめく。
「ひ、酷いや!」
ちょん切られたのは、カイトの着る王立学園制服のブレザーボタンを留める糸の方であった。
二つしかないボタンの上をもぎ取られてしまったので、彼の着る服はだらしなく開いてしまう。
サラは裁縫用の大きなハサミを使い、断ち切ったのだ。それをテーブル上に戻す。
黒いテーブルの上には、裁縫道具が並んでいる。これは、サラの趣味なのだ。手先の器用な彼女は、自分で服を仕立てることもする。彼女の作った服の数着が、衣装ダンスの中に収納されているのだ。
テーブルの上には、切り取られた後の幾種類もの布が、綺麗に並べられている。
花柄模様の少女趣味だ。
「殿下、絡んでいた髪の毛がとれました」
サラは、邪魔になっていた金ボタンを窓から投げ捨てようとする。
「ちょっと! 捨てないで下さいよ。ボタンは、アンドレおじさんに付けて貰うんです!」
カイトは立ち上がって、サラの右手首を掴もうと、手を伸ばした――。
バタム!
「あれ? あれれ? あれれれれー」
カイトは床に寝そべって、サラの部屋の天井を見ていた。しっくい塗りの白い天井。その中心点にある大きなファンが、ゆっくりと回っているのが視界の中に入る。
暑い気候のこの地帯の代表的な冷房装置なのだ。
「そうら、ボタンだ」
その視界にサラの顔が入る。
ヒョイ――カイトの胸元に投げられる金ボタン。彼は、右手でしっかりと受け止める。
「カイト君、大丈夫か? サラが……その、すまんな」
クロエがやって来て、カイトが立ち上がるのを手伝ってくれた。彼女は小さな体だが、右手の腕力だけで男の子を引き上げる。
彼は、サラに背負い投げ一閃! 床に大の字にされていたのだった。
サラは、格闘技の腕前も上々であった。黄色人の国の格闘術が、護身用の技にとティマイオスの軍隊で正式採用されているのだ。王立学園の体育の授業プログラムにもある。
「ね……ボタン、頂戴」
「へ? ボタン? え?」
「カイト君の服のボタンが、欲しいの……。ね、頂戴!」
ベッドに正座しているマリヤが熱い視線をカイトに向けてきた。うるうると潤んだ目で見つめている。サファイヤのような青い瞳がきらめいていた。
今日の分のおやつを要求する幼児のように、右手を突き出して来た。
「ただのボタンですよ」
「いいの」
カイトには、マリヤの気持ちが理解出来ない。ただただ、マリヤの髪の毛と絡んでしまった不届きモノの第一ボタンだ。
成敗されこそすれ、大切にされる理由などは一切無いのだ。
まあ、ボタンの予備は、仕立屋に数個貰っていてガリラヤ村の実家にもあるし、学園の購買部でも一個8ゴールドで売っている。
「いいですよ。ボタン、どうして欲しいんですか?」
マリヤの右手の平に、優しく乗せてやる。
「ヤッター!!」
ベッドから飛び降りてピョンピョンと飛び跳ねるマリヤ。おさげの金髪と、大きな胸とがその度に揺れていた。
カイトは、そんなシーンが見られて大満足であった。一日一回は揺れる乳房を眺めていたいと願う――お年頃の少年であった。
「大切にするね。カイト君の持ち物が、欲しかったの」
(え!)
カイトは、頭がクラリとなる。姉のアンナそっくりのマリヤに言われて、天にも昇りそうな気分になる。
頭に向けて、全身の血液が上昇して来た。顔が見る見る真っ赤になる。
「そりゃ、死亡フラグやな」
部屋のアチコチを漁っていたミーシャは、見つけ出した大きな団扇で自分の顔をパタパタと扇いで、冷静に言った。団扇には、カイトの見たことが無い鮮やかな青色の鳥が描かれていた。
そうして、歯を見せて笑うミーシャだった。
「縁起でもないことを口にするな。それよりもサラ、皆に夕食をごちそうしたい。伯父さんと伯母さんにも連絡を頼む。それに、久しブリの帰省の挨拶をしないとな」
クロエは、後ろからミーシャの団扇を奪い取ると、カイトに手渡していた。カイトは自分の頭を扇ぐのに夢中になる。グッショリと汗を掻いていたからだ。
クロエの顔を見上げるカイト。
「おじさん? おばさん?」
「ああ、サラは、オレ……いや、私の父の兄夫婦の一人娘だからな」
クロエが部屋のドアノブに手を掛けた。この地方の特色である、鮮やかな朱色に塗られた木製のドアであった。白色の壁との色彩差が眩しい。
赤い塗料には、虫除けの成分が含まれているのだ。過去にあった、蚊や蠅を媒介とした伝染病。その予防策として、昆虫が忌避する薬物を含有している自然由来の紅顔料。
それを、街中の至る所に塗りたくっているのだ。
こうした地方毎の特色を生かすよう推奨したのが、四千年前の伝説の女王『アナスタシア』であった。
ガチャ!
その朱塗りのドアが外から開かれて、クロエは驚いていた。
「クロちゃん! 帰ってきたんだ!」
「母さん!」
(母さん?)
カイトは首を捻って、二人の女性の抱擁を見る。
見た目はそっくりな二人である。肌の色、背格好も、赤い髪の長さも、胸の大きさも……。
まあ、母親の方は多少顔に深い皺が刻まれてはいるが、十七歳の娘がいるとは思えない若々しさを湛えていた。
カイトには肉親同士の親愛の挨拶が、何だか気恥ずかしく思えた。それとなく、窓から見える外の景色の方に視線を移す。
カイトの住む、大陸東南の黄色人の国は湿潤温暖な気候であった。しかし、この西南地域には大きな砂漠が広がり乾燥している。都の『アケメネス』は、砂の中にそびえる大都会なのであった。
二階の部屋の外を、麻縄で縛られた荷物が、ゆっくりと移動している。ラクダの背に乗せられているのだ。
この国の主たる移動手段に使われる動物には、二つの大きなコブが背中にある。
そうして、窓際に立つサラに視線を向かわせる。砂漠地帯に住む生物は、漏れなく体の突起部分に脂肪を溜め込むのだろうか――幼い顔には似使わない、大きなオッパイをガン見する。
「何か?」
「いえ……」
サラにきつく睨まれたので、再び母娘の対面に視線を戻す。
「事情は詳しくは説明出来ないけど、叔父さん叔母さんたちには、迷惑を掛けないようにするよ。母さん」
「子供からのお願いに、応えない親など居ないよ」
「ゴメン。ありがとう」
「いいのよ、クロちゃん」
しきりに頭を下げるクロエの横に立ち、ポンポンと娘の頭を叩いてやる母親のロザリー・ブルゴーであった。
(何かいいな)
カイトは笑顔となる。親子のこうした情愛の風景には、顔がニヨニヨと変化してしまうのだ。鼻の下が伸びきってしまう。
彼の方が照れくさくなって、再び視線を逃がす。どうにも苦手なのだ。
「何や、お母ちゃんが恋しいのかぇ?」
ミーシャが寄ってきてカイトの隣に立つ。
「そ、そんなことは、ありません!」
母を知らずに育った彼には、姉のアンナが母親替わりでもあるのだ。そのアンナは、今はこの場には居ない。
横を向いて、ホッペを膨らますと――。
「マリヤが、仲良くしてあげるよ。寂しくなんか、ないよ」
その方向には、王女殿下の端整なる顔があった。いつになく真面目な顔付きだ。
視線を下に向けると――。
制服のシャツからはみ出した上乳が、彼の顔面に近づいて――押しつけられる。
「オイ! 何をしている!」
サラに、あっという間に引き剥がされる。
短い間の至福の感触であった。おっぱいとの逢瀬を邪魔される。
今度は、柔道の投げ技は無かったので、良しとするカイトではある。
(ああ、柔らかかった)
思わず顔の表情筋の全てが緩んでしまう。
「ではでは、皆さん。お食事をどうぞ。長旅……と、いうわけでは無かったでしょうが、しばらくは心と体を癒して下さい」
薄い赤いローブを羽織っているクロエの母親は、エキゾチックな雰囲気を醸し出していた。
シースルー・ローブの下にはお腹の覗いた、派手な褐色のドレスを着ている。小柄ではあるが、均整の取れた見事なプロポーションであった。
「そやな。メシにするか!」
元気よくミーシャが言って、部屋を出て行く。
「待ってぇー! あ、君、一緒に行こうね」
マリヤは先頭を歩くミーシャを追いかけながら、カイトの手を握ってきた。
「あへ?」
「で、殿下。一般庶民との過度なスキンシップは、相手方にいらぬ誤解を与えてしまいます。お控いなされるように」
サラは、カイトの手を払い。そうして、マリヤの右手を抱えて部屋を出て行った。
「そうか、ボクは平民だった」
今更のことのように、身分の差を思い知らされる。
王族・貴族・平民。
貴族の中にも様様な階級があり、平民の中でも職業による純然たる差がある。
だから、純粋なレベルで表される魔法力は、個人を計る一つの相対的な価値基準となっている。
王族で、絶大な魔法力を有しているアナスタシア・ニコラエヴァ第四王女などは、絶対的価値でも突き抜けた存在だ。
そんな彼女に恋しているカイト。
――でも。
(ボクはレベル『00』だし、みんなの足元にも及ばない。月とすっぽんどころか、太陽に無謀に挑もうとする水たまりの中のミジンコだ)
立ち止まり、皆の背中を見る。
勇者という大陸唯一の職業だが、これといった目立った活躍などしていない。
むしろ、足手まといとなって、皆の足を引っ張り続けている。
「姉ちゃん……」
囚われの姿のアンナを思い出す。彼女の痛めつけられた、弱った姿を始めて目にしていた。
「アンを救いたいの?」
カイトを心配そうにして、後ろを振り返るマリヤだった。
「救いたい! 救いたいさ!」
階下へと向かう階段。
粗末な日干しレンガを積み上げた壁材。そこに、しっくいをタップリと塗りたくって、白い壁が出来上がっている。
その場で立ち止まり、握り拳を作って大きな声で叫ぶカイトだった。
「思いは皆一緒だ。だが、我我が取るべき方法は限られている。戦力の殆どを占めていたアナスタシア殿下と、裏切り者のマリーの脱落で、コチラには打つ手が残されていないのだよ、カイト君。今は逃げ出して戦力を整え、好機を待つのみだ」
階段を降りた先で、クロエが立ち止まり待っていた。
赤い瞳は、炎のようにメラメラと燃えているが、口調はいたって穏やかであった。
「でも!」
カイトは抗議の意思をみせる。
ボコン!
思わず壁を殴ってしまっていた。
どうしようもない、やりきれない思い。ムシャクシャとした気持ち。
「しゃーないやんか。おお、壁に大穴が開いてるで、弁償モンや」
極めて冷静にミーシャが言う。
白壁に開けられた穴に指を突っ込んで、深さを測っている。
「弁償は、結構です。母は夫婦ゲンカで物を投げつけますからね。そこかしこが、穴だらけです。調度品で上手く隠しているだけです。ここは、ボロ布でも詰めておきましょう」
サラはそう言って、カイトから制服を脱がし、ソイツでいそいそと壁の大穴の補修にかかっていた。彼は慌てて奪い返す。
「中等部の姉ちゃんは容赦ないな。怖い、怖い、ケケケ」
ミーシャは舌を出して笑い、頭の後ろで両手を組む。
クンクンと鼻を鳴らし、料理の良い匂いが漂って来る部屋へと踏み入って行った。
◆◇◆




