踏み出す一歩 2
部屋のドアを開けて凍りついてしまった。
まだ帰ってなかったんじゃ? ご飯も外で食べてくるとかって言ってたじゃん。
机の前にはいつの間に戻ってきたのか、見なれた人影が立っている。お姉はこちらを振り向くと、白い紙を掲げて面白い物を見つけたといわんばかりにニッと笑ってみせた。
「返して!」
私は急いでお姉に近寄っていった。特に抵抗されずに名刺を奪い返すと、鋭い目つきを作ってお姉を睨みつける。
「なんで勝手に入ってんの」
突き刺す声と視線ものれんに腕押し状態で、お姉は机に後ろ手を突いて、足を交差させた。
「黄色のマーカー借りようと思ったんだけど――やるじゃん愛莉、社会人捕まえるなんて」
つ、捕まえるって……! ペン立てに刺さっている12色のマーカーが恨めしい。
「そんなんじゃなくて!」
咄嗟に反駁すると、お姉がチラリと私の手にある名刺へ目をやる。
「ああ、まだ片思い?」
「違う、この人じゃなくて……!」
マズったと瞬時に悟った。慌てて口を押さえたけれど遅かった。
お姉が瞬間キラリと目を光らせ、それぞれの手で肘と頬を包んでしみじみと零す。
「勉強ばっかで友達も作らず枯れた人生送るんじゃないかと心配してたんだけど……愛莉もやっぱり女の子だったんだねー」
そして絶対食いついて離さないという、決意に満ちた笑顔を浮かべた。
「お姉ちゃんに話してごらん? こういう時は人生の先輩のアドバイスを受けるもんよ」
何が心配だ。オモチャにしたいだけのくせに!
すぐさま「いらない」と反発して追い出すつもりだったのに、どうしてこうなってるんだろう?
気がつけばお姉は机の椅子に横向きに座って足を組み、私はそのすぐ後ろにあるベッドで膝を抱え、即席の人生相談コーナーを展開していた。
「ふうん。愛莉は三浦さんとやらが好きで、名刺の持ち主高橋さんとやらが応援してくれると」
お姉が椅子の背もたれに頬杖を突く。
「その高橋さんって、愛莉を騙くらかしてどっか連れ込んじゃおうって肚じゃない?」
「……お姉、どんな経験したらそんな発想出てくるの?」
「大人ってのはズルかったりするからねー。まあでもそのつもりなら、社名まで載せてる名刺なんてくれないか。電話すれば一発で分かるんだし」
「うん。それに高橋さんてモテそうだし結婚もしてるから、わざわざ私をどうこうしようなんて考えないと思う」
卑怯で陰湿なイメージも受けなかったしね。
「あんた女子高生ってブランド力なめてるね? ――だったら迷う必要ないじゃん。なんでその場でアドレス交換しなかったの?」
「そんなの、できるわけないよ」
お姉には、私の逡巡が理解できないみたいだ。不思議そうな視線を向けて、続く私の言葉を待っている。
どうして分かってくれないんだろう? 誰もが、お姉みたいに自信を持って行動できるわけじゃない。こうと狙いを決めたら周りにどう思われるかも気にせず、すぐ行動に移せるお姉のようになれるわけじゃない。
もうずっと前からお姉と話していると、イライラさせられる。そんな自分に気付いて、さらに苛立ちが募る。自分が愚鈍で嫌な子だと突きつけられている気分になる。
机の前の窓はカーテンが引かれていた。もう外は暗くなってるはずだ。晩ご飯前、私はそのままにして部屋を出た。気付いたお姉が引いてくれたのかもしれない。そういう、何気に気がつくところにも神経を逆なでされた。
私はぷいとお姉から顔を背け、ベッド横にある出窓の方を向いた。こっちのカーテンも引かれてあるし。
「私は、お姉じゃない」
「当たり前じゃん、あんたは愛莉でしょ」
「そういう意味じゃなくって」
「じゃあどういう意味」
「あーもう!」
我慢できなくなって振り向きざまに叫んだ。
「お姉には私の気持ちが分からないって言ってんの!」
やっぱりお姉になんか教えなきゃよかった。お姉が怪訝そうに「はあ?」と返す。
「お姉はいいよね、美人で明るくて、友達もいっぱいいて。私がガリ勉して入った今の高校だって余裕だったし、大学だってランクの高い所に合格して。私みたいにどうにかしたくてもどうしていいか分からないって悩んだことある? 自分を変えたくても今さらお前がなにやってんだって思われたくなくて、怖じける気持ちなんて感じたことないんでしょ」
私は今まで言いたくても言えなかったことを怒鳴り続けた。言葉は凶器になる。相手を傷つけ、自分にも深いダメージが残る、中々抜けない諸刃の剣だ。
お姉は表情を消して、黙って聞いている。
いつの間にか私はヒクヒクと涙を零していた。
「ずるいよ。お姉はずるい。私だってお姉みたいになりたかった」
膝の間に顔を埋め、確実に注がれてると断言できる呆れの視線をちょっとでも遮ろうと、頭を両手で覆った。恥も外聞もあったもんじゃない。こんなぼろぼろの姉妹喧嘩、この歳になってもするとは思わなかった。……姉妹喧嘩ですらないか。私が一方的にがなり立ててるだけだ。
しばらく、私の嗚咽だけが部屋に響いていた。そろそろいたたまれなくなって、顔を上げたいけどお姉がまだいるからそれもできなくて。
早く出てってくんないかな?
そう思い始めたころ、頭上から声が降ってきた。
「あんたの言いたいことは分かった」
怒ってるでも馬鹿にするでもない、何かすっきりしたような声だった。
「明日私に付き合いな。どうせ日曜日に出かける用事もないんでしょ」
腫れた目なんとかしときなね。頭に置いた私の手にそっと触れ、同じくらい優しい言葉をかける。
お姉が私の横を通っていったのが、空気の流れで分かる。ドアが閉まる音を聞いてから、私はのっそり顔を上げた。
「暇だよどうせ……」
小声で憎まれ口を叩きながらも、腹は立ってなかった。どちらかというと後悔で一杯だった。心のままお姉に感情をぶつけてしまった。
お姉ちゃんと呼んでいた昔、私はお姉のことが大好きだった。いつからこうなっちゃったんだろ。
立ち去る前にお姉が言っていた内容を思い出し、鏡を覗いてげっと仰け反った。
翌朝は、やけに元気なお姉に叩き起こされた。
目覚ましを見るとまだ八時にもなっていなくて、寝起きの頭を抱えてしばらくぼーっとしていた。昨日は新しく買った参考書の問題をムキになって解いてたから、寝たのが遅かったんだ。
お姉は私のクローゼットを引っ繰り返して「うわっ、おんなじようなのばっか」だの「ショートパンツすらない」だのと騒いでいる。
妹のワードローブにいちいち文句つけないでよ。朝から元気だよね。お姉はきっと低血圧とは無縁だ。
しょうがないから私のを貸すかと呟いてるのが聞こえて、いらないから! と全力で否定した。おかげでばっちり目が覚めた。お姉の着る服が、私に似合うはずがない。
時間がないから早くしろと急かされ、朝ごはんを一生懸命かきこむ。なんの時間? と訊いたら知り合いと約束してるんだと返された。だったら私を連れていかずに一人で会えばいいのに。
不満たらたらで食べ終えた。
お姉に連れていかれた建物を見て、私は自然と首を振っていた。
「や、お姉、知り合いと約束って言ってたのに」
「知り合いだよ。担当さんとは一緒にお茶する仲だし。あんたがぐずぐずするから予約の時間になっちゃったじゃん。急だってのに無理して空けてもらったんだからね。早く行くよ」
「やだやだやだってば!」
お姉がむんずと私の手首を掴み、引っ張っていこうとする。私は足を踏ん張って力の限り抵抗した。
目の前にあるのは、お姉行きつけの美容院だった。私がいつも切ってもらってる、スーパーに入ってる床屋さんと見紛うようなオバチャン美容院とはわけが違う。中心街の目立つ場所にある、おしゃれな格好の人以外はお呼びでないオーラを放つ、サロンと表現するのが相応しい店構えだった。
いつもの美容院だって予約取るのも店へ入るのも、二日間は英気を養ってからなのに。
「いやだってば!」
本気で泣きそうになりながら声を張り上げると、手を解かないままお姉が私をふり返った。
「あんた、なんか思いっきり奇抜な髪型にされるとか思ってない?」
「え?」
「カラー入れるとか、パーマあてられるとか?」
「あ」
「別に愛莉が心配するようなことになりゃしないって。校則違反させるような真似はしないよ。お姉様にまっかせなさーい。あ、別にその髪短くなってもいいよね? ほら行こ」
あまりにもお姉がなんでもないことのように言うので、気勢をそがれた私は手を引かれるがままおとなしくついていった。
中に入って「いらっしゃい」と出迎えてくれたのは、たった一人の男の人だった。って男の人! 足が瞬時に竦んだ。
この人に頭つつかれるの? 男の美容師さんに担当してもらったことなんてないよ。
余計な飾りを置かず、シンプルなのに冷たさを感じさせない店内のレイアウトにはぁ、と感心したりと私の脳内は忙しない。
男性美容師さんは「さすがは悠莉(お姉の名前)さんのご姉妹、美形だね」とフレンドリーに接してくれた。営業トークが完璧だ。なんで美容院の人って、見るからに手が込んでます、と主張するような髪型をしてるわけでも気負った服装してるわけでもないのに、きまって見えるんだろ。
二人が交わすやりとりを聞いてると、どうやらまだ開店前で、私のために特別にお店を開けて待っててくれたみたいだった。別に私が望んだわけでないものの、それとは関係なく申し訳ないやら恐縮するやら何やらで。
「愛莉もちゃんとお礼言いなよ」
とお姉に促されるまでもなく、深々と頭を下げておいた。
二人の間でもう打ち合わせは済んでたみたいだ。お姉はじゃあよろしくと男性美容師さんにあっさり言い置いて、待合で雑誌をめくり始めた。その姿を名残惜しく見つめるものの私もその頃にはもう諦めがついていて、導かれる通りシャンプー台に向かったり鏡の前に移動したりした。
男性美容師さんはお話上手で、色々な話題を振っては緊張を解していってくれる。とはいえ口調は軽快でも、頭の形を手で触って確かめたりちょっと離れて私の全体像を捉えたりと、視線は真剣でお遊びめいた所がない。
このお店にいやいや入ったことも忘れて、どんな髪型になるのかわくわくした。
「うわ、スッキリしたねー愛莉」
迷いのないハサミ捌きが止むと、鏡の中にお姉が現れた。その目は、同じ鏡に映ってるショートヘアになった私に注がれている。
確かに、スッキリと短くなった。ほぼ伸ばしっぱなしで肩を過ぎていた髪は耳下辺りまでの長さになり、さらに梳かれてある。おかげで真っ黒な髪色のままでも重さは感じない。
野暮ったさはないから技術は確かなんだろうけど……でもそれだけ。
すごく感じがよくなった! という満足感はなくて、髪切ったんだなーと思うだけだった。
「あの、どうもありがとうございました」
いささかがっかりしながらも表に出さないよう気をつけながらお礼を言うと、「まだ終わってないから」と何故かお姉に突っ込まれた。
「もうちょっとだけ手を加えようか」
少し笑いながら、男性美容師さんが容器からクリームを掬う。ワックスね、と鏡越しに優しく教えてもらった。
器用な手が、私の髪をするする滑る。揉み込んだり、くしゃっと潰したり。
終わったあと、これは魔法なのだと思った。
なんというか、ぺったりからふんわり。街を歩いてる、趣味のいい女の子みたい。
「すごい」
自分に見惚れるように呟いてしまった。
「ちょっと変わっただけなのに、全然違う」
「面白いでしょ。毛先に動きつけるだけでまったく印象変わるよね。うん、自信作。めっちゃ可愛くなった」
男性美容師さんが満足そうに頷く。「さっすが」とお姉もあごに手を当てていた。
「お得意様になってもらうための先行投資。これ毎日使ってね。またのお越しをお待ちしております」
本日はありがとうございました、と店先に立って見送ってくれる男性美容師さんに笑顔でお礼を言って、私とお姉は歩きだした。
それが可能なら店に入る前、いやだいやだと躊躇していた私に教えてあげたい。――心配いらないよ。お店の中ではとっても素敵なことが待ってるよ。
その後は服屋さん巡りをした。
手に取る服は「おんなじようなのばっか選ぶな」とことごとく却下され、お姉に差し出された服と一緒に私は何度も試着室の住人になった。
お姉が選ぶ服はまず私が買わない、でもディスプレイされていたら気になって目に留まる感じの冒険しすぎない服で、着てみようかなと思わせるものが多かった。冗談で出される背中の開いたシャツやミニワンピなんかは試着もせずに突っ返した。
お姉はずっと楽しそうにしていて、私の方も勝手に顔がにやけてしまっていた。けれど内心を悟られるのが悔しくて、気がつくたびに口元を引き締めていた。
私が気に入ったものを、お姉はほとんど全部買う勢いでレジへと持っていく。
「ちょっと、お金大丈夫?」
「へーきへーき。スポンサーついてるから。――私のは一枚しか買ってくれないらしいけど」
最後の部分を不満そうに述べていたお姉によると、美容院代も服代も、全部パパがもってくれるらしかった。
「愛莉は勉強ばっかして、今までこういうのに見向きもしなかったから。あの人化粧品会社に勤めてるしね。女性はすべからく綺麗であるのだ! とかわけ分かんない信念持ってるから、娘が身を構うのが嬉しくてしょーがないのよ。パパが帰ってきたら感激の言葉でも吐いて抱きついときなさい。その内頼まなくても化粧品くれるようになるから」
「お姉……、もしかしてしょっちゅうそんなことしてる?」
「まあ、コスメ代は助かってるねー」
おねだり上手なお姉を師と仰ぐべきか、娘にいいように操られてるパパに哀れみを抱くべきか。
うーむと考え込みながらも、今度は靴やバッグなんかの小物類に目を向けるお姉に私は引っ張られていった。
お姉がショップ袋をがさがさいわせ、これ着てみ、と買ってきた服を差し出す。
「あんたはさぁ、今までが今までなもんだからおしゃれなんて凄いテクニック使って、手をかけまくってしなきゃならないと思ってるのかもしれないけど」
今着てるのは重ね着風のワンピース。上部分がTシャツみたいになっていて、下部分は布地が違うパッチワーク風のスカートになっている。黄色とかピンクとか今まで取り入れたことがない色が入ってるけれど、差し色だから抵抗は少ない。そのままだと丈がなんとも心もとないので、下にペチコートワンピを重ねた。うん、この組み合わせ気に入った。
私が姿見を確認している間にも、お姉は袋を空けて色とりどりの服を取りだしていく。
「そういうのは上級者に任せて、初心者は初心者なりのおしゃれを楽しんだらいいの。髪だってワックスつけるぐらいであんだけ見違えるんだから、簡単でしょ?」
「でもお姉、お化粧とか覚えなくていいのかな」
次は白いシフォンのブラウスに、ミント色のカーディガン。カーディガンの色はお姉が前に着ていたスカートの色に似ていて、一目で気に入ってしまった。緩めのパンツに合わせると、ちょっと大人っぽく見える。
「化粧は少しずつ教えてあげるけど――三浦さんの前ではなるべく止めといた方がいいんじゃない?」
「な、なんで」
いきなり三浦さんの名前が出てきて激しく動揺してしまったものの、なんとか訊き返した。面白半分だと決めつけて反発するより、素直にアドバイスを受けてお姉には自分の気持ちを正直に見せた方がいいと思えるようになっていた。
レースの飾りが入ったカーキのショートパンツを掲げ、ばっかだねーとお姉が不敵に笑う。
「三浦さんの周りにいるのは、身体も育ちきって化粧の方法も研究を重ねたOLなんじゃん? 愛莉が付け焼き刃で肌やら目やらに盛ったって、背伸びと思われるのがオチよ。あんたの武器は若さのみ。スッピンに耐えられる肌。そこを売り込んで、元気さと素直さでオジサンを圧倒してやんなさい」
「三浦さんはオジサンじゃ――」
「充分オジサンだっつーの。年の差いくとあると思ってる」
「う……」
かけ離れた年齢差を指摘されると、何も言えない。
かごバッグとパンプスを持ち上げて、私はふうと溜息を吐いた。素直さを持ちだして、三浦さんに打ち明ける。
「私に、できるのかな」
頼りなく呟くと、お姉が姿見の前に移動してちょいちょいと手招きする。私は従順に近寄っていった。
鏡に映る私の眉にお姉はゆっくり触れた。
「あんたの眉はパパゆずり。綺麗にカーブしていて、ほとんど抜く必要もない」
今度は目を指す。
「あんたの目はママゆずり。大きくて二重で、まつげもマッチ棒が乗るぐらいボリュームがあって長い」
指が、顔のパーツを次々移動する。
「鼻の形もいいし、唇にも透明感がある」
そして何故かお姉は心底分からないと言いたげに、自分の頬に指を当てた。
「さすがは私の妹! ってぐらいパーツパーツは申し分なくて配置も整ってるのに、なーんで出来上がりの印象はこんなに地味かね?」
「褒めてんの? けなしたいの?」
私は奥歯を噛みしめ、腰の横で拳をわななかせた。ほだされかけた心は一瞬で憎しみに切り替わった。何が言いたいんだ、お姉は!
憤慨している私にかまわず、お姉がからからと笑う。
「いやまあだからさ、あんたは私の妹だけあって充分見れる顔立ちしてるんだから、変な劣等感持つなって言いたいわけよ。もし失恋したっていいじゃん。何もやらないよりは、ずっと後悔も少ないってもんよ。振られても諦めなきゃいいのよ」
私が失恋すること前提で話してない? 微妙に言い返したい気分になったものの、後半お姉の口調がやけにしんみりしていて尋ねたくなった。
「お姉も失恋したことあるの?」
「そりゃあるに決まってるでしょーが」
お姉は何当たり前のことをと言わんばかりに目を見開いた。
「私みたいなスタイルのいい美人が好みじゃないって男も、世の中にはいっぱいいるの。――言っとくけど私だって片思い中なんだからね」
「ウソ! 誰!」
今度は私が目を見開く番だった。失恋、片思いとお姉に似合わない言葉のオンパレードだ。
珍しくお姉は動揺しているのか、視線が落ち着きなく彷徨っている。私に教えようかどうしようか迷ってるみたいだ。
その時私の頭脳が、今後これ以上の閃きを見せることはあるのかと危惧したくなるほど冴え渡った。お姉の視線は、主に私の髪辺りをなぞっている。
「え、もしかしてさっきの美容師さんとか」
お姉の肩が瞬間びくりと揺れた。え、図星?
あれ、しかもさっきの励ましで言ってたことって。
「すでに振られてるんだったり……とか?」
「お黙り!」
うわー、そうだったんだー。お姉の顔は苦虫を潰したようになりながらも、今まで見たことないほど赤く染まっている。なんか感動。
へぇーへぇー、と心の中で繰り返していたせいか、ぽろっと言ってしまった。
「なんかお姉、かわいいかも」
「あんたにかわいいって思われたら世も末だわ……」
聞き捨てならない台詞を心底嫌そうに吐きつつ、お姉は立ち直った様子で胸を張り、腰に手を当てる。途端に恋する少女めいた雰囲気は霧散して、お姉らしい自信に満ち溢れた態度が戻ってきた。
「あんたと違って私の方は脈あんの」
「痛い!」
デコピンされた。おでこを押さえ、恨めしくお姉を見る。
それほど身長が変わらないお姉は、私を見下ろすようにあごを上げ、傲岸不遜に発言した。
「最近また二人で会ってくれるようになったし。もう一息ってとこなんだよね。お姉様みたいな美人がこれだけ努力してるんだから、あんたも頑張りな。協力を無駄にするんじゃないよ!」
お姉って、強い。
服に囲まれた部屋の中、ビシッと指を突きつけるお姉に敵わない思いを抱きながら、日は暮れていった。
今さらお姉とこんな風になれるとは思わなかった。
今日は、昔に戻ったみたいで楽しかったな。
「おはようございます!」
改札手前、自販機横の柱にもたれかかってる男の人の所へ駆け寄って挨拶した。ここからは、入口の辺りが見渡せる。待ち合わせの時間より五分早く着いたのに、もう来てくれてたんだ。
何度も見かけていたとはいえ、こうやって話すのは二週間ぶりだ。それでもしり込みすることなく声をかけられたのは、毎日のようにメールをやり取りしてるからだ。
「ういっすおはよー」
高橋さんが破顔した後、おどけた仕草で片手を上げて応える。少しでも視線を合わせようとしてくれているのか、僅かに屈んで言う。
「それにしても見違えたなー。女ってのは髪型一つでこうも雰囲気が変わるもんかね」
「高橋さん、それ前にもメールで書いてました。何回繰り返すんですか? オジサンはくどいって言われますよ」
「ひでー。俺がオジサンだったら一つしか違わない三浦君もそうじゃない?」
「三浦さんは何もかもが素敵だから大丈夫なんです」
「オジョーサン、最近俺に対して遠慮がなくなってきたな。出会った頃の初々しい坂上さんが懐かしいなーオニーサンは。――遠目には見かけていたけど、こうやって間近で接するのはあれ以来だからなー。こんな風に近くで見て実際に喋ると、外見だけじゃなくて持ってる雰囲気自体もやっぱり変わったって思うよ」
高橋さんの指摘通りだとは思う。信じられないことに、学校でも友達が出来た。二人も!
髪型を変えた次の日学校へ行くと、数人に話しかけられた。今回は勇気を奮い起こして黙り込むことなく積極的に会話を繋いでいくと、驚くほど簡単に親しくなれた。今度、私の鞄に付いてるヒヨコキーホルダーの色違いを三人で見にいく予定だ。二人とも気に入ったから案内してほしいって。
私は変にプライドが高かったのかなって思う。自分が変わろうともこちらから働きかけようともしないくせに、向こうが相手をしてくれないと拗ねていた。友達関係にしろ恋愛にしろ、拒絶されるのが怖くて――というよりは結果が悪かった時に恥をかくのがいやで、それぐらいなら何もしない方がいいと自分の世界に閉じこもってたんだ。周りの声に聞き耳を立てて、羨む気持ちを抱きながら。健康的じゃないよね。
今でも何かをする時は、恥ずかしいと思う時がたくさんある。
放課後寄り道しようと誘って、用事があるからと断られた時。
お弁当の後に一緒に食べようと出したお菓子を、ダイエット中だからごめんねと言われた時。
でも、一つを拒まれたからといって私の全部を否定されてるわけじゃないと、最近なんとなく気付いた。それはずっと昔から、私に関わる全ての人が教えてきてくれたことだったんだと今ならぼんやり理解できる……ような?
とはいえ、私の根っこに巣くう弱気の虫が出ていってくれたわけじゃなくて。
「高橋さんは最初から私に合わせて喋ろうとしてくれますし、慣れた人とはこんな風に話せるんですけど……」
スカートの裾を掴み、そこを確かめるように視線を下げた。
正直、私の人見知りが治ってるわけじゃない。というか、一度根付いた性質が完治するかどうかは疑問だ。
「いざ三浦さんの前に立った時に、頭が真っ白になったらどうしようとか、それで黙り込んじゃったらとか思うと不安で」
高橋さんがふむふむと相づちを打ちながら聞いてくれる。
この人は本当に優しい。思いきってメールをすると、あの時の言葉通り三浦さんの好みや生年月日、それからちょっと変わった出来事があった時にどんな反応をしたかとか、色々教えてくれるようになった。
時にはそんなことまで教えていいの? プライバシーの侵害じゃないの? って情報まで流してくれた。
こっちから質問すると、面倒がらずにちゃんと返信してくれる。ちらほら高橋さん自身の余計な情報も挟んで。
例えば高橋さんがどれほど奥さんと娘さんのことが好きかだとかそれこそ惑星レベルの愛だとか、前に残業続きでろくに帰れなかった時期に久しぶりに起きてる娘さんを抱こうとしたら仰け反って泣かれてしまったとかでも泣く姿もかわいすぎて写メを撮ったから送るとか。
正直どうでもよかったけれど、高橋さんにお手数をかけてる私の申し訳なさとか後ろめたさといったものを、自分ベースな話に付き合わせることで軽減してくれてるのかなとも思う。高橋さんってそういう見えない気遣いが上手な人なんだ。ありがたく乗っかって、ちょっと冷たいからかうような内容を返すようにしてる。
高橋さんの奥さんも、そういうところに惹かれたのかな。顔の良さの分も大きく加味されてるんだろうけど。
そうやって親切心を軽い態度の中へ隠してしまえる人だから、つい甘えてしまうのだ。いつもより十五分早い時間駅へ来てくださいとお願いして、快諾の言葉をもらった。
「今日は、わざわざ来てくれてありがとうございます」
俯いた体勢から腰を折り曲げ、顔を上げた。私の好きな人の、優しいお友達にしっかり視線を合わせた。私を見る高橋さんの目は、いつも笑ってるかのように柔和だ。
私も自信を持ってみえるよう、笑顔を作って宣言した。
「私、今日三浦さんに告白します」
高橋さんがヒュゥ、と短く口笛を吹く。自販機にお金を入れた人が、びっくりしたように私を見て、目が合うと慌てた様子で何を買うか選ぶ作業に戻った。
「それを伝えるために俺を呼びだしたの?」
「うーん、それもあるんですけど」
かなり恥ずかしい決意表明をしてしまったという自覚はある。
前髪を直すフリして照れくささを紛らわせながら続けた。
「いざという時にやっぱ止めたって逃げないように、自分を追い込もうと思って」
「なるほど」
「それから……」
「何?」
語尾を小さくして言い淀む私に、高橋さんがさらに屈んで目線を近くする。
ううう、この人は私を傷つけないと信頼していても、堅い甲羅で覆っていた生身をさらけ出すには、少ない度胸を百年分ぐらいかき集めなきゃならない。特に、メールのやり取りの中で散々ふざけて憎まれ口を叩いてきた相手に、弱気な本心を露わにするというのは。まあ、今さらなんだけど。
意を決して続きを口にした。
「励ましてほしくて」
「うん?」
なんか、告白で体感する気持ちの予行練習をしてるような気がする。顔を熱くして、敢えて相手の目は見ず鼻の辺りを凝視して。実際、周りの人には高橋さんに告げてるように見られてるんじゃ?
天井を越えた頭上から、アナウンスの後に地響きのような音が駆け抜ける。ここの駅は快速は止まるけど特急はそのまま通り過ぎていく。
いらないことを頭に巡らせながら、言い募る。
「直接会って、高橋さんに気休めでもいいから大丈夫って言ってもらいたかったんです」
よく伝えた! 頑張ったよ私!
大役を果たした充足感の中、顔の位置を変えずにチラリと高橋さんの目を窺うと、どういうわけか大洪水状態になっていた。今にも決壊しそうだ。
「ちょ、ちょっと、何泣いてるんですか」
「いやごめん、もすこし待って」
高橋さんは顔を背けて片手の平を私に付きだし、もう片手の指で目の際を摘んでいる。
大人の男の人が泣いてるところなんて初めて見る。どう反応すればいいか分からず、私はポカンと突っ立ってるしかなかった。
高橋さんは「いや、感動してしまって」とか呟いている。――はぁ?
すぐに落ち着いたらしく、高橋さんはふうと息を吐きながらこちらへ顔を戻した。目はまだ充血している。
その目で今度は私をまじろぎもせずに見つめ、そうかと思った次の瞬間へらりと顔が崩れた。
うっと私は後ずさった。目尻も頬も人間の限界まで垂れ下がってるし。その表情はイケメンさん台無しですよ、高橋さん。
「あーもーかわいくてしょうがない」
高橋さんが、へなへなの壊れた顔のままで甘ったるい台詞を吐く。
「俺に娘がいるのは知ってるよね。まだ1歳で可愛い盛り、最近では片言しゃべり出したからさらにその可愛さが引き立ってどうしようもないんだけどさー」
はい知ってます。たった二週間で散々自慢のメールを送られましたから。
「愛莉ちゃんを見てるとなーんか娘と重なっちゃって。あの子も大きくなったら高校生になるのかとか」
当たり前です。ていうか高橋さん、私の呼び方がいつの間にか。
「あの子にもその内俺より好きな野郎が現れるのかとか、嫁に行っちまうのかとか考えると悲しくなって……」
飛躍しすぎです。高橋さんは今度は濃緑色のハンカチを取りだして、目頭を押さえだした。
「愛莉ちゃんを三浦君にも誰にもやりたくない」
「私は高橋さんの娘さんじゃありませんから! あと、なんで呼び方変わってるんですか」
「いや?」
「イヤです。余計に娘扱いされそうです。それに三浦さんにこそそう呼ばれたいです」
「まあ冗談はさておいて」
本当に冗談なの? 不安になってるだろう面持ちで高橋さんを見上げるも、気にした素振りもなく当人が微笑む。まるで、娘に向けるような包み込む表情で。
「頑張って。多分、じゃなくて絶対フラれるだろうけど」
「それ、励ましなんですか?」
ここは、怒った方がいいんだろうか?
お腹の中に憤りを溜めていると、高橋さんはチッチッチッと舌を鳴らしながら口の前で人差し指を左右に振った。どういう仕草だ。
「これ立派な励ましよ。というよりアドバイス。三浦君は高校生からの告白には、まず首を縦に振らない」
「そんな……」
一気に奈落の底へ突き落とされた気分だった。絶望の淵に無理矢理立たされて、いきなりどーんと。
「結論を急がない」
じわりと涙ぐみそうになった所へ、高橋さんの一言が耳に飛び込んでくる。
「ふられることは大前提。それで諦めるんならそこまで。でも三浦君はクールぶってても結構面倒見がいいんだ。だからどうしても三浦君の心を掴みたかったら、三浦君が観念するまで何度も何度も食らいつくこと。図太く、溌剌と。なんだかんだ言って相手してくれるから」
あ、お姉もおんなじようなこと言ってた。華やかさん同士、考え方も似るのかな。
「でも、それって三浦さんにとってすっごい迷惑なんじゃないですか?」
「まあ、迷惑だろうけど」
「だったら!」
「大丈夫。俺の同僚はいたいけな女子高生を邪険にはできない。相手は大人なんだから、少々の迷惑ぐらい大目に見てくれるって」
この時、高橋さんの『大丈夫』という言葉がゆっくりゆっくり胸の中に染みこんだ。その言葉が何より欲しかった。高橋さんは優しいけれど、突き放すべきところでは厳しい。
そんな人に保証されると、本当に大丈夫な気がしてくる。
「もうじき三浦君がやってくる。はりきって行っといで、愛莉ちゃん」
「高橋さん……」
子供を学校へ送り出すような――これから待ち受けるのは希望のみ。そう導くみたいな仕草と面持ちだった。
端の方で話し込んでる私たちから少し離れた場所を、ざわざわと人が行き交っている。せかせかと歩くサラリーマン、手を繋いでのんびり進む、普段着のカップルらしき人たち。ああいうの、いいなぁ。
私は一度駅の入口をふり返り、また高橋さんに向き直って綺麗に見えるような鉄壁の笑みを作った。
「だから、名前で呼ぶの止めてくださいってば」
「あれ、そこは感涙して抱きつくとか、行ってきますと可愛く答えるとかするところじゃないの」
「だって、そこははっきりさせとかないと」
ちぇー、と高橋さんが消沈した様子で額を掻く。
その手が止まり、眉間の間が広がって、「あ、来た」と呟きが漏れる。
視線を辿ると、大好きなあの人が入ってくる所だった。俯き加減で顔は見えなくても、あのシルエットは見間違えようもない。視界にある全てがその人を中心に突然輝き出す。洞窟の中に光の粉をまぶしたよう。
「高橋さん」
声に混じろうとする興奮を抑え、さっきは出せなかった正直な気持ちを口にした。
「ありがとうございます。本当に感謝してます。――行ってきます!」
ほとんど言い捨てという感じで、高橋さんの返事も待たずに飛び出していった。目端にちらっと高橋さんが手を上げたのが映ったような気もする。
人並みをすり抜けて、進んでいく。
三浦奏太さん、凄いです。
あなたを――奏太さんを想うだけで、自分でも知らなかった力がどんどん湧いてきます。問答無用、天下無敵の超パワー。ただまっしぐらに、奏太さんだけに向かってるんですよ。
覚悟してくださいね。
一歩一歩、踏み出すごとに近付いていく。
これは、小さな一歩。
これからいくつも重ねていく中の、始まりの一歩。