英帝学園
四月の朝、正門の前に立った秋西光一は、息を飲んだ。
規格外。
校舎を目にした秋西の頭にはその3文字だけが浮かんだ。
石造の門柱は中学で見慣れていたものとは比べ物にないほど高く、そこには四月の斜光を受けて静かに光を放つ金の紋章と、学園名の文字が嵌め込まれていた。
英帝学園高等学校。
その名前は、あまりに有名すぎる。
一方で、実態はほとんど公開されておらず、その存在は半ば都市伝説と化している。
無理もない。
英帝学園はあらゆる面で通常の高校に比べ特殊だ。
制度。環境。理念。
もはや「学校」と呼べるものですらない。
英帝学園から秋西の家に入学前に届いたパンフレットによると、英帝学園は20XX年にとある大財閥の当主が、寿命の間際に私財を全て費やして設立した私立学園らしい。
日本の国力低下を憂いていた晩年の当主は、人生の終幕が下りる前に、将来の日本をけん引するような才ある若者を集約し、少数精鋭で育成する最先端の教育機関として英帝学園高等学校の設立に着手した。
ただ、それは教育機関としてはあまりに異質だった。
まず、英帝学園には入試が存在しない。
各都道府県に配備されたスカウトが全国津々浦々の中学の生徒を、独自かつ秘密裏に調査し、理事会に情報を共有する。
理事会は、その中からとりわけ「才能」に優れた生徒三十人を選抜し、生徒が所属する中学校へ「受入許可証」——入学許可を一方的に告げる、英帝からの合格通知書——を送りつける。
才能の定義は、入学者を含め理事会以外には共有されていない。
だが、英帝が掲げる「日本の舵取りを担う人材の輩出」という理念に沿う素材であることが重要なのは想像に難くない。
パンフレットには言及がなかったが、当時は英帝学園の設立について世間でも大きな話題となり、当然良い反応ばかりではなかった。
むしろ、選民思想の具現化とも捉えられるこの取り組みにはそれなりに多くの国民から反対の声が上がっていて、両親曰く当時のワイドショーではあらゆる評論家が英帝学園設立計画は早々に頓挫するだろうと予想していた。
しかし、大方の予想を覆し、英帝学園はあまりにすんなりと設立が進んだ。
真偽は不明だが、一説によると当主は政界にも深く通じていたらしい。
マスコミは始めこそ当主と政界の癒着について踏み込んで報道していたものの、その件の取り扱いは間もなくして不自然にピタリと止んだ。
世間の反対世論もいつしか沈静し、2050年に英帝学園の設立を見届けた当主は役割を終えたといわんばかりに同年、静かに息を引き取った。
それから10年経った現在、パンフレットと親から得た情報を頭で反芻しながら、光一は英帝学園の学生として最初の一歩を踏み込み、学園敷地内に入った。
正門をくぐった光一の目前には、芝生が一枚の絨毯のように整えられた円形広場が広がり、その中央には白い石碑が立っていた。
通り際、石碑に目をやると、光一は石碑に名前が刻まれていることに気づいた。
そこに刻まれている名前には見覚えがあるものが多く存在した。
プロ野球選手、研究者、芸術家、それにミュージシャン。
名が刻まれているその人たちは、各分野で若くして華々しい活躍を遂げている超新星であることのほかに、もう一つ共通点があった。
「もしかしてこれ、みんな英帝学園の卒業生じゃ・・・」
世間の情報に疎い光一でもほとんど聞いたことあるような著名人ばかり。
あまりに名高い各界の名士たちがかつて過ごした学び舎。
そこに自分が足を踏み入れたこと、その事実を実感をもって認識した光一は入学早々お腹を下しかけていた。




