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My One and Only One  作者: はまゆう


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9/9

Epilogue For Her, in Good Faith

それから半年後。

倉田は新しい企画を進めていた。

タイトルは『ニューヨーク・ジャズ・ナイト』。

一柳マキをメインに据えた音楽ドキュメンタリーだ。

企画書は、何度も書き直した。

最初の案は、自分で読んでもどこか軽かった。

“ニューヨークのレジェンド、天才ジャズピアニストの素顔に迫る”――そんな言い回しは、いかにもテレビ的で、いかにも消費が早い。

素顔、葛藤、知られざる一面。

そういう言葉を並べれば企画書はそれらしく見える。

倉田はずっと、その“それらしさ”を作るのが上手かった。

でも今回は、それをやった瞬間に負けるとわかっていた。

彼女をわかったふりで切り分けたら、もう終わりだ。

彼女との関係は――仕事上のものとして、ゆっくりとではあるが構築されつつあった。

週に一度は連絡を取り合い、企画の打ち合わせをする。

会う場所は、事務所だったり、スタジオ近くの喫茶店だったり、たまにバーだったりする。

飲みに行くこともある。

ただし、それは“距離を縮めるための飲み”ではない。

少なくとも倉田は、そういうものに戻さないようにしていた。

彼女の話を聞く。

音楽の話をする。

ニューヨークのクラブの話、ピアノの話、観客の呼吸の話。

倉田にはわからないことが多い。

多いまま、わかったふりをしないで聞く。

それだけのことが、前よりずっと難しく、ずっとましだった。

マキは相変わらず強いウイスキーを飲む。

氷を少しだけ入れて、ほとんど水みたいな顔で口にする。

倉田もそれに付き合えるようになった。

最初はむせたし、見栄もあった。

でも今は、少しだけ味がわかる。

苦さの奥にある香りとか、喉を通ったあとに残る熱とか。

わかるようになったというより、逃げずに飲めるようになった、というほうが近い。

「倉田さん、ウイスキー強くなりましたね」

ある夜、打ち合わせの帰りに寄ったバーで、マキが言った。

グラスの縁に口をつけたまま、少しだけ目を細める。

「おかげさまで」

倉田がそう返すと、マキは小さく笑った。

「ジャズにはバーボンが1番似合います。今は高いの飲んでるけど、貧しい黒人が飲める安いジムビームもアーリータイムズ ゴールドなんかもジャズに合いますよ。」

その笑い方にも、もう前みたいな硬さはない。

完全に気を許しているわけではない。

でも、最初の頃の“線を引くための無表情”とは違う。

必要な時だけ、ちゃんと柔らかくなる。

その変化が、倉田にはうれしかった。

うれしいのに、そこに飛びつかないでいられるようになった自分のことも、少しだけ信じられた。

「もう肩に手は回さないんですね」

マキがそう言って、口元を緩めた。

冗談だった。

彼女が冗談を言うのは、たぶん初めてだった。

倉田は一瞬、言葉を失ったあとで、笑った。

「一柳さんに嫌われたくないから、生まれ変わって出直しました」

倉田は笑った。

彼女も笑った。

たったそれだけのやり取りなのに、倉田の胸の奥は少し熱くなった。

昔の自分なら、その熱を勘違いしただろう。

脈があるとか、距離が縮まったとか、そういう安い言葉に変えていたかもしれない。そして強引に押しただろう。

でも今は違う。

これはたぶん、まだ信頼の端っこだ。

触れていいという意味じゃない。

冗談にしても大丈夫なくらい、前の失敗が“処理された”ということだ。

それだけで十分だった。

もしあの最初に出会った日に戻れたら、と思うことは今でもある。

初めて会った渋谷のスタジオ。

黒いタートルネック。

「マキちゃん」と呼ぶ前の一秒。

あそこに戻って、ちゃんと挨拶するきちんとしたクリエイターの自分を想像する。

軽く呼ばず、軽く触れず、ただ一人の音楽家として彼女に向き合う自分を。

だが、もうその想像で自分を慰めはしない。

戻れないからこそ、今の関係がある。

失敗があって、後悔があって、みっともない勘違いがあって、それでも向き合い続けた結果が、この場所にある。

最初から正しくできた人間じゃない。

だからこそ、今ここで正しくあろうとするしかない。

倉田は新しい企画書を開いた。

表紙にはこう書かれている。

『一柳マキ――音と対話する女――』

そのタイトルを付けたのは倉田だった。

コピーじゃない。誓約だ。

ここを外したら、この企画はただの消費になる。

“媚びない天才”として売るのも違う。

“ミステリアスな美女ピアニスト”として切り取るのは、もっと違う。

彼女の音楽が何と向き合っているのか。

彼女が何を聴き、何を返し、何を拒み、何を受け取っているのか。

そこに届かないなら、この企画に意味はない。

「これ、面白いです」

マキが静かに言った。

褒め言葉の温度は低い。

けれど、評価としては十分だった。

むしろ彼女の言葉は、低い温度のほうが信用できる。

「もっと良くします」

倉田は即答した。

軽口じゃない。営業でもない。

自分に言い聞かせるための宣言だ。

彼女に認められたい。

その気持ちは、たぶん今もある。

でもそれは、好かれたいという意味だけじゃない。

この人の前で恥ずかしくない仕事をしたい、という気持ちに変わっていた。

――彼女が好きだ。

釣り合わないことも、自分は到底足元にも及ばないことも、近づけないことも、もうわかっている。

たぶんこの先も、彼女の世界の中心には入れない。

隣に立てる保証もない。

恋愛として報われる未来なんて、どこにもいない。

それでも好きだ、という感情だけが残っている。

その残り方が、倉田には少し不思議だった。

もっと見苦しくなると思っていた。

欲しくなるとか、焦るとか、奪いたくなるとか。

そういう方向に転ぶと思っていた。

でも実際に残ったのは、憧れに近いものだった。

無様なくらい純で、どうしようもなく遅くて、でも嘘のない感情。

彼女に恥ずかしくない人間になりたい。

彼女に見せても恥ずかしくないものを作りたい。

ただそれだけのために、前より少し真面目に仕事をしている自分がいる。

そしてその感情を、倉田はもう“業界の手癖”には使わない。

触れない。

甘えない。

軽く呼ばない。

好意を、相手の自由を削る道具にしない。

「近い感じ」を演出するために使わない。

好きだからこそ、雑にしない。

その当たり前を、倉田はようやく覚えた。

代わりに、全部を仕事の質へ回す。

腐った業界人のまま、彼女を撮らない。

媚びや接触で“親密さっぽいもの”を捏造して映像を撮らない。

わかったふりのナレーションで、彼女の音を安くしない。

自分も、マキに負けない側へ行く。

少なくとも、負けたまま居直る側には行かない。

いいものを創る人間として、彼女を撮る。

“選ぶ側”じゃなく、“創る側”として。

企画書の余白に、倉田は赤字でメモを書き足す。

演奏を説明しすぎない。

沈黙を切らない。

観客の呼吸を入れる。

彼女の音が立ち上がる前の時間を、怖がらない。

そういう細かいことの一つ一つが、今の倉田には前よりずっと大事だった。

マキは隣でグラスを傾けながら、その赤字をちらりと見た。

何も言わない。

でも、何も言わないことが、前ほど遠くない。

その沈黙の中にいられること自体が、倉田にはもう十分にうれしい。

あの日には戻れない。

だから倉田は、戻れない時間のぶんだけ、作品とこれからの生き方で取り返す。

あの日の軽さも、あの日の失敗も、消えはしない。

消えないまま抱えて、もっとましなものを作るしかない。

彼女に恥ずかしくないように。

自分が自分を見限らないで済むように。

その夜、企画書を閉じる前に、倉田はふと思った。

恋が叶うかどうかなんて、もう前ほど重要じゃない。

もちろん、少しは夢を見る。

彼女が笑うたび、胸は熱くなる。ドキドキする。声がうわずって緊張する。

ウイスキーのグラス越しに名前を呼ばれるだけで、情けないくらいうれしい。

でも、それでいいと思った。

報われなくても、届ききらなくても、好きでいること自体は、もう恥じゃない。

恥ずかしいのは、好きだという気持ちを下衆に処理して相手を雑に扱うことだ。

倉田はそこから、ようやく降りたのだ。

窓の外は、もう夜だった。

街の灯りがガラスに滲んでいる。

マキは次のページをめくり、倉田はその横顔を見ないようにして、企画書の修正に戻った。

見ないようにしても、好きなものは好きだった。

そのどうしようもなさごと抱えたまま、倉田はキーボードを打つ。

前より少しだけ、まっとうな手つきで。


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