Epilogue For Her, in Good Faith
それから半年後。
倉田は新しい企画を進めていた。
タイトルは『ニューヨーク・ジャズ・ナイト』。
一柳マキをメインに据えた音楽ドキュメンタリーだ。
企画書は、何度も書き直した。
最初の案は、自分で読んでもどこか軽かった。
“ニューヨークのレジェンド、天才ジャズピアニストの素顔に迫る”――そんな言い回しは、いかにもテレビ的で、いかにも消費が早い。
素顔、葛藤、知られざる一面。
そういう言葉を並べれば企画書はそれらしく見える。
倉田はずっと、その“それらしさ”を作るのが上手かった。
でも今回は、それをやった瞬間に負けるとわかっていた。
彼女をわかったふりで切り分けたら、もう終わりだ。
彼女との関係は――仕事上のものとして、ゆっくりとではあるが構築されつつあった。
週に一度は連絡を取り合い、企画の打ち合わせをする。
会う場所は、事務所だったり、スタジオ近くの喫茶店だったり、たまにバーだったりする。
飲みに行くこともある。
ただし、それは“距離を縮めるための飲み”ではない。
少なくとも倉田は、そういうものに戻さないようにしていた。
彼女の話を聞く。
音楽の話をする。
ニューヨークのクラブの話、ピアノの話、観客の呼吸の話。
倉田にはわからないことが多い。
多いまま、わかったふりをしないで聞く。
それだけのことが、前よりずっと難しく、ずっとましだった。
マキは相変わらず強いウイスキーを飲む。
氷を少しだけ入れて、ほとんど水みたいな顔で口にする。
倉田もそれに付き合えるようになった。
最初はむせたし、見栄もあった。
でも今は、少しだけ味がわかる。
苦さの奥にある香りとか、喉を通ったあとに残る熱とか。
わかるようになったというより、逃げずに飲めるようになった、というほうが近い。
「倉田さん、ウイスキー強くなりましたね」
ある夜、打ち合わせの帰りに寄ったバーで、マキが言った。
グラスの縁に口をつけたまま、少しだけ目を細める。
「おかげさまで」
倉田がそう返すと、マキは小さく笑った。
「ジャズにはバーボンが1番似合います。今は高いの飲んでるけど、貧しい黒人が飲める安いジムビームもアーリータイムズ ゴールドなんかもジャズに合いますよ。」
その笑い方にも、もう前みたいな硬さはない。
完全に気を許しているわけではない。
でも、最初の頃の“線を引くための無表情”とは違う。
必要な時だけ、ちゃんと柔らかくなる。
その変化が、倉田にはうれしかった。
うれしいのに、そこに飛びつかないでいられるようになった自分のことも、少しだけ信じられた。
「もう肩に手は回さないんですね」
マキがそう言って、口元を緩めた。
冗談だった。
彼女が冗談を言うのは、たぶん初めてだった。
倉田は一瞬、言葉を失ったあとで、笑った。
「一柳さんに嫌われたくないから、生まれ変わって出直しました」
倉田は笑った。
彼女も笑った。
たったそれだけのやり取りなのに、倉田の胸の奥は少し熱くなった。
昔の自分なら、その熱を勘違いしただろう。
脈があるとか、距離が縮まったとか、そういう安い言葉に変えていたかもしれない。そして強引に押しただろう。
でも今は違う。
これはたぶん、まだ信頼の端っこだ。
触れていいという意味じゃない。
冗談にしても大丈夫なくらい、前の失敗が“処理された”ということだ。
それだけで十分だった。
もしあの最初に出会った日に戻れたら、と思うことは今でもある。
初めて会った渋谷のスタジオ。
黒いタートルネック。
「マキちゃん」と呼ぶ前の一秒。
あそこに戻って、ちゃんと挨拶するきちんとしたクリエイターの自分を想像する。
軽く呼ばず、軽く触れず、ただ一人の音楽家として彼女に向き合う自分を。
だが、もうその想像で自分を慰めはしない。
戻れないからこそ、今の関係がある。
失敗があって、後悔があって、みっともない勘違いがあって、それでも向き合い続けた結果が、この場所にある。
最初から正しくできた人間じゃない。
だからこそ、今ここで正しくあろうとするしかない。
倉田は新しい企画書を開いた。
表紙にはこう書かれている。
『一柳マキ――音と対話する女――』
そのタイトルを付けたのは倉田だった。
コピーじゃない。誓約だ。
ここを外したら、この企画はただの消費になる。
“媚びない天才”として売るのも違う。
“ミステリアスな美女ピアニスト”として切り取るのは、もっと違う。
彼女の音楽が何と向き合っているのか。
彼女が何を聴き、何を返し、何を拒み、何を受け取っているのか。
そこに届かないなら、この企画に意味はない。
「これ、面白いです」
マキが静かに言った。
褒め言葉の温度は低い。
けれど、評価としては十分だった。
むしろ彼女の言葉は、低い温度のほうが信用できる。
「もっと良くします」
倉田は即答した。
軽口じゃない。営業でもない。
自分に言い聞かせるための宣言だ。
彼女に認められたい。
その気持ちは、たぶん今もある。
でもそれは、好かれたいという意味だけじゃない。
この人の前で恥ずかしくない仕事をしたい、という気持ちに変わっていた。
――彼女が好きだ。
釣り合わないことも、自分は到底足元にも及ばないことも、近づけないことも、もうわかっている。
たぶんこの先も、彼女の世界の中心には入れない。
隣に立てる保証もない。
恋愛として報われる未来なんて、どこにもいない。
それでも好きだ、という感情だけが残っている。
その残り方が、倉田には少し不思議だった。
もっと見苦しくなると思っていた。
欲しくなるとか、焦るとか、奪いたくなるとか。
そういう方向に転ぶと思っていた。
でも実際に残ったのは、憧れに近いものだった。
無様なくらい純で、どうしようもなく遅くて、でも嘘のない感情。
彼女に恥ずかしくない人間になりたい。
彼女に見せても恥ずかしくないものを作りたい。
ただそれだけのために、前より少し真面目に仕事をしている自分がいる。
そしてその感情を、倉田はもう“業界の手癖”には使わない。
触れない。
甘えない。
軽く呼ばない。
好意を、相手の自由を削る道具にしない。
「近い感じ」を演出するために使わない。
好きだからこそ、雑にしない。
その当たり前を、倉田はようやく覚えた。
代わりに、全部を仕事の質へ回す。
腐った業界人のまま、彼女を撮らない。
媚びや接触で“親密さっぽいもの”を捏造して映像を撮らない。
わかったふりのナレーションで、彼女の音を安くしない。
自分も、マキに負けない側へ行く。
少なくとも、負けたまま居直る側には行かない。
いいものを創る人間として、彼女を撮る。
“選ぶ側”じゃなく、“創る側”として。
企画書の余白に、倉田は赤字でメモを書き足す。
演奏を説明しすぎない。
沈黙を切らない。
観客の呼吸を入れる。
彼女の音が立ち上がる前の時間を、怖がらない。
そういう細かいことの一つ一つが、今の倉田には前よりずっと大事だった。
マキは隣でグラスを傾けながら、その赤字をちらりと見た。
何も言わない。
でも、何も言わないことが、前ほど遠くない。
その沈黙の中にいられること自体が、倉田にはもう十分にうれしい。
あの日には戻れない。
だから倉田は、戻れない時間のぶんだけ、作品とこれからの生き方で取り返す。
あの日の軽さも、あの日の失敗も、消えはしない。
消えないまま抱えて、もっとましなものを作るしかない。
彼女に恥ずかしくないように。
自分が自分を見限らないで済むように。
その夜、企画書を閉じる前に、倉田はふと思った。
恋が叶うかどうかなんて、もう前ほど重要じゃない。
もちろん、少しは夢を見る。
彼女が笑うたび、胸は熱くなる。ドキドキする。声がうわずって緊張する。
ウイスキーのグラス越しに名前を呼ばれるだけで、情けないくらいうれしい。
でも、それでいいと思った。
報われなくても、届ききらなくても、好きでいること自体は、もう恥じゃない。
恥ずかしいのは、好きだという気持ちを下衆に処理して相手を雑に扱うことだ。
倉田はそこから、ようやく降りたのだ。
窓の外は、もう夜だった。
街の灯りがガラスに滲んでいる。
マキは次のページをめくり、倉田はその横顔を見ないようにして、企画書の修正に戻った。
見ないようにしても、好きなものは好きだった。
そのどうしようもなさごと抱えたまま、倉田はキーボードを打つ。
前より少しだけ、まっとうな手つきで。




