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人間飼育記録:ポンコツ個体は今日も脱走に失敗する  作者: きなこもち
第1章 『檻の中の脱走計画』

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プロローグ 「空は自由なのに俺は飛べない」

数ある作品の中から読んでいただきありがとうございます。

この作品を心から楽しんでいただけたら嬉しいです。

 


 夜の研究棟は、昼より静かなくせに、昼より逃げにくい。


 それをソラは、この三か月で嫌というほど学んだ。


 白く磨かれた壁。

 足音ひとつ跳ね返す長い廊下。

 魔力灯の淡い光。

 どこを見ても上品で、清潔で、隙がない。


 ほんとうに腹が立つくらい、綺麗な場所だった。


「…よし」


 ソラは窓辺にしゃがみ込み、小声で自分に言い聞かせた。


 今夜はいける。

 今夜こそいける。

 前回は見回りの時間を読み違えた。

 前々回は通気口が思ったより狭かった。

 その前は中庭に降りた瞬間、巡回用の魔獣と鉢合わせた。

 あれは本当に最悪だった。

 思い出すだけで怖かった。


 だが、今回は違う。


 違うはずだ。


 ソラは窓枠に手をかけたまま、部屋の中を振り返った。


 ふかふかの寝台。

 薄い金の刺繍が入ったカーテン。

 夜でもほんのり温かい床。

 棚に並んだ本。

 果物の入った皿。

 喉が渇けばすぐ飲めるように置かれた水差し。


 客室と言われたら信じる。

 むしろ、下手な貴族の部屋よりよっぽど上等なんだろう。


 けれどソラに言わせれば、こんなものは全部ただの飾りだ。


 金ぴかの止まり木。

 磨き上げられた檻。

 それだけだった。


「こんなんでごまかされるかよ…」


 ごく小さく吐き捨てる。


 もちろん、最初の頃に比べれば慣れた部分もある。

 寝台は快適だし、食事はうまいし、寒くも暑くもない。

 怪我をすればすぐ薬が来るし、変な咳でも出そうものならその日のうちにすぐ診察だ。


 だが、それがどうした。


 快適だからって、檻に閉じ込められている事実は変わらない。


 ソラは唇を引き結び、窓の外へ視線を向けた。


 夜空が見える。


 高い塀の向こうに、黒々とした木立。

 遠くには街の明かりらしき淡い橙色。

 そして頭上には、やけに大きな月。


 外だ。


 外気。

 空。

 風。


 たったそれだけのものを、喉の奥をひりつかせるくらいに欲っしていた。


 前の世界じゃ、こんなの当たり前だったのに。


 ふらっと家を出て、コンビニまで歩くことくらい、誰にも止められなかった。

 夜道を一人で歩くことも、ポケットに手を突っ込んで遠回りして帰ることも、何を買うか悩みながら棚の前に立ち尽くすことも、全部、何の特別さもない普通だった。


 それが今じゃ、窓ひとつ越えるのに命がけだ。


「…ほんっと、笑える」


 言葉に出してみても、笑えなかった。


 ソラは足元に落としていた布を手に取った。

 寝台のシーツを裂いて作った即席のロープだ。

 編み込みは甘いし、ところどころ太さが違う。

 客観的に見れば、あまりにも頼りない。

 というか普通に危ない。


 だが、ないよりはましだ。


 結界の弱まる時間も見た。

 窓の外壁の段差も確認した。

 下の巡回が角を曲がる時間も、ここ数日ずっと覚えていた。


 大丈夫。

 いける。

 今回はかなり考えたからな。


 ソラはそう自分に言い聞かせ、慎重に窓枠の内側へ指を滑り込ませた。


 ぴり、と空気が震える感覚。


 透明な膜みたいな結界が窓全体を覆っている。

 いつもなら触れた瞬間に弾かれるそれが、今夜はほんのわずかに薄い。

 夜間、換気用に出力が落ちるタイミングを、ソラはちゃんと見つけていた。


「ほらな…!」


 思わず口元が緩む。


 いける。

 通る。


 慎重に、慎重に体を押し込む。

 肩が抜ける。

 胸がつかえる。

 背中に冷たい汗がにじむ。

 けれど、引き戻されない。


 片足。

 もう片足。

 よし。


 ソラは窓の外へ身を滑らせた。


 夜風が頬を撫でる。


 それだけで、胸がどくりと鳴った。


 寒い。

 でも気持ちいい。


 生きてる、と思った。

 いや、生きてるのは前から生きてるけど、今のこれはもっと、なんというか――自分で動いてる感じがする。


「よし、よし、よし…」


 細く息を吐きながら、シーツを外壁の装飾に引っかける。編み目の甘い布が、頼りなく軋んだ。


 見下ろす。


 思ったより高い。


 やめようかな、という気持ちが一瞬だけ脳裏をよぎる。

 いや、やめない。

 ここでやめたら一生笑いものだ。

 誰に、とは言わないけど、自分に対して。


 ソラは歯を食いしばって足を下ろした。


 一歩。

 二歩。


 外壁に靴の先をかけながら、じりじりと体を下ろしていく。

 手のひらが痛い。

 布が滑る。

 腕がもうきつい。

 まだ半分も降りていない気がする。


「うそだろ、こんな…っ、長いの…!」


 小声で悪態をついた瞬間、左足の置き場がずれた。


「あ」


 嫌な音がした。


 ぶち、ではない。

 もっと、ねちっとした、信用の置けない音。


 次の瞬間、体がふっと軽くなる。


「やっば」


 言い終える前に、落ちた。


 夜気。

 視界が回る。

 月が横へ流れる。

 反射的に手を伸ばす。

 何も掴めない。


 どぼん、と盛大な音がした。


 冷たい。


 というか、痛い。


 水面が鼻に入り、口に入り、耳まで冷たくなって、ソラは水中で無様に手足をばたつかせた。

 深くはなかった。

 けれど落ち方が悪かったせいで、一瞬どっちが上か分からなくなる。


「っぶ、はっ、げほっ…!」


 なんとか這い上がった時には、髪も服もびしょびしょだった。


 中庭の池。

 しかも昼間なら庭園として見学でもできそうな、やたら綺麗に整えられた人工池のど真ん中。


 月明かりに照らされた水面が、腹立たしいくらい静かだった。


「…なんでこんなとこに池があるんだよ…」


 震える声で呟く。


 庭なら庭でいいだろ。

 なんでわざわざ池にする。

 しかも俺が落ちる位置にちょうどいい感じで。


 あまりの理不尽さに、怒りと寒さで奥歯が鳴る。


 立ち上がろうとして、ぬかるんだ縁で足を滑らせる。

 さらに惨めになった。

 最悪だ。

 これ以上ないくらい最悪だ。


 その時、こつ、と石畳を打つ音がした。


 足音だ。


 ゆっくりと、ためらいなく近づいてくる。


 ソラは凍りついた。


 終わった。


 今度こそ本気で終わった。


 恐る恐る顔を上げる。


 中庭の縁、白い石畳の上に、一人の女が立っていた。


 細い柄の傘を差している。

 月光を溶かしたみたいな銀金の髪。

 淡い翡翠色の瞳。

 白と深緑を基調にした夜着の上に、薄い羽織を一枚。

 眠そうでも慌ててもいない、いつもの整いすぎた顔。


 セレスティア・イル・アルフェン。


 中央希少種研究院の主任研究官。

 ソラの管理責任者。

 そして、ソラからすればこの檻のいちばん厄介な主。


 セレスは池の中でずぶ濡れになっているソラを見下ろし、ほんの少しだけ眉を寄せた。


「…何をしているの、ソラ」


「見りゃ分かるだろ…」


 情けなさで死にたい。


「分かるわ。だから聞いているの」


「脱走だよ」


「そう」


 そこは怒れよ。

 いや怒られても腹立つけど、その淡々とした相づちも腹立つんだよ。


 ソラは水をぽたぽた落としながらにらみ上げた。

 だがセレスは動じない。

 傘を少し傾け、濡れた石畳へ一歩だけ近づく。


 怒鳴られる。

 説教される。

 最悪、拘束具でも増える。


 身構えたソラに、セレスは静かな声で言った。


「叱るのはあとにするわ。まずは、こちらへ来て」


「…は?」


「そのままだと風邪を引くわ」


 ソラは数秒、言葉を失った。


 そこ?


 いや、そこも大事かもしれないけど、今?

 今その順番?


「いや、待って。普通はもっと他に言うことあるだろ」


「あるわ。たくさんある」


 セレスは本当にたくさんある顔で答えた。

 でも次の一言はやっぱりそっちだった。


「でも、先に体を温めないと駄目。あなたは人間なのよ。このまま濡れたままでいたら、明日の朝には熱を出すわ」


「だからって今それ!?」


「今それよ」


 きっぱりだった。


 腹が立つ。

 腹が立つのに、少しだけほっとした自分がいる。


 そのことに気づいた瞬間、余計に腹が立った。


「…最悪だ」


「ええ。今回はだいぶひどいわね」


「お前のこと言ってんだけど」


「そうかもしれないわね」


 セレスは否定しなかった。


 それから傘を片手に持ち直し、もう片方の手をこちらへ差し出した。

 白い指先が月の下で静かに伸びる。


 いつもなら、その手を取るなんてごめんだった。

 捕まる手。

 戻される手。

 この檻の中へ引き戻す手。


 でも今のソラは、池でずぶ濡れで、寒くて、情けなくて、足元も悪くて。


 たぶん一人で這い上がるより、こっちを取った方が速かった。


 そう、速いだけだ。

 楽だからじゃない。

 安心したいわけでもない。


 内心で必死に言い訳しながら、ソラはその手を取った。


 思ったより温かかった。


 ぐい、と予想以上の力で引かれる。

 華奢に見えるくせに無駄にしっかりしている。

 悔しい。


 石畳へ上がった瞬間、全身が震えた。

 水が服の裾からぼたぼた垂れる。

 セレスはそれを一瞥すると、肩に自分の羽織をかけてきた。


「いらない」


「いるわ」


「濡れるだろ」


「あとで乾かせるもの」


 そういうことじゃないんだよ、と言い返しかけて、やめた。


 どうせ通じない。


 セレスは羽織の前を軽く合わせると、ソラの顔を覗き込んだ。

 翡翠の瞳が近い。

 月明かりのせいで、やたら綺麗に見えるから困る。


「歩ける?」


「歩ける」


「ふらついているけれど」


「寒いだけだ」


「では、急ぎましょう」


「だからさあ…」


 ソラは言いかけて、言葉を飲み込んだ。


 中庭の向こう、研究棟の大きな窓に自分の姿が映っていた。

 小柄な黒髪の少年が、ずぶ濡れで、白い羽織を引っかけられて、綺麗なエルフの女に半ば抱えるみたいに支えられている。


 まるで迷い込んだ希少動物を回収されたみたいで、最悪だった。


「…俺は、飼われてるんじゃない。閉じ込められてるんだよ」


 ぽつりとこぼれた言葉に、セレスの足が一瞬だけ止まる。


 けれど彼女は何も返さなかった。


 ただほんの少しだけ、支える手の力が強くなった気がした。


 研究棟の灯りが近づいてくる。


 暖かい場所。

 乾いた服。

 湯気の立つ飲み物。

 柔らかい寝台。


 全部分かっている。

 戻ればまた、何もかも整えられるだろう。

 快適で、清潔で、息が詰まるあの部屋に。


 なのに、寒さに震えながら歩くこの数歩のあいだだけは、ひどく静かだった。


 逃げたい。


 逃げたいのに。


 差し出された手を振り払えなかった自分が、どうしようもなく嫌だった。


 そしてそれ以上に。


 その手の温かさに、ほんの少しだけ、ほっとしてしまった自分が嫌でたまらなかった。



最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

もし作品を気に入っていただけましたら、

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また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。

引き続きよろしくお願いいたします。

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