当たり前じゃない時間
「その様子だと、本当に知らなかったようだな」
神原部長は肩をすくめた。
葵は、ショックを受けた表情のまま固まっていた。
「ん? どしたの? 葵?」
そんな様子のおかしい葵を心配して、ヒロシが声をかける。
「……あ、いや。なんでもない。ちょっと疲れたみたいだな。あはは……」
ヒロシに呼びかけられて我に返った葵は、ポリポリと頭をかいて誤魔化した。
(卒業まで一緒に居られると……、思い込んでいた。でも、言われてみれば、そんな根拠なんて無かったんだよな)
お別れまでの時間を勝手に勘違いしていた葵にとって、その時間が二年も短くなるということは、重要な問題だった。
それは焦りとなって表情に現れる。
「ホントに大丈夫? なんか変だよ葵?」
付き合いの長い親友は、こういう時の察しが良すぎて困る。
「あ、ああ。もう大丈夫だ。ちょっと自分の中で予想外のことが起きちゃってさ」
だが、今そのことを考えたところで解決する話ではない。
葵は一旦切り替えて、この件は後で蘭子達と話すことにした。
「ま、無理もないか。俺たち野球部を相手にして、勝っちゃったんだし」
ヒロシは軽口を叩いているが、それはヒロシなりの気遣いであることを葵は知っていた。
「こいつ!」
そんなヒロシの肩をポンと押しながら葵は笑う。
葵は、彼のこういう所が大好きなのだ。
二人の話がひと段落したところで、呆れ笑いをしながら神原部長が話を続けた。
「風間の話はともかくだが……。留学生の件はそういうことだ。だから、仮に俺たちが勝ったとしても、お前たちを野球部に誘うのは辞めようと思っていた」
なんと、試合の条件を覆すようなことを言い始めたのだ。
「えっ!? どういうことですか部長!?」
これには、ヒロシが目を全開まで大きくして驚いている。
目ん玉出そうなんだけど大丈夫か、それ……?
「それじゃあ、なんで俺たちとの試合を引き受けてくれたんですか?」
葵も、神原部長の考えがわからなかった。
「おいおい……、三崎。お前は自分が言ったことを覚えていないのか?」
そんな葵に、神原部長は呆れながら応えた。
「え?」
面を食らう葵を見て、神原部長はガックリと肩を落としながら言う。
「『野球を知らない国から来たから野球文化を学びたい』そう言っていただろ」
「——あ」
葵は自分の記憶を遡って確かめると、確かに言っていた。
ヒロシと蘭子が、神原部長に試合を申し込んだあの時。
まるでダメダメだった二人に変わって、出まかせでいったあの一言。
それを、神原部長が覚えていたのだ。
「お前なぁ……」
呆れて溜め息をついた神原部長は、親衛隊とチェキを撮りながらはしゃぐ蘭子に向かって声をかけた。
「おい! 空風と言ったな!」
「お、なんだ?」
呼ばれた蘭子は、松井さんとの談笑を中断し、ズカズカとこっちに歩いてくる。
だからなんで先輩にタメ口なんだよ。
やがて、蘭子と対峙した神原部長は、真っ直ぐ蘭子の瞳を見つめた。
「野球は——楽しかったか?」
「——うん! 楽しかった!」
神原部長の問いに、蘭子は満面の笑みで答えた。
少し考える間があったのは、その一瞬で野球の思い出を回想していたのだろう。
「いい返事だ。それなら、この試合をやった甲斐があるというものだ」
蘭子の表情を見て、いつも険しい顔をしている神原部長の表情が緩んだ。
「……?」
一方、葵は神原部長の意図が分からず、怪訝な顔で話を聞いていた。
その答え合わせをするように、神原部長はさらに続ける。
「俺たちは"上"を目指すあまり、"本来の目的"をつい忘れてしまいがちでな。……野球ってのは——"楽しいからこそ負けられないんだ"。それだけ伝われば、俺は充分だ」
葵とヒロシはハッとした。
神原部長が時間を割いてまで伝えたかったこと。
それは当たり前すぎて、つい忘れてしまうこと。
「実際、お前たちの姿を見ていて羨ましかった。俺たち野球部も、本当はそうでありたい。……だが、今はどいつもこいつも、苦しそうに野球をやっている。俺は、それが嫌だった」
「部長……」
神原部長の本心を知ったヒロシは、思わずその顔を見つめていた。
いつも厳しく、野球にひたむきな彼だったが、その心は野球が大好きな野球少年のままだったのだ。
「だから、今日はそれをあいつらにも伝えたかった。俺たちに足りないこと、忘れていること。それが、やがて勝利への道になるということをな」
それが、神原部長がこの試合に込めた想いの全てだった。
「それと三崎。お前の入部を条件に出したのもその為だ。本気になって欲しかったからな」
最後に、神原部長は葵にもメッセージを伝える。
「三崎……。お前が野球を辞めたのは、野球が嫌いになったからか?」
葵の過去を知った神原部長が確かめたかったこと。
「……いえ。好きです。……辞めたのは——」
「いい。お前の気持ちはよくわかった」
神原部長は手で制して言葉を止めた。
葵の目は、真っ直ぐ過ぎるほど綺麗だった。
だから、神原部長にはそれだけで伝わった。
『辞めたのは"嫌いになりたくないから"』
葵もまた、野球が大好きな野球少年のままなのだ。
「三崎、それから空風。お前達には感謝する」
神原部長は手を差し出して握手を求めた。
「こちらこそ、俺たちのわがままに付き合って頂き、ありがとうございました」
「あ、ありがとうございました!」
最初に葵が手を握り、お辞儀をしながら応えると、蘭子が少し戸惑いながらその手を握った。
神原部長は背中を向け、片手を上げて去っていく。
隣にお調子者のエースを連れて。
「よーし! 風間! 約束通り、黒江と三崎の分まで働けよ!」
「えぇっ!? あれ! だって勧誘しないつもりだったんじゃ——」
そんなお調子者エースは、負けた罰を命じられていた。
嫌がるその腕を、ガシッと掴まれて引きづられていく。
「お前らっ! さっさと片付けろ! そして、学校まで走って帰るぞ! モタモタするな!」
野球部員に怒鳴る神原部長は、やっぱりおっかない人だなと思う。
ドタバタと去っていく野球部の姿を見ながら、葵と蘭子は顔を見合わせクスリと笑いあった。
——こうして笑い合う時間も、当たり前ではなくなろうとしている。
神原部長、クランクアップです!
なんか野球編だけしか出番ないのもったいないぐらいかっこよかったんだけど……。




