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忘れ物センター便り  作者: にめ


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忘れ物82 いつものまま

# 忘れ物82 いつものまま


朝は、いつも同じ音から始まる。


モノカゲは、目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。鳴る前に起きる理由はない。ただ、そうなることが多い。天井の色を確かめ、カーテンの隙間から入る光の具合を見る。今日は少し曇っているようだった。窓ガラスにうっすらと残った夜の冷えが、指先にだけ伝わる。


ベッドから降り、スリッパに足を入れる。床は冷たすぎず、温かすぎもしない。季節の中間にある感触だった。洗面所で顔を洗い、鏡を見る。特別な変化はない。髪を整え、制服を手に取る。ピンク色の布は、少しだけ柔らかくなっている。長く使っている証拠だが、新しく替える理由にはならない。


キッチンで湯を沸かし、カップを一つ出す。二つ出す必要はない。棚には予備のカップが並んでいるが、手は伸びない。湯気が立ち、静かに消える。モノカゲはそれを見てから、カップを持ち上げた。


トースターは使わない日が多い。今日は使う。パンを一枚だけ入れ、焼けるまでの間に流しを片づける。昨日の夜に洗った皿は、乾いたまま置き場に戻されている。戻す順番は決まっている。決めたわけではないが、何度も繰り返すと、迷いが減る。


部屋を出る前に、窓を一度だけ開ける。外の空気を確かめ、すぐに閉める。確かめたかったのは天気でも気温でもない。ただ、外がそこにあることだった。ドアの鍵をかけると、金属が小さく鳴って、音はすぐに収まった。


―――


通勤の道には、毎日同じものがある。


交差点の信号、角の自動販売機、閉店したままの小さな店。あるものは新しくなり、あるものは古くなるが、モノカゲの歩幅は変わらない。駅までの距離は同じで、季節が変わっても、靴底が擦れる音は似たままだった。


改札を通るとき、ICカードの読み取り音が一度鳴る。人の流れに紛れて、前へ進む。混んでいる日も空いている日もある。混み具合に合わせて立ち位置を変えるが、目的地は変えない。


車内で視線を落とすと、床に小さな紙切れが落ちていた。拾う人は見えない。モノカゲも拾わない。紙切れがそこにあることを、ただ認識して、次の駅で降りた。


―――


忘れ物センターは、朝でも静かだった。


扉を開けると、空気が一段変わる。冷たいわけでも、重いわけでもない。ただ、外とは違う。消毒液の匂いでも、古い紙の匂いでもない。どちらとも言い切れない匂いが、少しだけ混じっている。


モノカゲは照明をつけ、廊下を歩く。足音が少し遅れて返ってくる。壁に掛かった時計は動いているが、針を追う必要はなかった。


机の上には、何かが置かれている。


それは物の形をしていなかった。形がないというより、形を決めていない、と言ったほうが近い。紙でも箱でもなく、しかし何もないわけでもない。そこだけ空気が薄くなったように見える瞬間があって、次の瞬間には、ただの机面に戻る。


モノカゲはそれを避けるように、机の端に資料を置いた。資料もまた、今日だけのものだ。積み上げておく必要がない。ページをめくって確認し、閉じて、端に寄せる。


棚を見る。


増えていない。


減ってもいない。


並びが少しずれている気がするが、直す必要は感じなかった。揃えることが目的ではなくなってから、どのくらい経ったのかは分からない。分からなくても、困らない。


以前は、番号や日付が棚を支えていた。今は、棚が棚であるだけで十分だった。置けるものは置かれ、置けないものは置かれない。その差に、名前を付けない。


―――


最初に触れた忘れ物は、小さかった。


正確には、小さいと感じただけで、大きさを測れるものではない。モノカゲが手を伸ばすと、そこに、かすかな引っかかりがあった。音ではない。言葉でもない。場面が、一瞬だけ重なる。


誰かが、玄関の前で立ち止まる。


靴を履き替える途中で、手が止まる。


外へ出るつもりの体が、出なかった。


そういう断片だけが、薄い布のように触れる。続きはない。続きがないことが、ここでは普通だった。


モノカゲは深追いしない。続きがあるかどうかも確かめない。それは、行き先を持っていないように見えたが、留まるとも限らなかった。彼女はそれを、机の上から動かさず、そのままにした。


返すという選択肢は、頭に浮かばなかった。浮かばないというより、選択肢として並ばない。


―――


次に届いていたのは、「距離」だった。


距離は物ではない。けれど、ここでは届く。


モノカゲが棚の前に立つと、ほんの少しだけ、足元の床が遠くなるように感じた。遠くなるのは床ではない。自分の立っている位置が、半歩だけずれる。


その半歩は、戻そうとすれば戻せる程度のものだった。モノカゲは戻さない。戻さなくても、通路は塞がれない。塞がれないことだけを確認し、通り過ぎる。


―――


カゲマルは、低い位置にいた。


床と棚の間、影が重なる場所。以前なら高いところに登っていたはずだが、今は違う。人が立つ位置を避け、半歩外れたところに留まっている。棚板の裏に沿って、体の色を少しだけ変える。黒と紫が、影の中で混ざる。


モノカゲはそれを見て、声をかけなかった。名前を呼ぶ必要もなかった。カゲマルは、何もない空間をじっと見ている。何かが現れるわけではない。ただ、そこに境目があるようだった。


境目があることを、説明する言葉はない。説明しないままでも、カゲマルは見続ける。


一瞬だけ、カゲマルの尾が揺れて、止まった。揺れが止まった理由も、言葉にはならない。


―――


昼前、来訪者が一人だけ現れた。


名乗らなかったし、モノカゲも名前を聞かなかった。その人は、手に何も持っていないように見えた。実際には、持っていたのかもしれない。形になっていなかっただけだ。肩にかかった鞄は軽そうで、底が少し浮いていた。


「置いていってもいいですか」


来訪者はそう言った。


モノカゲは頷いた。場所を示すことはしない。示さなくても、置かれる場所は決まる。来訪者は一歩進み、何かを下ろすような動作をしてから、手を離した。


床に落ちる音はしない。代わりに、空気が少しだけ整う。整うというのも違う。乱れていたものが、乱れていない状態に戻る。


来訪者は周囲を見回し、口を開きかけて閉じた。


「……ありがとうございます」


言葉は、それだけだった。


モノカゲは会釈を返す。ありがとうと言われる場面ではないはずだが、否定しない。否定しないことが、ここでは返事の代わりになる。


何も受け取らず、何も渡さず、その人は帰っていった。扉が閉まる音がして、音はセンターの奥まで届かずに消えた。


―――


午後、センターの中で時間が伸びる。


時計を見る必要はない。針が進んでいることは分かるが、何時かを知る必要がない。モノカゲは書類を一枚だけ確認し、そのまま閉じた。記録する項目はなかった。印を押す場所もない。


棚の前で立ち止まる。


置けないものが増えている。


置けないからといって、困るわけではない。困らないことが続くと、それが基準になる。モノカゲは、通路を塞がないようにだけ注意し、あとは何もしなかった。


通路を歩くと、床の中央に、わずかな熱が残っている場所があった。熱はすぐに消える。消えてしまうものに、名前を付けても、保存できない。モノカゲは足を止めず、熱が消えるのを待たない。


机の上の「何か」は、午前と同じ場所にあった。位置が変わっていないことに、モノカゲは気づくが、だからといって動かさない。動かさないことが、決まりになっていく。


―――


仕事を終え、外に出る。


夕方の光は低く、影が長い。モノカゲは駅までの道を歩き、途中の店で買い物をする。必要なものだけを手に取る。余分なものは、最初から視界に入らない。


店先でかごを取るとき、指先に冷たさが移る。野菜売り場の照明が白く、床に反射している。卵を一パック、豆腐を一丁。レジの列は短い。会計を済ませ、袋を持ち替える。


帰り道、歩道の端に落ち葉が溜まっていた。風が吹くと、少しだけ舞って、また同じ場所に戻る。戻る先があるものは戻る。戻る先がないものは、留まる。留まることにも、意味は付けない。


―――


部屋に戻ると、電気をつける。


室内は、外より少し暖かい。暖房を入れているわけではない。窓を閉めているだけだ。玄関で靴を脱ぎ、揃える。揃える理由も、言葉にしない。揃っていれば通りやすい。


カゲマルは先に入っていて、床に近い場所に落ち着いた。以前なら窓枠や棚の上にいたが、今は違う。床と壁の境目、影が濃くなるところに体を寄せる。


モノカゲはそれを見て、名前を呼ぶ。


「カゲマル」


返事はない。返事の代わりに、カゲマルのまぶたが一度だけ動く。動いて、元に戻る。


それ以上は言わない。


―――


夜、湯を沸かし、簡単な食事を取る。テーブルには余白があるが、埋める必要はない。余白があるのは、余白があるからだ。モノカゲは豆腐を皿に移し、味噌汁を椀によそい、箸を置く。


食器を洗い、布巾を干す。干す位置は決まっている。決めたわけではないが、いつも同じ位置に干される。


湯を張り、短い入浴を済ませる。鏡に映る自分を、長く見ない。見ない理由もない。ただ、見なくても困らない。


ベッドに入り、明かりを消す。


暗闇の中で、モノカゲは自分の知らないことを思い浮かべない。それは、思い浮かべないようにしているのではなく、思い浮かばないだけだった。


知らないことがある、という事実は、生活の中でいつも同じ場所にある。棚の奥にしまわれた何かのように、触れなければ触れないまま残る。


確かめなくても、今日が終わる。


モノカゲは、そのまま目を閉じた。


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