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忘れ物センター便り  作者: にめ


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忘れ物81 そのままの日々

# 忘れ物81 そのままの日々


朝は、特別な音を立てて始まらなかった。


目覚まし時計はいつも通りの時刻に鳴り、夫はそれを一度止めてから、もう一度鳴る前に起き上がった。窓の外は曇っていて、昨日と区別のつかない空だった。寝室のカーテンは、少しだけ開いている。開けた人がいるわけではない。夜のうちに、たぶんそうなった。


妻はキッチンで湯を沸かし、カップを二つ並べる。どちらも欠けていない。欠けていないから、取り替える理由もない。スプーンは二本。引き出しにはまだ予備があるけれど、取り出す手は伸びない。


会話はなかった。必要がなかったわけではないが、言葉にする必要が見つからなかった。冷蔵庫を開け、残っているものを確認し、同じように朝食を用意する。パンを焼く時間も、バターを塗る順番も、昨日と変わらない。皿は二枚。皿を増やす必要はない。


洗い物は、食後すぐに済ませる。水道の音が一定に続き、泡が消える。スポンジは少し薄くなっているが、交換する日を決めていない。決めないまま、まだ使える。


玄関で靴を履くとき、夫は一瞬、視線を下に落とした。そこには何もない。何も置かれていないから、また視線を上げる。鍵を取る。鍵は一つだけだ。増えていない。鍵についた金具が小さく鳴り、音はすぐに収まる。


家を出るとき、妻は戸締りを確かめた。指で押して、確かめる。その動作が、いつもより丁寧だったかどうかは、誰にも分からない。少なくとも、彼女自身は意識していなかった。


―――


家の中には、変わらないものが多かった。テーブルの位置、椅子の数、棚の高さ。どれも、昨日までと同じだ。ただ、使われなくなった場所が、少しずつ増えていった。


リビングの隅にある、小さな引き出し。中は空のままだった。何かを入れるために作られたわけではないが、空であることが続くと、それが決まりのようになった。妻はそこを開けることをやめ、夫もまた、存在を意識しなくなった。


廊下の突き当たりの部屋は、扉が閉じられたままだった。以前から使われていなかったわけではない。ただ、使わない理由を探すことがなくなっただけだ。扉は閉まっている。それ以上の意味は付け加えられなかった。


洗濯物は干され、取り込まれ、畳まれる。畳まれた衣類は、決まった場所に戻される。新しく増えたものはない。減ったものもない。数を数えることもなくなった。ハンガーが一つ余る日があっても、夫婦はそれを戻すだけで終わった。


キッチンの棚に、空きが一段できた。以前は何かが置かれていたのかもしれない。けれど、何があったかは確かめられない。妻はその棚を拭いて、同じ場所に皿を二枚だけ置き直した。余った段は、空のまま残った。


掃除機をかけるとき、コードが壁に触れる。擦れる音がして、すぐに止む。妻はその音を気にせず、同じ順番で部屋を回った。角を曲がるとき、進む幅が少し広くなっている。家具が動いたわけではない。物が置かれていないだけだ。


―――


外では、季節が進んでいた。


道端の花が入れ替わり、店先の並びが変わる。服装が少しずつ厚くなり、日が沈む時間が早まる。夫婦はその変化に逆らわず、合わせるように生活を調整した。


「今日は、少し早いね」


妻がそう言うと、夫は頷いた。


「雨が来そうだ」


それだけで会話は終わる。理由を付け足す必要はなかった。帰宅時間が揃う日が増え、食事の時刻も安定していった。予定を詰め込むことがなくなり、休日は家で過ごすことが多くなった。


買い物はまとめてするようになった。スーパーのカゴに入るものは、いつも同じだ。米、味噌、卵、牛乳。野菜は季節で少し変わる。きゅうりが高い日には、別のものにする。それは選択というより、調整だった。


レジの前で、小銭入れを開ける。小銭入れの口が少し硬い。開閉の回数が増えたからかもしれない。妻は硬さを確かめるように指を動かし、必要な分だけ出して、また閉じる。店員は、いつも通りに会計を済ませた。


帰り道、交差点の信号待ちで、夫は足元を見た。道路の白線が薄くなっている。そこに何かが落ちているわけではない。落ちていないことを確かめたように視線を上げ、歩き出す。


―――


誰かが訪ねてくることは、少なくなった。断ったわけではない。ただ、声をかける機会が自然に減っただけだ。近所の人は、それを特別なこととは受け取らなかった。


郵便受けには、チラシが入る。勧誘や案内。夫はそれをまとめて取り出し、必要なものだけを残す。残すものはほとんどない。紙は畳まれ、輪ゴムで留められ、決まった箱に入る。


その箱の底には、以前から入っている封筒があった。未開封ではない。開けるべき理由も、開けないべき理由も、夫婦は付け足さなかった。箱の底にあることだけが続く。続くというより、終わらない。


ある日、妻がゴミ捨て場で近所の人とすれ違った。


「寒くなりましたね」


挨拶はそれだけで充分だった。妻は袋を置き、ネットをかけ、手を離す。近所の人は「気をつけて」と言い、歩いていった。二人の間には、余計な言葉が残らなかった。


―――


家の中には、音の少ない時間があった。


夜、テレビをつけない時間が増えた。つけない理由はなかった。ただ、つけなくても困らなかった。時計の秒針の音が、静かに続く。夫はそれを聞きながら、書類に目を通す。妻は湯気の立つ鍋を見つめる。


湯気が弱くなると、火を止める。止めるタイミングも決まっている。湯気が上がりすぎないようにする。食卓に運ぶとき、鍋敷きは二枚ではなく一枚で足りた。もう一枚は引き出しの奥にある。奥にあることを、妻は知っている。


食器を片付けた後、夫は床を見ていた。床に傷が増えたわけではない。光の当たり方で、木目が浮いて見えるだけだ。妻はそれを気にしない。気にしないまま、同じ場所にスリッパを揃える。


何かを話そうとして、やめることもあった。やめた理由は言葉にならない。言葉にしなくても、生活は進んだ。


写真は増えなかった。アルバムは棚に収まったまま、開かれることがなくなった。記録を残さないと決めたわけではない。ただ、記録する場面が現れなかった。


―――


一度だけ、妻は棚の上を整理した。


埃を拭き、並びを整える。そのとき、置く予定だった場所があることに気づいた。何を置く予定だったのかは、思い出さなかった。思い出そうともしなかった。その場所は、そのまま空けておかれることになった。


空いた場所は、目立たない。けれど、そこに何も置かれない日が続くと、空いていることが自然になる。妻は、拭いた布を洗面所で濯ぎ、干した。干す場所も決まっている。布は乾き、また使われる。


夫は棚を見て、何も言わなかった。空いている場所は、空いているままでいい。そういう判断が、言葉を介さずに共有された。


―――


別の日、夫は小さな工具箱を出した。


椅子の脚の裏に貼ってあるフェルトが剥がれかけていた。剥がれたままでも、椅子は使える。ただ、床に擦れる音が少し大きくなる。夫は新しいフェルトを貼り直し、椅子を戻した。


椅子は二脚。貼り直すのも二脚分だけで終わる。余ったフェルトは、袋に戻される。袋は工具箱の端に収まる。端にあることも、決まりのように続く。


妻はその作業を見て、台所に戻った。見守る必要も、声をかける必要もなかった。二人はそれぞれの場所で、同じ速度で動く。


―――


夜更け、浴室の換気扇が回る。


湯の温度はいつも同じに設定されている。妻は蛇口をひねり、湯量を確かめる。夫は一足先に入る日も、後に入る日もある。順番は固定されない。固定されないことが、続く。


脱衣所の籠には、タオルが二枚畳まれている。畳み方は揃っている。揃える理由を説明する人はいない。揃っていることは、ただそうしてある。


―――


休日の昼、夫婦は小さな公園の前を通りかかった。


ブランコが揺れている。揺らした人は見えない。風が揺らしているのか、さっきまで誰かがいたのか、確かめる必要はなかった。妻は歩幅を変えず、夫も同じ速度で歩いた。


自動販売機の前で、夫が立ち止まる。


「温かいのにする」


妻は頷く。缶が落ちる音。受け取り口の扉が小さく弾む。二本の缶が手に渡される。夫婦はベンチに座らず、歩きながら飲んだ。飲み終えた缶は、帰り道のゴミ箱に捨てられる。


―――


家に戻ると、靴が並ぶ。


並ぶのは二足。二足で足りる。足りることは、理由を持たない。玄関マットは少しずれている。妻はそれを足で直す。直す動作は、毎回ほとんど同じだ。


夕方、電気をつける手は、毎日同じ動きをする。


カーテンを閉め、窓の外を遮る。室内の明かりが落ち着く。二人はテーブルにつき、食事を取る。特別な献立ではない。特別でないから、続けられる。


食後、夫は流しの前に立つ。妻は台拭きをすすぐ。水滴がシンクに落ち、音が消える。鍋の蓋を置く場所が、いつの間にか決まっている。決まったのは、話し合いの結果ではない。置かれた回数が、そうした。


この家では、何かを説明する必要がなかった。返したか、返さなかったか。拾ったか、預かったか。そうした言葉は、使われないまま、日々が積み重なっていった。


夜が更け、電気が消される。


寝室のドアは、閉めきられずに少しだけ開いている。廊下の暗さが、わずかに流れ込む。夫はベッドの端で靴下を脱ぎ、妻は枕の位置を直す。直した枕は、二つ並ぶ。


その家では、返さなかったものの話は、もう話題に上らなくなっていた。


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