忘れ物71 知らないまま避けている
## 忘れ物71 知らないまま避けている
朝の商店街は、いつもと同じ音で始まる。
シャッターが上がる音。パン屋の前で立ち止まる人の気配。自転車のスタンドが外れる金属音。遠くで鳴る信号の電子音。
誰も急いでいないようで、誰もがそれぞれの時間を持って歩いている。
その通りの途中に、少しだけ広く見える場所があった。
舗装は均一で、段差もない。看板も立っていない。植木鉢も、ゴミ箱も置かれていない。ただ、歩道がほんのわずかに開けているだけだ。
最初に通りかかったのは、買い物袋を提げた女性だった。
袋の中身が重いのか、肩から提げ直しながら歩いている。その足取りは一定だったが、その場所に差しかかると、歩幅が少しだけ変わった。
大きく避けたわけではない。
ただ、中央を通らず、端を選んだ。
理由はない。
女性は、そのまま店の角を曲がり、通りから消えた。
次に通ったのは、制服姿の学生だった。
イヤホンを片耳に入れ、スマートフォンを見ながら歩いている。視線は下を向いているのに、その場所では、ほんの一瞬だけ足の速度が落ちた。
立ち止まるほどではない。
画面から目を離すほどでもない。
それでも、通過の仕方が変わった。
学生は気づかないまま、その場を抜けていく。
配達用の自転車が、通りを横切った。
荷台には箱が積まれている。運転する人は、前をよく見ている。その自転車は、自然に外側を回り、歩道の縁をなぞるように進んだ。
ベルは鳴らされなかった。
鳴らす必要がなかった。
午前の通りは、そうして流れていく。
誰かが立ち止まって指差すことも、声を上げることもない。ただ、通り方だけが、少しずつ揃っている。
昼前になると、店先に人が増えた。
立ち話をする人。店の前で商品を見比べる人。ベビーカーを押す人。
それぞれの動きは違うのに、その場所では、進路が重ならない。
ベビーカーは、縁石側を通る。
立ち話をしていた人は、話の途中で一歩だけ下がる。
子どもは、何も考えずに端を走り抜ける。
誰も「避けている」とは思っていない。
避けている、という言葉を使うほど、はっきりした意識がない。
ただ、そうしている。
通りの向こうから、二人連れが歩いてくる。
並んで歩いていた二人は、その地点で自然に縦に並んだ。
どちらが先に行くか、相談はしない。
目配せもしない。
身体が、先に決めた。
少し離れた場所で、黒と紫の小さな影が動いた。
商店街の人たちは、それに気づかない。
気づいたとしても、何を見たのか分からない。
影は、人の流れの外側を選び、近づきすぎない位置に留まる。
その影が何であるかは、誰にも関係がなかった。
午後、通りは一度、静かになる。
昼休みの時間が終わり、人の流れが途切れる。その間も、その場所は、同じように扱われている。
誰もいない時間でさえ、中央を通らない。
風に押された紙片が、端で止まる。
落ち葉が、縁石のそばに集まる。
それは偶然かもしれない。
けれど、誰も拾わない。
拾われないまま、時間が通る。
夕方になると、通りは再び賑わう。
仕事帰りの人。学校帰りの子ども。店を閉める人。
忙しさが戻っても、その地点の扱いは変わらない。
急ぐ人ほど、早めに進路を変える。
ゆっくり歩く人は、ぎりぎりまで近づいてから、少しだけ避ける。
違いはあっても、結果は同じだった。
中央が空く。
理由は、どこにも書かれていない。
注意も、管理もない。
ただ、日常がそうしている。
通りの端を、一人の人物が歩いていた。
ピンク色を基調とした服。郵便職員のようにも見えるが、そう断定できるほど近くではない。
その人は、周囲と同じように、その場所の外側を通った。
立ち止まらない。
確かめない。
誰かに伝えない。
ただ、同じ歩幅で歩く。
すれ違った人は、その存在を特別だとは思わない。
少し小柄だな、と思うかどうかも分からない。
そのまま、日常が流れていく。
日が沈み、街灯が点く。
光の下で、通りの輪郭が柔らかく浮かぶ。
それでも、中央は踏まれない。
踏まれないことが、特別ではないからだ。
通りを最後に通った人は、家の鍵を探しながら歩いていた。
足元を見ずに、その場所を抜ける。
何も考えずに。
ふと、心の中で思う。
前から、こうだった気もする。
その考えは、すぐに別の用事に流される。
思い出されないまま、夜が来る。
その場所は、今日も、知らないまま避けられていた。
翌朝、通りの空気は少し違っていた。
店先に並ぶ紙袋が、湿り気を含んでいる。昨夜の雨が完全には乾いていないのか、石畳の色がところどころ濃い。けれど水たまりはなく、滑るほどでもない。
それでも、その場所だけは同じだった。
雨が降ろうが降らなかろうが、舗装の色が変わろうが、そこで人の通り方は変わらない。
朝一番に通ったのは、ほうきを持った店主だった。
店先を掃くために歩道へ出て、砂や落ち葉を端へ寄せていく。ほうきの先が、広く見える地点へ向かったところで、動きが一瞬止まった。
止まったのは、掃くのを忘れたからではない。
そこを掃かないほうがいい、という意識があるわけでもない。
ただ、ほうきの先が、自然に別の方向へ向いた。
落ち葉は、端に寄ったまま残る。
残っても、誰も困らない。
困らないから、残る。
通りかかった人は、それを見ても何も言わない。
掃除の途中で残った落ち葉は、ここでは「片付けるべきもの」にならない。
それもまた、日常の扱いだった。
次に、通りを横切ったのは、段ボールを抱えた配達員だった。
抱えた箱は少し大きく、視界の下が隠れている。それでも配達員は迷わない。広く見える地点の手前で、足取りがわずかに変わり、進路が自然に端へ寄った。
それは避けるというほど大きくない。
ただ、そこを通らないために必要な分だけの調整。
配達員は箱を抱えたまま通り抜け、店舗の裏口へ消えた。
午前中、通りには小さな行列ができた。
人気のパン屋の前。焼きたての匂いにつられて、数人が並ぶ。
行列は歩道の半分ほどを占める。
それでも、広く見える地点だけは空いたままだ。
行列の最後尾は、そこへ伸びない。
自然と一歩手前で止まり、横へずれる。
誰も「ここは空けてください」と言わない。
言わなくても、空く。
空いているからこそ、通りは詰まらない。
詰まらないことが、理由になることもない。
昼過ぎ、風が強くなった。
紙ナプキンが一枚、店先から舞い上がり、通りを横切った。軽い紙は、広く見える地点へ向かって飛びそうになり、直前で縁石側へ寄った。
寄ったのは風向きのせいかもしれない。
けれど、紙は結局、端に落ちた。
端に落ちても、誰も拾わない。
拾わないから、そこにある。
そこにあるから、さらに端を通る。
悪循環ではない。
ただ、そういう流れになる。
夕方、制服姿の学生たちが増える。
友だちと並んで歩き、笑いながら通りを抜ける。広く見える地点で、二人が一瞬だけ縦に並ぶ。
「なんとなく、こっち通っちゃうよね」
一人が笑いながら言う。
もう一人は肩をすくめる。
「別に理由ないけど」
言葉はそこで終わる。
理由を探しに行かない。
説明を始めない。
会話は別の話題へ移っていく。
大事なことのように扱われないまま、その地点だけが空き続ける。
日が沈みかけた頃、店主が再び店先を掃いた。
朝に残った落ち葉は、まだ端にある。
それを見て、店主はため息をつくでもなく、拾い集めるでもなく、ほうきで軽く整えた。
整えるだけで、片付けない。
片付けないことが、この場所では当たり前になりつつある。
通りの端を、また一人の人物が歩いていた。
小柄で、ピンク色を基調とした服。
郵便職員のようにも見えるが、断定できるほどの距離ではない。
その人は今日も、同じように外側を通る。
立ち止まらない。
確かめない。
誰かに伝えない。
ただ、歩く。
通りの人たちは、その人物を特別だとは思わない。
気づかない人もいる。
気づいても、すぐに視線が別の看板や、別の匂いへ移る。
そのまま、日常が流れていく。
夜、通りは静かになる。
シャッターが降り、灯りが消え、風の音だけが残る。
それでも、中央は踏まれない。
踏まれないことが特別ではないからだ。
最後に通った人が、鍵を探しながら歩く。
足元を見ずに、その地点を抜ける。
ふと、心の中で思う。
前から、こうだった気もする。
その考えは、すぐに別の用事に流される。
思い出されないまま、夜が深くなる。
その場所は今日も、知らないまま避けられていた。




