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忘れ物センター便り  作者: にめ


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忘れ物101 今日は、何も届いていない

# 忘れ物101 今日は、何も届いていない


 朝は、いつも通りだった。


 目を開けた瞬間に、何かが違う――そういう朝もある。空気が重いとか、匂いが違うとか、窓の外の明るさがやけに白いとか。けれど今日は、そういう「引っかかり」のほうが見当たらない。


 いつもの天井。いつもの壁。いつもの、薄いカーテンの隙間。


 モノカゲは、布団の端を指でつまんで、ほんの少しだけ引っ張り直した。寝相が悪かったわけでもないのに、そういう仕草をしてしまう。身体が目覚める前に、手だけが先に起きる。


 起き上がる。足を床につける。ひんやりとした板の感触。


 台所へ行き、湯を沸かす。湯気が立つまでの時間は、今日も同じくらいに感じた。急いでもいない。遅れてもいない。


 カップを持って、窓の近くへ戻る。


 外は、普通に動いている。車の音。遠くの信号のピッという機械音。隣の家の戸が閉まる音。誰かが鍵を回す音。


 それらは、どれも「いつも」だ。


 ――だからこそ、何も言うことがない。


 モノカゲは、自分の制服をかけてある場所を見た。ピンク基調の、郵便職員風の上着。襟元の縫い目が少しだけほつれている。直そうと思って、そのままになっている。


 直さないままでも、困っていない。


 不意に、そのことを思ってしまう。


 湯気が消える前に飲む。熱い。舌先が少しだけ痛い。痛いと感じたまま、飲み込む。


 そのまま、着替える。


 靴を履く。


 玄関の扉を開ける。


 冷たい空気が頬に触れ、すぐに馴染んだ。季節の変わり目でもない。特別な匂いもしない。


 道は、まっすぐだ。


 角を曲がる。


 いつもの場所に、いつもの影がいる。


 カゲマルは、塀の上の、日が当たりきらないところにいた。黒と紫の色が薄く混ざったような体が、じっとしている。カメレオンのような目がこちらを向いているけれど、見ているのか、見ていないのか、その境目がわからない。


 モノカゲが歩みを止めると、カゲマルも、ほんの少しだけ体の向きを変えた。


 それだけ。


 いつもなら、そこで「今日は、どっち?」みたいな気配がある。右へ行くのか左へ行くのか、境界がどちらに寄っているのか。カゲマルは、わざわざ教えるわけじゃないのに、存在の向きで示してしまう。


 でも今日は、示さない。


 示さないことが、責められていない。


 モノカゲは、言葉を使わずに頷いた。自分に向けて。


 歩き出す。


 カゲマルは、塀の上から降りずに、影の移動だけでついてきた。光が動くと影が動く。影が動くと、そこにいるものも動いている気がする。


 忘れ物センターへの道は、いつも通りで、いつも通りすぎて、あっという間に着いてしまった。


 建物の扉を開けると、冷えた空気が迎えてくる。暖房が効き始める前の時間帯の匂い。紙と木と、どこかで溜まった埃の匂い。


 モノカゲは靴底の雪や砂を払ってから、廊下を歩いた。


 壁には掲示板があり、いつもの注意書きが貼られている。「火気厳禁」「棚の整理は当番制」「持ち出し記録を忘れないこと」。文字が少しだけ色褪せていて、たぶん貼り替えられていない。


 貼り替えられていないことに、意味はない。


 意味を拾わないまま、奥へ進む。


 作業室の扉を開ける。


 棚が並んでいる。


 棚は、棚のままだ。


 増えてもいない。


 減ってもいない。


 モノカゲは、棚の前に立った。


 以前なら、ここで数えた。


 「今日は何個」


 「どの棚が埋まっている」


 「どこから来た」


 そういう確認は、仕事というより、身体の癖だった。ある日突然、癖が抜けることはないと思っていた。


 でも、抜ける。


 抜けたことを、驚きもしない。


 モノカゲは、棚の上段から順に視線を移動させた。視線は動く。でも、数えない。数えようともしない。


 棚の間を、風が通る。


 通るだけ。


 机の上に置かれた記録簿が、閉じたままになっている。


 モノカゲは、それを手に取る。


 表紙の布が、少しだけ毛羽立っている。角が丸くなっている。たくさんの手が触れてきた。


 触れてきたのに、今は触れない日がある。


 モノカゲは、記録簿を開いた。


 中のページは、以前よりも白い部分が多い。


 白いことに、罪はない。


 白いままで、世界は回っている。


 ペン立てに手を伸ばす。ペンの先端が乾いていないか確認する。


 確認して、戻す。


 書かない。


 書かないことを、誰も叱らない。


 作業室の奥から、足音がした。


 同僚が入ってくる。年齢も性別も、ここでは大事ではない。ここで働く人たちは、だいたい同じ顔をしている。疲れているわけでもなく、元気なわけでもない顔。


 その人が、棚を見て、モノカゲを見て、記録簿を見た。


 少しだけ眉を上げる。


 そして、言った。


「今日は、何も届いていないみたいですね」


 声は、仕事用の声だった。淡々としていて、特別な感情が乗っていない。


 モノカゲは、その言葉を受け取った。


 受け取って、机の上に置いた。


 返事は、返事としては短すぎる。


「……そう」


 それだけ。


 同僚は、頷いた。


 頷いて、机の別の束を持って、別の作業を始めた。


 会話は、そこで終わった。


 終わったことに、余韻はある。


 でも、その余韻に名前はつけない。


 午前中は、棚の整理をした。


 整理といっても、何かを分類するわけではない。棚に置かれているものが少ないので、並べ直す必要もほとんどない。埃を払う。床を拭く。窓を少し開けて空気を入れ替える。


 空気が入れ替わると、匂いが変わる。


 変わるけれど、それが良いとも悪いとも思わない。


 モノカゲは、窓から外を見た。


 道路を歩く人たちがいる。荷物を持っている人。スマートフォンを見ている人。手を振る人。急いでいる人。ゆっくり歩く人。


 誰も、ここを見ない。


 見ないことは、昔からそうだった。


 忘れ物センターは、そこにあるのに、見られない。


 見られないことに、意味を足さない。


 意味を足したくなる時代があった。世界が「溜まり」を抱え始めた頃。人が何かに引き寄せられて、何かから離れられなくなって、日常が少しずつ変わって、戻らないものが増えていった頃。


 その頃は、モノカゲも、少しだけ動揺した。


 動揺したのに、言葉にしなかった。


 言葉にしなかったから、今、動揺が残っていない。


 残っていないのか、残っているのか。


 境目がわからない。


 机の端に、カゲマルの影が落ちた。


 光の角度のせいで、影がそこへ伸びただけなのに、そこに「いる」ように感じる。


 モノカゲは、影の輪郭を見た。


 カゲマルは、作業室の入口のあたり、棚と棚の間の暗がりにいた。いつものように、境界の近く。


 でも、今日は、色が変わらない。


 黒と紫のまま。


 以前なら、ここで何かが起きそうだと、カゲマルが先に嫌がった。棚の奥のほうへ逃げたり、モノカゲの肩に乗ってきたり、目を細めて、境界を避けるようにした。


 今日は、しない。


 しないことが、正しいわけではない。


 ただ、しない。


 モノカゲは、カゲマルのほうを見て、ほんの少しだけ視線を外した。


 見ているのに、見続けない。


 それが、今の距離だ。


 昼になる。


 昼休憩の時間が来る。


 弁当を広げる。箸を持つ。味噌汁の蓋を開ける。


 同僚が向かいに座る。


「最近、静かですね」


 同僚は、独り言のように言った。


 静か。


 その言葉は、ここでは以前から使われていた。


 忙しい日より、静かな日のほうが多い。忘れ物が届くのは、強い思いが残った時だけだったから。


 でも今は、静かの意味が少し違う。


 届かない静か。


 起きない静か。


 モノカゲは、箸を止めずに頷いた。


 同僚は、弁当の中の卵焼きを見つめながら続けた。


「静かなのに、困らないんですよね」


 困らない。


 困らないことが、怖いと言う人もいた。


 困らないことが、助かると言う人もいた。


 ここでは、そのどちらも、正しい。


 モノカゲは、味噌汁を一口飲んだ。


 温かい。


 温かいことは、いつでも温かい。


「……困らない」


 口に出すと、言葉が軽い。


 軽いことに、意味はない。


 同僚は、笑ったわけでもなく、ため息をついたわけでもなく、ただ頷いて食事を続けた。


 会話は、そこで終わった。


 終わる。


 終わることが、日常だ。


 午後。


 来客がある時間帯が来る。


 ここへ人が来るのは、たいてい午後だ。午前中は仕事や家事で動けない人が多い。昼を過ぎ、少し落ち着いた頃に、「そういえば」と思い出して、ここへ来る。


 その「そういえば」が、以前の忘れ物の入口だった。


 今日は、入口が開かない。


 扉は閉じたまま。


 チャイムも鳴らない。


 足音も聞こえない。


 モノカゲは、受付のカウンターの前に立っていた。


 立っていたことに、自分で気づく。


 待っているのか。


 待っていないのか。


 境目がわからない。


 カウンターの上には、返却用の箱が置かれている。中身は空っぽだ。


 空っぽなのに、箱はそこにある。


 中身がないことを、確認しない。


 確認しないから、空っぽのままでも落ち着いている。


 時間が過ぎる。


 誰も来ない。


 モノカゲは、受付の椅子に座った。


 座って、背もたれにもたれる。


 椅子が軋む音がした。


 その音だけが、今日は少し大きかった。


 大きいことに、意味はない。


 ただ、音がした。


 カゲマルは、カウンターの下、影の濃いところにいた。


 そこは、人の足がよく通る場所だ。以前なら、カゲマルは避けた。踏まれる危険があるからではない。境界が濃すぎるから。


 今日は、避けない。


 避けないことが、弱ったわけでもない。


 ただ、そこにいる。


 モノカゲは、カゲマルの目がこちらを向いているのを見た。


 目が向いているのに、何も言わない。


 言わないことが、会話になっている。


 モノカゲは、軽く瞬きをした。


 カゲマルも、まぶたを閉じた。


 それだけ。


 午後は、静かに終わった。


 夕方。


 片付けの時間。


 棚に布をかける。窓を閉める。机の上の紙を揃える。


 記録簿は、最初に開いたページのまま、閉じられた。


 白いまま。


 白いまま、閉じる。


 閉じたからといって、何かが消えるわけではない。


 消えるものは、そもそも、ここにはない。


 同僚が電気を消す。


「お疲れさまでした」


 いつもの挨拶。


「……お疲れさま」


 モノカゲも返す。


 返す。


 返すという言葉が、ここではたくさん使われてきた。


 返すことが仕事だった時代。


 返さないことが優しい時代。


 返すとも返さないとも言わない時代。


 今は、挨拶だけを返す。


 それで十分だ。


 十分だと、決めない。


 ただ、そうなっている。


 外へ出る。


 空が少し暗くなっている。街灯がつき始める時間。


 モノカゲは、建物の鍵を閉めた。鍵の金属の冷たさが指先に残る。


 残る。


 残ることも、忘れ物だった。


 けれど今は、残ったままでも、世界は回っている。


 モノカゲは、鍵をポケットに入れた。


 入れたことを、忘れない。


 忘れないことに、意味はない。


 帰り道を歩き出す。


 カゲマルは、影の端を伝うように動いてついてくる。


 その動きは、いつもよりも静かだった。


 静か。


 静かなことに、意味を足したくなる。


 足したくなるのに、足さない。


 モノカゲは、道端の水たまりを避けた。水面に街灯が映っている。揺れる。揺れて、形が崩れる。


 形が崩れても、水は水だ。


 形が崩れても、困らない。


 そういうことが、増えている。


 増えていると感じることさえ、誰かに説明する必要がない。


 モノカゲは、歩きながら、ふと足を止めた。


 立ち止まった理由は、ない。


 理由がない立ち止まり。


 それも、昔は忘れ物だった。


 モノカゲは、空を見上げた。


 雲が流れている。流れは、流れとしてそこにある。


 風が吹く。


 頬が冷たくなる。


 冷たいと感じる。


 感じたまま、流す。


 カゲマルの影が足元に重なった。重なった影は、二つなのか一つなのか、わからない。


 わからないことが、落ち着いている。


 モノカゲは、もう一度歩き出した。


 家に着く。


 鍵を開ける。


 靴を脱ぐ。


 明かりをつける。


 今日も一日が終わる。


 忘れ物は、届かなかった。


 それでも、世界は何も困っていなかった。


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