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忘れ物センター便り  作者: にめ


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忘れ物100 溜まりがある世界の通常運転

# 忘れ物100 溜まりがある世界の通常運転


 朝の空は、特別な色をしていなかった。


 雲は高く、低くもなく、陽の光は街全体を均等に照らしている。暑すぎず、寒すぎず、服装に迷うほどでもない。


 人はいつも通りに目を覚まし、いつも通りに身支度をし、外へ出る。


 玄関で靴を履くとき、誰かは一瞬だけ動きを止め、誰かは止めない。


 止めた人も、止めなかった人も、その違いを覚えていない。


 通勤路には、いくつもの道がある。


 広い道、細い道、最短の道、遠回りの道。


 どれを選んでも、大きな差は出ない。


 だから人は、その日の足の向くほうへ歩く。


 角を曲がる人もいれば、曲がらない人もいる。


 以前なら通っていた近道を使わず、少しだけ遠回りをする人がいる。


 遠回りだと気づかないまま、歩いている。


 歩いている途中で、理由もなく足を止める人がいる。


 止まった時間は短い。


 短いから、遅刻もしない。


 遅刻しないから、問題にならない。


 問題にならないから、誰も話題にしない。


 街の中には、使われなくなった場所がある。


 以前は通路だった場所。


 以前は誰かが座っていたベンチ。


 以前は近道だった路地。


 それらは封鎖されているわけでも、危険になったわけでもない。


 ただ、選ばれなくなった。


 選ばれなくなったことに、理由はない。


 理由がないから、元に戻す必要もない。


 店は営業を続けている。


 シャッターが下りる時間は変わらない。


 客の数も、大きくは変わらない。


 ただ、立ち止まる位置が少し変わり、並ぶ列が少し歪み、会計が一拍だけ遅れることがある。


 遅れても、店は回る。


 回るから、誰も気にしない。


 駅は今日も混んでいる。


 ホームには人が並び、電車は定刻に到着する。


 白線の内側に立つ人もいれば、触れるほど近くに立つ人もいる。


 触れても、注意されない。


 注意されないから、位置は修正されない。


 修正されないまま、列は進む。


 進むから、問題は起きない。


 人は流れ、流れは少しずつ形を変える。


 変わった形は、すぐに次の形になる。


 どの形も「正しい」とも「間違っている」とも呼ばれない。


 昼になる。


 昼休みの時間帯は決まっている。


 決まっているが、使い方は人それぞれだ。


 外に出る人もいれば、席に残る人もいる。


 建物の裏にある、特に用途のない空間に立つ人がいる。


 そこに立つ理由はない。


 立っている間、何かを考えているわけでもない。


 時間が過ぎ、午後が始まると、人は自然に持ち場へ戻る。


 戻ることに、急ぎも後悔もない。


 午後の仕事は滞らない。


 メールは届き、返信され、会議は始まり、終わる。


 誰かが数秒遅れて発言し、誰かが少しだけ聞き逃す。


 聞き逃した内容は、あとで補われる。


 補われるから、支障は出ない。


 夕方、仕事が終わる。


 人はそれぞれの帰路につく。


 朝と同じ道を通る人もいれば、違う道を選ぶ人もいる。


 違う道を選んだことに、特別な意味はない。


 意味を与えられない行動は、記憶に残らない。


 街灯が点き、影が長くなる。


 建物の隙間や、看板の裏、段差のない段差に影が溜まる。


 影は濃くも薄くもなりすぎず、そこにある。


 誰かが影を踏み、誰かは踏まない。


 踏んだ人も、踏まなかった人も、理由を考えない。


 ——モノカゲは、その街を歩いている。


 ピンク色の郵便職員風の制服は、もう目立たない。


 街の色に溶け込み、視線を集めない。


 彼女は歩きながら、忘れ物の声を探さない。


 探しても、ほとんど聞こえないことを知っている。


 代わりに、足の裏に伝わる感触を受け取る。


 均一な硬さ。


 ところどころで厚みを持った空白。


 それらは混ざり合い、区別されない。


 区別しないことが、今の世界の前提になっている。


 モノカゲは立ち止まる。


 立ち止まった場所は、特別な溜まりではない。


 人が通り、人が通らなくなり、また通るようになる、ただの場所だ。


 彼女はそこに留まらない。


 留まらないことが、義務でも選択でもない。


 ただ、歩き出す。


 カゲマルは、彼女の影の端にいる。


 中心には寄らない。


 かといって、遠くへ行くわけでもない。


 影と影の境目を、自然に選ぶ。


 選んでいるようで、選んでいない。


 彼の体色は、周囲の影とほとんど同じだ。


 動いても、動いていなくても、目立たない。


 人の視線は彼を捉えず、そのまま通り過ぎる。


 夜が来る。


 家に帰る人、どこかに寄る人、しばらく街を歩く人。


 それぞれが、それぞれの時間を終える。


 テレビがつき、消える。


 風呂の湯が張られ、抜かれる。


 布団に入り、電気が消える。


 誰かは今日一日を振り返り、誰かは振り返らない。


 振り返らなかった一日も、振り返った一日も、同じように終わる。


 ——使われないベンチは、今日もそこにある。


 誰も座らない。


 けれど撤去もされない。


 邪魔ではないからだ。


 通られなくなった近道も、塞がれない。


 ただ、通られないまま残っている。


 それらは問題にならない。


 問題にならないものは、解決されない。


 解決されないまま、世界に含まれる。


 忘れ物は、もう集められていない。


 棚に戻されることも、返却されることもない。


 それでも、街は機能し、人は生活し、明日は来る。


 溜まりがある世界は、今日も通常運転だった。


 静かに、何事もなく。


 ——朝の商店街。


 パン屋の前には、焼き上がりを知らせる小さな札が出ている。


 札は昨日も出ていた。


 出ていたから、誰も読み直さない。


 店員はトレーを並べ、トングを揃え、レジの中の硬貨を数える。


 数え終えたあと、指が一枚だけ、硬貨の上で止まる。


 止まってから、閉める。


 閉めたことに、意味は付かない。


 開店と同時に客が入る。


 客はパンを取る。


 取る手が一瞬だけ止まり、別のパンを取る。


 止まった理由は、香りでも、値段でも、気分でもいい。


 いいから、誰も確かめない。


 レジの前に列ができ、列はわずかに歪む。


 歪んでも、誰も苛立たない。


 歪みは、歪みとして扱われない。


 ただ、そういう形で並ぶ。


 ——小学校の校門。


 子どもたちは走る。


 走って、止まって、また走る。


 止まる場所は毎日少し違う。


 違うのに、先生は注意しない。


 注意するほど危険ではないから。


 危険ではないずれは、集められない。


 体育館へ向かう廊下の角に、誰も座らない椅子が一脚ある。


 保健室から運び出されたまま、置かれている。


 邪魔ではない。


 邪魔ではないから、片付けられない。


 子どもたちは椅子を避けて通る。


 避ける動きは、毎回同じではない。


 同じではない避け方が、毎日積もる。


 積もっても、記録されない。


 ——病院の待合。


 番号が呼ばれる。


 呼ばれて、立ち上がる人もいれば、呼ばれても一拍遅れて立ち上がる人もいる。


 一拍遅れても、誰も咎めない。


 呼び出しは次に進む。


 椅子の列の端に、空いている席が一つある。


 誰もそこには座らない。


 座らない理由は、はっきりしない。


 日差しがまぶしいのかもしれない。


 冷気が当たるのかもしれない。


 あるいは、誰かが一度だけ座って、すぐに立ったのかもしれない。


 誰かが立ったことは、誰かの中で完了している。


 完了しているから、言葉にならない。


 言葉にならない空席は、今日も空いている。


 ——バス停。


 バスは定刻に来る。


 定刻に来るのに、列は毎回同じ位置にできない。


 歩道のタイルの目地に合わせて並ぶ人。


 わずかに外れて並ぶ人。


 外れていても、誰も直さない。


 直す必要がないから。


 扉が開き、乗り込む。


 運転手の声は淡々としている。


 淡々としているから、そこに隙間があっても気づかない。


 気づかない隙間は、次の停留所まで連れていかれる。


 連れていかれた隙間は、降りるときに落とされる。


 落とされたことは、誰にも拾われない。


 ——夕方。


 公園の砂場では、子どもが山を作り、途中で手を止める。


 止めたまま、別の遊具へ行く。


 山は完成しない。


 完成しないことが、失敗ではない。


 失敗ではない未完成は、風に削られ、翌日には形が変わる。


 形が変わっても、そこにある。


 そこにあることが、当たり前になる。


 夜、街灯の下で、誰かがスマートフォンの画面を見たまま立ち止まる。


 立ち止まる時間は短い。


 短いのに、その短さがいくつも重なると、道の流れが少しだけ変わる。


 変わっても、渋滞にならない。


 ならないから、話題にならない。


 ——モノカゲは、センターの前を通り過ぎた。


 建物はそこにある。


 看板もある。


 けれど入口に、以前のような列はない。


 列がないことは、寂しさではない。


 寂しさだと断定できない。


 彼女は視線を置かずに、歩く。


 扉の前に、差し出されない手がひとつ分の空間がある。


 その空間が、今日も扉を開けない。


 開けないことに、誰も困らない。


 困らないまま、夜が進む。


 カゲマルは、建物の影と街灯の光の境目にいる。


 境目は動く。


 光が揺れると、境目も揺れる。


 揺れるのに、彼は揺れない。


 揺れない影は、そこだけ静かだ。


 静かな場所に、静かなものが溜まる。


 溜まっても、重くならない。


 重くならないから、誰も持ち上げない。


 ——深夜。


 街の音は減る。


 救急車のサイレンが遠くで一度だけ鳴り、消える。


 消えたあと、静けさが戻る。


 戻った静けさの中で、忘れられた動作がいくつも折り重なる。


 押されなかったボタン。


 言いかけて閉じた口。


 返さなかった視線。


 曲がらなかった角。


 座らなかった椅子。


 それらは、どれも事件ではない。


 事件ではないから、世界の外側に押し出されない。


 外側に押し出されないものは、世界の中に残る。


 残るものの形が、少しずつ増える。


 増えても、世界は回る。


 回るから、通常になる。


 忘れ物は、集められないまま、散らばったまま、溜まったまま。


 それでも、朝は来る。


 次の日も、空は特別な色をしていない。


 人はいつも通りに目を覚まし、いつも通りに外へ出る。


 溜まりがある世界は、今日も通常運転だった。


 静かに、何事もなく。


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