春の赤龍亭と青い瞳の師匠
止まり木亭の飯にもすっかり飽きた。
重い体を引きずるように歩く。赤龍亭の扉まで、あと少しだ。
外は春の日差しに満ち、街は穏やかな空気に包まれている。
胸は重く、心の中はまだあの出来事の余韻でざわつく。
止まり木亭でゴロゴロしていた2日間、酒のない生活は味気なく、体も鈍く感じる。
軋む扉を押し開けると、赤龍亭の温かい空気が迎えてくれた。
「おう、来たの。」
カティが隣の椅子を指し、皿に盛られたブラッディベアの腸詰を押しやる。
「まずは美味いエールをくれ。」
俺の声に、マスターの濁声が厨房の奥から返事を返す。
エールを口に含む。
喉を伝って体の隅々までじんわり染み渡る。
疲れた体に生きている実感が広がった。
「アランは、翌日から普通に仕事をしておったそうじゃ。」
「若いって素晴らしいな。」
俺は小さく笑みを浮かべ、腸詰に齧り付く。肉の旨みと脂が口中に広がる。
「ヨシュアなんだが、最近顔つきが変わったな。」
「ああ、猫を助けたのと、…一緒に狩に行ったくらいだがな。」
あの時のヨシュアの目を思い出す。
カティは腸詰を頬張り、葡萄酒を口に含む。
カティの赤みが差す頬に、俺は無意識に微笑んだ。
「最近、二日に一回はわしのところに来て魔法の修行をしておる。なかなか筋が良い。」
「そうか。ま、俺は魔法の才能ゼロだがな。」
馬車の上での出来事を思い出し、軽く肩をすくめる。
「あの時、十字架が光ったのを覚えとるか?」
「ああ、確か青に光ってたな。」
「…あれは“気”の才能がある証じゃ。」
「“気”なんか見たこともないよ。」
「魔法と同じくらい使える人間は少ないからな。」
カティは葡萄酒を一口。
「お主は、修行すれば“気”が使えるはずじゃ。面倒ごとに巻き込まれることも増えたからな。使えるようになってはどうだ?」
「普段から気は使ってるんだがな。」
冗談めかして肩をすくめる俺に、カティはやれやれと微笑む。
「カティが教えてくれるのか?」
「わしでは無理じゃ。ただ、師匠に適任な奴は知っておる。」
先程の腸詰とエールで体が温まるのを感じ、春の柔らかい陽射しに目を細める。
「こんなところに家があったんだな。」
街外れの小川沿いに、粗末な小屋がぽつんと立っている。人の気配はない。
「近くにおるはずじゃが…。」
そよ風が草花を揺らし、春の匂いを運ぶ。時が止まったかのような、不思議な感覚に陥った。
小屋の扉が軋む。
ゆったりした服を纏った老人が現れる。手には瓢箪。
「カティか。久しぶりだね。」
白い髪が風に揺れる様を、しばらく見つめる。
「久しぶりじゃな。実は頼みたいことがある。」
「何だい。いつだってロクなお願いは持ってこないからね、カティは。」
この老人、分かってやがる。
「この中年のおっさんに“気”を教えてもらいたいんじゃが。」
「その前に、その小脇に抱えてるものが気になるんだが。」
老人は目を細めてゆっくり喋る。
「勿論、タダとは言わん。土産を持ってきとる。」
カティは小脇の包みを差し出す。
老人は中身を取り出し、目を細めた。
「こりゃあ、良いもんだ。しょうがない。頼みを聞いてやるか。」
どこで手に入れたのか、カティの普段の葡萄酒よりワンランク上。ここにも呑兵衛がいやがった。
「どれどれ…。」
老人は俺を品定めするように眺める。
「素質は充分。ただ、歳を取りすぎている。」
「修行しても駄目ってことかい?」
思わず口を開く。
「お前さん次第だね。」
真夜中のワイバーン、冷たい水の突き刺すような痛み、ヨシュアのあの時の瞳。
「俺は今のままじゃ駄目なんだ、仲間を守るために。教えてくれないか?」
「私の名は、シマ・クロキリだよ。」
「俺はジョニー・ウォーカー。よろしく頼む。」
「私のことはお師匠様と呼びなさい。」
老人は俺と握手をし、吸い込まれるような青い瞳で俺を見つめた。
小屋の裏庭に出ると、柔らかな春の陽射しが降り注ぐ。
シマは小屋の影に立ち、足を肩幅に開き、呼吸を整える。
「まずは基本だ、ジョニー。呼吸を整え、気を自分の中心に集める。」
ジョニーは深く息を吸い、胸の奥の焦燥を落ち着ける。
「気を意識…こうか?」
「うむ、自分の存在を感じることじゃ。焦るでない。」
シマは両腕を前に伸ばすよう指示する。
「腕に私の気を通してみる。流れを意識しろ。」
ジョニーは腕を伸ばし、指先に触れた微かな振動に心が高鳴った。
「おお…感じる!」
シマは腕を組み、静かに頷いた。
「初めてにしては上出来。まずは力を抜くことと感覚を掴むことだ。」
午後の陽が傾き背筋に汗が滲む頃、ジョニーは呼吸と気の流れを一体化させる感覚を掴み始めた。
シマは微笑み、静かに言う。
「これで基礎は終わり。あとはお主次第。修行は日々の積み重ねだ。焦るなよジョニー。」
ジョニーは深く頭を下げ、握り拳を作る。
「はい!」
ジョニーの目に光が宿る。
仲間を守り、自分を超えるための修行が、ここから本格的に始まる。




