80――舞い散る花びらを手に取る者はいない
歩くだけで土煙が上がる汚れたレンガ造りの地下室。
小さい豆電球が淡く照らすだけの部屋の中に痛みを訴える少女の声が響き渡る。それを嘲るような男達の下卑た笑い声。年端もいかぬ少女は衣服を破り取られ、一回り以上も大きい男達数人にレイプされていた。未成熟な少女の体には余りに苦痛を伴う仕打ち。艶やかな脚を伝い鮮血が流れ落ちる。
「お兄ちゃん……!! やめて……! お兄ちゃんは関係ない!!」
本来助けを求める者を庇う少女の声。
少女の――敦盛山茶花の兄は薄汚れた下郎達に羽交い締めにされ散々暴力を振るわれ、ボロ雑巾のように転がっていた。極東の国で捕まった妹を助ける為に果敢にも強盗団のアジトに乗り込んだのだが、無様にも返り討ちにあい山茶花を暴れさせない為の人質として使われていた。
足りなかったのは頼れる仲間。そして戦う力。元々特別な力など持っていなかった。少し鍛えただけのただの一般人が剣を持ったところでガタイの男達を複数人相手に戦えるはずもなく。とは言え妹を捨て置けるほど非常にもなれないただの人は案の定こうして這いつくばるしかなかった。
「ギャーギャー騒いでる暇あったら演技でもいいから喘いでろや!!」
どうせ気持ちよくなどなれない穴の開いた女でしかないお前にはそれくらいしかできることはないと、脅すようにまた兄に暴力を振るわれる。従うしかない。どうせ自分達は殺されるのだと分かっていても、兄の前の前で兄を見捨てるようなことは山茶花にはできなかった。できるはずもなかった。あんなにも優しく思いやりがあっていつも失敗してばかりだった自分を励ましてくれた兄を――
痛みの混じった情けない声が響く。
笑う男達の声。
屈辱と苦痛がマーブル模様を描いて思考を、心を蝕んでいく。このままでは壊れてしまう。
壊れた方が楽になれる、だが、それでは兄が――
そう、ただの強姦魔であればどれだけ幸せだったろうか。
「おい、そろそろ変われよなげぇんだよお前」
「そろそろ出るから待てよ」
「なあ出す時さ、同時にこいつ殺そうぜ」
「いいな! 最愛の兄が逝くところ見ながら人間辞められるんだったら本望だな!」
時間が止まったように思えた。
喘ぎ声など忘れて、は……? と意識を停止させる。
訳が分からない。
大人しくしていれば命は助けるなんて嘘なのは分かっていた。
それでも、こんな、こんなこの世の責め苦を全て味わうような屈辱的な……!!
数時間経った。
身も心も擦り切れ汚れた床に打ち捨てられた少女の目の前には、動かない肉塊と化した兄の亡骸があった。
震える手を伸ばし細い指で血濡れた頬に触れる。
あの暖かい肌はもうどこにもない。冷たく、冷たく……ただそこには人の形をした、兄だったものが存在するだけだった。怒りに身を震わせる力などない。目の前の現実を受け入れ、諦観し、絶望するしかない。頭の中にあったのは、『いつ死ねるのだろうか?』という疑問だけ。
だが、それは杞憂だった。
足音が聞こえた。その少し前に男の悲鳴のようなものが聞こえたような気がした。気のせいかと思ったが、現れたのは、さっきの中にはいなかった線の細い男だった。
転がった二つの肉体を一瞥し、生きている山茶花へ話しかけた。
「生きてるな。これからも生きたいなら俺と来い」
正直、もうどうでもよかったが、その時はとにかく悔しくて、このまま死ぬのが悔しくて、山茶花は思わず頷いた。
その男は人殺しを生業とする暗殺者だった。
決して広くはないがちゃんとした家に共に住まわされることになり、ちゃんとした食事も服装も与えられた。
男は山茶花を後継者にすると言い毎日、虐待の域を超えた稽古という名の暴力を与え続けた。
食事には毒が盛られ、ベッドにはカミソリが仕込んであり、風呂には下剤が混ぜられていた。そうして少しずつ追い詰められていき、いつしか山茶花は死を覚悟していたが、何故だかいつになっても生き続けていた。
体中には生傷が絶えず常に血を流しているといっても過言ではなかったが、治療は真っ当なもので、毒も致死には至らない量、いつしか山茶花の体は苦痛に対して耐性をつけていった。同時に日常的に振るわれる暴力に対しても、素早く反応できるように適応していった。
あるいは、元よりそういう才能を持って生まれたのか。それを見抜いたから男は山茶花を引き取ったのか。
ある日 は試してみたくなった。
ここまで自分は暗殺者として育てられた、その能力を試してみたくなったのだ。だからバルサミナは、自分を育てた男の命を狙った――
「……?」
それは本当に、拍子抜けするくらいあっさりと成功していた。
一瞬訳が分からなかった。
食器を片付けるフリをして、台所に行くためにいつも通る男の背後から首を短刀で刺しただけだ。
「なんだ、これは……はは、ハハハハハ!! 笑えない冗談だ!!」
一体自分はこれからどうすればいい?
暗殺者として育てられたはいい、だが、それがなんなんだ? この世界で生きる役に立つのか? 役に立ったとてなんなんだ? 兄は既に死んだ。それが悔しくて生きる為にすがりついた、その支えもこれほど簡単に崩れ去った。
――ああ、だったらあたしはなんなんだ? なんの為に生きればいい?
分からなかった。分からなかったからとりあえず人を殺し、金を稼ぎ――なんの為に生きるのかを探し続けたが見つからなかった。
”敦盛鬼灯”に出会うその日までは。
@
「ここは……」
バルサミナは目を覚ましすぐに周囲を確認する。
殺風景で何もない石造りの部屋。窓もなく、ここが地下なのか地上なのかも分からない。ただ、バルサミナは自分が天井から伸びた鎖で両手を縛られ足首も膝も拘束されていることだけは分かった。
そして、
「やあ、お目覚めかいお姉さん。ここはおいら達のアジトだよ」
「嫌な夢を見たのはお前のせいか?」
「さてね、なんのことやら。おいらはただお姉さんに仲間になってほしくてちょっと眠ってもらっただけだよ」
悪戯っぽく笑う、ブレザーを着た育ちのよさそうな少年。クロッカスはやれやれと首を振る。
この拘束を解くのは困難、もしくは不可能だ。相手に解かせるのが先決か……そう考えるバルサミナ。だが、そんな思考を遮るようにクロッカスが話し出す。
「お姉さんはね、ここにこうしている時点で詰みなんだよ。どうやっても逃げられない。でもま、変に時間をかけて何か予想外のことが起きるのも嫌だし、早めに済ませちゃうね」
「その貧弱なガキの脳みそに、私を洗脳できるような毒物の知識があるとは思えんな」
「もういいよそういうの。そんな毒物ないし、人を操る魔術くらい知ってるでしょ? あぁ、精神が図太い自分には効かない~とかそういうこと? それも大丈夫」
そう言ってクロッカスはポケットから何かを取り出した。
眉をひそめその何かを注視するバルサミナ。どこかで、とてもよく見たことがあるものだった。
「お前……それは!?」
「へぇ、アザミの言うとおりだ。これが大事なものなんだね、この髪飾りが」
そう、元の世界で兄に買ってもらった大切な髪飾り。いつでもどんな時でも肌身離さず持っていたお守りでもある存在。兄の死んだこの世界で、唯一残った兄の形見。それが、どこの馬の骨とも知らぬ者の手に立っている。それだけで思考が沸騰するには十分だった。
「貴様ァ!! その薄汚れた手を離せ!! それに触れるな!!」
「ハハッ!! 思った通りの反応。僕さ、別にそういうの趣味じゃないんだけど、ゼレノイド化の影響かなぁ? 人のそういう顔見るの好きなんだ。ねぇ、お望み通り離してあげるよ」
「あ――」
こつんと、髪飾りが石の床に落ちる。
「ねぇ、洗脳の魔術ってさ『意識に大きな隙がないと成功しない』なんだよね。知ってるよね、例えばとてつもないショックを受けたりとか」
この世に唯一残った形見。
それはもう永遠に会えない兄との唯一の繋がり。それがある限り”自分の兄”の顔を忘れずにいられる。
「やめろ……やめてくれ……やめろぉぉぉぉぉ!!」
クロッカスは大きく足を振り上げ、髪飾りを踏み潰した。
馬鹿みたいなほど簡単に、プラスチックの塊は砕け散った。
「あ……あぁ……そんな、お兄ちゃんがぁ……お兄ちゃん……」
「あ~あ、泣いちゃった。お姉さんみっともないよ年下の子どもの前で、なんてもう聞こえてないよね。ほいじゃあ洗脳開始~せいぜいおいら達の傀儡として頑張ってね~」
余りにも簡易で、それ故に特定の条件下でしか決して成功しない魔術は、心の支えを全て失った抜け殻には簡単に効いた。
と、丁度石造りの部屋の戸が開いた。
入ってきたのはアザミ。
「お、アザミじゃん。どうだった?」
「ええ、とてもいい取引でした」
「あれ? 確かあのルピナスとかっていうお姉さんも連れてくるんじゃなかったっけ?」
「ええ、ですから取引です。彼女はやはり話の分かる方でした」
計画通りではないはずなのに、それ以上に嬉しそうな顔をするアザミ。ずっと無表情の能面顔だったので、クロッカスもこんな顔を見たのは初めてだった。それほどまでに嬉しいのだろう。
「それで、どうなるの?」
「私達の活動がしやすくなる、といったところですかね。まあ、もう少し待ちましょう。まずは彼らの為に準備をしなければ」
「ま、よく分かんないけどおいらも駆り出されるんだよね」
「当たり前です。ああ、それで思い出しましたが、そちらはどうなりましたか?」
「この通り」
鎖を解き放つ。
もし洗脳が効いていなければすぐにも殺しにかかるだろうが、バルサミナは電池が切れたかのように床に項垂れた。
それを見たアザミは満足そうな声を漏らすと、うつ伏せになったバルサミナの顔が見えるように足で動かし、屈んで顔を近づけた。
「哀れな……これが”私達”の末路ですか。ですがご安心ください。もうすぐこの呪いは、この苦しみは終わりを迎えます。私達はついに解放されるのです。その礎となれるのですから、貴方も本望でしょう? ねぇ、”わたし”」




