銀次『批評について』
レビュー祭りということで、主催者の一人である八雲氏に一文書く機会を与えてもらった。レビューは、批評ということでもよいかと思われるから、その批評について思うことを少し書く。
感想を率直に述べる場としての批評について、おそらく、批評を書こうとした根源的な動機であろうが、その実践においては、筆者各々みずからの審美眼を信じるところから始まる。批評に個性が生まれるのはここだ。批評が個性的な色調を帯びるということ、個人の名に於いて、物のよしあしを語るということは、読者に対して直に審美眼をさらす冒険ということでもある。個性というものは、随分勘違いされているもので、その人の良いところも個性である一方でその人の悪いところもまた個性なのだ。批評家が試されるのもここで、客観的尺度という、誰でも使えるような定規を使ってあれこれ語るという冒険もとい散歩をして帰ってくる臆病を晒す者もいれば、なんの読解上の技術を使わずに口調だけが激しく、勝手なことを散々わめいた揚句に外に出てそのままのたれ死ぬ愚かな批評家もいる。詐欺師が丁寧で低姿勢なのは常識であるし、あんまりに感傷的な連中に散文作品の論理的構築性を見る力があるのか疑問だ。物を書く難しさというものは、別に小説に限った話ではないのである。
批評文は、自らの感想を述べるところである一方で、読者を説得する場でもある。であるから、説明者として作品の複雑な個性をほどいていくのが主な内容となる。要するに批評とは論文(流行の言い方をすれば考察)のようなものだ。それで、説得するには根拠が必要なのだが、これについてはっきりとした意識をもっている評家は当時の「小説家なろう」において私のほかに誰ひとりいなかった。皆が皆、作品について語っているふりをして、随分いい加減なことを好き勝手に言っている。嘆かわしいことだ。それらしい構成をしているものもあったことにはあったが、これはその書き手の主張を有利に進めようとするために曲げられた詐欺的な手口であった。対して巧妙なものではなかったにしろ、論外である。ところで、作品を語る際に最も重要な根拠とは何か、それはその作品の全本文だ。次に作者の全集、それ以外は“根拠として”採用してはならないのである。理由は簡単で、その作品と作者以上に、その作品について語るものはいないからだ。検討は全的であるべきで、偏る時にはその根拠を示すべきである。こういったごく基本的な意識が足りない。
個人的な感動から始まり、根拠を集めて、個性へと向かう批評文を書いている間に、仮定として思い描いていた個性が、実は間違ったものと判明することもあるのではないか。これは、実はよくあることである。小林秀雄は、ドストエフスキーについて書いているとき、作品が発する多彩な色と根気よく付き合っていくうちに、色があわさり、一本の強烈な白色光線となって眼前に現れたと、的確で美しく説明している。はたしてその通りであっただろう。そしてこのことは、最初に掴んだと思っていた光は作品が放つ光の中の一つであったということでもある。彼は批評について、無私を得る道とも言っている。こういうしぶとさのようなものも必要なのである。他人の作品が、自分と同じ考えをもっているということはないのだから。
いろいろと書いたが、批評(論文、考察)にも良し悪しがあり、それぞれ良くも悪くも個性的であるということを各々に伝えられればうれしく思う。みんな結論に共感できるかどうかで論文の質を決めている。これではだめだ。




