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僕らは、短い夏を駆け抜ける  作者: 平木明日香
第1章 2.5次元の彼岸にて
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第1話 サメ、陸に上がる



「どうも皆さんこんサメー! 今日もゆっくり遊んでいくよー」


 はい出ました、完璧な第一声。


 これで今日も私は青鮫透。ブルーアッシュの髪をふわっと揺らして、ギザギザの歯を見せて、ちょっとサバサバしてて、少しだけ眠そうで、リスナーの夜にふらっと現れる可愛いサメ娘。現実の私は部屋着の短パンに、首元がよれた高校の文化祭Tシャツを着て、前髪を変なピンで留めて机の端に置いたコンビニのカフェラテをちびちび飲んでいるわけで、画面に映らないって本当に偉大だなと毎回思う。


 映らないからこそ守られる尊厳ってあるじゃん。


 今の私なんか、左足の親指で床に落ちた充電ケーブルを探りながら配信しているし、椅子の背もたれには昨日脱いだ制服のブラウスが引っかかっているし、机の下には通販で届いたまま開けていないサプリの箱が転がっているし、カメラが一センチでも下を映したら青鮫透というブランドがわりと終わる。


 コメント欄は今日も元気だった。


『こんサメー!』

『待ってた』

『今日も声かわいい』

『ギザ歯見せろ』

『開幕から助かる』

『学校終わりに透ちゃん最高』

『仕事終わった、褒めて』


「仕事終わったのえらいサメ。学校終わりもえらいサメ。ギザ歯見せろって言ったやつは歯医者行けサメ。青鮫の歯をなんだと思ってるサメ」


 コメント欄に「草」が流れて、私はアバターの口角を少し上げる操作を入れた。表情差分はかなり細かく作ってもらっている。軽く笑う顔、ニヤッとする顔、ちょっと引く顔、眠そうな顔、真顔、泣きそうな顔。最後のやつはほとんど使わないし、使う予定もない。使ったら負けみたいなところがあるから。


 配信画面の右上には今日のタイトル。


【初見歓迎】夏休み前にちょっとだけ雑談するサメ【青鮫透/LUMINA TIDE】


 ちょっとだけ、と書いてある配信ほど長くなる。これは配信界の常識であり、私の生活習慣が終わっている証拠でもあった。


「今日さ、みんな夏休み前って感じ? 学生組はそろそろ浮かれてる? 社会人組は知らん。ごめんサメ。青鮫、社会の荒波までは責任取れないサメ」


『責任取って』

『夏休みください』

『社会つらい』

『学生だけど補習です』

『課題がもう出た』


「補習は強く生きろサメ。課題は早めにやれサメ。早めにやれって言ってやるやつはこの世にほぼいないけど、言うだけなら無料サメ」


 言いながら、私は画面の横に置いたメモ帳をちらっと見る。今日の話題として書いてあるのは、「夏休み」「最近食べたアイス」「学校あるある」「お知らせ軽く」「明日の配信休みかも」の五つ。最後のやつだけ、文字が妙に重い。


 休みかも。


 かも、って便利だよね。やるかもしれないし、やらないかもしれないし、体調が良ければやるし、悪ければごめんって言える逃げ道があるから。配信者は予定を出して生きているようで、予定に追われて沈みかける生き物でもある。あ、今のは口に出さない。青鮫透はそこまで生々しくないし。


 私はカフェラテを一口飲んで、少し甘すぎるなと思いながら喉を鳴らさないように気をつけた。


「夏休みかあ。青鮫はね、夏休みといえば宿題を最初の三日でやるタイプに見せかけて、最終日に泣くタイプでしたサメ」


『知ってた』

『意外性ゼロ』

『透ちゃん計画性なさそう』

『でもノート綺麗そう』


「ノート綺麗そうはちょっと嬉しいサメ。計画性なさそうは普通に刺さるサメ。やめてくれ、青鮫のライフは最初から少ない」


 ライフは少ない。


 言ってから、ちょっとだけ自分で嫌になった。こういう軽口に変な意味が乗りそうになる日は、気をつけないといけない。私はすぐに笑い顔の差分へ戻して、アイスの話へ切り替えた。


「最近食べたアイスで一番うまかったやつ発表します。コンビニの、あれ、白いやつ。名前忘れた。青鮫、商品名を覚える能力が海に流されてるサメ」


『雑』

『白いやつ多すぎ』

『情報量ゼロ』

『案件来ないぞ』

『商品名言えないVtuber』


「案件来たらちゃんと言うサメ。案件じゃないから名前を忘れても許されるサメ。いや許されるかは知らん」


 私は笑いながらコメントを拾い続けた。画面の中の青鮫透は軽やかで、余裕があって、少し毒があって、でも冷たくはない。そこを外しちゃうと、私の配信はたぶん成立しない。元気いっぱいにしすぎると疲れるし、暗くしすぎると重くなる。やさしすぎると嘘っぽいっていうのと、雑すぎると傷つけるっていうのもそうだね。サメ語尾ひとつにも、案外気を遣っているんだ。


 見た目ほど気楽な仕事じゃない。


 まあ、見た目はサメ娘なんですけどね。


 配信開始から四十分くらい経ったころ、コメントに「最近ちょっと学校行けてない」という文字が流れた。流れが速いから、普通なら拾わなくても不自然ではない。拾ったところで、答え方を間違えると変に場が湿るし。マネージャーの久我さんなら、あとで「透さん、重いコメントへの対応は良かったですけど、少し踏み込みすぎるときがあります」と言うかもしれない。


 私はゲーム実況のときより少しゆっくり瞬きをする差分を入れて、声の温度を落としすぎないようにした。


「学校行けてないのか。そっか。まあ、行けない日もあるサメ。青鮫は事情知らないから偉そうなこと言えないけど、今日ここ来てコメント打てたなら、とりあえず生存報告はできてるサメ」


 コメント欄の速度が少しだけ落ちる。


「学校って、行けるなら行ったほうがいいこともあるし、行かないと守れないものもあるサメ。どっちが正しいかは青鮫が決めることじゃないから、自分のHPバー見ながら考えろサメ。HP赤いのにボス戦行くやつ、だいたい負けるからね」


『透ちゃん……』

『それな』

『HP赤いはわかる』

『無理しないでね』

『青鮫先生』


「先生じゃないサメ。青鮫先生、テスト範囲を言い忘れて全員を絶望させるタイプだからやめとけサメ」


 またコメント欄に笑いが戻って、私は胸の奥で小さく息を吐いた。


 重い話を重いまま沈めない。


 軽くしすぎてなかったことにもさせない。


 この加減だけは、少しだけ得意かもしれない。自慢できるほど立派なものじゃないけど、私が青鮫透として生きる上で、いちばん大事にしている部分ではある。


 配信は一時間半で終わった。


「はい、今日はここまでにするサメ。みんな来てくれてありがと。課題あるやつは十分だけやれサメ。仕事終わったやつは風呂入って寝ろサメ。眠れないやつは、目閉じるだけでもちょっと違うらしいサメ。知らんけど」


『おつサメー』

『今日もありがと』

『助かった』

『寝ます』

『透ちゃんも寝ろ』


「青鮫も寝るサメ。たぶん。おつサメー。また次の海で会おうサメ」


 配信終了ボタンを押したあと、画面の中の青鮫透が消えて、暗くなったモニターに現実の私がうっすら映った。目の下のクマ、変な位置で留めた前髪、口元だけ笑ったまま止まっている顔。さっきまで何千人かに見られていた声の持ち主が、こんな部屋でひとり、飲みかけのカフェラテと一緒にぼんやりしている。


「おつサメ、私」


 誰も聞いていない部屋で言うと、語尾のサメはだいぶ寂しい。


 配信後の作業は地味に多い。アーカイブのタイトル確認、概要欄のミス確認、SNSで終了ツイート、マネージャーへの報告、明日の予定をどうするかの相談、喉のケア、機材の電源確認。人気Vtuberなんて言うとキラキラした仕事みたいに見えるけど、現実はケーブルと通知と肩こりで大部分が構成されている。夢を売る前に、まず椅子の高さをどうにかしたほうがいいと毎回思う。


 スマホを開くと、久我さんからメッセージが来ていた。


『お疲れさまでした。今日の学校関連コメントへの返し、良かったです。声が少し掠れていたので、明日の配信は休みに寄せてもいいと思います』


 久我さん、いつも見てるところが細かいんだよなぁ。ありがたいのと怖いっていうのが半々っていうか…


 私は返信欄に指を置いて、少し考えてから打った。


『おつかれさまです。明日は一応様子見でお願いします。喉は大丈夫です、たぶん』


 たぶん、を入れると久我さんは心配するけど、入れないと嘘になるからさ?送信してすぐに既読がついたのを見て、うわ早いなとつい思ってしまった。


『たぶん、は大丈夫に含めません。明日の昼に状態を教えてください』


 思わず声が出た。


 久我さんはマネージャーであり、仕事相手であり、たまに保健室の先生みたいな圧を出す。私がちょっとでも無理を誤魔化すと、画面の向こうから「わかっていますよ」みたいな空気を出してくる。彼女の前世は高性能な監視カメラかもしれない。


 私は『了解です』とだけ返して、スマホをベッドに投げたけど、ベッドの上に積んであった洗濯物の山へ埋もれてどこに行ったかわからなくなった。


「はい終わった。現代文明、今終わりました」


 時計を見ると、もう午前零時を少し回っていた。


 明日も学校がある。


 正確には、明日も私は高校生のふりをしに行く。


 Vtuber青鮫透としての私は、深夜に何千人へ向けて喋る。瀬名サツキとしての私は、偏差値がそこまで高くない私立高校の教室で、友達とコンビニスイーツの話をして、数学の小テストに怯えて、先生にスカート丈を注意されて、休み時間にメイクを直す。どっちが本物かと聞かれたら、たぶんどっちも本物だし、どっちもちょっとずつ嘘だ。


 青鮫透は、私がなりたい私。


 瀬名サツキは、私が逃げきれない私。


 そんな感じ。


 まあ、こんなことを口に出すと一気にポエムなので、普段は「いやー、マジで学校だるいわ」で済ませている。ギャルという種族は便利だ。語彙を軽くすると深刻なものが少しだけ軽く見えるんだよね。中身まで軽くなるわけじゃないけど、少なくとも周りにはそう見えるし。


 私は洗面所でメイクを落としながら、鏡に向かって口を開けてみた。


 ギザギザの歯はない。


 当たり前だ。


 現実の私の歯はいたって普通で、八重歯がちょっとあるくらい。


「こんサメー」


 小声で言ってみる。


 鏡の中の私は、髪を明るめに染めた普通の高校生だった。ブルーアッシュではない。どちらかというとミルクティー寄りの茶髪。校則的にはかなり怪しい感じの色で、先生には「地毛です」と言い張っている。地毛なわけないじゃん、と自分でも思う。先生も絶対そう思っているけど、優しい世界という名の見逃しでなんとか成り立っている感じ。


 ベッドに入る前に、薬を飲む。


 錠剤を手のひらに出して、水で流し込んだ。今となっては慣れた動作で、数年前までは慣れたくなかった動作だ。喉を通る感覚が少し嫌で、飲んだあとに舌を出して顔をしかめた。


「まず」


 部屋へ戻ると、スマホの通知がまた光っていた。配信後の感想がSNSに流れている。ファンアート、切り抜きの予告、今日のスクショ、さっき拾った学校のコメントに対する反応。みんな優しいね。優しさが流れてくる画面は見ていると嬉しくなるし、少しだけ怖くもなる。


 青鮫透を好きでいてくれる人がいる。


 それは本当に嬉しい。


 嬉しいからこそ、ちゃんと返したくなる。


 ちゃんと配信したくなる。


 休みたくなくなる。


 私はスマホを伏せて、布団をかぶった。


 明日は学校だ。朝から普通に学校。Vtuberとして夜の海を泳いだ私は、数時間後には制服を着て陸に上がる。サメなのに、陸だ。シンプルにきつい。サメじゃなくても陸はきつい。


 眠りに落ちる直前、今日拾ったコメントを思い出した。


 学校行けてない。


 あの短い一文が、妙に胸に残っていた。


 どうしてだろう。


 似たようなコメントは何度も見てきたのに。


 目を閉じると、ずっと前の記憶が浮かびかけた。小学生のころ、分厚い本を抱えて歩いていた小さな男の子。休み時間に校庭へ出るより、教室の端でノートに何かを書いているほうが好きだった地味な男の子。宇宙の話になると目だけ急に明るくなる、少し変な幼馴染。


 豊島ブン太。


 最近、会ってない。


 まあ、幼馴染なんて高校が分かれたらそんなもんだ。私は私で学校があって、配信があって、病院があって、やることが多い。あいつは中学を出てから頭のいい進学校へ行った。私とは違う世界で、偏差値という残酷な壁をヒョイって登っていったやつ。…いやほんと、壁高すぎ。私には一生登れる気がしない。


 ブン太、元気かな。


 そう思ったところで眠気が来て、私は考えるのをやめた。


     *


 朝は敵だ。


 これはもう決定事項だ。


 アラームが鳴った瞬間に私は布団の中でスマホを探しながら「誰、こんな時間に音鳴らしたやつ」と本気で思った。もちろん昨日の私だ。犯人はだいたい過去の自分。未来の私に負債を残す天才。それが瀬名サツキという人間である。


 七時十二分。


 …微妙だなぁ


 遅刻するかしないかで言うと、頑張れば間に合うレベル。頑張らないと終わるギリギリのライン。つまり頑張らないといけないってやつ。…朝からハードモードすぎる。


「サツキー、起きてるの?」


 下から母さんの声がする。


「起きてるー!」


 起きてはいない。布団の中で返事をしただけ。でも返事をした時点で、社会的には起きている判定にしてほしいって毎回思う。


 私は布団を蹴って起き上がり、軽くめまいがして、ベッドの端に座ったまま数秒止まった。朝の立ち上がりが悪い日はある。夜遅くまで配信してたし、たぶん寝不足のせいだ。うん、そういうことにしておくと話が早い。


 制服に着替えながら、鏡の前で髪を整える。ミルクティーっぽく染めた髪は、寝癖で右側だけ外ハネしていた。アイロンを温める時間はないから、ヘアオイルでごまかす。ごまかせているかは知らない。本人がごまかしたと思えばそれはもうごまかし。こういうのは大抵強い心が大事。


 メイクは最短ルートで行く。


 下地、眉、薄くアイライン、リップ。校則的にアウト寄りだけど、うちの学校はそのへんがぬるいんだ。進学校じゃない私立の良いところは、先生たちが生徒の個性という名の諦めに慣れているところ。もちろん限度はあるから、ギラギラに盛ると怒られるけど。私は怒られないギリギリを攻めているつもりだ。青春はいつだってチキンレースだって言うでしょ?攻めれるところは攻めていかないとさ?


 リビングに降りると、母さんがトーストを皿に置いていた。


「また遅くまで配信してたの?」


「してないしてない。ちょっとだけ雑談してただけ。世界はいたって平和だよ」


「声、少し枯れてない?」


「朝だからそんなもんでしょ」


 母さんは私の言い訳に慣れている顔で、ヨーグルトを出してくれた。心配そうに見られるのが苦手だから、私は先にトーストをかじって「うま」と言った。食べている姿を見せると、少しだけ安心してもらえるのを私は知っている。そういう小技だけ上達していくの、なんか嫌だなとは思うけど。


「今日は病院ない日だよね?」


「ない日。放課後は友達と寄り道するかも」


「無理はしないでね」


「無理するほど予定ないって」


 軽く返して、牛乳を飲む。


 母さんはそれ以上言わなかった。言いたいことはあるんだと思う。配信のこと、学校のこと、体調のこと、病院のこと。全部まとめて聞きたいけど、聞いたら私が逃げるのも知っている。だから言葉を飲み込めるだけ飲み込んで、私もそれに気づかないふりをする。家族って、たぶんそういう沈黙でできている部分がある。あ、またポエムになりそうだね。やめやめ。


 玄関で履き慣れた擦り傷だらけのローファーを履く。バッグはいつだって重い。教科書よりモバイルバッテリーとメイクポーチと折り畳み傘とイヤホンと謎のレシート類の束が重い気がする。女子高生の鞄は小宇宙だ。ブラックホール並みに物を吸い込んでいく。これはブン太が聞いたら喜びそうな表現かもしれないな。あいつ、ブラックホールっていう単語が超好きだったし。


「いってきまーす」


「いってらっしゃい」


 外へ出ると、朝の空気はもうかなり暑かった。


 七月の朝は全然さわやかじゃない。ドラマみたいなキラキラした通学路なんて存在しない。あるのは湿気、日差し、汗、電車の混雑、前を歩く人のリュックの揺れ。私は日傘を差そうとして、バッグの中で折り畳み傘とリップとレシートの束に阻まれた。昨日の私、整理整頓という概念をどこに置いてきた。


 駅まで歩きながら、スマホでSNSを確認する。


 青鮫透のアカウントには、夜の配信の感想がまだ流れていた。私は公式っぽいテンションで「昨日はありがとサメ。今日もみんなゆるく生きろサメ」と投稿しようとして、現実のサツキのアカウントと間違えそうになり、電柱の前で変な声を出した。


「あっぶな」


 アカウント間違いは配信者の死因ランキング上位。たぶん。知らんけど。


 青鮫透として「サメ」と書くのはセーフ。瀬名サツキとして「サメ」と書いたら終わり。いや、友達には「何その語尾、ウケる」で済むかもしれないけど、積み重なると危険。正体バレは一回の大事故より、小さい違和感の連続で起きるって、久我さんが前に言っていた。「日常の癖は、意外と隠せません」って。さりげなく怖いことぶっ込んでくるよね、あの人。


 電車は混んでいた。


 私は吊り革につかまりながら、窓に映る自分を見た。制服姿の私。少し明るい髪。リップ。眠そうな目。どこからどう見ても、配信で夜の悩みに答えているVtuberには見えない。…いや、見えなくていいんだけどさ。


 学校の最寄り駅で降りると、同じ制服の子たちが一気に流れていく。私もその中に混ざった。校門の前では生活指導の先生が立っていて、スカート丈と髪色とピアス穴をチェックしている。私は自然な顔で通り抜けようとした、そのときだった。


「瀬名」


 呼ばれた。


 はい来た。


「髪、また明るくなってないか」


「え、地毛です」


「先週も同じこと言ってたな」


「私の地毛は成長するんで」


「色は成長しない」


 先生のツッコミが意外と速い。やるじゃん。


「次、もう少し落ち着かせてこいよ」


「はーい、検討します」


「検討じゃなくて実行」


「前向きに善処します」


「政治家か」


 先生が呆れた顔をして、私は軽く頭を下げて校舎へ入った。これは勝ち。たぶん勝ち。怒鳴られなかったら勝ちっていうライン。基準低いけど、人生なんて大体そんなものだよ。


 教室に入ると、友達のミオがすぐにこっちを見た。


「サツキ、今日顔死んでない?」


「朝から褒めすぎ」


「褒めてないし。昨日また夜更かし?」


「ドラマ見てた。感動して泣いた」


「絶対嘘じゃん。サツキがドラマで泣くわけない」


「私にも涙腺あるわ」


「あるんだ」


「あるわ。失礼な」


 ミオは笑いながら、私の机にコンビニの新作グミを置いた。くれるのかと思ったら、普通に自分で食べ始めただけだった。ただの見せびらかしじゃないか。そういう性格の悪いところ、好きだよミオ。


 うちのクラスは、朝からわりと騒がしい。進学校みたいに全員が参考書を開いているわけじゃない。メイクを直している子、昨日の動画の話をしている子、単語帳を見ている子、机に突っ伏している子、先生が来るまでイヤホンを外さない子。私はこの雑さが嫌いじゃない。誰かが浮いていても、浮いているものが多すぎて逆に目立たないから。


 席に着くと、ミオが急に声を潜めた。


「そういえばさ、昨日ルミタイの青鮫透見た?」


 危ない。


 口に入っていた水を変なところへ送りかけた。


「……え、なに、急に」


「いや、切り抜き回ってきたんだよね。学校行けてない子への返し、なんかよくない? あのサメの子」


 私、本人です。


 とは言えない。


「へえ、そうなんだ」


「サツキ、Vとか見ないっけ?」


「見ないこともないかなー、くらい」


「青鮫ちゃん声いいよね。なんかサバサバしてるのに優しいっていうか、押しつけがましくない感じとかさ」


 やめて。


 本人の前で褒めるのやめて。


 顔が変になりそう。


「まあ、人気あるっぽいよね」


「ね。あとギザ歯かわいい」


「ギザ歯好きなん?」


「かわいくない? 噛まれたいとかじゃないけど」


「噛まれたいはだいぶ末期」


 笑いながら返したけど、心臓はそこそこ跳ねていた。友達の口から自分のVとしての名前が出るのは、何回経験しても慣れない。もちろん嬉しい気持ちはあるよ?自慢したい気持ちも、ほんのちょっとだけある。私だよ、すごくない? 夜にあんたが見てるそのサメ、実は隣でグミ奪おうとしてる私だよ。そう言えたら楽しいかもしれない。


 でも言ったら終わっちゃう。


 楽しいのは一瞬だけで、そのあとにこれまで築いてきたものが全部壊れてしまう。


 だから私は、ミオのグミを一粒奪って「うま」と言った。


「勝手に食べた!」


「お供えかと思った」


「誰に?」


「私」


「生きてるじゃん」


「朝は半分死んでる」


 ミオが笑って、私も笑う。教室の窓から入ってくる光が、机の上のグミの袋をきらっとさせながらカーテンの影をちらつかせている。どこにでもある普通の朝の下で、どこにでもいる普通の高校生と、何の変哲もないありふれた普通の会話たち。


 この普通が、ときどきものすごく遠く感じてしまう。


 一時間目は現代文だった。


 先生が黒板に書く文字をぼんやり見ながら、私はノートの端に小さなサメを描いていた。ギザ歯、ヒレ、丸い目。かわいいなおい。私、思った以上に絵心あるんじゃない? と思った三秒後、隣のミオに見られて「なにその魚、弱そう」と言われた。サメだよサメ。弱そう魚って何。


 授業中、先生が突然私を当てた。


「瀬名、ここ読んで」


「はい」


 私は立ち上がって教科書を読む。声を出すのは得意だった。配信で毎日のように鍛えているから、滑舌も悪くない。感情を乗せすぎず、平坦すぎず、聞き取りやすく。現実の授業でそんなスキルが活きるのって、考えただけでちょっとおもしろい。


 読み終えると、先生が少し驚いた顔をした。


「瀬名、読むの上手いな」


「え、ほんとですか。朗読系で食っていけます?」


「まずは定期テストで食っていける点を取れ」


「厳しいですね急に」


 クラスが少し笑った。


 こういうやり取りは得意だった。軽く返して、場を明るくして、自分の中身は極力見せないスタイル。青鮫透と瀬名サツキは、思ったより遠くないところにいるのかもしれない。昼は陸に上がって夜は海に帰るけど、結局のところどちらも私は私で、どちらも少しだけ演じている。


 昼休みになると、私はミオとユナと一緒に購買へ行った。購買のパンは争奪戦で、人気の焼きそばパンは三分で消える。私たちが到着したころには、焼きそばパンの棚だけ見事に空だった。


「終わった。私の昼、終わった」


「サツキ、いつも焼きそばパン買えてないよね」


「いつか勝つ。私は諦めない女だし」


「今週ずっと負けてるじゃん」


「長期戦だから」


 仕方なくツナマヨパンとカフェオレを買った。カフェオレ昨日も飲んだな。この一週間、ほぼほぼ糖分とカフェインで生かされているんだけど大丈夫かな。食生活にはある程度気を使っていかないといけないんだけど、ここ最近ジャンクフードしか口に入れてない気がする。…うん、健康とは。


 中庭のベンチに座ると、ユナがスマホを見ながら言った。


「ねえ、夏休みどっか行かない? 海とか」


 海。


 私はカフェオレのストローをくわえたまま、少しだけ反応が遅れた。


「海かあ」


「サツキ、海似合うじゃん。髪明るいし」


「髪明るいと海似合う理論なに」


「ギャルは海でしょ」


「偏見がすごい」


 青鮫透としてなら、たしかに海は似合う。むしろホームで、陸の時点で完全アウェイ。現実の私は日焼け止めを塗るのが面倒で、砂が靴に入るのも嫌で、水着を選ぶのもだいぶだるい。あと、体力的にもそこそこきついから、行くとしても泳ぐことはないかな。…まあ、そこは言わないようにするけど。


「行けたら行く」


「出た、来ないやつの返事」


「いやほんとに予定見ないとさ。病院……じゃなくて、家の用事とか」


 危ない。


 ミオが少しだけこちらを見た気がした。私はツナマヨパンを大きめにかじって、口を塞いだ。こういう時のパンって便利だよね、食べていれば喋らなくていいし。


 病院という言葉は、学校ではなるべく出さないようにしていた。体が弱いと思われるのも嫌だし、変に心配されるのも苦手だし、説明するのが面倒だから。私は明るくて、雑で、ちょっとだらしなくて、先生に髪色を注意されるくらいの女子でいたかった。“触ると危険”ラベルを貼られた病弱な保護対象みたいな扱いで接されたら、たぶん耐えられないんだ。できる限り私は普通でいたかったし、周りのみんなとは変な壁を作りたくなかった。…まあ、どっちかっていうと、周りに気を使ってへんに体力を使うのがだるいっていうかさ?


 午後の授業は眠かった。


 配信した翌日の五時間目に数学を入れるのは軽犯罪レベルの所業に近い。先生が二次関数の説明をしているあいだ、私はノートの端でサメと放物線を戦わせていた。最終的にサメが放物線に食べられた。やっぱ数学って怖いな。


 数学といえば、ブン太だ。


 あいつは昔から数字が好きだった。好きというより、数字の世界に住んでいる感じがあった。小学生のころ、みんながドッジボールをしている横で、ブン太は教室に残ってノートに変な図ばっかり描いていた。私はそれを見て「なにこれ、呪文?」と聞いたんだっけ。ブン太は真面目な顔で「ブラックホールの事象の地平面」と答えて、すっかり私を置き去りにして宇宙の果てまで行ってしまったのを覚えている。…っていうか小学生に事象の地平面を説明するなよ。ホラー並に怖いわ。


 でも、あのときのブン太は楽しそうだった。


 そりゃもう目が、おもちゃだらけのホビーショップを徘徊してる子供みたいにきらきらしていた。


 勉強ができる子にありがちな偉そうな感じはなくて、ただ本当に宇宙が好きで、誰かにそれを言いたくて仕方ないみたいだった。私は半分も理解していなかったけど、「へー、すごいじゃん」とほとんど棒読みで言った。ブン太の少し照れたあのなんとも言えない変態チックな顔を、なんとなく覚えている。


 最近のブン太は、どうしているんだろう。


 進学校に行って、頭のいい友達と難しい話をして、私のことなんて忘れているのかもしれない。いや、忘れていてもいいんだけどね?幼馴染って、ずっと一緒にいるものじゃないし。小学生のころ近所で遊んでいたからって、高校生になっても関係が続くほうが珍しい。


 そう思うのに、昨日の配信で拾った「学校行けてない」というコメントが、なぜかブン太の顔とつながっていた。


 まさかね。


 ブン太に限って、と思いかけて、私はシャーペンを止めた。


 限って、なんて言えるほど、今のあいつのことを知らない。


 最後にちゃんと話したのはいつだっけ。中学の卒業前? 高校の入学式前に道で会ったとき? あのとき私は友達といて、ブン太は制服姿で、少し大きめの鞄を持っていた。「進学校じゃん、すご」と言ったら、「別に」と返された。昔より背が伸びて、声も低くなって、少しだけ話しづらかった。


 それから、ほとんど会っていない。


 放課後、教室を出る前にスマホを見ると、ミオからメッセージが来ていた。目の前にいるのにメッセージを送ってくるという、女子高生あるあるである。


『今日カラオケ行く?』


 私は少し迷って、『ごめん、今日は帰る。寝不足』と返した。


『また夜更かしドラマ?』


『そう。全米が泣いた』


『サツキが泣くなら見るわ』


『私の涙への信頼なさすぎ』


 軽くやり取りを終えてスマホを制服のポケットに滑り込ませると、私は友達の輪から抜け出し、昇降口のむっとした空気を抜けて、一人で校門の外へ出た。


 帰り道の日差しは、朝よりもずっと強かった。白く光ったアスファルトから熱がじりじりと立ち上ってきて、ローファーの中にこもった湿気が足の指先までまとわりつく。背中には制服のブラウスがうっすら張りついて、首筋に落ちた髪まで暑苦しい。最悪だ。これはもう陸に打ち上げられたサメ。早く海に帰らないと干上がっちゃう。大変大変。ヒレがしおれる。エラが乾く。救助班、至急プールでも浴槽でもいいから水を持ってきてほしい。


 ……いや、違う違う。私はサメじゃない。


 れっきとした人類。高校二年生。瀬名サツキ。ミルクティー色の髪を校則ギリギリでごまかしながら、数学の小テストに怯え、購買の焼きそばパン争奪戦に負け続けている、どこにでもいる女子高生だ。うっかり設定に飲まれるな、私。今ここで「サメ」とか口に出したら、暑さで頭をやられた痛い子になる。

 いやまあ、半分くらいはもう手遅れかもしれないけど。


 駅前のコンビニでアイスを買った。昨日配信で名前を忘れた白いやつ。パッケージを見て、ああこれこれと思った。商品名はやっぱり覚えられなかった。カタカナが長くて、青鮫透の脳では処理できない。瀬名サツキの脳でも処理できない。誰だよこの商品のネーミング考えたやつ。消費者に喧嘩売ってるだろ。


 家に帰ると、母さんはまだ仕事から戻っていなかった。


 私は靴を脱いで、そのまま廊下に座り込んだ。ちょっと疲れたな。たぶん暑さのせいでもあるし、寝不足のせいでもある。空腹のせいっていうのもあるかな?理由はいくらでも作れるんだ。そうやって、自分をごまかせるようなありふれた理由を鼻歌のように作るのは得意になった。


 しばらくしてから立ち上がり、自室へ入って制服を脱ぎ、部屋着に着替えた。机の上には昨夜の配信環境がそのまま残っている。マイク、オーディオインターフェース、モニター、表情操作用のデバイス、メモ帳、飲みかけの水。現実の学校から帰ってきた私を、青鮫透の仕事場が待っている。


 今日は配信を休みにするかもしれない。


 久我さんに体調を報告しないといけない。


 私はスマホを開いて、『喉は昨日より大丈夫です。体はちょっとだるいけど、暑さか寝不足っぽいです』と送った。すぐに返信が来る。


『今日は休みにしましょう。明日の予定に回せます』


 久我さんの返事は、私が迷うために開けておいた小さな隙間を、きれいに塞ぐみたいに早かった。


 休む。


 たった二文字なのに、画面の上でそれを見ただけで、喉の奥に小さな骨が引っかかったみたいな感じがした。


 青鮫透として「今日はお休みします」と告知すれば、リスナーはきっと優しい言葉をくれる。「休んでえらい」「喉大事にして」「無理しないで」。私の回遊民たちは、そういうことをちゃんと言ってくれる人たちだ。だからこそ怖い。優しいコメントが並べば並ぶほど、私はその優しさに応えたくなって、次は元気な声を出さなきゃ、心配させたぶん楽しい時間にしなきゃ、と勝手に借金みたいなものを増やしてしまう。


 一日休むだけなら、まだいい。


 二日、三日と休みが重なると、コメント欄の空気は少しずつ変わっていく。最初は「お大事に」だった言葉の間に、「本当に大丈夫?」「何かあった?」「最近声しんどそうだったよね」みたいな心配が混じり始めて、そのうち誰かが勝手に理由を探し始める。喉の不調、メンタル、運営とのトラブル、案件疲れ。どれも違うようで、少しずつ当たっている気もするから、否定する言葉まで苦くなる。


 それに、配信しない夜の私は、思っているより使いものにならない。


 いつもならマイクの前に座って、開始画面を出してあの挨拶を言えば、青鮫透として泳ぎ出せる。声を出しているあいだは、怖いことも面倒なことも、体の奥に沈んでいる重さも、少しだけ海の底へ押し込められる。配信がない夜は、その押し込め先がない。部屋は静かで、時計の音がやけに大きくて、スマホの通知だけが光って、私は何もしないまま「本当は今ごろ喋っていたはずの時間」を眺めることになるんだ。


『了解です。休みにします』


 送ったあと、青鮫透のアカウントで告知を出した。


『ごめんサメ、今日は喉休めで配信お休みします。みんなもゆっくりしてくれサメ。明日また会えたら会おうね』


 投稿して数秒で反応が来る。


『休んでえらい』

『無理しないで、ほんとに』

『喉お大事に。あったかいもの飲んで』

『喉、大事。透ちゃんの声は国宝』

『明日でも明後日でも待ってるサメ』

『休める透ちゃん、ちゃんと偉い』

『配信ないの寂しいけど、元気な透ちゃんが一番』


 優しい。


 スマホの画面に流れてくる言葉は、どれも柔らかくて、押しつけがましくなくて、ちゃんと私のほうを向いている気がした。たった一行の休止告知に、こんなに早く、こんなにたくさんの「大丈夫」が返ってくる。青鮫透は愛されている。そこだけ切り取れば、すごく幸せなことのはずなのに、胸の奥に小さな針みたいなものが残る。


 みんな本当に優しい。


 優しいから、余計に痛い。


 私は画面を伏せて、スマホをベッドの端に置いた。通知の振動が布団越しにまだ小さく伝わってきて、見なければいいのに、見ないでいることにも罪悪感があった。返せない言葉が増えていくたびに、青鮫透を待ってくれている人たちの顔も名前も知らないまま、私はその期待だけを受け取っている。


 その重さをいったん振り払うみたいに、私はベッドへ背中から倒れ込んだ。


 天井は、昔から変わらない白だった。よく見ると真っ白ではなくて、部屋の隅に近いところだけ少し黄ばんでいて、エアコンの風が当たるあたりには薄い埃の筋がある。右上の端には、小さな染みがひとつ。雨漏りでもしたのかと昔は本気で心配したけど、母さんに聞いたら「たぶん糊の跡じゃない?」で終わった、正体不明の染み。


 その少し横に、星型の蓄光シールが貼りっぱなしになっている。


 もうずいぶん古いから、夜になってもほとんど光らない。買ったばかりのころは、電気を消すと薄緑にぼうっと浮かんで、私はそれを見上げながら「うわ、宇宙じゃん」とはしゃいだ。小学生のころ、ブン太と一緒に駅前の雑貨屋で買ったやつだ。星座っぽく貼ろうと言い出したのはブン太で、私は「じゃあ可愛くしよ」と言いながら、説明書も見ずに適当な位置へぺたぺた貼った。


 ブン太はすぐに眉間にしわを寄せた。


「これは星座じゃない」


 小学生のくせに、あいつは本気でそう言った。私は脚立代わりの椅子の上でシールを持ったまま、「細かっ。じゃあ新しい星座ってことでよくない?」と返した。ブン太は納得していない顔で天井を見上げて、少し考えてから、「新しくても、配置には意味がいる」と言った。


 意味。


 あのころのブン太は、何にでも意味を見つけたがった。


 私はその横で、意味がなくても光れば可愛いじゃん、と思っていた。


 あのころは、ブン太が隣の家の子で、よく一緒にいて、ちょっと変で、すごく頭が良くて、私の初恋の相手だった。


 初恋。


 うわ。


 自分で思い出して恥ずかしくなった。


 今はもう違う。たぶん。さすがに違う。高校生にもなって、小学生のころの初恋を引きずってます、なんて重すぎるし。私はギャルだし。初恋くらい卒業しているし。ブン太がいま急に目の前に現れても、別に、普通に、久しぶりって言えるし。たぶん。


 スマホが震えた。


 ミオからだった。


『そういえばさ、ブン太くんって覚えてる? サツキの幼馴染の』


 心臓が、変な跳ね方をした。


 なんで今その名前が出るの。


 私は起き上がって、画面を見つめた。


『覚えてるけど、なに?』


 返信が来るまでの数秒が妙に長く感じた。


『うちの塾にブン太くんの学校の子いるんだけど、最近来てないっぽいって聞いた。学校も休んでるらしいよ』


 私は画面の文字を何度か読み返した。


 学校も休んでるらしい。


 ブン太が。


 あのブン太が。


 数学ノートを抱えて、宇宙の話をして、進学校へ行ったブン太が。


 胸の奥が、少し冷えた。


『マジ?』


『マジっぽい。なんか色々あったらしいけど詳しくは知らん。サツキ幼馴染じゃなかったっけって思って』


 私はすぐに返事ができなかった。


 色々。


 その言い方が嫌だった。便利すぎる。何も知らなくても言えるし、何か知っていても隠せる。色々あった、でまとめられる出来事の中に、どれくらいの傷が入っているのか、外からはわからない。


 昨日の配信。


 学校行けてない、というコメント。


 まさか、と思う。


 まさか、あれがブン太だったとは思わない。そんな都合のいい偶然、あるわけない。青鮫透の配信にはたくさんの人がいる。学校へ行けていない子だって一人じゃない。ブン太が私の配信を見ている保証もない。そもそも私が青鮫透だなんて、あいつは知らない。


 それなのに、胸の中で何かがつながってしまった。


 私はミオに『ありがと、ちょっと確認してみる』と返して、スマホを握ったままベッドに座っていた。


 確認。


 どうやって?


 ブン太に直接連絡する? 連絡先、まだ残ってる? 残っているかもしれない。中学のときに交換したまま、ほとんど使っていないメッセージアプリ。いきなり「学校行ってないって聞いたけど大丈夫?」なんて送ったら、重すぎない? いや、幼馴染ならあり? ありなのか? 私なら嫌かも。噂で聞いたんだけど、みたいな入り方、最悪じゃない?


 行く?


 家に?


 近所だし。


 昔は何度も行ったことがある。ブン太の家の玄関、まだ覚えている。おばさんもたぶん私のことを覚えている。突然行ったら迷惑かもしれない。迷惑かもしれないけど、行かなかったら、この胸のざわざわをどこに置けばいいのかわからない。


 私は立ち上がって、鏡を見た。


 部屋着。


 髪ぼさぼさ。


 顔、やや死。


 さすがにこのままは無理。幼馴染に会いに行く格好ではない。いや、会えるかどうかもわからない。そもそも居留守されるかもしれない。もし本当にしんどいなら、私なんかが行っても何もできないかもしれない。


 それでも、行くしかない気がした。


 私はクローゼットから適当なTシャツとスカートを引っ張り出し、髪を手早く直して、リップだけ塗った。メイクをしっかりする時間はない。いや時間はあるけど、しっかりすると気合いが入りすぎて変。あくまで近所の幼馴染の様子を見に行くだけ。そう自分に言い聞かせる。


 バッグにスマホと財布と鍵を入れたあと、なぜか青鮫透の配信用メモ帳が目に入った。


 今日の配信は休み。


 青鮫透は今夜、海に出ない。


 そのかわり、瀬名サツキが陸を歩く。


「サメ、陸に上がるか」


 私は小さく言って、部屋を出た。


 玄関で靴を履くとき、少しだけ息が上がっていることに気づいた。階段を降りただけでこれ。情けな。まあ、暑いし。寝不足だし。理由はある。理由はいつもある。


 外はもう、夕方の手前まで傾いていた。


 昼間の白っぽい熱をまだ残したまま、夏の光だけが少しずつ橙色に変わりはじめていて、住宅街のブロック塀には電柱や庭木の影が細長く伸びていた。アスファルトからはぬるい熱がじわっと上がってきて、歩くたびにローファーの中が少し蒸れる。耳の奥では蝉の声が途切れず鳴っていて、どこかの家の換気扇から流れてきたカレーの匂いが、夕飯前の時間をやけにはっきり思い出させた。


 小学生のころなら、たぶんこの時間、私はブン太と並んでこの道を歩いていた。ランドセルを背負い直しながら、近所の小さな商店で棒アイスを一本ずつ買って、私は袋を開けた三分後にはもう食べ終わっていて、ブン太はまだ半分も残っているアイスを大事そうに持ったまま、「サツキ、早すぎる」と本気で呆れた顔をしていた。あのころの私は、それに「溶ける前に食べるのが礼儀でしょ」とか適当なことを言い返して、ブン太のアイスをひと口もらおうとして、たいてい断られていた。


 歩きながら、私は何を言うか考えた。


 久しぶり。


 元気?


 学校休んでるって聞いた。


 それは駄目。最初から刺しに行ってる。


 遊びに来た。


 それも変。高校生の幼馴染が急に遊びに来るの、だいぶ変。


 近く通ったから。


 嘘が雑。


 青鮫透なら、こういうときなんて言うだろう。


 無理に元気なふりしなくていいサメ。


 昨日の私は、画面越しにそう言えた。


 現実の私は、たった一人の幼馴染に向ける言葉をまだ決められない。


 ブン太の家の前に着くと、門扉の横に掛かった表札が昔と同じ位置にあって、黒い文字で書かれた「豊島」という苗字も、端のほうが少し欠けた白いプレートも、私の記憶の中にあるものとほとんど変わっていなかった。そのことに、なぜだか胸の奥がふっと緩んだ。小学生のころは何度もこの門を開けて、勝手に玄関先まで入って、ブン太のおばさんに「また来たの」と笑われていた場所が、今もちゃんとここに残っている。そう思っただけで、少しだけ勇気が出た。


 インターホンは門柱の右側にあった。昔はもっと高いところにある気がしていたのに、今は普通に手を伸ばせば届く高さで、それが妙に変な感じだった。私は人差し指をボタンの前まで持っていき、押す寸前でぴたりと止めた。


 ……いや、何やってんの、私。


 配信では何千人を相手に「こんサメー!」なんて言えるくせに、たかが幼馴染の家のインターホン一つで固まっている。情けない。…ほんとに情けない。青鮫透だったらコメント欄に「押せ押せ」「ビビってて草」「サメ、陸で弱い」とか流れているところだ。


 でも現実のインターホンは強い。


 コメント欄より強い。


 押したら誰かが出る。出たら、もう引き返せない。ブン太が家にいるかもしれないし、いないかもしれないし、いたとしても会いたくないと言われるかもしれない。そんな当たり前の可能性が、ボタン一つの向こう側でやけに大きく膨らんでいた。


 私は小さく息を吸って、夏の夕方のぬるい空気を肺に入れた。蝉の声が耳の奥でじりじり鳴っている。手のひらが少し汗ばんでいる。スマホの画面越しならいくらでも平気なふりができるのに、今の私は、ただの瀬名サツキだった。


「……よし」


 誰に聞かせるでもなく呟いて、私は今度こそボタンを押した。


 家の中で、懐かしいチャイムの音が鳴った。昔と同じ音だった気もするし、違う音だった気もする。数秒の沈黙が妙に長くて、私は押したばかりの指先をスカートの横でぎゅっと握った。


 やがて、インターホンから少し雑音混じりの女性の声がした。


「はい」


「あ、えっと、瀬名です。サツキです。ブン太くん、いますか?」


 自分で言って、くん付けに違和感があった。昔はブン太って呼び捨てだった。今も心の中ではそう呼んでいる。おばさんの前だからってへんに丁寧ぶってしまった。…変なの。


「サツキちゃん?」


 声が明るくなった。


「久しぶりね。ちょっと待ってて」


 玄関の鍵が開く音がして、ドアが開いた。ブン太のお母さんは昔より少し痩せたように見えたけど、笑い方は変わっていなかった。


「大きくなったわねえ。すっかりお姉さんになって」


「いやいや、そんな。中身はだいぶ小学生です」


「ふふ、ブン太に会いに来てくれたの?」


「あー、はい。ちょっと近くまで来たんで」


 嘘が雑。


 おばさんは気づいているような顔をしたけれど、何も言わなかった。


「部屋にいるわ。最近あまり外に出ていなくて……来てくれて嬉しい」


 その一言で、胸の奥がまた少し冷えた。


 私は靴を脱いで、昔と同じ廊下を歩いた。壁に貼ってある家族写真、階段の角に置かれた観葉植物、微かに漂う洗剤の匂い。懐かしいなおい。懐かしいのに、少し知らない家みたいだった。


 ブン太の部屋は二階。


 おばさんがノックする。


「ブン太、サツキちゃんが来てくれたわよ」


 中から返事はなかった。


 沈黙。


 おばさんが困ったようにこちらを見る。私は笑ってみせた。


「あ、私から声かけてもいいですか?」


「ええ」


 私はドアの前に立って、軽く咳払いした。


 さて、第一声。


 どうする。


 久しぶり、瀬名です。


 固い。


 元気してる?


 元気じゃなかったら終わる。


 ブン太、いる?


 いるからここに来ている。


 私は迷った末に、いつもの調子を少しだけ混ぜて言った。


「ブン太ー、生きてるー? 瀬名サツキ様が来てやったんですけどー」


 部屋の中で、何かが小さく動く音がした。


 返事はない。


「居留守は無理だよ。今なんか動いた音したし。てか私、昔からこの家の床のきしむ音わかるからね。無駄に幼馴染なめんな」


 おばさんが後ろで小さく笑った。


 しばらくして、ドアの向こうから低い声がした。


「……なんで来たんだよ」


 久しぶりに聞くブン太の声は、記憶より低くて、少し掠れていて、布団の中から出てきたみたいに重かった。


 私はドア越しに笑った。


「暇だったから」


「帰れよ」


「やだ」


「なんでだよ」


「ここまで来て帰ったら、私ただのインターホン押し逃げ女じゃん。犯罪の匂いするでしょ」


「しない」


「するって。近所で噂になるって。『瀬名さんちのサツキちゃん、豊島さんちのチャイムだけ押して帰ったらしいわよ』って」


「ならない」


 返事がある。


 会話が成立している。


 それだけで、少し安心してしまった。


「開けてよ。顔くらい見せな」


「嫌だ」


「即答すな」


「帰れ」


「やだって」


 昔みたいなやり取りだった。懐かしくて、少しだけ泣きそうになって、もちろん泣くわけにはいかないから、私はわざと明るい声を出した。


「じゃあ十秒だけ。十秒顔見たら帰る」


「絶対帰らないだろ」


「バレた?」


「バレるだろ」


「さすが進学校。頭いい」


 沈黙のあと、ゆっくりドアが開いた。


 隙間から見えたブン太は、私の記憶よりずっと痩せて見えた。髪は少し伸びていて、目元には寝不足の影があって、Tシャツの襟元はよれていて、部屋の中はカーテンが閉まって薄暗かった。机の上にはノートが積まれている。見覚えのある、数式だらけのノート。昔から変わらない数学ノート。


 胸が詰まった。


 言いたいことが一気に増えて、どれも言えなくなった。


 だから私は、いちばん馬鹿っぽいことを言った。


「うわ、ブン太、ちゃんと高校生じゃん。誰かと思った」


 ブン太は眉を寄せた。


「お前もな」


「私、可愛くなったでしょ」


「自分で言うな」


「言わなきゃ伝わんないじゃん」


「伝えなくていい」


 少しだけ、ブン太の口元が動いた気がした。


 笑った、かもしれない。


 それだけで、今日ここまで来た意味があった気がした。


 私はドアの隙間から部屋を覗き込み、わざと大げさに顔をしかめた。


「暗っ。吸血鬼住んでる?」


「勝手に見るな」


「いや見えるし。カーテン開けなよ。光合成しな」


「俺は植物じゃない」


「知ってる。植物のほうがたぶん生活リズムいい」


「うるさいな」


「久しぶりに会った幼馴染にうるさいはひどくない?」


「うるさい幼馴染にうるさいって言って何が悪い」


「正論やめて。私、正論に弱い」


 言いながら、私は部屋へ入っていいか視線で聞いた。ブン太は嫌そうな顔をしたまま、少しだけドアを広げた。許可と見なす。私は遠慮なく入った。


 部屋の中は、思ったより片づいていた。いや、綺麗という意味ではない。散らかってはいる。参考書、ノート、ペットボトル、古い宇宙雑誌、タブレット、イヤホン。けれど、何もかも投げ捨てられている感じではない。ブン太の世界が、ここにぎゅっと押し込められている感じだった。


 机の横に置かれたスマホの画面が、一瞬だけ光った。


 通知。


 私は見ないふりをした。


 見ないふりをしながら、心臓だけが勝手に反応した。


 青鮫透の通知だったらどうしよう。


 そんな都合のいい偶然、ない。ないはず。


 私はベッドの端を指さした。


「座っていい?」


「もう入ってるだろ」


「じゃあ座るね」


「聞いた意味」


「礼儀の演出」


 ベッドの端に腰を下ろすと、沈んだマットレスがかすかに軋んで、ブン太はその音から逃げるみたいに机の椅子へ座り直した。机とベッドのあいだには、脱ぎっぱなしのパーカーと、半分だけ開いた参考書と、キャップの閉まったペットボトルが転がっていて、昔なら私が勝手にそれをどかして床に座り、「この漫画、続きどこ?」なんて言っていたはずなのに、今はその散らかった数十センチが妙に深い溝みたいに見えた。


 高校生の男女だから気まずい、というだけなら、まだ笑い飛ばせたと思う。照れてんの、ウケる。そんなふうに雑に茶化せたと思う。けれど今のブン太は照れているというより、誰かが近づいてくる気配そのものに身構えているようで、椅子の背もたれに預けた肩も、膝の上で握られた手も、部屋の隅に置かれた古い望遠鏡みたいに静かで、簡単に触ったら壊れそうだった。


 私は、その見えない境目を無理やり踏み越えたいわけではなかった。


 踏み越えたら、たぶんブン太はもっと奥へ引っ込む。


 だから私は、いきなり扉を開けるかわりに、ノックするくらいの声を選んだ。


「学校、休んでるって聞いた」


 結局、それしか言えなかった。


 遠回しに「最近どう?」なんて聞けるほど器用じゃないし、何も知らないふりで笑い続けられるほど鈍くもなれなかった。


 ブン太の目元から、さっきまで残っていた小さな呆れが消えた。唇が薄く結ばれて、机の上の数学ノートへ落ちていた視線だけが、行き場をなくしたみたいに止まった。


「誰から」


「友達経由。噂みたいな感じ。ごめん、勝手に聞いた」


「別に」


「別に、じゃない顔してるけど」


「どんな顔だよ」


「『うわ最悪、知られた』って顔」


「……帰れよ」


「やだ」


 同じやり取り。


 でも今度は、笑いにしづらかった。


 私は膝の上で手を組んだ。変に真面目な顔をすると逃げられそうだから、少しだけ軽い調子を残す。


「別にさ、説教しに来たわけじゃないよ。学校行けとか、頑張れとか、そういうの言いに来たんじゃない。私が言っても説得力ないし。私なんか今日、数学の授業でサメと放物線を戦わせてたから」


「何やってんだよ」


「放物線が勝った」


「意味がわからない」


「私もわからない」


 ブン太が少しだけ呆れた顔をした。


 その顔を見て、私はようやく少し息ができた。


「ただ、気になった。昔のよしみってやつ。あと、暇だった」


「暇で来るな」


「暇って強いんだよ。世界を動かすからね」


「大げさ」


「私の中では大事件だったの。幼馴染がレアキャラ化してるって聞いたから、捕獲しに来た」


「俺はポケモンじゃない」


「知ってる。ブン太は宇宙オタク」


「宇宙オタクって言うな」


「じゃあ宇宙ガチ勢」


「もっと嫌だ」


 部屋の空気が、ほんの少しだけ緩む。


 私は机の上のノートを見た。表紙の端に、小さく「数学ノート」と書かれている。昔からそう呼んでいた。ノートの中身は、私にはほとんど読めない式と図ばかり。ブン太の頭の中へ続く地図みたいなもの。


「まだ書いてるんだ、それ」


「……まあ」


「すご。私、ノート続いたことない。最初のページだけ丁寧に書いて、二ページ目から終わる」


「知ってる」


「なんで知ってんの」


「昔からそうだっただろ」


「記憶力よすぎ。怖」


 ブン太は視線をノートへ落とした。


 その横顔を見て、私は思った。


 まだ好きなんじゃん。


 宇宙のこと。


 数学のこと。


 まだ完全には捨てていない。


 それがわかっただけで、少しほっとした。


 私は部屋の中を見回しながら、わざと明るい声で言った。


「ねえ、ブン太」


「今度は何」


「コンビニ行こ」


 ブン太は、私がとんでもない犯罪計画でも持ちかけたみたいな顔をした。


「行かない」


「早い。脊髄で拒否すな」


「行かないって言った」


「いやいや、まだプレゼン始まってないから。瀬名サツキの外出誘導プラン、第一部、コンビニアイス編を聞いてから判断して」


「聞かなくても結論は同じ」


「そういう頑固さ、昔から変わんないね。小学生のときも、流星群見るって言って夜中まで起きて、私が眠いって言ってんのに『ピークは二時』とか言って譲らなかったし」


「それは実際、二時がピークだった」


「出た、正論。しかも十年越しにまだ強い。やめて、私の負けが確定する」


 ブン太は机の椅子に座ったまま、少しだけ目をそらした。カーテンの隙間から入ってくる夕方の光が、彼の頬の片側だけを薄く照らしていて、その顔は昔より大人びて見えるのに、むすっとした表情だけはあの頃とあまり変わらなかった。


 私はそこにつけ込むことにした。


 幼馴染の特権というやつである。


「じゃあ、こうしよ。コンビニじゃなくて、家の前の自販機まで」


「行かない」


「門の外まで」


「行かない」


「玄関まで」


「行かない」


「部屋のドアの外まで」


「それもう外じゃないだろ」


「出た! ツッコミできるじゃん。よかった、生きてる」


「確認方法が雑なんだよ」


「雑でいいの。丁寧にしたら重くなるでしょ」


 言ってから、少しだけしまったと思った。


 軽く言いすぎたかもしれない。

 重くなる、なんて、今のブン太の部屋で言うには少しだけ生々しい。


 ブン太は黙った。


 私は慌てて、ベッドの端から立ち上がった。


「ごめん、今のはなし。いや、なしって言っても聞こえてるけど、ニュアンス的になし。私の口、たまに先走るんだよね。たぶん足より速い」


「意味わかんない」


「私もわかんない。でも勢いはある」


 ブン太が、ほんの少しだけ息を吐いた。


 笑った、まではいかない。

 それでも、完全に閉じた感じではなくなった。


「アイス買おうよ。白いやつ」


「白いやつって何」


「名前忘れた」


「情報が少ない」


「食べたらわかる」


「買う前にわからないと買えないだろ」


「そこは気合いで」


「無理」


 拒否が速い。


 でも、完全に切られている感じではない。


 私はベッドから立ち上がり、カーテンのほうへ歩いた。


「開けるよ」


「勝手に開けるな」


「じゃあ許可して」


「嫌だ」


「許可されなかったので、強行します」


「おい」


 カーテンを少しだけ開けると、夕方の光が部屋に入った。ブン太が目を細める。私は全部は開けず、ほんの少しだけにした。いきなり全開はきつい。私もそこまで無神経じゃないんだよ。たぶんね。


「ほら、外、まだ世界あるよ」


「そりゃあるだろ」


「確認大事じゃん。たまに見ないと、部屋の中だけで完結しちゃうし」


「別に、それでいい」


 私は窓の外を見た。カーテンの隙間から差し込む夕方の光は、部屋の床に細長く伸びていて、その先で積まれた参考書の角だけをぼんやり照らしていた。空はまだ完全な夜にはなりきれず、薄いオレンジの端に青が溶け残っている。住宅街の屋根はその光を受けて少しだけ赤く見えて、何本も交差する電線の向こうでは、名前も知らない鳥が一羽、急ぐみたいに飛んでいった。


 遠くで蝉が鳴いている。


 近くの家から夕飯の匂いがして、誰かの自転車のブレーキ音が細く響いて、夏はいつも通りの顔でそこにあった。私が立ち止まっても、ブン太が部屋にこもっていても、何も知らないみたいに暑くて、明るくて、少しだけうるさい。


 短い夏が、そこにある。


 短い。


 その言葉が頭に浮かんで、私はすぐに追い払った。


 今はまだ、そんな話をする時間じゃない。


「よくないって言う気はないよ。ブン太の部屋だし、ブン太のペースだし。私が急に来て、学校行けとか、外出ろとか、人生変えろとか言い出したら普通にうざいじゃん」


「もうだいぶうざい」


「正直でよろしい」


「褒めるな」


「じゃあ減点。幼馴染に対する態度が悪いのでマイナス五点」


「採点基準が意味不明」


「私が先生だったら、だいたい気分で点つける」


「最悪だな」


「だから先生にならないようにするよ。世界のために」


 そう言うと、ブン太の口元が少しだけ動いた。


 今度は、たぶん笑った。


 私はその小さな変化を見逃さないようにしながら、机の上に置かれていた数学ノートへまた、視線を向けた。昔からブン太が持ち歩いていたノートより、今のものはずっと分厚く、書き込みも細かかった。ページの端には、式なのか図なのか私には判別できないものがびっしり並んでいる。


「それ、持って出ようよ」


「は?」


「数学ノート。昔みたいにさ、外で見せてよ。公園のベンチとかで。ほら、あんた昔、私が全然わかってないのにブラックホールの説明してきたじゃん」


「あれはお前が聞いたから」


「聞いたっけ?」


「聞いた」


「たぶん『それ何?』くらいの軽さだったと思うんだけど、そこから宇宙の終わりみたいな話された記憶ある」


「宇宙の終わりじゃない。事象の地平面」


「出た。小学生女子に言っていい単語じゃないランキング上位」


「勝手にランキング作るな」


「じゃあ今日も聞く。私、たぶん前より少し賢くなってるし」


「少し?」


「そこ食いつく?」


「自分で少しって言っただろ」


「謙遜。日本人の美徳」


「お前が言うと嘘っぽい」


「ひどい」


 私はわざと大げさに胸を押さえた。


 ブン太は呆れた顔をしていたけれど、さっきより表情が動いていた。


「今日の目標は決まりね?コンビニじゃなくて公園。昔よく行ったとこ。あの、すべり台が無駄に熱くなる公園」


「遠い」


「徒歩五分」


「遠い」


「ブン太の距離感、完全に宇宙基準じゃなくなってるじゃん。昔は何億光年とか言ってたのに、今は徒歩五分が遠いの?」


「そういう問題じゃない」


「じゃあ、何の問題?」


 ブン太は答えなかった。


 私は急かさずに待った。


 こういう沈黙を、前の私はたぶん待てなかった。すぐに冗談を足して、空気をぐちゃぐちゃにして、自分が気まずくならないようにしていたと思う。今もかなりやりそうになっている。口が勝手に動きそうになる。けれど、ここで私が喋りすぎたら、ブン太が何かを言う場所がなくなる。


 だから黙った。


 珍しく。


 瀬名サツキ、成長している。


 誰か褒めて。


 ブン太はしばらくノートを見ていたあと、小さく言った。


「外に出ると、誰かに会うかもしれない」


「うん」


「学校のやつとか」


「うん」


「何してるんだって思われる」


「うん」


「……そういうのが、めんどくさい」


 めんどくさい。


 その一言に、たぶん色々入っていた。怖いも、嫌だも、情けないも、腹が立つも、説明したくないも、全部まとめて「めんどくさい」に押し込めている感じがした。


 私は軽く頷いた。


「じゃあ、会わなそうな時間に行こ。今ならちょうど夕飯前だし、小学生は帰ってるし、高校生は駅前か塾か部活でしょ」


「なんでそこまでして行かせたいんだよ」


「昔みたいに、あんたの宇宙の話聞きたいから」


 ブン太が顔を上げた。


 私はできるだけ普通の顔をした。

 本当は、普通じゃない。

 学校を休んでいる理由を知りたいし、何があったのかも気になるし、今のブン太の部屋が暗すぎることも気になっている。けれどそれを全部ぶつけたら、たぶん彼はドアを閉める。


 だから、一つだけにする。


 昔みたいに、外で話す。


 それだけ。


「あんたさ、昔よく言ってたじゃん。空は見る場所で全然違うって。家の窓から見るのと、公園で見るのと、山で見るのとじゃ、同じ星でも見え方が違うって」


「そんなこと言ったっけ」


「言った。私が『星なんて全部点じゃん』って言ったら、めちゃくちゃ不満そうな顔してた」


「それはお前が悪い」


「うん、今ならちょっとだけわかる。全部点は雑だった」


「ちょっとだけかよ」


「ちょっとずつ成長するタイプなので」


 私は机の上のノートを軽く指さした。


「だから、今日ちょっとだけ外で見せてよ。空でも、ノートでも、なんでもいいから。私、昔よりは聞く姿勢あるよ」


 ブン太は疑うような目で私を見た。


「本当に聞くのか」


「聞く。途中でアイス食べるかもしれないけど聞く」


「集中力ないだろ」


「アイス食べながらでも聞ける。私をなめないで」


「なめてない。信用してない」


「もっと悪い」


 私は笑った。


 ブン太はまた黙った。


 部屋の外から、おばさんが階段を下りていく音が聞こえた。古い木の段が小さく鳴って、下の階で食器棚を開ける音が続く。遠くの家からはカレーの匂いが流れてきて、閉め切った部屋の空気に、夕飯前の住宅街の気配が少しずつ混ざっていった。


 ブン太の部屋だけが止まっているわけじゃない。


 外ではちゃんと夕方が進んでいて、どこかの家では誰かが米を炊いて、誰かがテレビをつけて、誰かが「ご飯できたよ」と呼ばれている。そういう当たり前の音が、カーテンの隙間から入り込む光よりも先に、ブン太の肩へ触れた気がした。


 彼はノートへ視線を落とし、しばらく迷ったあとにため息をついた。


「……五分だけ」


 私は思わず声を上げそうになって、なんとか飲み込んだ。

 ここで喜びすぎると逃げられる。

 慎重に。

 慎重にいけ、サツキ。


「五分ね。了解。延長料金は?」


「ない」


「ケチ」


「帰れ」


「出る前に帰らせようとすな」


 ブン太は椅子から立ち上がった。

 立ち上がる動きが少しぎこちなく見えた。久しぶりに外へ出るからなのか、単にずっと座っていたからなのか、私にはわからない。わからないまま、私は見なかったふりをした。


 彼は机の上の数学ノートを取ろうとして、途中で手を止めた。


「持っていく必要ある?」


「ある。今日のメインゲストでしょ」


「ノートが?」


「そう。豊島ブン太先生と数学ノート先生による、瀬名サツキにもわかる宇宙講座」


「絶対わからないだろ」


「タイトルで諦めないで」


 ブン太は小さく息を吐いて、結局ノートを持った。


 私はそれを見て、胸の奥で小さくガッツポーズをした。

 実際にはやらない。やったら怒られる。

 でも心の中ではめちゃくちゃやった。


「準備できた?」


「うるさい」


「まだ何も言ってないのに」


「顔がうるさい」


「顔で喋れるの、才能じゃん」


「褒めてない」


「知ってる」


 二階から降りると、おばさんが玄関のほうを見て、驚いた顔をした。


「ブン太、出かけるの?」


 ブン太は答えづらそうに目を伏せた。


 私は代わりに、明るく手を上げた。


「ちょっとそこまで連れ出します。五分だけです。誘拐じゃないです」


「誘拐って自分で言うな」


「ちゃんと保護者に申告するタイプの誘拐」


「最悪だろ」


 おばさんは口元を押さえて笑ったあと、すぐに少し泣きそうな顔をした。私はそれを見て、胸が詰まった。

 ブン太は見ないふりをして、靴を履く。

 私も見なかったふりをする。


「いってきます」


 ブン太の声は小さかった。


 それでも、おばさんは嬉しそうに「いってらっしゃい」と言った。


 ドアを開けると、夕方の空気がぬるく流れ込んできた。


 昼間みたいに肌を焼く強さはもうないのに、熱はまだ地面の奥に残っていて、玄関先のタイルからも、門まで続くコンクリートからも、夏の名残みたいな温度がじわっと上がってくる。湿気は遠慮なく腕や首筋にまとわりついて、家の中の冷えた空気に慣れていた身体を、外の世界へ無理やり引き戻してくる。


 ブン太は一歩だけ外へ出たところで立ち止まり、まぶしそうに目を細めた。


 カーテン越しではない光が、彼の頬と伸びかけた前髪を照らしていた。ほんの数秒のことなのに、部屋の薄暗さに沈んでいた輪郭が少しずつ戻ってくるみたいで、私は胸の奥で小さく息を吐いた。


「ほら、世界」


「うるさい」


「今日のブン太、うるさいしか言わないじゃん」


「お前がうるさいからだろ」


「そっか。原因私か。納得」


 私は歩き出した。

 ブン太は少し遅れてついてくる。

 歩幅が昔より大きくなっていて、ちゃんと背も伸びているのに、外の空気に慣れていないみたいに足取りは慎重だった。


 私はわざと少しゆっくり歩いた。


「この道、懐かしくない?」


「まあ」


「昔、ここで私が転んだの覚えてる?」


「覚えてる。膝から血出て泣いてた」


「泣いてないし」


「泣いてた」


「泣いてない。あれは汗」


「膝から汗は出ない」


「理系の正論やめて」


 ブン太が少し笑った。


 さっきより、ちゃんと。


 私は前を向いたまま、つられて笑った。


 公園までは本当に徒歩五分だった。

 昔はもっと遠く感じたのに、今歩くと拍子抜けするくらい近い。すべり台とブランコと、ベンチが二つあるだけの小さな公園。砂場には猫よけのネットがかかっていて、古い水飲み場の蛇口からはぽたぽたと水が落ちていた。


 誰もいなかった。


「ほら、貸し切り」


「偶然だろ」


「偶然を味方につける女、瀬名サツキ」


「大げさ」


 私はベンチに座って、隣をぽんぽん叩いた。


「はい、先生こちらへ」


「先生じゃない」


「じゃあ博士」


「それも違う」


「ブン太博士」


「やめろ」


 文句を言いながらも、ブン太は隣に座った。

 距離は少し空いているけど、今はそれでいい。


 ブン太は数学ノートを膝の上に置いた。

 表紙の角が少し折れていて、何度も開いた跡がある。私はそのノートを見て、昔のブン太がまだここにいる気がした。


「で、今日は何を教えてくれるんですか、博士」


「教えるってほどじゃない」


「いいよ。私、わからないことをわからないまま聞くの得意だから」


「それ、得意って言うのか」


「言う。たぶん」


 ブン太は迷ったあと、ノートを開いた。

 ページには丸い図と、曲線と、細かい式が並んでいた。私にはやっぱりほとんど読めないけれど、不思議と嫌ではなかった。


「これは?」


「ブラックホールの降着円盤のメモ」


「こうちゃくえんばん」


「言えてない」


「言えたし。こうちゃくえんばん。ほら、言えた」


「降着円盤は、ブラックホールの周りにあるガスとか塵が回転してる構造で、摩擦とか重力エネルギーで高温になって光る」


「待って、早い。いきなり情報量が多い。私まだ靴脱いでないのに海に投げ込まれた感じ」


「靴は脱がなくていいだろ」


「そういう問題じゃない」


 ブン太は少し困った顔をしたあと、ノートの図を指でなぞった。


「つまり、見えないものの周りに、見えるものが集まってる」


 私はその説明に、少しだけ黙った。


 見えないものの周りに、見えるものが集まっている。


 難しい言葉より、そっちのほうがわかった。


「それ、ちょっとかっこいいね」


「そうか?」


「うん。見えないのに、周りが光るからそこにあるってわかるんでしょ」


「まあ、ざっくり言えば」


「ざっくりでいい。私、ざっくり担当だから」


 ブン太はノートを見つめたまま、少しだけ表情を緩めた。

 話しているうちに、声の重さが少しずつ取れていくのがわかった。宇宙の話をするときのブン太は、昔からこうだった。誰かに聞かせているというより、自分の中でずっと光っていたものを、こぼさないようにそっと取り出しているみたいに話す。話し始めは遠慮がちで、こちらの顔色をうかがうくせに、途中から夢中になって、説明が少し早くなって、私が半分も理解していないことに気づかない。


 その不器用さが、たぶん私は昔から嫌いじゃなかった。


「ブラックホールは光も逃げられないから、直接見るのは難しい。でも周りの物質の動きとか、光の曲がり方とかで存在がわかる」


「本人が見えなくても、周りでわかるんだ」


「本人って言い方は変だけど」


「いいじゃん、ブラックホール本人」


「変だって」


「じゃあ、ブン太もブラックホールみたいなもん?」


 言った瞬間、ブン太がこちらを見た。


 しまった。


 軽く言いすぎたかもしれない。

 私はすぐに手を振った。


「ごめん、変な意味じゃなくて。部屋にこもって見えなくなっても、数学ノートとか、おばさんの心配とか、私の記憶とか、そういう周りのやつで、ちゃんといるってわかるじゃんって話。いや、今のもなんか変か。ごめんね。私理系の比喩とか、下手すぎるし」


 ブン太はしばらく黙っていた。


 私は余計なことを言ったかもしれないと、ベンチの端を指でいじった。


 やがて、ブン太が小さく言った。


「別に、消えたわけじゃない」


「うん」


「学校に行ってないだけで」


「うん」


「……それだけ」


「うん。それだけでも、しんどいときはしんどいよ」


 ブン太は返事をしなかった。


 私はそれ以上聞かなかった。


 公園の向こうの道を、自転車に乗った小学生が二人通り過ぎていく。

 ブランコの鎖が風で少し揺れて、金属の小さな音がした。空はさっきより青が濃くなって、夕方から夜へ変わる準備をしている。


 五分は、とっくに過ぎていた。


 私は腕時計を見るふりをして言った。


「博士、延長入ってますけど」


「自分で連れてきたんだろ」


「そうだけど。延長料金どうします?」


「アイスでいい」


「え」


「白いやつ」


 私はブン太を見た。


 ブン太はノートに目を落としたまま、少しだけ口元をゆるめていた。


「……行くの? コンビニ」


「お前が行きたいって言ったんだろ」


「言った。言ったけど。え、まじで? ブン太、コンビニ行くの? 今日、記念日?」


「やっぱ行かない」


「行く! 行きます! 瀬名サツキ、今の発言を全面撤回します! コンビニ行こ! 白いやつ買お!」


「うるさい」


「うるさくても行く!」


 私は勢いよく立ち上がった。


 少しだけ立ちくらみがした。

 すぐに笑ってごまかす。


「ほら、行こ。売り切れる前に」


「白いやつが何かわからないのに?」


「見ればわかる」


「本当に適当だな」


「適当でも、歩けば着くから」


 ブン太はノートを閉じ、立ち上がった。

 玄関まででもなく門まででもなく、公園まで来て、今度はコンビニへ向かおうとしている。


 すごいじゃん。


 そう言いたかった。


 言ったら、きっと嫌がる。


 だから私は言わなかった。


 代わりに、昔みたいに一歩先を歩いて、振り返った。


「ブン太、早く。置いてくよ」


「徒歩五分で置いていくな」


「宇宙規模で見たら誤差だよ」


「急に宇宙を雑に使うな」


「覚えたてだから使いたい」


「覚えたての使い方じゃない」


 ブン太が文句を言いながら歩き出す。


 私は夕方の道を見ながら、胸の奥でそっと息を吐いた。


 何も解決していない。

 学校へ戻れるようになったわけでもない。

 ブン太が何に傷ついているのか、私はまだ知らない。

 それでも、暗い部屋のカーテンを少し開けて、数学ノートを持って、昔の公園まで歩いて、白いやつのアイスを買いに行く。


 それは、たぶんゼロじゃない。


 私はそう思うことにした。


 夕方の住宅街を、私たちは並んで歩いた。

 昔より背の高くなったブン太の影と、昔より少しだけ急ぎすぎる私の影が、アスファルトの上で伸びたり縮んだりしている。蝉の声は相変わらずうるさくて、湿った風は全然涼しくなくて、コンビニまでは本当にたいした距離ではない。


 それでも、今日のブン太にとっては、たぶんかなり遠い。


 だから私は、わざとどうでもいい話を続けた。


 白いアイスの名前が覚えられないこと。

 購買の焼きそばパンに今週ずっと負けていること。

 数学の授業中にサメと放物線を戦わせたら放物線が勝ったこと。

 髪色を先生に注意されて、地毛ですと押し通したこと。


 ブン太はほとんど「何やってんだよ」と「馬鹿だろ」しか言わなかったけれど、その声は部屋の中で聞いたときより少しだけ軽かった。


 コンビニの自動ドアが開いて、冷房の風が顔に当たる。


「涼しっ。文明最高」


「大げさ」


「ブン太も言いな。文明最高って」


「言わない」


「ノリ悪」


「昔からだろ」


「うん、知ってる」


 私は白いアイスを二つ持ってレジへ向かった。

 ブン太が財布を出そうとしたので、私は先にスマホ決済をかざした。


「今日は私のおごり」


「いい」


「いいの。外出成功記念」


「そういうのやめろ」


「じゃあ、昔の宇宙講座再開記念」


「それも変だろ」


「じゃあ、私が食べたいから二個買っただけ」


 ブン太は何か言いかけて、諦めたように口を閉じた。


 コンビニを出るころには、空の色が少し暗くなっていた。

 私たちは店の前の低い車止めのそばに立って、アイスの袋を開けた。


「うま」


「普通」


「普通にうまいってことでしょ」


「まあ」


「ほら、来てよかったじゃん」


「アイスのために外出たわけじゃない」


「じゃあ何のため?」


 ブン太は少し考えてから、目をそらした。


「……お前がうるさかったから」


「それ、だいぶ私のおかげじゃない?」


「調子乗るな」


「乗るよ。私は褒められて伸びるタイプ」


「褒めてない」


「じゃあ勝手に伸びるタイプ」


 ブン太は呆れたように笑った。


 今度は、ちゃんとわかった。


 私はその笑顔を見て、アイスの冷たさよりずっと強いものが胸の奥に広がるのを感じた。


 昔みたいに、とはいかない。


 私たちはもう小学生じゃない。

 ブン太は何かに傷ついていて、私は私で隠していることが山ほどある。

 言えないこと、聞けないこと、踏み込めない場所が増えている。


 それでも、並んでアイスを食べるくらいならできる。


 公園まで歩くくらいならできる。


 数学ノートの話を聞くくらいならできる。


 今日のところは、それでいい。


「ねえ、ブン太」


「何」


「明日も来ていい?」


「嫌だ」


「じゃあ来るね」


「話聞けよ」


「聞いた上で来る」


「最悪だな」


「幼馴染ってそういうもんでしょ」


 ブン太は返事をしなかった。


 拒否もしなかった。


 だから私は、それを勝手に許可にした。


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