プロローグ:アイドルなんて
「どうも皆さんこんサメー! 今日もゆっくり遊んでいくよー」
イヤホンの奥で弾むみたいに響いたその声が、薄い毛布の熱と、閉め切った部屋に溜まった夏の湿気と、机の上に積みっぱなしの参考書の匂いまで少しだけ遠ざけてくれた気がして、僕は枕に半分埋もれたまま、暗い天井を見ていた目をようやくスマホの画面へ戻した。
配信画面の中では、ブルーアッシュの髪を肩のあたりで揺らした少女が、口の端からギザギザの歯をのぞかせて笑っていた。海の色を少しだけ夜に沈めたみたいな髪色で、目元は涼しげなのに喋り出すと印象が変わる。気取ったところがなくて、変に甘ったるくもなくて、テンションだけで押し切るようなうるささもない。軽い口調で話しているのに、耳に残る。笑いながらコメントを拾っているのに、雑には聞こえない。その感じが、僕は好きだった。
青鮫透。
僕が、いま人生でいちばん見ている人。
応援している人、と言い切ってしまうと、少し違うような気がする。
応援という言葉には、どこか距離がある。スタンドからグラウンドを眺めているような、教室の後ろから文化祭のステージを見ているような、自分は安全な場所にいて、目の前の誰かへ声だけ投げている感じがある。僕にとって青鮫透は、そんなふうに離れた場所にいるだけの存在ではなかった。僕の部屋の中まで入り込んできて、布団の重さや、息苦しさや、何時間も同じ姿勢でいると背中に溜まっていく鈍い痛みみたいなもののそばに、いつの間にか居座っていた。
彼女が配信を始める時間になると、僕は無意識にスマホを手に取る。通知が鳴るより早くアプリを開いている日もある。今日はどんな雑談をするんだろうとか、何のゲームをやるんだろうとか、そういう期待もあるにはあるけれど、本当のところは、ただ声を聞きたかっただけなのかもしれない。誰かの生活の中に僕の居場所なんてなくても、少なくともその一、二時間は、彼女の配信のコメント欄の片隅に「いた」ことにできる。画面の中で笑っている青鮫透は、僕の名前を知らない。僕の顔も知らない。家の場所も、通っていた学校も、いま何時に寝て何時に起きているのかも知らない。それなのに、現実で顔を合わせてきた連中より、ずっと近いところにいるように思える夜があった。
そういうふうに思うようになったのは、多分最初からではない。
最初は本当に、なんとなくだった。
たまたまおすすめに流れてきた。
それだけだった。
あの夜のことを思い出すと、順番に記憶を辿っていくより先に、部屋の空気の重さが先に戻ってくる。冷房は切っていた。点けると母さんが電気代にうるさいとか、そんな理由ではなく、ただ起き上がってリモコンを探すのが面倒だった。カーテンは閉めっぱなしで、どれくらい前から外の光をちゃんと見ていないのか、自分でもよくわからなくなっていた。机の上には学校から持ち帰ったまま開いていないプリントと、宇宙物理の一般向け新書と、書きかけの数学ノートが重なっていて、その横に飲みかけのスポーツドリンクが置かれていた。ぬるくなっていても捨てる気が起きなかったから、そのままにしてあった。
眠れない夜は、それ以前にも何度もあった。
高校に入ってから、という言い方でも合っているし、高校二年になってから、という言い方でも合っている。もっと正確に言うなら、学校へ行くたびに少しずつ体の中へ溜まっていったものが限界を超えたあと、夜の形が変わった。昼間に何もしないでいると夜には眠れる、という単純な話では済まなくなって、目を閉じると昼の記憶が浮いてきて、耳を塞いでも頭の中で声がした。廊下で聞こえた笑い声、教室の後ろで誰かが小さく言ったこと、僕の机に落書きされた文字、靴箱の中の紙切れ、そういうものが一つずつ順番に並ぶのではなく、まとまりもなく押し寄せてきて、眠気より先に胸の奥がざらついた。
悔しかった。
何回も考えた。
なんで僕がこんな目に遭わなきゃいけないのか、どこで間違えたのか、もっと上手く立ち回れていたら違ったのか、何も言わず笑ってやり過ごすことができていたら教室の空気に呑まれずに済んだのか、そういうことを飽きもせず繰り返した。
答えなんて出ない。
出ないまま、悔しさだけが残る。
喉のあたりが熱くなって、息を吐いても収まらなくて、布団に顔を押しつけたところで何も変わらなくて、叫びたいと思った。壁を殴ったら少しはすっきりするのかもしれないと思った。どこか遠くへ行きたいと思った。家からも、学校からも、僕のことを知っている連中からも、全部まとめて切り離された場所へ今すぐ逃げたいと思った。
外へ出る元気はなかった。
靴を履いて、鍵を持って、玄関の扉を開ける、その程度のことが、その夜の僕にはあまりにも遠かった。
だからスマホをつけた。
ただ指を動かしていれば時間が過ぎるから、というだけの理由だった。動画サイトのアプリを開いて、適当な切り抜きでも流して、眠くなるまで画面を見ていようと思った。何を見るつもりだったのかも覚えていない。ゲーム実況だったか、宇宙の解説動画だったか、あるいはニュースのまとめみたいなものだったかもしれない。おすすめ欄をだらだら下へ滑らせていた指が、あるサムネイルのところで止まった。
濃い色の背景に、ギザギザの歯を見せて笑っている少女のイラストがあった。
髪は青っぽい。でも単なる青ではなく、灰色がかった、光の当たり方で色味が変わりそうな不思議な色だった。目元はクールなのに、笑い方が少し子どもっぽくて、その噛み合わなさが妙に印象に残った。タイトルには、僕も名前だけは知っている人気ゲームの文字が並んでいて、その横に【初見歓迎】とか【ゆるくやるサメ】みたいな文言がついていた。
サメ。
語尾で遊ぶタイプかと思った。
面倒なテンションだったらすぐ閉じればいいと考えて、僕は配信を開いた。
そのときの同時接続が何人だったのか、正確には覚えていない。コメント欄は思っていたより速く流れていた。人気の配信者なのか、ちょうどその日だけ人が多かったのかもわからない。画面の中の青鮫透はゲームのスタート画面を背に、コントローラーを持つしぐさをしながらコメントを拾っていた。
「今日さ、ちょっと蒸してない? 青鮫の部屋だけかな。いや、海辺の湿気とかそういう設定じゃないからね。そこまで徹底してないサメ」
そこで少し笑いが起きた。
コメント欄にも草が流れた。
僕も、口元が少しだけ動いた。
自分でも驚くくらい、自然だった。
画面越しの知らないやつに笑わされるなんて癪だ、みたいな反発がなかったわけではないけれど、その反発を抱くほど気持ちが尖っていなかったのかもしれない。もうその夜の僕は、怒るのにも疲れていた。誰かを嫌うための体力すら、かなり減っていた。
青鮫透は、騒がしく場を回すタイプではなかった。テンションを高く保ち続けるでもなく、わざとらしい萌え声を出すでもなく、落ち着いた声でコメントを拾って、ときどき思いついたように笑って、失敗すると「いや聞いてないサメ」とか「そういう日もあるサメね」とか言いながら進めていく。その雑さが嫌味にならない。むしろ作っていない感じがして、見ていて変に緊張しなかった。
ゲームが始まってしばらく経ったころ、コメント欄に「今日学校つらかった」みたいな一文が流れた。
たぶん、よくあるコメントだったんだと思う。
配信者は毎日いろんなものを受け取るだろうし、そこにいちいち深く反応していたら配信が止まる。だから彼女も適当に受け流すのかと思っていた。おつかれ、くらいで流して先へ進めるんだろうと予想していた。
青鮫透はそこで少しだけ手を止めた。
ゲーム画面のキャラクターがその場で立ち尽くしているあいだ、彼女はコメント欄へ視線を向けるような動きをして、それからいつもの軽い調子のまま言った。
「つらかったサメね。来たなら今日はそれで十分サメ。無理に元気なふりしなくていいよ」
その言い方が、変に優しすぎなかった。
過剰に寄り添うでもなく、説教くさくもなく、頑張れとも言わない。かといって、軽く流した感じもない。たったそれだけの短いやり取りなのに、言われた本人じゃない僕の胸の奥がひっかかった。
無理に元気なふりしなくていい。
その言葉を、あのときの僕は、思っていた以上に欲しがっていたのかもしれない。
学校へ行かなくなってから、家では親に気を遣われた。最初は僕も、平気な顔をしようとした。ちょっと疲れてるだけだとか、体調が悪いだけだとか、そのうち戻るとか、適当なことを言ってやり過ごそうとした。友達から届くメッセージにも、少し時間を置いてから短く返して、深刻な感じにならないようにしていた。大丈夫じゃないと認めると、本当に終わりそうな気がしたから、口に出せなかった。
それでも時間が経つにつれて、平気なふりにも綻びが出る。
朝になると胃が痛くなることも、制服を見るだけで息が浅くなることも、家の前で同級生の声がしただけでカーテンの陰へ隠れたくなることも、全部ごまかしきれるものではなかった。僕は僕なりに黙っていようとしたけれど、黙っていればいるほど、家の中の空気は重くなった。親の視線が痛いとか、そういう被害者ぶった言い方をしたいわけではない。ただ、気を遣われることが苦しかった。気を遣わせている自分が情けなかった。
青鮫透は、そんな事情を何も知らない。
知らないまま、僕に必要な言葉だけを投げてきた。
たまたまだったのかもしれない。
コメントを書いた誰かへ向けた一言が、たまたま僕のところへ落ちてきただけなのかもしれない。
それでも、その夜の僕には十分だった。
配信はそのあとも続いた。青鮫透はゲームの仕掛けに引っかかって少しキレて、コメントに煽られて「いや今のは完全にそっちが悪いサメ」と言い返して、妙なタイミングで見つかったアイテムの説明文に笑って、途中で飲み物を飲んで「冷えてない、終わったサメ」とぼやいた。その一つ一つが、妙に生っぽかった。完成されたキャラクターを眺めているというより、たしかに今この時間を生きている誰かの声を聞いている感覚があった。
その夜、最後まで見た。
終わるころには午前一時を過ぎていたと思う。
スマホの明かりを落としても、すぐには眠れなかった。けれど、目を閉じたときに浮かんできたのは、教室でも、机の落書きでも、廊下の笑い声でもなくて、「来たなら今日はそれで十分サメ」という少し投げやりで、それでいてちゃんと温度のある声だった。
次の日も見た。
その次の日は配信がなくて、アーカイブを見た。
さらにその次の日には切り抜きを漁った。
歌枠も見た。雑談も見た。深夜の短いゲリラ配信も見た。コラボでは少しよそ行きになること、ホラーゲームのときだけ強がりが雑になること、歌より雑談のほうが彼女の良さがまっすぐ出ること、悩み相談で綺麗なことを言いすぎないこと、語尾の「サメ」が多い日と少ない日があること、笑いが本物のときは声の奥が少しだけ幼くなること、そういう細かいところまで、僕はわりと早い段階で覚えた。
覚えようとしたというより、頭に入ってきた。
学校の授業の内容はほとんど残らなかったのに、青鮫透の配信のことは残った。
たぶん、その頃の僕は、画面の中のものしか信じられなくなりかけていたんだと思う。
教室で交わされる会話には裏があった。笑顔にも意味があった。無視されるときにも、話しかけられるときにも、そこには何かしらの意図があった。僕がそう思い込んでいただけなのか、本当にそうだったのか、いまは区別がつかない。ただ、少なくとも当時の僕には、現実の人間の言葉がすべて試験問題みたいに感じられていた。この返答は正解か、不正解か、ここで笑うべきか、黙るべきか、何も言わないのは感じが悪いか、答えたら答えたで揚げ足を取られないか、そうやっていちいち考えているうちに、会話の入り口に立つ前から疲れ果てていた。
配信には、その面倒がなかった。
僕がコメントを書かなくてもいい。
書いたとしても、拾われるとは限らない。
拾われなくても傷つかない。
そこにいるだけでいい。
その気楽さがありがたかった。
気楽、という言葉だけでは足りない気もする。
青鮫透の配信には、僕が失くしたものが少しだけ残っていた。誰かの声を警戒しないで聞ける時間とか、言葉に裏がないと思える瞬間とか、そういうものだ。もちろん配信者だって仕事で喋っているし、演じている部分もあるだろうし、画面の中に映る姿が全部本当だなんて、そんな単純なことを信じていたわけじゃない。それでも、少なくとも彼女の声には、僕を笑いものにしようとする湿った気配がなかった。
僕はそのことに、かなり救われていた。
大げさだと思う。
スマホの画面一枚で救われるなんて、馬鹿みたいだとも思う。
アイドルなんて、所詮は知らない誰かだ。
画面の向こうで笑って、歌って、うまいこと言って、たまにやさしい言葉をくれるだけの存在だ。こちらが勝手に意味を見つけて、勝手に支えられた気になっているだけなのかもしれない。本当に苦しいとき、手を引いて部屋の外へ連れ出してくれるわけでもない。朝になって制服を着せてくれるわけでもない。学校で何か言われたときに庇ってくれるわけでもない。現実の傷は、配信が終わったあともちゃんと残る。
そんなことは、最初からわかっていた。
わかっていたはずだった。
それでも僕は、青鮫透の通知を待つようになった。
今日もやるんだ、と思うだけで、夕方から夜に変わる時間が少しだけましになった。配信開始まであと一時間あるから、そのあいだに風呂へ入っておこうとか、配信中に眠くならないように少し横になっておこうとか、そんなふうに小さな予定が生まれた。何もない一日には輪郭がなかったけれど、夜の配信がある日には、そこへ向かうための時間ができた。
たったそれだけのことで、生活は案外変わる。
机の上の数学ノートを開く日も増えた。
勉強を再開しようとか、学校へ戻る準備をしようとか、立派な理由ではない。青鮫透の配信で、リスナーが「明日テストなんだけど無理」みたいなコメントを書いたとき、彼女が「じゃあ十分だけやるサメ。十分だけやって無理なら今日は寝ろサメ」と言っていたのを聞いて、十分ならできるかもしれないと思っただけだ。僕はノートを開いて、途中で止まっていた数式の続きを書いた。途中で集中が切れても、前よりは自分を責めずに済んだ。十分だけでも進んだなら、その日はゼロじゃないと考えられた。
そうやって、青鮫透は、僕の知らないところで僕の一日へ入り込んできた。
家族より近い、なんて言うつもりはない。
そんな言い方をしたら気持ち悪いと自分でも思う。
親は親で僕のことを心配しているし、長いあいだ一緒に暮らしてきた重みがある。幼馴染だっている。昔の友達だって、一応はいる。現実に名前を知っていて、顔を知っていて、手を伸ばせば触れられる距離にいる人たちは確かに存在している。その現実をまるごと無視して、画面の中だけが本物だと言いたいわけじゃない。
それでも、青鮫透にしか届かない場所があった。
言葉で説明するのは難しい。
たぶん、教室にも家にも置き場所のなかった息苦しさみたいなものが、彼女の配信のコメント欄の流れの中へ紛れ込むことができた、という感じに近い。誰にも見つからないまま消えていくはずだったものが、彼女の声を通ることで、少しだけこの世に留まれた。
僕はそのことを、認めたくないような、認めてしまいたいような気持ちでいた。
アイドルなんて、と思う。
そんなものに本気になるやつの気が知れないと、少し前の僕なら言っていたかもしれない。画面の向こうの作られた存在に熱を上げて、グッズを買って、配信の時間に合わせて生活して、誕生日だ記念日だと騒いでいる連中を、どこか冷めた目で見ていたと思う。僕は宇宙の本を読んでいるほうが好きだったし、方程式を追っているほうが楽しかったし、誰かのファンになるより、自分ひとりで考えている時間のほうが性に合っていると思っていた。
その僕が、いまこうして、青鮫透の声が聞こえるだけで少し安心している。
可笑しい。
情けない。
たぶん、かなり格好悪い。
それでも、その格好悪さを笑えるほど、僕はもう元気じゃなかった。
画面の中の青鮫透が、リスナーのコメントに「夜更かししすぎるなよー、ちゃんと寝ろサメ」と言って笑う。コメント欄には「透ちゃんもな」「おまいう」が流れて、彼女は「青鮫は仕事だからいいの」と軽く返す。そのやり取りを見ながら、僕は暗い部屋の中で少しだけ笑って、イヤホンを耳に押し込み直した。
あの夜、たまたまおすすめ欄に出てきただけの配信が、そのあと僕の生活を変えていくことになるなんて、そのときはまだ考えていなかった。
もっと正直に言えば、変わっていくと期待することすら怖かった。
期待は裏切られる。
寄りかかったものが崩れたときの痛みを、僕はもう知っていた。
だから、これはただの暇つぶしだと自分に言い聞かせていた。眠れない夜をやり過ごすための、ちょうどいい雑音だと。数ある配信のうちの一つで、たまたま今の僕に引っかかっただけだと。少し時間が経てば飽きるだろうし、そのうち通知が来ても開かなくなるだろうし、画面の中のギザ歯の少女なんて、僕の人生に深く関わるはずがないと、そう思い込もうとしていた。
その思い込みが、いちばん最初に崩れるのは、もう少し先のことになる。
僕はまだ知らない。
青鮫透という名前が、配信画面の中だけのものではないことを。
あのサバサバした口調も、ブルーアッシュの髪も、軽い笑い方も、誰かに夢を与えたいという身勝手なくらいまっすぐな願いも、僕が昔から知っている一人の少女へ繋がっていることを。
あの夏が、思っていたよりずっと短いことも。
僕はその夜、スマホを胸の上に置いたまま、ようやく少しだけ眠った。イヤホンからこぼれていた彼女の声の余韻が、閉め切った部屋の暗さに薄く混ざっていて、そのかすかな明るさに縋るみたいに目を閉じた。夏はまだ始まったばかりで、僕はまだ、終わりの気配を何一つ知らなかった。




