第34話:知らないはずの、面影
──日が落ちる前。あたりは紅く染まる。
るいが自宅マンションのインターホンを押すと、ドアがゆっくりと開いた。
そこに現れたのは──
長い髪を後ろで束ねた、落ち着いた雰囲気の女性。
るいと目元がよく似ている。
「こんにちは。るいの母です──」
のぞみは一歩前に出て丁寧に頭を下げた。
「こんにちは。はじめまして。るいくんの知り合いの、のぞみです。今日は、旅の件でご相談に伺いました」
「はい。るいから聞いています。どうぞ、上がってください」
彼女は柔らかく微笑み、玄関を開ける。
*
──リビングに通されると、テーブルの上には一冊のノートが置かれていた。
表紙には、淡い紫の花が押し花になって貼られている。
迂闊は、何気なくそのノートに目を向けた。
その瞬間、胸の奥に何かが引っかかった。
見覚えがあるような──でも、思い出せるほど鮮明ではない。
「それ、誰のですか?」
のぞみが訊ねる。
「娘のです。今は大学で植物の研究をしていて、押し花は昔からの趣味なんです」
るいの母が答える。
「へえ……」
のぞみが興味深そうにノートを覗き込む。
迂闊は、黙ったままノートの表紙を見つめていた。
その花の名前も、意味も知らない。
ただ、指先が微かに熱を帯びるような感覚があった。
──まるで、誰かの声が遠くで響いているような気がした。
でも、振り返っても、そこには誰もいない。
「リナリアっていうんですよ」
るいの母は微笑み続ける。
「確か、花言葉は……」
しかし、母はその先を続けない。
母が言葉を濁した微かな違和感に、迂闊は一瞬だけ目を伏せる。
何かが、記憶の底でざわめいた。
だが、それが何なのかは、まだ言葉にならない。
──そのとき、廊下の奥で微かな物音がした。
カタンと、誰かがそっと部屋の扉を閉める音。
るいは、母の顔をちらりと見る。
「姉ちゃん、今日は帰ってこないって言ってたよね?」
「ええ。研究室に行ってるはずよ。帰りは遅くなるって」
母は微笑んだまま答える。
──でも、るいはその言葉に、ほんの少しだけ違和感を覚えた。
音の主は誰だったのか。
母の笑顔は、少しだけ張りついて見えた。
「申請書の件なんですが、学校の担任の先生にも連絡しておいた方がいいと思っていて──」
のぞみが話題を切り替える。
「ええ、そうね。担任の先生には、明日連絡しておくね」
るいの母はうなずいた。
「申請用紙の記入に必要かもだから、後日詳しい日程がわかったら教えて」
「はい、わかりました。ありがとうございます!」
のぞみが明るく答える。
すると、るいの母がふと表情を和らげた。
「そんな……この子、いつも大人しいから、学校生活楽しめてるか心配なときがあって。
でも、るいから“行きたい”っていうの、私も嬉しいわ。ありがとう。旅の間、るいをよろしくお願いします」
「もちろんです。るいくん、すごくしっかりしてますよ」
のぞみが微笑む。
「るい、あなたも、みんなに迷惑かけないでね」
「うん」
るいは素直に頷いた。
*
──帰り道。駅へ向かう歩道を五人で並んで歩く。
「るいくんのご両親から許可もらえたし──」
のぞみが振り返るように言う。
「迂闊、ひよりちゃんも大丈夫って言われたのよね?」
「あ、ああ……」
迂闊が短く答える。
「楽しみね!」
のぞみが笑顔で言うと、ひよりが「ん〜♡」と嬉しそうに跳ねた。
北斗は静かに頷き、るいも小さく笑う。
──みんなが盛り上がる中、迂闊だけが微妙な表情を浮かべていた。
笑ってはいるが、どこか遠くを見ているような目。
るいは、そんな迂闊の横顔を冷静に見つめていた。
彼が何かを考えている。
何かを、思い出しかけている──そんな気配を、るいは確かに感じ取っていた。
──次回予告
次回、「白い景色と、はじまりの音」
旅の始まり。雪の車窓と駅弁の香り。
でも、誰かの記憶はまだ追いついていない。




