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第34話:知らないはずの、面影

──日が落ちる前。あたりは紅く染まる。


るいが自宅マンションのインターホンを押すと、ドアがゆっくりと開いた。


そこに現れたのは──

長い髪を後ろで束ねた、落ち着いた雰囲気の女性。

るいと目元がよく似ている。


「こんにちは。るいの母です──」


のぞみは一歩前に出て丁寧に頭を下げた。

「こんにちは。はじめまして。るいくんの知り合いの、のぞみです。今日は、旅の件でご相談に伺いました」


「はい。るいから聞いています。どうぞ、上がってください」

彼女は柔らかく微笑み、玄関を開ける。



──リビングに通されると、テーブルの上には一冊のノートが置かれていた。

表紙には、淡い紫の花が押し花になって貼られている。


迂闊は、何気なくそのノートに目を向けた。

その瞬間、胸の奥に何かが引っかかった。

見覚えがあるような──でも、思い出せるほど鮮明ではない。


「それ、誰のですか?」

のぞみが訊ねる。


「娘のです。今は大学で植物の研究をしていて、押し花は昔からの趣味なんです」

るいの母が答える。


「へえ……」

のぞみが興味深そうにノートを覗き込む。


迂闊は、黙ったままノートの表紙を見つめていた。

その花の名前も、意味も知らない。

ただ、指先が微かに熱を帯びるような感覚があった。

──まるで、誰かの声が遠くで響いているような気がした。

でも、振り返っても、そこには誰もいない。


「リナリアっていうんですよ」

るいの母は微笑み続ける。

「確か、花言葉は……」


しかし、母はその先を続けない。


母が言葉を濁した微かな違和感に、迂闊は一瞬だけ目を伏せる。

何かが、記憶の底でざわめいた。

だが、それが何なのかは、まだ言葉にならない。


──そのとき、廊下の奥で微かな物音がした。

カタンと、誰かがそっと部屋の扉を閉める音。


るいは、母の顔をちらりと見る。

「姉ちゃん、今日は帰ってこないって言ってたよね?」


「ええ。研究室に行ってるはずよ。帰りは遅くなるって」

母は微笑んだまま答える。


──でも、るいはその言葉に、ほんの少しだけ違和感を覚えた。

音の主は誰だったのか。

母の笑顔は、少しだけ張りついて見えた。


「申請書の件なんですが、学校の担任の先生にも連絡しておいた方がいいと思っていて──」

のぞみが話題を切り替える。


「ええ、そうね。担任の先生には、明日連絡しておくね」

るいの母はうなずいた。

「申請用紙の記入に必要かもだから、後日詳しい日程がわかったら教えて」


「はい、わかりました。ありがとうございます!」

のぞみが明るく答える。


すると、るいの母がふと表情を和らげた。

「そんな……この子、いつも大人しいから、学校生活楽しめてるか心配なときがあって。

でも、るいから“行きたい”っていうの、私も嬉しいわ。ありがとう。旅の間、るいをよろしくお願いします」


「もちろんです。るいくん、すごくしっかりしてますよ」

のぞみが微笑む。


「るい、あなたも、みんなに迷惑かけないでね」


「うん」

るいは素直に頷いた。



──帰り道。駅へ向かう歩道を五人で並んで歩く。


「るいくんのご両親から許可もらえたし──」

のぞみが振り返るように言う。

「迂闊、ひよりちゃんも大丈夫って言われたのよね?」


「あ、ああ……」

迂闊が短く答える。


「楽しみね!」

のぞみが笑顔で言うと、ひよりが「ん〜♡」と嬉しそうに跳ねた。

北斗は静かに頷き、るいも小さく笑う。


──みんなが盛り上がる中、迂闊だけが微妙な表情を浮かべていた。

笑ってはいるが、どこか遠くを見ているような目。


るいは、そんな迂闊の横顔を冷静に見つめていた。

彼が何かを考えている。

何かを、思い出しかけている──そんな気配を、るいは確かに感じ取っていた。



──次回予告

次回、「白い景色と、はじまりの音」

旅の始まり。雪の車窓と駅弁の香り。

でも、誰かの記憶はまだ追いついていない。

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