第13話:母と、夏の単線
朝のホーム。
制服姿ののぞみは、電車を待っているわけでもなく、ただ立っていた。
ホームの端に立つと、視界の先に広がるのは、まだ朝靄の残る山の稜線。
その輪郭は、風に揺れるように、ぼんやりと滲んでいた。
線路の向こうには、田んぼが広がっている。
稲の葉が風にそよぎ、まるで小さな波が走っているようだった。
その揺れを見ていると、胸の奥がふと、あたたかくなる。
(乗り遅れても、次の電車があるよ——)
昨日、北斗が送ってきたメッセージ。
それは、母がのぞみによく言っていた言葉だった。
(……あの言葉、ずっと忘れてた。
でも、今……なんでこんなに、胸があったかいんだろう)
心の奥に、誰かがそっと灯した駅灯みたいに、ぽつんと光がともっていた。
……………………
…………
……
のぞみは、そっと目を開ける。
「いまのは夢……?」
風の音が、耳の奥で柔らかく響いていた。
その音は、どこか懐かしくて、どこか遠い。
まるで、記憶の奥から、誰かが呼びかけてくるような——
のぞみは、静かに目を伏せた。
そして、思い出す。
あの夏の日のことを。
***
のぞみの回想〜
山口県。祖父母の家。
錦川清流線沿いの小さな集落。
家の裏には、川と線路が並んで走っていた。
朝。
のぞみが縁側に座ると、空気は澄んでいて、川のせせらぎが遠くから聞こえてくる。
風が、畳の上をすべるように通り抜けていく。
母は、のぞみの隣で麦茶を飲みながら、静かに言った。
「のぞみ、あの電車、見てごらん。
あれは“キハ40系”っていうの。ディーゼルで走る、がんばり屋さん」
のぞみは、母の指差す先を見た。
単行の車両が、ゆっくりと川沿いを走っていた。
白と青の車体が、緑の中をすべるように進んでいく。
「がんばり屋さん?」
「うん。電気がなくても、ひとりで走れるの。
ちょっと音が大きいけど、田舎の人たちの足になってるのよ」
母の声は、風景の中に置き忘れたメロディみたいに、耳に残った。
電車が通り過ぎるたびに、母は小さく手を振った。
のぞみも真似して、手を振った。
「ママ、なんで手を振るの?」
「だって、あの電車には、誰かが乗ってるでしょ。
誰かが、どこかに向かってる。
その“向かってる気持ち”って、すごく素敵だと思わない?」
のぞみは、言葉の意味はよくわからなかったけれど、
母の声の優しさだけは、はっきりと覚えていた。
*
その日の夕方。
母と手をつないで、錦町駅まで散歩した。
道の途中、蝉の声が響く。
アスファルトの端には、草が伸びていて、風に揺れていた。
駅舎は木造で、ベンチには誰もいない。
改札の向こうには、夕陽が差し込んでいた。
その光は、床を赤く染めていて、まるで時間がゆっくり流れているようだった。
「のぞみ、ここが“始発駅”なの。
電車はここから出発して、いろんな場所へ向かうのよ」
「じゃあ、ママと一緒に乗ったら、どこまで行ける?」
母は少しだけ考えて、空を見上げた。
「うーん……どこまでも、かな。
でも、行き先よりも、“乗ってる時間”が大事なのよ」
「なんで?」
「だって、電車ってね……誰かと一緒に乗ると、景色が変わって見えるの」
その言葉が、のぞみの心に、ゆっくりと停車した。
のぞみは、母の手をぎゅっと握る。
その手は、少し冷たくて、でも安心する温度だった。
*
その夜。母が急に倒れた。
元々体が弱く、入退院を繰り返していた母。
父は駆けつけた救急車で母の付き添いとしてそのまま遠くの大学病院へと向かった。
両親が留守の間、のぞみは祖父母に預けられることになる。
祖父母の田舎の夜は本当に静かだった。
時計の音が、のぞみにはやけに大きく聞こえる。
秒針が進むたびに、心がざわつく。
(ママ……どこ行っちゃったの……)
のぞみは、母の枕の匂いを嗅ぎながら、涙をこらえる。
その匂いは、昼間の麦茶と、夕方の風と、母の声が混ざったような香りだった。
でも、こらえきれなかった。
涙が、時刻表のページを濡らしていく。
そのとき——
窓の外から、遠くの列車の音が入り込む。
ゴトン、ゴトン——
その音が、心の奥にしまっていた“乗り遅れた気持ち”を叩き起こした。
(ママ、あの電車に乗ってるのかな……)
のぞみは、そっと窓を開ける。
夜風が、記憶のページをめくるように、静かに部屋を通り抜けた。
川の音と、線路の響きが、胸の奥で重なる。
(電車って……誰かに会いたい気持ちを、運んでくれるんだ)
【今週の鉄道豆知識】錦川清流線の旅へ!
今回の舞台になった山口県の錦川清流線。みんなは知っていたかな?
この路線、その名の通り、錦川に沿ってのどかな風景を走っていく、とっても素敵なローカル線なんだ。そして、その線路を走っていたのが「キハ40系」という車両。
この「キハ40系」、実は国鉄時代に作られた、とってもベテランの車両。全国のローカル線で大活躍していて、窓の大きい懐かしい形が特徴なんだ。エンジン音も力強くて、乗り込むだけで「ああ、旅に出たな」って気分にさせてくれる。
残念ながら、新しい車両に置き換わって引退するところも多いけど、この錦川清流線では、まだまだ現役で頑張っているんだ。
もし、のんびりとした鉄道の旅がしたくなったら、ぜひキハ40系に会いに、錦川清流線に行ってみてね!
つづく。
次回予告
次回、「のぞみ、ひとり乗車券」。
不安と小銭だけを握りしめて、のぞみは小さな駅に立つ。
その一歩が、心の乗り継ぎを始める始発になる。




