すれ違い
転落への恐怖で固く目を閉じたルーだが、いつまで経っても落ちていくような感覚はなく、気づけば腰の辺りに何かが触れている。
目を開くと黒曜石のように煌めく艶やかな黒が目に入り、少し視線を上げて息を呑む。そこには巨大な竜の姿があった。
小さな人間など一口で食べられてしまいそうな大きな口だが、理知的な眼差しを向ける竜に不思議と恐怖は感じない。
「……アレク?」
ルーの呼びかけを肯定するように、黒竜はその美しい紫水晶に似た瞳を細めた。
「はは……素晴らしいな。竜化できるほどの力を持った竜帝など、過去にほんの僅かしか存在しないというのに」
喜悦を滲ませた声に振り向きかけたが、アレクシスは鼻先を器用に使ってルーを持ち上げる頭に乗せる。
そのまま軽やかに宙に浮かび上がったかと思うと、崖に向かって尻尾を振り下ろすではないか。
「アレク……!?」
崖のてっぺんが崩れ、先ほどまでいた洞穴のような場所は土砂や岩塊などによって、すっかり埋まっている。
(あそこにはまだハウザー公爵が残っていたのに……)
生き埋めどころか、落石によって潰されてしまったかもしれない。
アレクシスは一顧だにすることなく、空を泳ぐように悠々と駆け上がろうとする。
「ま、待って、アレク!――痛っ」
無意識に握りしめた指先は、なりふり構わずに抵抗したせいでいくつも擦り傷が出来ている。先ほどまでは気にするどころではなかったが、安心したせいで痛覚が戻ってきたようだ。
ルーの声に反応するようにアレクシスは急降下し、丘の上に辿り着く直前に竜から人へと姿を変えて、ルーを抱きかかえた状態で地面へと降り立った。
「怪我を見せて」
少しだけ温度の低い声に戸惑いながらも、ルーは手の平を上に向ける。いくつか血が滲んでいる箇所もあり、視認したことでじんじんと痛みが増したようだ。
徐にアレクシスがルーの指先を取ったかと思うと、そのまま傷口を舐められた。
「あ、アレク、汚いわ!」
お腹を壊したらどうしようと慌てて言うと、アレクシスはルーの言葉を無視して見せつけるように別の場所をべろりと舐める。
羞恥と居たたまれなさに心の中で絶叫していたが、痛みが引いていることに気づく。
(これは、治療行為だったのね……)
とても不思議だが、竜に変化した姿を見た後ではそういうことも出来るのだと感心するだけで、それ以上疑問に思うことはなかった。
「他に怪我は?」
「もう大丈夫よ。ありがとう」
そう答えるとアレクシスは何故か不満そうに眉をひそめている。その表情にルーは今がパーティーの最中であることに思い至った。主役である竜帝がこんなところにいて良いはずがない。
「……迷惑をかけてごめんなさい」
アレクシスに会えた喜びがぺしゃんと萎む。四家に認めてもらうどころではなく、こんな日に騒動を起こしたルーにアレクシスはうんざりしているのかもしれない。
嫌われてしまっただろうかと思うと泣きそうだ。
「あの、ハウザー公爵は――」
「他の男の話など聞きたくないよ。不愉快だ」
四家の当主の一人であるエドヴィンをそのままにしていて良いのだろうかと訊ねようとすれば、冷ややかな口調で遮られた。突き放すようなアレクシスの態度に、ルーは涙が零れないようにぎゅっと唇を噛みしめる。
「嫌わないと言ったのに、たった一月で心変わりをするものなのだね」
「え……?」
詰るような言葉に呆然として顔を上げると、アレクシスは表情を消してただルーを見つめていた。
「私の贈ったドレスは気に入らなかった?過分に色を使っていたのが煩わしかったのかな。黒ダイヤのネックレスも付けてくれていないものね。連れ去られたと聞いていたけど、本当に?ルーは彼が気に入ったからそんなに案じているの?」
流れるように淡々と、だけど瞳だけは暗い熱が灯ったかのように激しい感情を揺らめかせている。
「違うわ!アレクを嫌いになんてなっていないわ。ドレスだって用意されたのはこれだけだもの。ハウザー公爵のことは彼が四家だから――」
「四家はもういらないよ。屋敷の者たちも全員処分してしまおう」
「アレク……?……っ!」
不意に背中側の袖を引っ張られ、その勢いで反対側の布地も下がりそうになったため、ルーは慌てて胸元を押さえた。
「やっぱりルーの大丈夫は信用できないね。こんなに痛々しい痣ができているというのに。嫌いじゃないという言葉も私の機嫌を損ねたくないだけなのだろう?私の愛しい番は嘘吐きだもの」
剥き出しになった肩を舐められて、肩を地面にぶつけたことを思い出す。
意図的に隠していたわけではないが、誤解を解くにはどうしたら良いのだろう。先ほどから微妙に会話が擦れ違っているのは抑制剤の影響なのか、それともルーの言動がアレクシスを苛立たせているのだろうか。
「隠していたわけじゃなくて、忘れてただけ……っ。アレク、治療よりも話がしたいわ」
「そうやってまた私の大切な番を、君自身が蔑ろにするのだね。ああ、ルーを傷付けるような存在を許した私が悪かった。竜族なんて全て消してしまおう。私はルーが、ルーだけがいればそれでいい」
言い聞かせるような声に、鼻の奥がつんとして涙が滲む。
ルーが四家に認められないせいで、考えが足りず軽率な行動をしたせいで、アレクシスを酷く傷つける結果になってしまった。だからアレクシスはルー以外の全てを諦めることを選んだのだろう。
「アレク……ごめんなさい」
こんな言葉では不十分で、けれどもどう詫びていいのか分からない。言葉を探しているうちに、アレクシスはルーの身体をかき抱く。
「ルーは私と二人では嫌?でももう手放してなんてあげられないよ。嫌われても怖がられても、ルーがいない世界なんて考えられない。もういっそのこと全て滅ぼしてしまおうか。そうすれば誰にも君を傷付けられないし、ルーには私しかいなくなるだろう。ルー、愛しくて恋しくて狂おしいぐらいに君が好きだよ」
不穏な言動も、どろりとした執着も怖くはない。ただ切なくて苦しくて想いが溢れる。
「アレク、アレクっ、大好きなの。信じてもらえなくてもいい。アレクが望むなら全部その通りにしよう。私、もっと頑張るから。頑張ってアレクが私のせいで諦めた幸せを、いつか全部アレクに返してみせるわ。だから、もう泣かないで」
先ほどまでの仄暗い瞳が無防備なほどに見開かれ、アレクシスは茫然とルーを見つめた後、小さな声で呟いた。
「私は……」
言葉が途切れ、アレクシスの菫色の瞳から、はらはらと大粒の涙が零れ落ちる。静かに涙を流すアレクシスをルーは想いを込めて抱きしめた。




