許せない理由
心を切り裂くような慟哭が聞こえる。
『もう泣かないで』
そう言ってあげたいのに声にならず、手を伸ばそうとしても身体が動かない。どうしてこんなに無力なのだろう。
遠くから自分の名前を呼んでいるのは誰よりも大切な人。
(これ以上あの人を悲しませたくないのに……)
愛しさと焦燥感に胸が苦しくなるのに、あの人の顔も名前も塗りつぶされたように浮かんでこない。
叫びだしたくなるほどの想いは、額に落ちてきた冷たい感触によって遠ざかっていく。夢と現実が混じり合い、ルーはぱちりと目を開けた。
薄暗い空間は見覚えがなく、寄せては返す波の音だけが耳に届く。徐々に慣れてきた視界にそろりと身体を起こし周囲を見渡せば、ごつごつとした岩肌が広がっている。
「やっと起きたか」
戸惑いながらも記憶を辿りかけていたルーは、背後から聞こえて来た声にびくりと肩を震わせた。
振り返ると、最早取り繕う必要もないと判断したのか両腕を組み、見下すような視線のエドヴィンが岩にもたれるようにして立っていた。
屋敷から連れ出された直後、馬車に乗せられたかと思うと変な匂いのする布を押し当てられてからの記憶がない。
どれくらい時間が経ったのか、マヤとフィンはどうなったのか。
アレクシスは姿を現さないルーを探してくれているだろうか。
忍び寄る不安を追い払い、ルーはエドヴィンをじっと見つめた。
強引な手段を使ってまでルーを連れ出した理由を、そしてこれからルーをどうするつもりなのか聞き出さなければいけない。
良くない状況であることは明らかだが、最悪の事態を逃れるためにルーは震えそうになる足に力を入れる。
「どうしてお前みたいな美しくも賢くもない女が番なのだろうな。自分でもそう思わないか?竜帝陛下のような至高の存在にとって番など足枷でしかない」
心底うんざりしたようなエドヴィンの言葉に、少しだけ何かに触れたような気がした。ルーを貶してはいるものの、番そのものに嫌悪感を抱いているような言い方だった。
「それは――っ!」
会話を続け糸口を掴もうとしたルーだったが、エドヴィンが指に引っかけて弄んでいるものに気づいて言葉に詰まった。反射的に首元に触れるとアレクシスからもらったネックレスはなく、エドヴィンはルーの様子を見て意地の悪い笑みを浮かべる。
「分不相応だと言っているのに、本当に物分かりが悪い女だな」
くるくると指先で回していたネックレスは弧を描くように飛んでいき、こつんと小さな音を立てながらも崖の先端近くで止まった。
「そんなに大事なら拾えばいい。崖の中腹辺りとはいえそれなりに高さがあるから、脆弱な人族など落ちたらひとたまりもないだろうが」
迷ったのは一瞬で、ルーは窪みや出っ張りに足を取られないよう注意しながら慎重にネックレスの方へと向かう。
無茶なことをしている場合でないことは分かっている。
だけど大切な人が側にいなくて怖い。剣呑な気配を漂わせているエドヴィンが怖い。アレクシスとの繋がりを手元に持っておかなければ、諦めてしまいそうで怖い。
「既に陛下の寵を失ったというのに、そんな物に縋るなんて惨めだな」
もしもアレクシスが興味を失くしてしまったなら、どうしてまだルーはここにいるのだろう。ルーを必要としないのならきちんと理由を説明して、何処かにやってしまえばいい。
(だから私はまだアレクを信じていられる)
ようやくネックレスに手が届く位置まで辿りつき、ルーは無意識に口元を綻ばせた。屈んでネックレスに手が触れた瞬間、乱暴に腕を引かれて地面に肩をぶつける。
「っ!」
「神に選ばれし貴きお方を誑かす害悪が、陛下の色を持つ装飾品を得ようだなんて図々しいにも程がある。お前があの方に下らない感情を植え付け、何処にでもいるような凡庸な人間に変えてしまった。それがどれだけ罪深いかお前には分からないのだろう」
激しい憎悪に圧倒されながらも、頭の片隅で静かに納得する自分がいる。
どこまでもエドヴィンはアレクシスを竜帝としてしか見ていない。竜帝は完璧で超越した存在であるという考えに固執しているからこそ、ルーの存在を許せないのだ。
「貴方の理想をアレクに押し付けないで」
乾いた音とともに頬がかっと熱くなり、じんじんとした痛みが広がっていく。
「お前ごときが陛下の御名を呼ぶな」
仄暗い眼差しで乱暴に顎を掴まれたが、もう怖くなかった。エドヴィンがルーを認めないように、ルーだってエドヴィンの考えを決して認めたくない。
「竜帝だからといってアレクの心を蔑ろにするのは間違っているわ。私は竜帝陛下じゃなくてアレクを好きになったの。私の大切な人を傷付けるなら絶対に許さないわ」
「お前ごときに何ができる。もういいか。爺様たちはイリヤナが孕まなかった時の保険として生かしときたいみたいだけど、お前がいなくなれば以前の陛下に戻られるだろう」
エドヴィンはルーの腕を掴み、引き摺るようにしながら崖の方へと向かっていく。何かにしがみ付こうにも周囲には岩しかない。懸命に手を伸ばしても指先に痛みが走るだけだ。
(諦めちゃ駄目。私がいなくなったら、アレクはきっと悲しむ)
腕を振りほどこうと暴れても、エドヴィンは何の負荷も掛かっていないかのように平然としている。
冷たい風に髪が煽られて、絶壁からはいつもと変わらない美しい海が見えた。崖っぷちに押しやられてしまえば、もう逃げ場はなかった。
「陛下のためを思うなら消えろ」
「……アレク」
最後にもう一度会いたかったと涙が溢れたと同時に、吹き付けた激しい風によってルーの身体は簡単に煽られてしまった。




