後悔(アレクシス視点)
色づいた世界が遠ざかっていく。そんな感覚にアレクシスは言い知れぬ不安を覚えた。
身体が鉛のように重く、気分が悪い。
抑制剤を服用してからすぐに効果が表れたことに違和感と微かな疑念を抱いたが、竜帝が番に耽溺すれば、世界を危険に晒しかねない。
だからこそ即効性のある抑制剤が必要なのだろう、とアレクシスは深く気に留めなかった。
『抑制剤を一月服用し、最終日に竜帝が下した判断に四家は従いましょう』
本来であれば四家の承認など不要だが、幼少時から世話になっていた忠臣の懇願を一蹴することに躊躇いの気持ちが生じた。
一方で番との繋がりを希薄にさせる抑制剤を服用することは強い抵抗感があり、煩悶するアレクシスの背を押してくれたのは番であるルーだ。
不安を押し隠して優しく言い聞かせるように、大丈夫だと告げたルーが愛しくて堪らない。
ルーと出会ってから初めて人の心を得て、たくさんの感情を知った。皮肉なことに番を得ていなければ、四家の想いを汲み取ることはなく、彼らの言うことに耳を傾けていなかっただろう。
一月我慢すれば番を、ルーを伴侶として認めさせることできるなら、これぐらいの不調は問題ない。
当然のようにそう考えた自分に気づき、動きを止める。番という認識が薄れても、アレクシスはルーを自然と伴侶に望んでいた。
とはいえ番として出会ってなければ好意を抱かなかっただろう、と冷静な思考で思う。
目の前で倒れ保護したとしても愛おしいとは思わなかっただろうし、拒絶をされてなお側にいようと思わなかったはずだ。
けれど懸命に努力を重ね少しずつ変化していくルーの様子や、変わらない優しさは好ましかったし、好意を抱いてくれるようになってからのことを思うと、今でも満たされたような心地よさを感じる。
一部の思考を無理やり抑え付けられているような不快感はあるが、何も変わらない。
そう思っていたが、周囲はそうではなかった。
「も、申し訳ございません!……至らぬ点がございましたら直しますので、どうかご容赦を」
発言の意味が分からず、ファビアンを一瞥し説明を求めると、ファビアンもどこか慎重な様子で口を開いた。
「この者は陛下がお戻り後に拝謁する機会を得ましたので、陛下の纏う気配に慣れていないのでしょう」
帰国後、何度かやり取りをしたことはあるが、常に緊張をしていたもののこれほどではなかったはずだ。
「……その、普段よりも雰囲気や表情が素っ気なく感じられるので、不敬を働いたのではないかと案じているようです」
「特に問題はないよ。下がれ」
しきりに頭を下げながら去っていく男の背中を見送って、ファビアンに再度説明を求めたところ、表情があまり動かず冷淡に見えると言われてしまった。
(ルーは嫌わないと言ってくれたが……)
恐らくルーを前にしても、感情や表情に大きな変化はないだろう。抑制剤の影響だと言っても、ルーの心はきっと揺らぐ。
ようやく笑えるようになったあの子の表情を、他でもなく自分自身が曇らせてしまいたくはなかった。
「しばらくは城で過ごす。手配を頼む」
それがどのような憶測を生むのか、アレクシスは考えてもみなかった。
「そろそろ私も引退を考える齢になりました。指導を兼ねて孫を補佐に付けたいと思っておりますが、お許しいただけますでしょうか?」
ブラッカー公爵が連れてきたのは、孫娘であるイリヤナだ。女性が当主候補となることは珍しいが、過去に例がないわけでもない。
「構わないよ」
そこにどんな意図があるのか、アレクシスは気づきもしなかった。
その日からイリヤナはアレクシスの側にいるようになった。ブラッカー公爵に訊ねれば済む内容も多かったが、不慣れなうちは仕方がないと質問に答え、仕事を教える。
抑制剤の副作用なのか、番のことを考えるだけで頭痛がするようになった。本能を抑圧する薬なので、その原因ともなる番に対して反応が出るのは当然のことなのかもしれない。
それにも関わらず、心は番を求めている。
喉が渇いているのに水を飲んでも満たされない気分だ。
ある日、とうとう幻覚が見えるようになってしまったのだと思った。
「まあ、どうやって入り込んだのかしら?」
イリヤナの言葉でそれが現実だと知り、不遜な発言に怒りを覚えたが、それどころではない。
久し振りに見たルーは笑っていなかった。薄っすらと目に涙を浮かべ不安そうな表情でアレクシスを見ている。
「……嘘吐き」
嫌わないと言ったのに、今の自分の姿を見て怯えているではないか。激しい苛立ちと不安を堪えながら、その場を逃げるようにして立ち去った。そうしなければ、怒りのままにルーを責めてしまいそうだった。
執務室に戻る頃には少しだけ冷静さを取り戻し、何故あのような場所にいたのか考える余裕が出来たが、まずはルーの安全を確保しなければならない。
ルーの性格上、勝手に城に来ることはないだろう。
何のためにかは定かではないが、ルーを連れ出した者がいる。安全のため屋敷から外に出さないようファビアンに命じると、エドヴィンがやってきた。
「番様が陛下にお会いしたいと仰っていたので、お連れしました」
悪びれることなくそう発言するエドヴィンに、二度と勝手なことをするなと命じれば、慇懃な態度で頭を下げる。
エドヴィンの本心を、頭痛と苛立ちを抱えたアレクシスは見逃してしまった。
ようやく待ちに待った日が訪れた。
今日までは抑制剤の影響でルーを怖がらせてしまうかもしれないが、薬の影響が薄れればルーもまた以前のような笑顔を見せてくれるだろう。
黒のレースを重ねた灰紫色のドレスは左胸に薔薇のコサージュで華やかな印象になり、菫色のロンググローブは重くなりがちな黒を和らげるため。
今回だけは全て自分の色を使ったドレスにしたいというのはアレクシスの我儘だった。ルーだけでなくマヤにも告げずに作らせたドレスは、きっと重すぎると呆れられてしまうかもしれないことを恐れたからだ。
ルーを正式な伴侶として発表できると考えれば、頭痛も身体の怠さも気にならない。
ノックの音がして、ルーがやってきたのだと思い意識的に口角を上げた。
「失礼いたします」
入ってきたのはブラッカー公爵とイリヤナで、菫色を使ったドレスを見て、顔を顰めた。今回のように目的が明らかな場合に、主役と重なる色合いを使うのは不作法だ。
「陛下、お待たせして申し訳ございません」
「……約束をした覚えはないが」
戸惑うような二人に、何かが掛け違っているような感覚とともに嫌な予感を覚えた。口を開く前に、再度ノックの音がしてグラフ公爵、レーマン公爵が満面の笑みとともに祝いの言葉を告げる。
「陛下、この度は誠におめでとうございます」
「我々は今後もお二人を支え、忠義を尽くすことを誓います」
「陛下」
恥じらうような笑みを浮かべたイリヤナが伸ばした手を、アレクシスは咄嗟に振り払った。
「私の番は、どこだ」
しんと辺りが静まりかえり、全員が動きを止めた。
「私の伴侶はルーだ。何故他の女をあてがおうとする。ルーはどこだ。……ルーに何をした!」
怒りのあまり声が震える。何故このようなことになったのか。
「陛下は番様と距離を置かれていたではありませんか」
「そうですわ。それに私たちのことを披露パーティーで発表しても良いと仰ったのに」
ブラッカー公爵とイリヤナの発言に眩暈がした。
「君たちの、当主変更に関する発表を許可しただけだ。心得違いも甚だしい」
ルーのためにと距離を置いた自分の行動が、このような事態を招いたというのだろうか。
(そんなことよりも今はルーを……)
ノックもなしに開いた扉の先には、マヤを抱きかかえたファビアンだった。髪が乱れ、顔や手首に傷があり、首元にはどす黒い痣がくっきりと残っている。
「ルー様が、エドヴィン・ハウザーに連れ去られました」
ざらざらとしたしわがれたマヤの声が耳に届いた時、全ての音が消えた。
「ルー、ルー、どこにいる!」
大切な存在が遠い。気配が薄膜に隔てられているように希薄で、もどかしくて狂いそうになる。
「ルー!」
重く鈍いこの身体が邪魔だ。薬で抑え込まれている本能が、番との繋がりを隔てている。
「ルー、お願いだから、私の名を呼ぶんだ!」
大切な番が呼ぶなら、決して聞き逃さない。何処にいても探し出してみせるから。
息が出来ない。苦しくて苦しくて何かが壊れてしまいそうだと思い、壊れてしまっても構わないのだと思った。
番さえ側にいてくれるのならば、他に何も欲しくはない。
遠くで絶叫が聞こえ、アレクシスは身体が宙に舞うのを感じた。




