35 “私の王子様”と、“記録にない男”
「ファナ、今日も僕は王宮に行かなければならない。今日はセラフィオスが報告に来るんだ」
次の日の朝、エリオットは朝食の席でファナに切り出した。
朝食前の早朝に、神殿から先触れがあったのだ。
今回はネリファスの経歴と、彼が所属していた聖療部術式研究室の調査の概報を持ってくる。レオナルトと朝一番で面談した後、エリオット登城を待っているそうだ。
「エル、もし可能でしたら……私も連れて行っていただけませんか?」
エリオットの説明を聞いていたファナが、パンをちぎりながら言ってきた。
「え?ファナが?」
同じようにパンをちぎっていたエリオットが驚いて彼女を改めて見る。
ファナは一旦パンを皿に戻して、居住まいを正して訴えはじめた。
「はい、昨日エルが帰ってきてから、様子がおかしかったから……心配だったんです。いいえ、別に内容を話してほしいとかではないんですよ?エルには人に言えないこともたくさんある。それはエルの立場を思えば当たり前なんです。あなたが私に言わない。それは言えないことだって、わかっております。」
ファナは、まったく憂いの無い笑顔でエリオットを見る。
「私に言えないことで、辛いことがあったら、昨夜のような形で私にぶつけていただいても構わない。でも、今朝は、王城での用事の要件を話してくださいました。つまりは話せる内容という事ですから――可能ならば私も一緒に立ち会わせてください。」
エリオットはしばらく彼女の顔を見て、それから手に持っていたちぎりかけのパンを皿に置く。
彼も居住まいを正してから、言った。
「わかった。大丈夫、問題ないよ。今日から一緒に行動しよう。」
それからもう一度パンを手に取ると、無駄に小さく小さくちぎりながら、
「嬉しいなぁ、ファナが自分から僕と一緒にいたいって言ってくれた。もうこれは、一生離れないってやつでは?」
などと、にやにや笑いながらつぶやいていた。
王宮へと向かう前、身支度が整うと二人は玄関ホールで落ちあった。
ファナは契約の儀を経た聖女が装う華やかな法衣に身を包み、以前贈られた銀の地金に黒曜石をあしらったティアラとネックレスをしていたが、耳飾りが何かおかしい。
エリオットが目を凝らすと、片側はエリオットもよく知っている試薬を入れる瓶の金属製のフタで、もう片方は、おそらく燭台の金属の部品だった。
「それ……どうしたの?」
思わずエリオットが聞くと、ファナは申し訳なさそうに俯いて言う。
「あの、昨日、エルから頂いた大切な耳飾りなのに――失くしてしまいまして、お家の中を探して、とりあえずキラキラしたものを入れてみたのですが――変……ですよね」
恥かしそうに頬を染めたファナに、一瞬心の臓を撃ち抜かれ、心停止しかけたエリオットだったが、なんとか踏みとどまり、はたと思い出す。
「ごめん、耳飾りは両方とも僕が預かっているよ。その……とても汚れてしまって、君には返せないから、今、同じものを作り直させている。」
「そんな、作り直すほど汚れてしまっていたんですか?」
ファナが心配そうに尋ねてくるのに、良心の呵責に苛まれながら、エリオットは力強くうなづいた。
「ああ、とても君の素肌に触れるのにはふさわしくないんだ。
そういえば、今日は契約して初めての外出だね。セルジュ、あれを持ってきて。」
言われたセルジュは、あきれたようなうんざりしたような顔をして、書類カバンから黒いジュエリーボックスを取り出した。
「持ってきておりますよ。いつ渡されるのか、こちらがヒヤヒヤしておりました。殿下がこれを渡すのを忘れているなんて、ちょっと信じられなかったんですがね、お出かけ前に気が付かれて良かったです。」
エリオットはきまり悪そうに箱を受け取ると、ファナの前で開いて見せた。
「ファナ、契約の儀を経た聖女は、契約した王子の色と象徴する植物をあしらったアクセサリーの着用が認められるんだ。まだ外出は先だと思っていたから渡さなかったんだけど……」
箱の中には、植物をあしらった金の地金に、青い宝石があしらわれたティアラ、ネックレス、耳飾りのセットが美しく鎮座していた。耳飾りはもちろん、ファナの大きな耳の穴に合わせてあつらえられてある。
「トネリコなんだ」
エリオットは言うと、控えていた侍女を呼び、手ずからファナの身に着けているアクセサリーを外して渡していった。
そして、新たな宝飾品を付けてゆく。
全部つけ終えると、一歩引いて
「うん、綺麗だ」
とだけ呟いた。が、その顔は喜色に満ち満ちていた。
侍女長が気を利かせて鏡を持ってきて、ファナにも見せる。
彼女はしばらく顔を左右に振って確認し、うれしそうにエリオットに微笑む。
「ありがとうございます。エルの御髪の金に、瞳の天色、そして御印のトネリコ。エルに守られてるみたい」
「ああ、君を守る術式も、掛けられるだけ掛けといたから。もちろん、転移防止も追加済みだよ。」
だらしなく緩みそうになる頬を必死に引き締めながら、エリオットが言うと、ファナは彼の手を取って言う。
「では、参りましょう。“私の王子様”」
ファナの不意打ちに、今度こそ、エリオットは「うぐぅ」と情けない声を上げ、胸を押さえて膝をつく。
これは、完全にファナの確信犯だった。
馬車に乗って、王宮へと移動する。
王宮に到着すると、ふたりはそのまま通用門から中へ案内された。
エリオットの名のみで手配されていたのだろう。案内役の侍従は、王子に伴われた聖女に少し戸惑いを見せたが、契約を済ませた聖女の装いを見て、彼女に対して何も言わなかった。
応接室は東棟の中ほど。重厚な扉を開けて通された室内は、王族用としては控えめな装飾だが、神殿の来訪者には丁重すぎるほどの設えだった。
「セラフィオス様はすでに城内にお越しです。レオナルト殿下にお目通りの後、こちらへお越しになりますので、少々お待ちくださいませ」
侍従がそう言って頭を下げ、扉を閉めて出て行く。
「何か実のある報告があるといいんだけどね……」
エリオットが背もたれに体重を預けて、天井を見上げながら言う。
「ネリファス……でしたっけ。」
ファナは、少し緊張したような声音で、その名を口にした。彼女は、救い出されてから暴行してきた相手の名を知った。
エリオットは身を起して、ファナの方を見る。
「うん、もし思い出して気分が悪くなるようなら、遠慮なく言ってね。」
彼女の膝に置かれた手に自分の手を重ねる。
「はい――ありがとうございます。」
エリオットは、彼女が微笑みながら、ほんの少しだけ眉をひそめたのを見逃さなかった。
顔を彼女の耳元に近づけ、囁こうとした瞬間――
ノックの音がした。
「殿下、いらっしゃるかな?」
扉の外から聞こえたのは、セラフィオスの柔らかな声だった。
入ってきたセラフィオスは、ファナの姿を認めて一瞬だけ驚いた表情を浮かべた。
彼女の身を包む聖女の装束と、王子の象徴をあしらった宝飾品一式――
それらがすべて、「契約は終わった」ことを物語っていた。
わずかに目を細めると、セラフィオスは静かに頷き、口を開いた。
「エリオット殿下。そして、聖女ファナ様――契約のご成就、誠にお慶び申し上げます」
丁寧に礼をしてから、エリオットたちの向かいに腰を下ろす。
それから、持ってきた書類を一度机の上に置き、何枚かめくってから数枚の紙束をエリオットに差し出した。
エリオットはそれを受け取ると、黙ってパラパラと目を通す。
待っている間、セラフィオスは、ふとファナに目をやった。
「……それにしても、聖女様のお召し物と宝飾、お見事ですな。殿下の御印まであしらわれて……」
ファナがうれしそうに微笑むと、セラフィオスは静かに続けた。
「確か、本来は婚姻の儀の後に正式に授与されるはずの品だったかと――いや、私の記憶違いでなければ、ですが」
エリオットの肩が、ぴくりと跳ねた。それからゆっくりと微笑みながら顔を上げて言った。
「うん、記憶違いじゃないかな?それに、僕たちはもう実質夫婦――」
「ふむ、聞かなかったことにいたしましょう。」
セラフィオスは遮ってため息をつく。ファナはエリオットの隣で嬉しそうに微笑んでいる。
「では、本題に入りましょうかな……レオナルト殿下にも報告してまいりましたが――」
エリオットの顔が引き締まり、ファナも居住まいを正した。
「殿下のお手元にございますのが、神殿が保管しておりましたネリファス神官の経歴書でございます。
王国暦七五八年生まれ、年齢は三十。出身は王都東方のラセド村、戸籍上は平民籍となっておりますが、ヴォルステッド侯爵家の血筋を引く庶子であるとの記録がございます。
魔力量については、貴族籍相当の『緑柱の座』と報告されておりますな。もちろん、その程度魔力量では、転移の術は使えません。」
セラフィオスは、髭を撫でながら、視線を下に落として先を続ける。
「実のところ、今回の調査にあたりましては、ラセド村の戸籍係にも速やかに照会をかけております。
ところが、ネリファスという名の人物は、すでに失踪者として記録されておりましてな。
神学校へ進んだとされる十二の年に家を出たまま戻らず、家族より捜索願が提出されておりました。
また、今回改めてご家族にも面会いたしましたが――髪の色、顔立ち、ともに記録とまったく一致いたしませんでした。」
エリオットは書類の最後の一枚をゆっくりと伏せると、無言のまま天板を見つめた。
まばたきもせず、何秒か静かに息を吐いてから、低く言う。
「――つまり、この“ネリファス”という存在は、誰かが作った偽りの仮面だと?」
視線をセラフィオスに戻すとき、いつもの柔らかさはなかった。
「さらに申し上げますと――彼が通っていたはずの神学校にも、ネリファスという名の記録は一切確認されませんでした。
教官らに聞き取りを行いましたが、いずれもそのような少年の在籍を記憶してはおりません。
すなわち彼は、神殿内の記録と、神殿に勤める神官たちの記憶の中にのみ、“存在していた”のでございます。」
セラフィオスが目線を下げたまま言った。
「……これはすでに、記録の偽造という範疇を超えておりますな。
存在そのものが、神殿の“記憶の中”から始まっていた――
まるで、“誰かに作られた記憶”が、現実のように根づいていたかのようでございます」




