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刺青の聖女と契約の王子  作者: じょーもん
第三章

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34 夜の底のぬくもり

 場を一瞬の静寂が支配した。


 誰もが、牢の中の金杯を見つめていた。


 真っ先に動いたのは、エリオットだった。

 牢番が閉めようとしていた鉄格子の扉を再びくぐり、彼女が座っていたあたりに歩み寄る。その場にしゃがみ込み、慎重に床を観察した。

 やがて右手を差し出し、呪文を口の中で唱えながら床に向かって魔力を放つと、うっすらと淡く魔法陣が浮かび上がった。やがてそれも光を失い、完全に見えなくなる。


「召喚だ……」


 信じられないものを見たように、エリオットは目を見開き、呆然とつぶやいた。


「……どういうことだ。何をした。」


 後ろからレオナルトがやってきて問いかける。


「魔力の痕跡を感じたんだ。急いで消えかけてた魔法陣に魔力を流したら、一瞬だけ、反応があった。……聖女召喚の時に見たものと、酷似してた」


「聖女の……召喚?」


 レオナルトも事態が呑み込めず、ただ言葉を繰り返す。


「ああ。聖女召喚の魔法陣をはっきり見たのは、あの儀式のとき一度きりだけど――でもこれは間違いなく、あの構造だ」



 エリオットは、泣き笑いのような、驚愕と怒りがごちゃ混ぜになったような、何とも言えない表情で、レオナルトに振り向いた。


「――王城は、転移魔法が効かない結界があるから安心していたんだ。だけど、まさか、召喚なんて手を使うって、……誰が……そんなこと、考える?」


 レオナルトは弟の表情に、危うさを感じ、逆に自分が冷静になっていくのを感じる。


「可能性としては……逃げた神官、ネリファスか。あいつは転移の術も使う、相当な手練れだ。

 だが、召喚の術まで使ってくるとなると――

 奴の背後には、とんでもない存在がいるように思えるな……」


 レオナルトは床に転がっている金杯を、毒に触れないように注意深く取り上げ、目線の高さに掲げ、じっと見つめる。

 それからエリオットに向き直り、彼を正面から見つめて言った。


「ただ……一度召喚された聖女は、術式干渉の影響で、ふたたび召喚の対象になることはないはずだ。

 ファナ聖女も、リリスも――今のところは、その点で守られている。」


 エリオットは、はっと気が付き、ようやく表情を取り繕うことに成功した。


 レオナルトは、満足げに頷くと、金杯を控えていたヴェイルに渡す。

 恭しく受け取った金杯を仕舞い込むヴェイルを横目に見ながら、


「……処刑は、執行された。

 この場で、エリザベータという女は、確かに消えた――そう報告する。」


 言うと、レオナルトは背を向けた。


「……この件は、ここで終わりじゃない。奴が何を狙っていたのか、必ず突き止める。王家としても、兄としても……今後も……おまえの力が、必要になる。

 ……それだけは、忘れるな」


 それだけ言うと、今度こそ、レオナルトは侍従のヴェイルを引き連れて、地下牢をあとにした。


 エリオットはしばらく、レオナルトの出て行った方を、呆然と眺めていたが、不意にくしゃっと表情を歪めると、目を手で覆って天を仰いだ。

 その口元はかすかに笑っていた。




 エリオットが王宮を発ったのは、日が沈んでからだいぶ経ったころだった。

 あたりは夜の闇に沈み、馬車の舳先に点けられたランタンだけが揺れていた。

 彼は真っ暗な窓の外を眺めながら、ぼんやりと思い出す。


 地下牢を出ると、レオナルトが手配してくれていた王宮の女官たちに、かつて自分が使っていた部屋へと通された。内装はすっかり変わっており、郷愁はなかった。

 服をすべて脱ぎ、それをすべて焼却するように命じた。

 心配そうに付き従っていたセルジュには、身体を洗うことを申し出られたが、それを断り、ファナの耳飾りを、まったく同じ形で、まったく新しく作り直させるよう手配させた。


 頭から湯をかぶり、石鹸で体中隅々まで洗う。

 毛穴の奥に、肌の折り目に、爪の間に、まだあの地下牢のすえた臭いが残っているようで、何度も何度も、気が済むまで洗い直した。

 やっと洗い終えてふと置かれていた姿見と目が合った。


 何も身に着けていない自分は、どこか滑稽に思え、すぐに目をそらして湯船に逃げた。


 ――僕は、怒っていた。許せなかった。


 エリオットは、地下牢での出来事を振り返る。


 ――でも……僕は笑っていた。それは全ての感情を理性の下に押し込むためだった……


 でも、彼には、それが言い訳だとわかっていた。


 ――いくら痛めつけても構わない相手に、容赦なく……それに愉悦を感じていた。


 それが、自分の一番心の柔らかいところ、誰にも……ファナにも触られたくない、ほの暗く、湿った場所。


 不意に、自分の身体を、あの時の愉悦が駆け巡るのを感じた。

 ファナと閨で紡ぐ温かい快感ではない。

 もっと邪悪で、冷たくて、でも、ヒトの本質に迫るような、抗いがたい悦び――


 エリオットは自分が笑っているのに気が付いた。

 エリザベータを追い詰めた、あの屈託ない笑顔だ。


 不意に吐き気がした。羞恥心でどうかなりそうで、とっさに頭まで湯に潜った。


 ――彼女は悪だった。断罪は正しかった――はずだった。

 正しさに守られているつもりだった。なのに、あんなにも愉しかったのは……


 今馬車で、暗闇の中、あの温かい湯船の中に居続けている。そんな気持ちがした。



 馬車が止まった。

 車輪の軋みが、夢から現へと彼を引き戻す。

 扉が開く。ランタンの明かりが揺れて、冷たい夜気が頬をなでた。


 玄関扉の前に、ファナがいた。

 肩に淡い色のショールをかけて、静かに、まっすぐに立っていた。

 控えている侍女の姿はなく、広間の灯りも落とされていた。


 エリオットがタラップを降りてくると、彼女は駆け寄ってきて、微笑みながら彼を見上げる。


「おかえりなさい」


 エリオットの胸に、幾千もの思いが通り過ぎた。

 しかし、その一つも、言葉になることはなかった。


 彼はただ、ファナの手をすくい上げるようにしてとると、その手のひらに口づけた。


 ファナは敏感に、彼が出先で何かあったことを感じ取り、黙って彼を見ていた。


 しばらくすると彼は彼女の手を引き、宮の中へと入る。


 廊下では、誰ともすれ違わなかった。

 もしかしたらセルジュが先触れを出したのかもしれない。


 エリオットは、迷うことなく主寝室の扉を開くと、ファナを伴ったままベッドへとなだれ込む。


 黙ったまま、ファナを性急に組み敷くと、彼女の肩口に顔をうずめた。


 ファナは少し驚いた顔をしたが、すぐに微笑を取り戻すと、自分から彼の背中に手を回した。


「ファナ……」


 エリオットはそれに気が付いて、顔を上げる。


「どうしました?エル」


 優しい表情で見上げるファナと視線がぶつかった。

 あの湯船の中で感じていた羞恥心が、じわじわと戻ってくるのを感じて、再び彼女の肩口に顔をうずめる。


「……君のぬくもりが……欲しいんだ……」


 エリオットは、溺れる人のように、彼女にすがった。



 枕元のランプが、エリオットの隣でまどろむファナの肩を淡く照らしている。

 エリオットは上体を起こして、ファナの髪を撫でながらぼんやりと彼女の顔を見る。


「僕は――笑ってたんだ……」


 もう何度も、胸の内で繰り返しつぶやいた言葉が、口からこぼれ出る。


「僕は――なぶることを愉しんでいた――」


 もう何度、身を焼いたかわからない羞恥の炎が、彼の心をあぶり始める。


「エル――」


 ファナの声に、思考の海から現実に引き戻され、彼女に焦点を合わせる。

 先ほどまで情熱の残滓に身をゆだね、まどろんでいたはずの彼女が、目を開けて覚醒していた。


「ファナ?」


 エリオットが声をかけると、彼女は両手を差し伸べ、彼を抱き寄せた。


「寝ましょう。寝れば、また朝が来ます。」


 ファナはそういうと、エリオットをより深く抱き込んで、眠りにつくために、大きく深呼吸した。


 エリオットは、驚いたまましばらく目を見開いていたが、やがてそっと目を閉じる。

 触れる素肌が、ただあたたかくて、泣きそうだった。

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