第8話「去りゆく友」
あれから数ヶ月後、牛肉に変わる代替肉が作られ、流通している。食感や味は牛肉のそれに近い。食へのあくなき探求、欲望への結晶だろうか。それにしても、例年と比べて気温に変化はない。もしや、計画は……いや、そんなはずない。僕は何も間違っていない。うん。そうに決まっている。
無人の廊下。物音一つしない廊下に響くのは、俺の足音だけ。教室の中も、もちろん誰もいない。――当たり前だ。こんな早い時間から来ていたのは俺と春輝だけ。そして、春輝はもうここにやってくることはない。ついさっきその光景を見たばかりだというのに、登校した俺に「おはよう」と言ってくれるんじゃないかと思ってしまった。
俺は席に着くと春輝から貰った本を開いた。不思議な力で猫になってしまった少年が友人や猫達と云々……といった話みたいだ。十歳の子供が読むようなものだから、漢字も内容も大して難しいものではない……のだが、どうにも読む手が進まず、一ページ読んだところで一旦本を閉じた。
読み終えたら、本当に春輝との別れになってしまうとか、そういう風に思っているのか? いや、違う。ただ読書に慣れてないだけだ。でも大丈夫。俺にはまだ時間があるんだ。今日読み終えられなくても、転生の迎えが来るまでに読み終えられればいい。
俺は再び本を開き、ゆっくりと読み進めた。
誰もいない教室で誰かのことを思いながら一人で読書。落ち着くけど、少し寂しく感じる。春輝もいつもこんなことを思っていたんだろうか。
読んでいるうちに、少しずつ読書に集中できるようになってきた。この調子なら最初の話を読み終えられそうだ、と思ったところで廊下から足音が聞こえてきた。本を持っていて、しかもそれが春輝の物だとバレたら何かと面倒になる。そう考えた俺は慌てて本を閉じ、机の奥に隠した。
バレたら終わり、そう考えると集中しすぎるのも良くないし、全然落ち着かない。春輝もいつもこんなことを思っていたんだろうか。
扉がガラリと開き、入って来たのは修也だった。
「おはよう。相変わらず早いな」
「お前もな」
「そうか? 俺は普通の時間だと思うが」
時計を見てみると、修也の言う通り確かに早い時間というわけじゃなかった。どうやら時間が経つのも忘れるほどに熱中していたらしい。ただ、この時間帯にしては教室がガラ空きすぎる。
「まさか、全員サボりか?」
「そんな訳あるか。皆、転生したんだよ」
そう言いながら修也は教室を見渡していた。整然と並ぶ席。いたって普通の教室の風景。けれど、そのうち半分以上の席には、もう座る者はいない。
「このクラスは八月に死んだ奴らが集まっているから、あと二週間もすれば、朝じゃなくても教室はこんな感じだろうな」
もうすぐこの教室も終わり。もちろん、その頃には俺も修也も転生しているはずだから、その瞬間に立ち会うことはない。それでも、終わりが近づいていると思うとなんだか悲しくなってくる。まるで卒業までの数週間みたいだ。やっぱり、学校って場所での最後はこんな気持ちになるものなんだな。
「それで、春輝も明日転生……そういえばお前、今朝春輝の見送りしてただろ」
「え!? あ……うん。何で知ってるの?」
「あのなぁ、あんな馬鹿でかい声で叫んでおいて気付かないわけないだろ。あれのせいで無理やり起こされた奴もいるんじゃないかな」
おい、嘘だろ!? でも、でかい声出したらそりゃ聞こえるか……。ちょっと待て、どこまで聞かれてるんだ? 名前を呼んだところだけならまだしも、その後も全部聞かれてたとしたら……。
顔がどんどん熱くなってきた。
「いやぁ、感動的だったねぇ……」
周りに聞かれていたという事実だけでも恥ずかしいのに、こんな風に面と向かって言われると耐えられない。こんなこと知られてしまって、あと数日どう過ごせばいいんだ……。
「修也……」
「ん?」
「俺を殺せ」
「無理」
ですよね。俺たちもう死んでますもんね。
とりあえずこのことは修也に口止めしてもらうしか……いや、他の奴らにも丸聞こえなんだっけ? じゃあもうどうしようもないじゃないか。転生するまでバカにされて、何なら後世まで語り継がれてこの「学校」の伝説になるんだ……。
「一、そんなに落ち込まなくても……。それに、俺は馬鹿にしてるわけじゃないからね。大抵の奴はさ、友達が転生するってなっても見送りや何か伝えるってできないんだよ。だから、それをやったお前の事、すごいと思ってる」
「修也……お前……もっと褒めてくれない?」
「人の眠りを邪魔しておいて、あんまり調子に乗るなよ。お前こそ、何か言うことないの?」
「……ごめんなさい」
と、その時廊下から何人もの足音が聞こえた。他の皆も登校してきたんだろう。はじめに教室に入ってきたのは、いつか春輝と挨拶を交わしていた女子達だった。
「春輝君、おはよ〜! って、あれ、いない」
「アンタら春輝君と仲良いでしょ、どこにいるか知らない?」
修也がその質問に答えた。
「春輝は来ないよ。今朝方、神の部屋に行ったみたいだから」
「えぇ、明日転生ってコト!? 嘘ぉ……アンタら何で教えてくれなかったの!?」
「聞かれなかったから」
目の前で悲劇のヒロインのようにうなだれる女子たちの様子が面白くて、思わず笑いそうになった。でも笑ったら何か言われそうなのでぐっと堪えた。後から入ってきた奴らは普通に笑っていたけど。
修也は俺の方を向くと、「ほらな?」とでも言いたげに眉を上げた。確かに、ここまで落ち込む人もいるって考えたらちゃんと伝えられて良かったと思う。
その後も何人かクラスに人がやってきたが、やはりほとんどの席は空いたままだった。身近な存在であった春輝が神の部屋へ行ったことで、否が応でも自分の転生が近いことを感じさせられた。今になって、改めて思う。過ぎていく時から目を逸らしていたのは間違いだったと。終わりを受け入れようとさえ思えたなら、それだけ残された時間を大切にできるから。
数日後――
早朝と夜に少しずつ読んでいたおかげで、春輝の本は何とか半分より少し先まで読み進められた。けれど、ちゃんと読み終えられるのかは分からない。そのことが気がかりで、時々不安に思う。約束がある種のプレッシャーになっているのかもしれないが、そんな風に考えたくはなかった。
一人、また一人と転生していき、教室の中は随分と空白が増えた。修也は昨日、龍一は今朝方、神の部屋へ行った。別れには相変わらず慣れないが、寂しさはない。春輝の時と同じ、祝福する思いで送り出してやった。
友達と呼べる人は、ここにはもうほとんどいない。
これまで緩やかに進んでいた時間が、徐々に現実感を持って終わりへと進みはじめた。
つづく
頑張って考えたけど、全然話が進まなかったので無理やり進めました。