第24話「いつまでも」
地上に出た僕が目にしたのは一面に広がる銀世界。空からも白い粒が舞い落ちる。これは……そうだ、雪だ。日本には四季折々の美しい世界がある。そのことを忘れていた。
もう常夏化なんてどうでもいい。僕は駆け出した。
積もった雪に、僕の足跡だけがどこまでも伸びていった。
「それじゃ、行ってくるわね」
「気をつけてね。きっと帰ってくるんだよ」
そう言葉を交わすとシオンは微笑みを残して飛び立つ。僕は彼女の無事を祈りつつその背中を見送った。
あの夜の後、僕たちは二匹で暮らすようになった。とはいえ、巣があるわけではなく二匹で行動しているというだけだけれど。目を覚ませば互いに顔を合わせ、お腹が空けば共に草花の蜜を吸い、眠る時も二匹で一緒。そんな日々の繰り返し。
そんなある日のこと、シオンのお腹が少し膨らんできた。そう、僕たちに赤ちゃんができたんだ。でも喜んでばかりもいられない。子供たちの分の栄養を得るため、彼女は動物の血を吸わなければならなくなった。天敵とも言える存在の前に姿を現すことになるので、もちろんそれは死と隣り合わせだ。彼女はいつも帰ってくる度にどんなピンチに遭ったのかを笑いながら教えてくれるけれど、その度に僕がどれだけヒヤヒヤしているか、その笑顔を見た僕がどれだけ安心しているか、彼女はきっと知らないだろう。
彼女の帰りを待つ間、僕は日陰で休んでいた。けれどその程度では夏の熱気からは逃れられない。耐えきれず僕は水辺で涼むことにした。少しだけ脚を入れるとひんやりして気持ちがいい。すると水の向こうから何かがやってきたので、僕は慌てて足を引っ込めた。
「んん? なんかおったような気ぃするけど、気のせいだったかな? ……何だ葉っぱか」
やってきたのはアメンボだった。僕が脚を水につけた時にできた僅かな波紋を感じでやってきたのだ。けれど、上手いこと葉っぱだと勘違いしてくれたようで事なきを得た。
「なぁーんてね。ほら、そこの蚊さん。水の中は冷たくて、でら気持ちいいぞ。だもんでもっと入ってみりん」
気づかれてた! あいつが飛べるかは分からないけど、このままだと殺られるかもしれない。
「さ、さよなら」
僕は慌ててその場を後にした。去り際にアメンボの声が小さく聞こえた。
「あ、ちょっと……冗談じゃんか」
◇
元の場所へ戻ると、ちょうどシオンも戻ってきたところだった。血を吸ったからかそのお腹はさらに膨れている。いつ見ても、これでよく飛べるなと思う。
彼女はいつも通り、今回の出来事を話してくれた。
「今日は思わず血を吸いたくなる子がいてね、思わず追いかけちゃった。血もすごく美味しくて飲みすぎちゃったわ。あ! そうそう、帰りに危うく潰されかけて、今回ばかりはダメかと思ったけど、あの人間ったら下手っぴね。顔も匂いも覚えたから、覚悟してって感じで――」
怒涛の勢いでまくし立てられる彼女の話はまだ途中だったが、僕は思わず彼女を抱きしめてしまった。話を遮られた彼女は一瞬だけ困惑したように息を詰まらせたが、すぐに抱きしめ返してくれた。
「おかえり。今日もありがとう」
「ただいま……どうしたの? 急に」
「いつもシオンは楽しそうに話してくれるけど、君ばかり危ない目に合わせてるのが申し訳なく思えてきて……」
僕は彼女を抱く力を少しだけ強めた。彼女を離したくない、離れたくない。そんな気持ちが強まっていくのを感じた。出産という過程において僕は、僕たちオスは何の役にも立てない。ただ母となる彼女の身を案じるか、その糧になるだけ。それで構わない、と彼女は笑うけれど、その度に酷い無力感を覚える。
「この子達を守って、ちゃんと産むのは私の役目! それまでは死なないわよ」
「子供たちだけじゃなく、自分の事もちゃんと守ってね。あんまり無茶はしないで、子供たちのために頑張りすぎることないんだから……」
僕がそう言うと彼女はまた小さく笑った。
「何言ってるのよ、子供たちのために頑張るから母親なのよ? 自分のことはその次。だからもしも、って時は――」
自分が死んでも子供たちは守る、とか言うつもりなんだろう。でも、産む前に潰されては守れるものも守れやしない。それに、自分が死んでもなんて言葉、言わせるわけがない。
だから僕は、彼女の言葉を引き継いだ。
「その時は、僕が君を守るよ」
シオンが一瞬息を飲むのが聞こえた。お互いの顔を見つめる。彼女の目に僕がどう映っているかは分からないけれど、僕の目に映る彼女には、普段はあまり見せない弱さが垣間見えた。
少しの沈黙の後、何度目かの笑顔を浮かべた。僕を安心させるためのものとは違う、くしゃっとした心からの笑顔だった。
「ありがと」
明くる日の朝、すぐそばで寝ていたはずのシオンの姿が見えなかった。単に血を吸いに行ったのか、風で飛ばされてしまったのか、それとも……。
辺りを飛び回りながら呼びかける。けれど姿どころか返事一つ返ってこない。嫌な想像が頭をよぎる。
どこだ、どこだ、どこに行ったんだ。
どこにいるんだ。
降り立った水辺。水面には一匹の蚊が映る。紛れもない僕の姿。もう会えないのだろうか――いや、そんなはずない。きっと、そのうちいつものように帰ってくるはずだ。
と、その時微かに声がした。苦しんでいるような、何かに耐えるような彼女の声――否、羽音が。
彼女の発する声を頼りにその影を追う。
そして、見つけた。
家屋のすぐ側。庭の隅の植木鉢、薄く水の溜まった受け皿の上に。
「シオン……? こんなところで何を……」
覗き込んでみると、彼女の体から何かが出てきて受け皿の側面に張り付いた。純白の、小さく丸い物が。
卵、僕と彼女の子供達だ。
見てみると既に幾十もの同じ物がそこにはあった。
彼女の懸命な姿に、思わず出かかった頑張れ、という言葉をすんでのところで飲み込む。既に彼女は十分に頑張ってきたし、今だって頑張っている。死の危険を冒して血を吸い、無事に帰って来てくれた。そして今、その結晶を外の世界に残そうとしている。それなのに頑張れなんて言えるわけがない。
僕はただ祈った。全てが無事に終わるように。
三十分ほどしたところで、彼女はその場で横になった。ぐったりとした様子で動かない。
「シオン!」
「あ……シン……。大丈夫、ちょっと疲れただけだから。すぐにまた飛べるわ」
「良かった。……あのさ、ありがとう。頑張ってくれて」
彼女は幸せそうに笑った。子供たちを産み落とした、真の母としての笑顔だ。
これで、ひとまず僕たちの生まれた意味、存在意義である種の保存という役割は終わった。けれど、僕も彼女もまだ終わりを迎える気は無かった。
見届けるのだ。子供たちが羽ばたくその日を。
その時、どこからか白いモヤが現れた。白いモヤ、煙は薄く伸びて広がり、辺りに芳しい匂いを残し消える。
脳裏に浮かぶ煙の光景。それに重なって映る印象的なうずまきの形。
僕は悟った。この煙は、僕たちを――。
「シオン! その白い煙には触っちゃだめだ! 早く逃げよう!」
しかし、彼女は飛び立たない。植木鉢の受け皿の上で横たわったまま、脚を微かに痙攣させるだけだった。名前を呼んでも返ってくる声は無い。
最悪の想定が頭に浮かぶ。
また何も出来ないまま、今度は自分と世界を死ぬまで呪うのか。
そんなわけないだろ!
何があってもそばにいると誓ったんだ。
守ると約束したんだ。
だから――!
羽を広げて飛び立った。あの時救えなかった「家族」を今度こそ救えるかもしれない……いや、今度こそ救うんだ。
風に煽られて曖昧に蠢く煙を避けつつ彼女のもとを目指す。白に塗りつぶされた世界で、ただ一つの黒い光が僕を導いてくれている。
受け皿の縁に立ち、彼女の脚を掴む。意識の無い、飛ぶ気力の無い彼女は酷く重く感じられた。ふと力んだ拍子に煙を吸ってしまい、頭がふらつく。ほんの少しだけなのにこの効力。彼女を救えるかも瀬戸際かもしれない。
――ヤブカ……皆、兄ちゃんに力を貸してくれ!
この願いは無意味なのかもしれない。
この祈りは無駄なのかもしれない。
けれど、それは確かに僕の力となった。
彼女を引き上げてその手を離さぬよう握りしめて中空を飛ぶ。
力へと変わった願いは、さらに奇跡を起こした。彼女が意識を取り戻したのだ。
「し……ン? 私は……」
「大丈夫、僕が必ず助けるから!」
今一度、覚悟とともに彼女を掴む力を強くする。けれど、扇風機の風ですらふらついて上手く飛べなくなってしまう僕の羽では、二匹分を持ち上げるにはかなり無理があるみたいだ。
次第に前に進む速度が遅くなる。蚊取り線香の成分を少し吸ってしまったのか、体が上手く動かない。
「シン……私のことは気にせず逃げて……このままじゃ私たち二匹とも……」
「何言ってるのさ! 生きて、二人で子供たちの顔を見るんだ!」
「もう、いいのよ……短い間だったけれど、私、幸せだった」
彼女の顔はどこまでも穏やかで優しい顔をしていた。
どうしてそんな顔ができるんだよ。死ぬかもしれないっていうのに、なんで笑っていられるんだよ。幸せだった? 冗談じゃない、これからじゃないか。
彼女の脚から力が抜けていく。
「子供たちのこと、お願いするね……シン」
直後、彼女の肢体は離れてしまった。慌てて伸ばした脚をするりと抜けて落ちていく。
「さよなら」
それが彼女の最後の言葉だった。
◇
蚊取り線香は散々煙を吐き出したあげく、日が傾き始めてようやく火が消えた。
彼女や卵はどうなっているだろう。この目でちゃんと確かめてみたかった。けれど、見たくない。見れば僕の理想が現実に塗りつぶされてしまう。
植木鉢の辺りに降り立つ。受け皿には変わらず卵がくっついていた。いくつか黒くなっているものもあったが、皆無事みたいだ。
一周ぐるりと回ってみると、卵より一際大きな黒い影があった。
よく知っている顔、見紛うはずもない。彼女、シオンが卵に寄り添うようにして横たわっていた。僕が手を離してしまった場所はもう少し先だったはず。ということは、あの後、わざわざここまで戻ってきたことになる。
――君は、最期まで子供たちのそばにいることを選んだんだね。
蚊取り線香を取り替えに人間がやってきた。その背中を感情を込めずに見つめる。
怒りや憎しみが無いわけじゃない。だけどそれ以上に僕は知りたかった。
ねえ、人間。
なぜ彼女は死ななきゃならなかったの。
なぜ僕達は殺されなきゃならないの。
ただ生きているだけなのに。
ただ生きたかっただけなのに。
人間としての記憶が答える。
羽音が煩わしいから。
痒いのが嫌だから。
病気を媒介するから。
だから、蚊を殺すんだよ。
僕は問う。
自分が不快な思いをしたくないから殺すの?
僕は答える。
そうだよ。嫌な奴を殺して何が悪いの?
自分より小さくて弱い奴を殺して何が悪いの?
いっそ、蚊なんて絶滅すればいいのに。
僕も同じ気持ちだ。
人間なんて、滅んでしまえばいいのに。
……だけど、子供たちにはこんな思いをせずに生きてほしい。どうかその一生が幸せであってほしい。シオンのような優しい心の持ち主になってほしい。
だから、僕にはやっぱり子供たちと一緒にいる資格はない。シオンの元へいく価値もない。
◆
ひどく穏やかな気持ちで僕は飛んだ。目的はただ一つ、人間に聴かせるんだ。彼らが死ぬほど嫌う蚊の羽音を。僕のありたっけの恨みの歌を。
ちっぽけな僕の死なんて、人間はどうせすぐ忘れてしまうだろう。でも――
「蚊うざ、死ね」
僕は、僕たちは忘れないよ。
家族を殺される悔しさを、悲しみを、憎しみを。
いつまでも。
つづく
ここまで楽しんで下さったという方がいたなら、大変嬉しく思います。
真の最終話は次回となりますが、ここで感謝を述べさせていただきます。
ありがとうございました。




