第23話
やはり誰もいない。僕だけ置いていかれたみたいだ。僕もさっさとこんなところからいなくなろう。夏を延ばすという目的もどうだっていい。そもそもどうしてそんなことをしようとしていたのか、もう忘れてしまった。僕は地上への昇降機を起動させた。幸い電気は通っており、僕の操作通りに動き出した。
「か、家族って……それはつまり、どういう――」
僕はたじたじになりながら言葉を連ねた。
家族になる、とはどういう意味なのか――いや、考えるまでもない。相手は蚊なのだから、精神的な繋がりという意味での家族じゃなく、血縁的な意味の家族だ。
顔が熱い。鼓動も尋常じゃなく早くなっている。あの薬が僕と相手のどちらに効くものかは分からない。だけど、今のこの雰囲気を作り出しているのは間違いなくあの薬だ。
「どうしたの? 私とは嫌?」
「嫌というか……何て言うか……」
ちらりと彼女を見た。鋭い口吻に華奢な肢体、透き通るような羽と僕を見つめる複眼。その全てが魅力的に思えた。でも、そんな自分を否定したかった。彼女を好きになってはいけない、と。彼女と一緒になれば、また失う悲しみがあるんだ。今ここで別れてしまえば、その悲しみを幾分か少なくできる。彼女だって、また家族を失う苦しみを味わいたくはないはずだ。
これは彼女のためなんだ。
「……ごめん、僕はダメだ。ダメなんだよ」
「どうして? 何がダメなの?」
そうだ、僕には彼女から嫌われることができる武器を持っている。この一言で、彼女だってきっと僕と家族になりたいなんて言わなくなるはずだ。
「僕さ、前世は人間だったんだ。僕や君の家族を殺した人間さ。僕たちの同族だって、これまで大勢殺してきたんだ」
すると、彼女は俯いて黙り込んでしまった。
これでいいんだ。仲間や家族の仇とも言える僕を好きになるはずがない。
彼女は何も返さぬまま、けれどどこかへ飛びさろうともせず隣にいた。時折こちらを向いてはまた俯く。
照りつける太陽の光が降り注ぐ。まるで僕たちを繋ぐ沈黙を灼き切ろうとしているかのように。
「ねぇ、それがどうかしたの?」
突然、彼女は何事も無かったかのように喋った。先程までの時間も、僕の告白も、全てがどこかへ吹き飛んでしまった。
「どうかしたの、って……僕は人間だったんだよ?」
「だから、それが何だって言うの? もし私の前世がが『八つ脚』だったり『大腕』だったりしたら、あなたは私を嫌うの?」
「いや……多分違うと思う」
「私だってそう。あなたの前世が何かなんてどうだっていい。私が好きになったのは今のあなただもの。それとも、人間は前世にまで遡って相手を好きになったり嫌ったりするの?」
確かにそうだ。前世が何だろうと、僕は僕じゃないか。そして、彼女はそんな僕を家族として選んでくれたんだ。彼女にとっては失う恐れよりも、今ここにある安らぎの方が遥かに強いものなのかもしれない。
それならば、僕は? 彼女の思いに応えるのか、それとも二度と同じ苦しみを味わわぬようにここから立ち去るのか。
もう、何も迷うことはなかった。
僕は彼女の前脚にそっと自分の前脚を添えた。すると、彼女は歌い始めた。否、それは彼女の羽音だ。全てを許し、包み込むかのような美しい旋律を奏でていた。初めて聴くはずなのに、いつの間にか僕はそれに合わせて羽を震わせていた。二匹の羽音が次第に交わり、重なり、同調していく。心地よくて穏やかな気分だった。
どちらともなく脚を伸ばし、抱き寄せる。互いの温もりが互いの心を、体を温めていく。
僕の一部が彼女の空白を満たしていく。
愛情でも快楽のためでもない、種の保存という最も原始的で純粋な本能的な行為。
僕たちが、家族になるための営み。
◆
事が終わってからも、僕たちは寄り添いながら空を眺めていた。空には点々と星が瞬いていた。僕と違い純粋な蚊である彼女がそれを美しいと思うのか、そもそも同じように世界を見れているのかは分からない。
「私たち、これで家族になれるのね」
「うん。僕ももう寂しくないよ」
いつか僕たちの子供が産まれてくる。その中にはきっと、僕の家族や彼女の家族によく似た子がいるだろう。その子たちが決して悲しまぬように見守ってやろう。今度こそ、僕は僕の家族を守るんだ。
「そうだ、皆に名前を付けるのはどうだろう」
「名前……さっきあなたが言ってたやつね。それは何なの?」
名前とは何か、か。ヤブカ達に説明した時はお互いを識別するため、みたいなことを話た気がする。でも、名前には個人を表すだけじゃなくもっと大きな意味があるような気がする。例えば……そう、名前が付くことでそのものに意味が生まれるとか。代わりのない存在になるとか――上手く言えないけど。
「名前っていうのは、君を君そのものにするというか。他の蚊とは違う、特別な存在というか。なんというか……」
「よく分からないけど、何だか嬉しい。名前、付けてほしいな」
「うーん……それじゃあ、シオンなんてどうかな?」
紫苑。花の名から拝借した。花言葉が気に入っていて何となく好きだったような気がするけど、もう忘れてしまった。
「ありがとう、あなたの名前はなんていうの?」
そう聞かれて、僕は弱ってしまった。家族たちの名前ばかり気にしていて自分の名前を考えていなかった。名前……昔の名前は……ダメだ、思い出せない。いや、昔のことなんていい。新しい名前をつけよう。新しい僕になるんだ。
「僕は……シンだよ」
「シン? 私の名前とそっくりね」
そう言われて気がついた。新しい自分、というところからシンにしたけどシオンと音が被ってる。わざわざ似た名前にするとか変だと思われるよな。
「あ、そうだね。じゃあ変えよう。えーっと……」
考え込む僕の前脚に、彼女が自身の前脚を重ねてきた。それを見つめ、流れるように彼女の顔に視線を移す。彼女は優しい笑みを浮かべていた。
「そっくりでいいの。そっくりな名前がいい。どんな時でもあなたが近くにいてくれている感じがして、嬉しいから」
分かったよ、と返して彼女の前脚にさらに僕の脚を重ねた。
「僕、近くにいるよ。何があっても、どんな時でも」
「ありがとう」
それ以上はお互い言葉にはしなかった。ただ二匹で寄り添い、こうこうと輝く月を見上げていた。
つづく




