最終話 母の心
あの方の身の回りをお世話申し上げる女官の一人が、お暇を頂く事になり、私が選んだ新しい女官候補と連れ立ってやって来ました。
あの方は、新旧二人の女官を前にして、丁寧に話し掛けられました。
「良くこれまで勤めてくれました。貴女の奉仕は大変心のこもった物でした。心から礼を言います。」
あの方の言葉を聞きながら、私は悪いとは思いつつも、貴女もまた私を遺して行ってしまうのですね、と彼女を心の中で詰るのを止める事が出来ませんでした。
「勿体無いお言葉でございます。実に至らぬ私の勤め様を思えば、汗顔の極みにございます。」
そう言って頭を下げる彼女に、あの方は仰いました。
「とんでもない。貴女の精勤ぶりには、感心しましたよ、ねえ、女官長。」
唐突に話を振られた私は、取り繕う様に笑みを浮かべる他はございません。
「ええ、本当に素晴らしいお勤めぶりでしたね。貴女がここを去られる事は、本当に残念でなりません。」
それは社交辞令ではなく、本心からの言葉でした、特に後段は。
やがてあの方は、前任の女官から不老の魔法を解き、改めてその労をねぎらった後、新たな女官候補に向き直られました。
「今後僕に仕えてくれる貴方のために、これから不老の魔法を掛けます。」
彼女は緊張を露に、無言で頷きました。
「ただその前に、貴女に教えて置かなきゃいけない事があります。それを聞いた上で、それでも僕に仕えても良いと貴女が思うなら、魔法を掛けてここに受け入れます。」
お仕えする上での一通りの心得などは、既に前任者から引き継ぎを受けている彼女には、ここでそれもあの方ご本人から教えられる事があるというのは意外だった様で、緊張しながらも思わず頸を傾げました。
「僕は、元々この世界の人間じゃありません。」
それは、彼女にとっては想像の埒外の話だった様で、どう反応して良いのか判らぬままに、半ば呆然と聞いていました。
「僕は、この世界の混乱を納めるために召喚されて、ここではない『地球』という世界から転生してきました。そうして、色々苦労はありましたが、それを概ねやり遂げました。だから、いずれは元の世界に帰らなきゃいけないんです。」
その言葉に、彼女は驚きを隠せない表情で、何故教えてくれなかったのかと責める様な眼差しで前任者を見ました。
しかし、この秘密はあの方以外の人間が明かしてはならない物なので、彼女は目を逸らすしかありません。
「それがいつの事なのか、僕には判りませんけど、それまで僕に仕えてくれますか?」
そう尋ねられた彼女は、助けを求めるかの様に私を見て、驚きの表情になりました。
その時はじめて、私は自分が涙を流している事に気付いたのです。
あの方もそれに気付くと、狼狽えながら尋ねました。
「どうして泣くんですか?女官長。僕は、何か間違った事を言っちゃったんですか?」
私は、出来るだけ感情を抑えて言いました。
「これは、ご無礼致しました。貴方様は、何もお間違えになってはおられません。不祥この私は、貴方様が転生なさいますための便法としてこの腹をお貸し申し上げたに過ぎぬ者である事は、重々承知しております。ですから、貴方様のお望みにとやかく申す資格なぞございません。とはいえ、例えかりそめの関係であろうとも、息子が二度と会えない世界に去る事を哀しまぬ母は居りませぬ。」
私の言葉に彼女の表情は同情へと変わりました。
そうして彼女は、意を決したという表情で、きっぱりと言いました。
「はい、微力ながら全身全霊でお仕え申し上げます。」
あの方は、満足げに頷かれると、不老の魔法をお掛けになりました。
「そのご様子では、貴女もかなり驚かれましたのね?」
新しい女官となった彼女を伴って、私は自室に退がりました。
「はい。あの方は、いつか私達を置いて何処かへ帰って行かれるのですか。私達は、あの方の庇護無しに生きて行けるのですか?」
彼女の不安はもっともな事でしたが、私は更に辛い真実を語らねばなりません。
それが私の勤めだからです。
「私の最大の勤めは、貴女の様にここであの方にお仕えする者達に、真実を伝える事です。」
恐らく彼女は、私の表情から尋常ならざる哀しみを読み取ったと見えて、黙って続きを待ちます。
「貴方もご存知の通り、造化の神はあの方に、神の全知全能の力をお与えになりました。これをもって、あの方を『神に愛されたお方』と呼ぶ者は数多おります。」
彼女は何も言わず、頷きました。
「しかし私は、造化の神は、あの方を愛してはおられぬ、いや、むしろ憎んでおられるのではないかと思っております。」
その言葉に彼女は、意外そうでした。
「造化の神はあの方に、文字通りその手で世界を救うに足る神の力をお与えになりましたが、その一方で、神ならば無くては叶わぬ筈の鋼の心をお与えにはなりませんでした。」
「あの・・・それはつまり、どういう・・・」
主題が理解できず、遠慮がちに尋ねる彼女に、私は辛さを堪えつつ説明を続けます。
「あの方が最初にその力で他人をお救いになったのは、まだ、一歳にもならぬ時でした。私があの方を乳母車で散歩させていた時、突然暴れ馬が走り込んで来たのです。その馬は悪意のある悪戯でかなり強力な防壁の魔法が掛けられており、止めようとする者がその魔法の有効範囲まで近付けなくされていたのです。ですから、その防壁の外側から馬を抑える強力な呪文が使えるか、防壁の呪文を解呪する事が出来る者を呼びに行く間、その馬が暴れまわるのを指をくわえて見ているしかありませんでした。その馬が一人の少年を蹄に掛けようとし、私達みんなが思わず目を覆ったその時に、馬は空中高く吊り上げられました。何が起こっているのか判らず右往左往する私達を後目に、あの方はにこにこと笑いながら、手を差し上げ、解呪者が来るまでその馬を巨大な防壁ごと中空に吊っておいたのです。みんなこの奇跡に、涙を流して感謝しました。こうしてあの方は、まだ、物心もつかぬうちから、その自らの御手で次々と人をお救いになられました。」
彼女は、さすがあの方と感心していました。
「それから、あの方の周りで何か悪い事があると、瞬く間に問題が解決して、その都度あの方を信奉申し上げる者が増えていき、そして、貴方もご存知の魔王大戦にあの方も参加なさいました。」
この辺りは歴史で必ず習う事なので、本来なら説明するまでも無い事です。
「まだ幼かったあの方は、その中でめきめきと頭角を現され、正義の陣営の中で信奉者に押し上げられつつその地位を進めて行かれましたが、その過程で少しずつ違和感を覚えていかれました。そうしてご存知の通り、最後の魔王との戦いでは、正義の陣営は全て信奉者で固められ、あの方はその先頭に立って魔王との対決をなさり、勿論鎧袖一触の勝利をおさめられました。」
ここで私は、頷く彼女に尋ねました。
「敗北を悟った魔王が、最後に何をしようとしたかご存知?」
彼女は、学校で習った事を思い出そうと頸を傾げ、やがて自信なさげに答えました。
「あのぅ、確か、世界を滅ぼそうとしたのでは?」
「そうです。魔王は、その手に入れられなくなった大地を粉々に砕こうと、巨大な隕石を召喚したのです。その時、あの方はそれまでの違和感の正体、つまり自らの過ちを悟られたのでした。」
「と、いいますと?」
「その魔王大戦最後の災厄は、全員が心を一つにして力を合わせれば、間違いなく食い止める事が出来る物でした。そして、あの方がお手をお出しにならずに促した事で、一旦はそれが形になる所まで行ったのですが、その試みは実を結びませんでした。その時世界は、この挫折を乗り越えようとする気力を見せませんでした。あの方は懸命に皆を励まし、再挑戦を促しましたが、共に戦って来た獅子の様に頼もしい筈の仲間達は、みな兎の様になすすべもなく狼狽えながら、ただあの方にお手を差し伸べて下さらない事を非難する様な視線を集めるだけでした。そうしてあの方は、その災厄をその手のただ一振りで消し飛ばしておしまいになりましたが、そのお心の中には、深い絶望が残りました。あの方は、そのお一人の手で世界を救う事で、この世界から、自らの手で未来を切り拓いて行く気概を奪ってしまった事に気付かれたのです。」
ここで私は一旦言葉を切って、尋ねました。
「貴女は、この千年の間に、何度くらい世界が滅びかけたかご存知ですか?」
私の質問の意図が掴めず、彼女はきょとんとしていましたが、やがて遠慮がちに答えました。
「ええと、あの方がおられる限り、その様な事は起こらないのでは?」
私は、寂しさを隠せないまま、微笑んで見せました。
「それは、ある意味では正しく、また間違ってもいます。魔王大戦の最後にあった様な大地を粉々に砕くほどの大きな隕石や、まるで、燎原の火の様に凄まじい勢いで拡がり一度罹患したら数日後にやって来る死を待つ以外にはない恐ろしい疫病、そして、噴煙で世界を百年間も闇に閉ざすであろう火山の大噴火、その他私の知るだけで七回の危機がありました。」
彼女は、信じられない、という表情になりました。
「驚かれるのも当然でしょう。それらの大半は、まだ致命的な広がりを見せる前に、あの方が跡形もなく消しておしまいになりましたから。ただ、そのうちの四回は、悪意をもって人為的に引き起こされた物です。つまり、自然に生じる災害だけでも沢山だというのに、その上に更に身勝手な理由で災厄を呼ぼうとする人間が後を絶たないのです。あの方は、この点を深く憂慮なさっています。」
「あの・・・」
彼女は、控え目に尋ねます。
「あの方のお力をもってすれば、皆がその様な考えを持たぬ様にする事もお出来になるのではありませんか?」
私は、哀しみを押さえられないまま答えました。
「勿論それは、造作もない事ですが、あの方は決してそうはなさいません。」
「何故です?」
「それをすれば、ご自分は人間ではなくなってしまう、とお考えなのです。」
彼女は、私の絶望の一端を理解してくれた様でした。
「貴女がお感じになっている様に、この世界は今やあの方無しでは立ち行きません。魔王大戦を制された時、そのお歳は八歳に過ぎませんでした。これは、いかに早熟とはいえとても全世界を背負うに足りる年齢ではありません。そうしてあの方は、皆に自力で生きる術を思い出して貰おうと、様々な試みをなさいました。三年にわたるそれらの試みは全て実を結びませんでしたので、ついに十一歳の時、あの方は荒療治にお出になりました。」
彼女は、歴史の授業を思い出した様でした。
「岩戸隠れですね。」
「そうです。」
「でも、あれは、世界があの方に対する尊崇の念を失うという愚かな行為により引き起こされた物と習いました。」
「そのようですね。ただ、実際はその逆で、もし世界が崇拝する事を止めあの方に依存しなくなったなら、あの方は喜んでそのまま隠遁なさったでしょう。しかし、この世界のうち大部分である善良な人々は、あの方の不在を嘆くばかりで自らの脚で立とうとはせず、それを見た残り、つまり姦佞な者達は、あの方のご意志を騙ってその利を図ろうとしました。あの方は、それを我慢して二年にわたって見守って居られたのですが、やがて、その詐称者達はあの方の唯一の後継者の称号を巡って互いに争い始め、しまいには第二次魔王大戦が始まる様相を呈するに至りました。そうしてついに、あの方は深い絶望と共に再び事態の収集に乗り出さざるを得なくなりました。世界はあの方のご帰還を歓迎し、詐称者達は、鼠の様に惨めに身を隠し逃げ去りました。」
彼女は、自分達が学んだ歴史では隠蔽されていたあの方の絶望を知って、明らかな衝撃を受けていました。
「そうして、あの方は私に仰いました。」
「母上、僕は急ぐ事は諦めました。」
「どういう事でしょう?」
「二年足らずで変わってしまった事なので、すぐ元に戻ると思っていましたが、五年掛けてしかもあれほどの荒療治までしても、何も変わらなかったので、もっとゆっくりと、時間を掛けて戻す事にします。もしかしたら五十年も百年かかるかも知れませんけど。」
そう仰るあの方の眼差しには、暗い諦念の陰が差していました。
「それで、貴方が生きているうちに間に合いますか?」
私は、思わず言わずもがなの疑問を口にしてしまいました。
「ですから僕は、自分に不老の魔法を掛けます。」
貴方は、その生き方に耐えられるのか?と本当は尋ねたかったのですが、仮に耐えられないとしても、他に選択肢がない事は明らかでしたから、その質問はあの方を傷付けるだけになったでしょう。
私は、あの方の表情に、必死に圧し殺そうとしている深い哀しみを見ました。
あの方の能力は全能の神に比すべき物であっても、そのお心はまだわずか十三歳に過ぎない少年なのです。
その少年が、世界のために全てを擲つという悲愴な決心をなさった以上、私は母として然るべき覚悟を決めました。
「貴方の覚悟は判りました。では、母はその日を貴方と共に待つ事にしましょう。」
あの方は、驚きながらも喜びを隠せない様子でしたが、やがて、それが勘違いである事を恐れる様におずおずとお尋ねになろうとしました。
「それは、その、つまり・・・」
「はい、私にも不老の魔法を掛けてください。」
「こうして、私はあの方と共に時の流れから離りて生きて行く事になりました。五十年が過ぎ百年が過ぎる間、あの方は、自分も人間である以上、いずれ居なくなる日が来るのだと繰返し仰って、自覚を促そうとなさいました。その間にも大なり小なり危機と呼べる事態は起こりましたが、あの方はその都度、事前に警告してそれへの対処を皆に任せようとしました。しかし、いつまで経っても皆はあの方を見ているだけで誰も動こうとしません。結局のところ、どうしようもなくなってあの方は、大隕石はその進路を曲げ、噴火しそうな火山は地下のマグマを広く分散させてその圧を下げ、致命的な疫病は無毒化して、と取り除いていかれました。そして、その度にあの方のお心ざしと裏腹に、世界はあの方に更に深く依存するのでした。私はあの方に、いっそ助けるのも警告するのも止めて、成り行きに任せてみてはどうかと申し上げた事があるのですが、あの方は、それでは多くの命が喪われ、更にその何十倍もの人々が不幸になります、と哀しげに仰いました。」
あの方ならさもあらん、と彼女は頷きました。
「人はその力の及ばぬ不幸に対しては、何とかして折り合いを付けられますが、出来る事をやらなかったがための悲劇は、中々諦めがつく物ではありません。まして、あの方は世界中のあらゆる悲劇と、それに対する人々の嘆きを全てご覧になれるのです。その上、そのお力がどれ程の物であろうとも、あの方は内面においては心優しい十三歳の少年なのです。ですから、例え世界の目を覚まさせるためであっても、起こり得る悲劇を、手を束ねて傍観する事は、耐えられないのでした。それからあの方は、災厄を事前に警告するのは止めて、誰も気付かぬうちに密かに片付けてしまう様になりました。」
彼女にも、ようやくあの方の悲劇の意味が判ってきたようでした。
「そして、あの方が地上の神となられて三百年も経った頃に、私にこう仰いました。」
「母上、僕はもう耐えられません!」
そう叫ぶと、あの方は涙を流されました。
あの方の辛さもそれを避ける事が出来ない運命も判っている私は、ただ黙ってその小さな肩を抱きしめる事しか出来ませんでした。
そうして、随分と長い時間しゃくり上げていましたが、やがて、落ち着きを取り戻され、私の腕を解きました。
「僕は、自分に魔法を掛けます。」
「掛ける?」
「はい。」
「不老の魔法を解くのではなく?」
その問は、あの方にとっては大変にお辛い物でしたが、あの方はそれを受け止めた上で、こうお答えになりました。
「まだ、僕が居なくなっても大丈夫な世界は出来ていません。今、僕が居なくなればそれこそ世界が滅びかねないのです。だから僕は、この世界を支え続けるために、自分に更に魔法を掛けます。」
私には、あの方の辛さを解消する魔法とはどんな物なのか想像もつかず、戸惑っていました。
「僕は、自分がこのアルカディエラではない別の世界から召喚されて来た転生者だと思い込むという魔法を自分に掛けます。それは、本当に僕一人の中にだけ存在する幻の世界で、誰とも分かち合う事は出来ませんけど、僕にとってだけは、今の僕は仮の姿であり、いずれ、問題が解決したあかつきには、そちらに還るんだと信じ込ませるんです。」
それは、ただの現実逃避である事は明らかでしたが、あの方はもうそれ以外に逃げ道がない程に追い詰められていたのです。
「それは、どんな世界なのですか?」
あの方はその架空の世界について、実に楽しそうに、生き生きとお話しになりました。
「その世界には魔法は無いから、一人で世界を背負う人もいないんです。そして、その世界の人達は魔法のある世界を空想して、アルカディアと呼んでいます。だけど、そこではみんな自分の事は自分の手でやるしかないんで、誰も百年先の事を思い煩ったりはしません。両手をかざして呪文を唱えてもなにも起こらないから、アルカディエラなら魔法で済ます事は、誰かがそれをするか、それをする機械を作るかしなければいけません。そして、そこでは僕は、ごくありきたりの一人の人間でしかないんです。」
そのお言葉で、あの方がご自分の力に本当に絶望していらっしゃる事が判りました。
「そうですか。それでは私もその幻を共にさせていただけるのですね。」
あの方は、哀しげに頸を振られました。
「それはできません。僕以外の人の心をいじってしまえば、僕はもう人ではいられなくなります。例えそれが母上であってもです。」
その言葉に私は、思わずあの方を詰ってしまいました。
「それでは、私一人にこの苦しみの中で生きよ、と言うのですか!」
あの方は、穏やかな表情で仰いました。
「不老の魔法を解きます。母上は、どうか時の流れの中にお戻りください。」
私の重荷を解こうと仰ったのです。
私は、それを受け入れるしかないのだと、暗い安堵と共に受け入れ掛けました。
「ところで、その世界は何という名前なのですか?」
あの方は、少し照れながら仰いました。
「地球です。」
それは、衝撃的な名でした。
この世界の名であるアルカディエラがあちらではアルカディアとなるのなら、あちらの世界の名であるガイアは、こちらではガイエラとなるはずです。
それは、私の名だったのです。
あの方にとって唯一の希望となる還るべき幻想の世界は、『母』そのものなのでした。
最早あの方は、その心の平衡を保つべき手だてを、母という安らぎの幻想の中にしか見出だせなくなっていたのでした。
それが判った時、私の覚悟は決まりました。
「私の心に手を入れたくないというお気持ちは判りました。それでは、不老の魔法を解く事はお断りします。」
「母上!お怒りになられたのなら、お詫びします。でも、僕は母上を苦しませたく無いのです!」
「貴方が、他の人達に対すると同じ様に、母に対しても本当に優しい子である事は、良く判っています。ですが、私は貴方の母なのです。子供が苦しんでいるのを放って、自分だけ楽な所へ行きたいという母はいません。また、母の心に手を入れる事が貴方の苦しみを増すのであれば、母はそれを望みません。私は今のままで最後まで貴方の側に居ります。」
その言葉があの方を喜ばせたのか哀しませたのかは、その複雑な表情からは、ついに読み取れませんでした。
「そうしてあの方は、魔法でご自分の記憶を書き換えてしまわれました。私はそれ以降、女官としてあの方にお仕えする事になりました。といっても、聡明なあの方は、三歳を過ぎる頃には既に、身の回りの事は全てご自分でなさいましたから、お世話をする者など必要ではなかったのです。ですから私の仕事は、主にあの方の恋い焦がれる『元の世界』の回想を伺いながら頷く事でした。」
彼女は、私の哀しみを不思議そうな表情で見ていました。
「その世界では、あの方の育った山村の住人たちは、みな神々となって世界を見下ろしていました。その中でも特に、あの方の最初の友人となった少年は、冥界の王として殊更に陰鬱な存在とされていました。何故そうなのかは、じきに判りました。その友人は、早熟なあの方の恐らくは初恋の相手であったろう少女を婚ったからです。これが、お優しいあの方に出来る最大の復讐だったのでしょう。」
この下りを話す時、私は笑って良いのか哀しむべきなのか、今でも判らないので、きっと曖昧な表情をしている事でしょう。
「そうしてあの方は、世界のために働いている間を除く全ての時間を、その元の世界を『思い出す』事に費やされました。そこには、随所に今まで出会った様々な人々を散りばめて、更にはその世界で産まれては死んでいったであろう何千億もの名も無き人々の営みを含む数万年にわたる歴史を、その知力を全て費やして、組み上げて行かれたのです。ただし、あの方ご自身を除いて。今やその世界はこの世界を遥かに凌駕する規模で、あの方の頭の中にのみ存在しています。つまり、その世界の大きさは、そのまま、あの方の絶望の深さなのですよ。」
彼女は、その大きさに圧倒されつつ、疑問を口にしました。
「何故、その想像の中であの方ご自身は除かれるのですか?」
私は、聡明な彼女ならその意味が判ってくれるだろうと思い、言葉を継ぎました。
「その世界では、あの方は本当に何者でもないとるに足らない人物であるべきでしたから、あえて、自身の人生については詳細な想像をお避けになったのでしょう。私はかつて、あの方ご自身のガイアにおける人生についてお尋ねした事がありますが、あの方は、大した事はありませんよ、と苦笑なさるばかりでした。それを理解した時私は、あの方のためにハレムを作ろうと決めました。」
「ハレム・・・ですか。」
彼女は、思い当たる節が無くもないという顔をしました。
私があの方の身の回りのお世話をする者達を全て女でかため、しかも常に二十人にもなろうかという不要な程の大人数が伺向する体制とした事について、これをまるでハレムだと揶揄する声が無くもない事は、周知の事実でしたから。
「ただしそれは、『妻』ではなく『母』を蓄えるための施設です。あの方にとって必要な母の安らぎは、到底私一人で与えられる様な量ではありません。」
彼女は、半ば得心がいったという表情になりました。
「母性に溢れる女性を選りすぐってあの方のお側を埋めつくし、ただひたすらにあの方を慈しみ賛美する事で、わずかなりともその苦しみを和らげる事こそが、母である私に出来る唯一の支えであると判ったのです。」
彼女は、何かを恐れる様な表情で言いました。
「仰る事は判りましたが、この私が母性に溢れる女性だというのは、いささか買い被りではございませんか。」
この話をすると、みな一様にこういう反応をなさいます。
その任務のあまりの重さに、我が身を顧みてその非力さに怖じ気着くのです。
私は、穏やかに諭しました。
「私がそう決意してから七百年程経ちました。その間に、私と共にその勤めを果たしてくれた女性は、今居る者を含めて百人を越えました。私はそれだけの方々を選び、共にあの方にお仕えして来たのです。その私の目に狂いはありませんよ。」
そうして彼女が少し気が楽になったのを見計らって、私は彼女に最後の選択を求めました。
「全ての事には終わりがあります。あの方がどれ程ご尽力なさろうと、いずれはこの世の終わりが来る事でしょう。それでもその日まで、あの方はこの世界を、小さくもあり大きくもあるその両手で支え続けていかれる事でしょう。ですから、私はその日まで、あの方のお側に立ってささやかながらそれをお支え申し上げるのです。貴女もそれに手を貸していただけますか?」
「もし、ここで出来ませんと申し上げたら、私はどうなるのでしょうか?」
これは必ず出る質問です。
「その時は、私からあの方にお話しして、不老の魔法を解いて頂きます。その上で貴女は、今回聞いた話の全てを口外しないという誓いを立てた上で、元の生活に戻ります。誓い以外については、貴女は以前と何ら変わることはありませんから、ご安心なさい。」
この説明をするとき、私はいつも緊張します。
この質問は一度きりと決めているので、ここで断られたら、翻意を促す事は出来ないのです。
それは、私の非力さ故に巻き込んでしまう少女達に対する私のけじめでもあり、また、何よりもあの方をお支えするための奉仕は、完全に自発的な物であるべきと信じるからです。
彼女は、視線を落としてしばらく思い迷っていたようですが、やがて顔を上げると毅然とした表情で頷きました。
「微力ながら、お手伝いさせていただきます。」