三十二話「あの頃は天使、今は……黙っとこう」
俺と春はすぐに打ち解けあった。
夏休みの間は琴凪家に入り浸りだった。預けられているという体なので、俺としても早く慣れたい一心で屋内を探検したりもした。
琴凪家は素晴らしい物ばかりだ。
忘れもしない……琴凪の主人が隠した大人のビデオ。謎の女性から夜の食事に誘うメール。屋内に散財する琴凪の奥さんのへそくり。
……何だか、めっちゃ人の粗探ししとる。
ませた子だったんですね。
それはともかく。
関わっていく内に様々なことが判った。
まず、春はとても良い子であること。
最初に見せた俺への反応は、両親を取られるのではないかという危機感と、単純に自身の生活圏に卒然と現れた未知の少年への恐怖だ。
ただし、普段の春は異なる。
常に笑顔は絶えず、気配りもできて挨拶をされれば溌剌とした声で返し、困っている人を見れば助けるまでは行かずとも、足を止めてためらうほどに優しい心根の持ち主なのだ。
身近にこんな立派な子がいると、普通なら荒んでいくだろう。実際、俺は他の家に預けられた上に、まるで劣等感を抱かせるほど完璧な女の子が傍にいるんだ。
当時の俺は、そんな春を見て……嫁に欲しいなーって思ってました!!
すみません、僕って本当にませてるんです!
そうして、琴凪家に来て一年。
俺と春は小学校に登校する年となっていた。
持ち前の優しさで女子とはすぐに打ち解け、男子からの人気は凄まじかった春。
しかし、多くの友人を作っても俺の後ろから離れることは無かった。
「春よ、他に遊びたい相手はいないのか?」
「……ユウくんは、私と遊ぶの嫌?」
「そんなこと無いぞ。春と遊べることは、今や俺の誇りだからな」
「埃……やっぱり嫌なの?」
「そうだな。言い換えると……自慢できること」
春がきょとん、と途方に暮れた顔になる。
そんな顔して、本当は分かってるんだろ?ぐへへ、だが可愛いから許してやろう。ついでに小遣いで琴凪の奥さんのヘソクリをちょいと……。
俺は下卑た思考を巡らせているが、もちろん春はそんなことも露知らず、喜んでいた。
「自慢できる……嬉しいってこと?」
「嬉しくてこの前の体育のドッジボールで十何人も倒しちまうくらい力でたよ。調子が良すぎて相手のボールなんて全く当たらねぇしな」
「ユウくん凄い!」
だろ?
人気者は勿論のこと、今では同居人であり、兄妹のようで、それでいて魅力的に過ぎる女の子の春と一緒に戯れられる小学生は世界のどこを探しても、俺……と三人くらいはいるのかな。
それが俺の誇りとなり活力となる。
それは身体的にも影響を及ぼした。
ボールなど全く当たらず、相手だけを打ち倒せるくらいに強くなったんだ。
ははっ、舐めんなよ……外野の力を!!
「ユウくんは凄い」
「そんなに褒めるなよ。褒めてもヘソクリしか出ないぜ?」
「ヘソクリって?」
「言い換えると……ヘソからお金が出る」
「ユウくん凄い!」
「少しは疑えよ、この天使」
俺は思わず顔をしかめる。
このときの春は、何事も俺の戯言を鵜呑みにしてしまう傾向があった。よくも悪くも人を疑わない正確である。
それは美徳であり、しかし致命的だ。
こんな純真無垢では、いずれ飢えた大人の餌食になる。
「春、今のは嘘だよ」
「嘘なの?」
暴露した途端に涙目になった。
俺の方が何かに目覚めそうな瞬間だった。ませてたからね。
「何でもかんでも信じてたら、春は相手の悪戯に気づかないで酷い目に遭っちゃうぞ」
「ご、ごめんなさい」
見事に落ち込んでしまった。
つい説教口調になったのは、人の悪意を感じ取ることだけに敏感だった俺が、春の無防備な様に少し苛立っていたからである。
この子は、きっと周囲が助けてくれる。
当時は俺も友達がいたが、俺を残して仕事に没頭している両親にも反抗的な部分があったので、実質孤独だった。良くしてくれる琴凪家のことも、心のどこかで無聊を慰める物でしかないと冷淡に見ている。
だから、誰にでも好かれ、愛され、貴ばれる春のそこだけが気に食わなかったのだ。
そう、単純な妬みだ。
「ユウくん、嫌いになった?」
「……別に。でも、俺に嫌われたって春は友達がいるからいいだろ」
少し拗ねて意地悪を言った。
俺としても、今では恥ずかしい言葉である。
ただ、やはり幼い子供の心には深く突き刺さる辛辣な意味を含んでいた。
春は少し驚いて、しかし直ぐに顔を真っ赤にした。
「そんなことないもんっ!」
春らしからぬ大声だった。
その頃まで、春が怒ったところなど一度も見たことがなかった俺は、呆然として固まった。
「私、ユウくんが一番大事だもん!」
「え、俺が?」
「うん、ユウくんに嫌われたら……嫌われ、たら……!」
再び春が泣きそうになる。
慌てて春の肩を抱いて窘めてやった。いや、もうその泣き顔は暴力だ。老若男女に通用する、春を泣かしたって罪悪感で全身が竦み上がってしまう。
俺は狼狽して、春の頭を撫でながら必死に言葉を考えた。
基本的に俺も素行は良い子――信じられないかもしれないが――なので、相手を泣かした経験もなく、対応策が全く浮かばなかった。
ちぐはぐな思考回路で、思いついたことを口にするしかなかった。
「嫌いになったりしない」
「……本当?」
「当たり前だ。春は俺にとって家族みたいな物なんだから、嫌いになれるわけないだろ」
そのときの俺なりの最善だった。
春はその言葉を受け止めて、しばし呆気に取られて沈黙していた。たしかに別の家の人間が家族、というと小さい子供は大概が『血が繋がってないのに家族?』だとか、『じゃあ、私のお母さんから生まれたの?』と考えるのが一般的である。
それに、ぶっきらぼうな語調だった。
もう少し気遣いができたはず。
しかし、そんな言葉でも春の泣き顔が少しずつ笑顔へと変遷していく。
「ユウくんも春が好き?」
「勿論」
「春もユウくんが大好きだよ」
「ははっ、照れるぜハニー」
輝くような笑みを顔に咲かせる。
言葉一つで転落し、細やかな思い遣りで大喜びする。そんな感情の起伏が大きく、しかし危うげな春を見て、俺は自分に誓った。
この子は俺が守らなければ。
そのときは、そう思っていた。
アクセスして頂き、誠に有り難うございます。
過去の春は夏蓮さん以上に無垢です。これから彼女なりの色に染まっていきますね。。
次回も宜しくお願い致します。
中野「最近、俺の出番が無いぞ」
雄志「そりゃ、巷ではお前のこと『名前を呼んじゃいけない人』で通ってるからな」
中野「やっぱり姉のせいだよな」
雄志「君のことだぜ」
中野「おいおい、俺が姉ちゃんよりも酷いってのか?」
雄志「だって、お前がナンパなんて企画したから、最近の俺は随分と忙しくて大変なんだぞ」
中野「企画者より甘いリアル堪能してるくせに〜!」
雄志「これからも甘い汁を吸わせて頂きますっ☆」
後日、この会話を聞いていた謎の同居人によって数日の朝食は緑茶一杯だけだった。
次回へ続く。




