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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
一章
8/208

眠りの森が見せた夢 【7】

 結局昨晩は眠れずに過ごしたクロエは朝早くに中庭へ出た。

 ここへきた頃は荒れ放題だった庭も今は幾らかはまともになっている。

 枯れた花がそのままになっていた花壇に新たな苗を植えて整えた。大理石の噴水は流れる水を一度入れ替え、石を磨いた。春が近付いて地面を覆う芝生が伸びたら、長さを整える為に一度庭師に剪定を頼まねばならない。

 長い冬が終わり、春になる頃にはきっと素敵な庭になる。

 日常生活の雑事を手伝うことしかできないクロエは、せめてもと中庭の美化に力を注いでいた。だが、皆はそんなことを望んでいなかった。

 借金返済をさせる為だけにクロエをここに置いていた。そんな事実を知ってから見る中庭の景色は酷く虚しかった。

 噴水の縁に腰掛けて、膝の上に乗せた手をじっと見るクロエの目はただ静かだ。

 驚きや戸惑いや悲しみはもう昨夜の内に使い果たした。

 苦労して育ったクロエは【受け入れること】に慣れている。無意識の内で心が環境に適応しようとするのだ。

 一晩を掛けて気持ちを落ち着かせたクロエは奇妙なほどに平静だった。


「メイフィールド」

「……レイヴンズクロフトさん」


 顔を上げようとしたクロエは途中でその動きを止める。

 滅多にお目に掛かることができない美貌も、時と場合によってはひたすらに冷たいものに映る。継母と彼等は違うものだと理解しながらも、恵まれた容姿の人間に気後れどころか恐怖感すら抱いているクロエは、エルフェと目を合わせることが怖くてできなかった。


「眠れなかったのか」

「いえ、ただ目が覚めてしまったので外の風を浴びようと思っただけです」

「酷い顔をしているが」


 エルフェは公平だ。昨日もクロエに厳しい事実を突き付ける一方で、辛辣な言葉を吐くヴィンセントを止めもした。

 エルフェはレヴェリーのように味方になってくれはしない、限りなく敵に近い中立の存在だ。そんな相手を前にして、クロエは身が強張るのを感じる。


「ヴィンスが言ったことは気にするな。俺はあんたを拘束しようと思ってはいない」

「でも、私には借金があるんですよね?」

「借金は建て前で、問題はあんたが見たものだ。だが、それはあのろくでなしがろくでもない遣り方をしたからであってあんたは被害者だ。だから、もし出て行きたいというなら自由になれるように【上】に掛け合ってやっても良い。……相応の処置は受けて貰うことになると思うがな」


 エルフェは淡々と答え、じっと目を細くする。

 突き放すような冷たい声で告げられる中立としての見解とその内容に、クロエは戸惑った。


「ろくでもないって、人を殺すことがそんな一言で片付くんですか?」

「それが俺たちに与えられた責務だ」


 家畜を殺すことを一々躊躇っていたら牧場主は務まらない。エルフェの言うことはつまりそういうことだ。


「責務……」


 相変わらず理由は話してくれなかったが、きっとエルフェが言う【上】とやらがヴィンセントたちに指示を出して、ああいうことをさせているのだろう。そして、クロエが見てしまった【いけないもの】の露見を恐れ、こうして秘密庭園(ジャルダン・セクレ)という牢に軟禁しようとしている。

 それ相応の処置とは記憶を弄られることか、または監視付きの生活か。

 どちらにしても本当の自由ではなさそうだ。クロエはそっと震える息をついた。


「冷えるからもう中へ入れ。部屋は暖めてある」


 言い訳もしなければ、慰めの言葉を持たないエルフェはそう残して自室へと戻って行った。

 もう少しここで考え事をしていたかったが、暖房をつけていると聞いては戻らざるを得ない。クロエはそこまで考えて気付く。

 もしかすると、エルフェに気を遣わせてしまったのかもしれない。

 店の準備があるといってもこんな朝早くから起きることは勿論、暖房を入れる必要もない。

 【風に当たる】という割にはさっぱり戻る気配のないクロエの様子を気にして、エルフェはやってきた。

 親身になって助けてくれる訳でも、特別気を回してくれる訳でもないが、いざという時は少しだけ手を貸して支えてくれる。エルフェはそういう人だ。穏やかで理性的な物腰は勿論、内側に隠された厳しさも含めて、皆は彼のことを好いているのだ。

 ちょっとしたところにまだ彼等なりの優しさが見える。

 あの人たちは悪い人だと思うことで一晩掛けて抑え込み、凍り付かせた感情が溢れてきて、クロエはもう一度だけ涙を流した。






 エルフェの誘いにより庭から戻ったクロエは部屋に引っ込み、一度気持ちを整理した。

 涙で汚れた顔を水場で洗い、身支度も整える。そうしてやっと気持ちを切り替えて店内へ踏み入れたクロエを迎えたのはここで暮らす面々だ。


「おはよう、メイフィールドさん。昨日は良く眠れた?」


 柔らかな声に迎えられる。クロエをこんな状況に追い込んだヴィンセントは、今まで読んでいたのだろう書物をそっと閉じると、椅子に腰掛けたままにっこりと優雅に微笑み掛けてきた。

 長い足を億劫そうに組む彼の顔には変わらない笑顔がある。

 いつも通りだからこそ恐ろしいということは嫌なほどに思い知った。クロエは頬を引き攣らせる。


「顔色が悪いね。また病気になってしまったかな?」


 凍り付いたように己を見るクロエに、ヴィンセントは小さく首を傾げたままくすりと軽やかな笑いを零した。


「それで、どうするの?」


 ここに残るという選択肢しかないのにわざとらしく訊ねてくるヴィンセントは意地が悪い。


「残ります。私にはもう居場所がありませんから」


 自由と尊厳を限りなく傷付けられ、虜囚も同然の扱いをされるのではないか。

 怒りと恐怖で喉の奥が閉じてしまいそうになりながらも、クロエは漸く一言を絞り出す。その声は悔しいほどに震えていた。


「うん、賢い判断だね。君には居場所も逃げる場所も、助けを求める人もいない」

「だから置いてもらいます」

「そうだね。僕たちは居場所なんて大層なものはあげられないけど、大人しくしているなら命だけは助けてやっても良いよ。死ぬほど扱き使うけど、君には借金があるから文句は言えないよね?」


 ヴィンセントは怖い人だ。

 クロエだって本当は逃げ出したい。背を向けて一目散にこの場から離れたい。だが、そうした途端に殺されてしまいそうな予感がある。草食動物としての本能が心に警鐘を鳴らしている。


「……そんなことを言われて、すんなり諦められると思っているんですか?」

「弱いものは強いものに淘汰される。仕方のないことだよ」

「それは貴方たちから見れば私のような娘の命なんて取るに足らないものなのでしょうけど、こちらだってこれまで精一杯生きてきたんです。それを仕方がないと一言で片付けられたり、理不尽に奪われる筋合いはありません」


 なけなしの自尊心と反発心を動員してクロエは顔を上げる。


「まあ、君の言う通りだね。ろくでなしと言われる僕だって、こちらに非があることは重々承知しているよ。でもね、君が死んだのは君の所為でもある」

「はい?」


 ヴィンセントは小さく溜め息をついた。


「この森は危険だって言おうとしただけなのに君はあの時、逃げた。そして自滅した」

「……それ、は……凶器を持った人に追い掛けられたら普通は逃げます……!」

「待てと散々言ったよ? 物理的な危害は加えないともちゃんと言った」

「待てる訳ないじゃないですかっ! 大体、危害を加えられたから私は死んだんですよね!?」


 林檎の森でヴィンセントを前にして意識を失ったクロエは目覚めた時、凶器を持って立つ彼の姿を見て逃げ出した。兎に角必死でその時のことは良く覚えていないし、思い出したくもないのだが、この現状から推測するにクロエはヴィンセントに殺されたのだろう。


「君の言い分は最もだ。でも僕はそんなどうしようもない君を生かしてあげたんだから、ちゃらだよね」

「………………」


 どうやらこの男に何を言っても無駄のようだ。ヴィンセントには反省する気が全くない。

 人の命を奪っておきながらそれを帳消しだと抜かすヴィンセントを、自分とは根本的に人間性が違う人物だと理解し諦めたクロエは、せめてもの反抗だと恨み辛みを込めてじっと見据えた。

 それを面白そうに眺めているヴィンセントは、ふと思い出したように言う。


「そういえば、命を助けてあげたお礼を聞いていなかった気がする。常識的に考えてそれはないよね?」


 クロエは唇を曲げる。ヴィンセントの口から世間の常識について説かれたくない。

 けれど、正しい。

 結果論かもしれないが確かにクロエは助けられた。ヴィンセントの言うことは正論なのだ。


(でも、どうやってお礼を言えば良いの?)


 自分の人生を滅茶苦茶にしてくれた相手にどのような顔をして礼をすれば良いのかと思案する。


「助けて頂いたことを大変感謝致します、ローゼンハインさん」


 クロエは真顔を作って言った。下げた頭を上げると、ヴィンセントの瞳が何とも意地悪な色を湛えていてぎくりとする。


「【ご主人様】、若しくは【様】付けで呼びなよ」

「おい、ヴィンス! クロエに何変なことさせようとしてんだよ!」


 ぽかんとするクロエの前に、今まで黙って話を聞いていたレヴェリーが飛び出す。


「レヴィくん、君って本当に莫迦だね。下等生物にはちゃんと身の程ってものを教え込まないと付け上がるんだよ。まあ、彼女だけで不敏だっていうなら君もそう呼んでくれたって良いんだけど」

「誰が呼ぶかっ!!」


 レヴェリーが怒り狂い、ヴィンセントはいつものように笑う。カウンターの内側にいるエルフェは馬鹿馬鹿しいというように視線を逸らし、溜め息をついた。

 喧騒が去った頃、クロエは一度深呼吸をする。


「……はい。でしたらヴィンセント様とお呼びしますね」


 両手を胸の前で握り締め、絞り出すように答える。

 抵抗がない訳でもないが、ヴィンセントは見た目が貴族のようなのでまだ良いかと思えてしまう。

 悪ふざけにも従順に従うクロエに、レヴェリーは衝撃を受けたように目を見開き、エルフェは苦虫を噛み潰したような渋い顔をしていた。そして命じた本人は愉快そうだ。


「良い子だね。約束を破る子は嫌いだけど、従順な子は好きだよ」


 幼い妹を褒める兄のようにヴィンセントはにこりと笑った。

 威圧感で冷めた笑顔ばかりだった容貌に、久々に和やかな笑みが刻まれる。本当に天使のようだ。


(……って、もう騙されたりしないんだから)


 一瞬惚けてしまったクロエは慌てて自分を叱責する。

 幾ら微笑みを向けられたとしてももう騙されない。容姿がどれだけ天使のように整っていたとしても、ヴィンセントはヴィンセントだ。外道染みた台詞を嬉々として吐く、ろくでなしだ。一度あれを見てしまうと、今浮かべている笑顔さえも毒気にまみれたものにしか映らなかった。

 兎に角だ。ヴィンセントに一々反論していては身が持たない。クロエは改めて二人に向き直る。


「レヴェリー様とレイヴンズクロフト様も改めて宜しくお願い致します」

「い、いやいや、今まで通りレヴィで良いって! 妙な敬称も敬語も要らねーし!」

「俺のことも名で構わん。それほど年齢が離れている訳でもない」


 レヴェリーとエルフェは名前呼びで良いと言った。

 すると何を思ったか、ヴィンセントはクロエとエルフェの顔を交互に見比べた後、にやにやと笑いながらこんなことを言った。


「というかさ、年齢的にいうとエルフェさんがこの娘に敬語使わなきゃならないんじゃない?」

「え!?」

「だって君、二十八歳だろう? 僕もエルフェさんも年下だよ」

「わ、私は十八歳ですッ!!」

「幾ら三十路近いからって年齢詐称は良くないよ、メイフィールドさん」


 相変わらず丁寧に呼んでくるところが何ともどす黒さを感じさせる。

 そもそもヴィンセントは十年前と変わらない容姿をしているのだから年上のはずだ……と考えて、クロエは背中に冷たいものが奔るのを感じる。ヴィンセントの風貌は十年前に目に焼き付いた姿と全く変わりがない。


(ローゼンハインさんって何者なんだろう……)


 そんな訝りの視線に気付いたヴィンセントはクロエの目の前で人差し指を立てると、幼子に言い聞かせるように甘い口調で囁いた。


「余計なことは考えなくて良いからね」


 大人しくしていろと言われている。踏み込むなと念を押されている。寧ろ、脅されている。

 これからの生活に途轍もない不安を感じたクロエは戦慄(わなな)くばかりだが、ヴィンセントは相変わらずにこにこと表面だけは人畜無害そうな笑みを浮かべている。

 恐ろしすぎて涙目になるクロエをレヴェリーはすかさず庇ったが、ヴィンセントはそんな善良な少年をもいびり始めるので、手に負えないエルフェは何度目か分からない嘆息をする。

 こうしていつも通りに時間は過ぎ、喫茶店【Jardin Secret】はいつも通りに開店する。






 クロエにとっては大きなこと、けれど世間から見れば些細なこと。人の人生とはそういうもの。

 クロエとろくでもない男たちの物語はこうして始まった。

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