眠りの森が見せた夢 【6】
※この話は暴力表現が含まれます。閲覧にはご注意下さい。
林檎の森でクロエは再び夢に捕らわれた。
微笑む悪魔と無表情の死神に連れられて、また箱庭へ戻ってきてしまった。
もし抵抗すれば彼等の手にある得物によって、すぐに処分されてしまっただろう。
家へ入るとレヴェリーが駆け寄ってきて「無事で良かった」と言ったけれど、クロエは無事ではなかった。
ここにくるまでの間、散々尋問を受けたのだ。
責めることをまるで楽しむように喜々として訊ねてくるヴィンセントにクロエは降参し、記憶を取り戻したことを白状した上で事態の説明を求めた。
すると、彼は悪びれることもなく答えたのだ。
君を殺したのは僕だよ、と。
「クロエ・メイフィールド・アルカンジュ。ダイアナ・メイフィールドとアンセム・メイフィールドの娘。ダイアナ氏は娘が六歳になる頃にアンセム氏と離婚。暫くしてアンセム氏は再婚。娘は八歳から十五歳までの七年間を児童養護施設【アルカンジュ】で過ごす。十五歳の時に家に戻され、直後にアンセム氏は事故死。以後、継母のジゼル・ランフォードと暮らす」
報告書を淡々と読み上げるヴィンセントは、わざとらしく片目を眇めた。
「しかし、継母と諍いが絶えず娘は家を出る。近所の住人の話によると――」
「や、やめてください!!」
クロエは耳を塞ぎ、声を上げていた。
ヴィンセントたちは疾うにクロエの身元を知っていた。
彼等が【アルカンジュ】の名を知っている時点で、クロエはその事実に気が付き、恐怖に震えた。
【アルカンジュ】というのは施設の名前で、その姓は生後まもなく預けられた者と、親元から離れてきた者を平等に扱う為、皆に与えられるものだ。
クロエは父親の再婚相手の女性と上手くいかず、施設に預けられた。
再婚相手の女性――つまり継母は、前妻の子供を邪魔に思ったのだ。父もクロエの母と離縁しただけあって、それほど娘に思い入れはなかった。
捨てられたのだと理解するまで、さほど時間は掛らなかった。
悲しかったけれど、救われたようにも感じていた。優しい先生と、同じ境遇の仲間たちに囲まれた施設での生活は、クロエに安息を齎した。
クロエは施設の中にある礼拝堂で祈った。父と継母が上手くやっていけますように、と。
彼等を煩わせていた【邪魔者】がいなくなったのだから心配することは何もないだろうけれど、父は心の弱い人だから継母がきちんと支えて欲しい。
父と継母は幸せに暮らしていくはずだった。
しかし、二人の間には子供ができず、クロエは家に戻された。その後に父は事故で死に、継母と二人きりの生活になった。
「へえ、虐待を受けてたの。君はそんな屑を養ってたんだ。凄いね、聖女様みたいだ」
ヴィンセントはクロエの願いも聞かずにその事実を告げた。
継母は金を稼ぐようにクロエに言った。美しく気の強い継母にクロエが逆らえるはずがなかった。
諸々の事情から家を出た後もクロエは継母へ金を送っていた。
本当に生活に困った時にはこの金髪を売ろうと思っていた。だからこそ、こんな長さまで伸ばしていた。
髪を断ち切れば、継母の怒りも少しは収まるかもしれない。そう思わなかったこともない。
継母が最も嫌ったのはクロエの髪だった。自身のゴールドブラウンの髪よりも鮮やかな色をしたクロエのオレンジゴールドの髪を目の敵のようにしていた。だから、髪を切ることは一石二鳥のように思った。
「つまり、君は害獣に餌を与えていたんだ」
「……ち、違います……お義母さんは、そんな人じゃ……」
細く息を吐き出しながら、ゆっくりと顔を上げる。
「君は幻想を見てるみたいだから教えてあげる。親なんて所詮は他人だよ。子供のことなんか道具としか思ってない。継母なら尚更だ。君が汗水垂らして稼いだ金で養われるよりも、君が死んだ時に下りる金でも受け取った方がよっぽど喜ぶと思うよ」
皮肉の棘の含んだ声で言った後、ヴィンセントは可笑しそうに喉の奥を鳴らした。
薄明かりの中、クロエは前方を三人の男に囲まれるようにして座っている。
逃れられる場所は何処にもなく、自然と眼差しを下げるしかなくなる。そんな弱り果てたクロエの様子にエルフェは一言だけ口を挟む。
「ヴィンス、そのくらいにしろ。皆が皆、同じ考えを持っている訳ではない」
「嫌だなあ、エルフェさん。人を苛めっ子みたいに言って。僕は幻想を見ているお子様に現実ってものを教えてあげただけだよ」
答えながらもヴィンセントはエルフェを見ていない。
ピーコックグリーンの瞳が捉えているのは、俯いたままのクロエだ。
「兎に角、帰る必要も帰る場所ももうないんだよ。君は死んでいるんだから、ここにいるしかない」
クロエはあの日、【事件】に――ヴィンセントは【仕事】と言う――巻き込まれた。
【仕事】をもし関係のない人間に見られたら、速やかに連れ帰って記憶に処置を施す。そうして自分たちの存在を一般人に気付かせないのが、彼等のルールである。しかし、ヴィンセントは掟以前にクロエを巻き込んで死なせてしまった。
「貴方たちがしていることって何なんですか」
クロエは怯えながらも憮然とした表情で口を開いた。
人間を簡単に殺して、その手で瀕死の人間の蘇生をもする。しかもその人間の存在を抹消して管理下に置く徹底した遣り方。彼等の後ろにあるものは何なのか、答えが聞けるとは思わなかったが問うた。
「生かすことが難しくなるようなことを訊かないで欲しい」
「だったら、まどろっこしいことをしないでそのまま死なせてくれれば良かったじゃないですか!」
「それは掟に反する」
「掟……? 掟を守れば人を殺しても良いって言うんですか」
エルフェの公平さはこんなところまで貫かれるのか。
その掟が存在しなかった場合、自分が蘇生もされずに殺されていただろうという事実に気付きながらも、クロエは言わずにはいられなかった。
「死ぬとか殺すとか過激で嫌だなあ。無闇やたらと殺したら獣と同じじゃない」
ヴィンセントはまるで他人事のようだった。
どの口で綺麗事を吐くのだ。クロエは眉根をじっと寄せ、自分を害した相手を睨んだ。
見返した顔にはいつもと変わらない笑みがある。
「私はあそこで見たことを誰かに話すつもりはありません」
クロエは十年前に死んだ人物なのだ。例え誰かに話したとしても信じて貰えるとは思えない。
花屋の店長のように頭が可笑しくなった人物を見るような憐れみの視線を向けられて病院に送られるか、最悪の場合は不審人物として捕まるかもしれない。クロエができることは沈黙しかなかった。
「それで、出て行ったとして行く宛ては? 身分証明もなくどうやって生きていくの?」
「貴方からそれくらいの保証を受ける権利はありますよね……」
「まあ、確かに巻き込んだのは僕だけど、君が僕たちに借金があるのは事実だから差し引きゼロだよ」
「借金?」
「十年間、君を生かす為にどれだけの費用が掛かったか分かる?」
カウンターから電卓を取ってきて、ヴィンセントは軽やかに額を計算する。
提示された金額を見てクロエは目を剥いた。ヴィンセントは笑う。小馬鹿にするような眼差しで、くつくつと喉を鳴らして笑った。
「さて、君に払えるかな? いや、訊くまでもない。普通じゃ払えないよね」
クロエが一生掛けても返済できるか分からない額だった。その事実を告げた上でヴィンセントは続ける。
「僕たちは返済を求めている。君には返済能力はない。さて、どうしよう。……そうだなあ、天然の金髪碧眼はレアだから売り飛ばして金を作るって手があるね。でも君は地味な顔だからそんなに価値はないかな。物好きに売ったとしてもこの額に届く為には二十人の君が必要かも」
「そ、そんな……」
「もしくは、僕たちの夜伽を毎晩して払うって手もあるよ? こっちにも好みってものはあるけど、日用品としてならまあ不便はなさそうだよね。肥えさせれば抱き心地も良くなりそうだし、子宮を切除しとけば面倒もなさそうだ」
絶句したクロエを見据えるヴィンセントは唇を楽しげに歪めた。
この天使と見紛うほどの清らかな美貌を持つ男の口から、外道じみた言葉が出てくると誰が思うだろう。神に仕える神父から悪魔を崇拝する言葉を聞いた気分だ。
こういう時、美貌は凶器になる。
普通の人に言われるよりも言葉にえぐみが強く感じられる。継母と同じ金髪緑眼の人物に攻め上げられて、クロエは嫌というほどに刻み込まれた恐怖に心が塗り潰されるのを感じた。
「どれもできないなら、ここに残って雑用係をするしかないじゃない。僕たちは君を死ぬまで扱き使うけど、生きていられるだけで幸せだよね?」
尊大な態度と洗練された立ち振る舞い。彼は支配階級の人間の持つ高慢そのものの目で見下ろした。
あんまりだ。
酷い侮辱だ。限りなく人権が侵害されている。屈辱と怒りと悲しみがクロエの瞳をよぎる。
有らん限りの罵詈雑言を吐ければどれだけ良いか。クロエにはそこまでの勇気はない。それがまた悔しくて、込み上げる感情を理性で殺しながら唇を噛み締める。
(私にはもう居場所がない)
クロエは家も仕事も存在も失った。クロエという存在は社会的に抹消され、もう過去の死人となってしまっている。そして、もう一つ失ったのは時間だ。
目が覚めたら十年が経っていて、外見は十八歳のままなのに実年齢は二十八歳になっているとは何の冗談だ。いや、冗談であってくれた方がどれだけ救われるか。
エルフェは先ほどから厳しい目をしている。レヴェリーはというと、状況が呑み込めていないような困った顔をしていた。
「君は永遠にここで従僕として生きるしかないんだよ」
勝ち誇ったような愉しげな口調に、クロエは熱いものが目の奥から痛みを伴って溢れてくるのを感じた。
記憶を取り戻すまでクロエはヴィンセントを恩人だと思っていた。
彼はいつもにこやかな笑顔を浮かべていて、冗談混じりに飄々と喋り、周りを惑わせる。ちょっとだけ意地悪なところもあるけれど、そんなところも神の御子の持つ無邪気さのようで、仕方ないと思いこそすれ嫌うことはなかった。
熱も冷たさもない無情な言葉を聞き、記憶を取り戻してからもクロエはヴィンセントを信じたかった。
信じていたから、すぐには逃げなかった。
「……あんまり……です……」
雛鳥が親鳥を信頼するような幼い感情だが、慕っていた相手に突き放されて傷付かない訳がない。
ぽたぽたと涙を零すクロエの前で、ヴィンセントはやれやれと肩を竦めながら嘆息した。
「泣けば解決すると思ってるの? そういう甘ったれた考えって凄く嫌だなァ」
「ヴィンス!」
その時、クロエを庇うように前に立ったのはレヴェリーだった。彼は臆さずヴィンセントを見上げる。
「何かな、レヴェリー。うるさいから黙っていてくれるかな」
「オレが黙ってたら、お前はこいつをもっと傷付けるだろ!」
「黙っていなくても言いたいことは言わせて貰うけどね」
ヴィンセントは目を細め、嫣然と笑った。
自分に向けられたものではないと知っても臆さずにはいられないほどの眼差しだった。付き合いの長さからそれに屈するレヴェリーではなかったが、それでも息を呑む気配が伝わってくる。
両者に引く様子はなく、一触即発の空気が薄暗い室内に流れ始める。
「いい加減にしないか」
薄氷を思わせる切れ長の瞳に厳しさを滲ませながら、エルフェはヴィンセントをじっと見据える。
レヴェリーに何を言われても全く取り合わなかったヴィンセントだが、エルフェが相手だと具合が違うらしい。ばつが悪そうに瞼を伏せると、「睨まないでよ」と小さく言って弱ったように笑った。
夜の闇の向こうからディンドン、と鐘の音が聞こえてくる。
喫茶店内に置かれたアンティーク調の大時計の鐘は一度鳴った。
開け放った窓からは白い月の光が射し込む。風は冷たく、乾いている。
一年の半分が冬の【アルケイディア】ではあと一週間もすれば、いつ雪が舞っても可笑しくない。だが、今のクロエには一週間後まで生き長らえているという保証がなかった。
大時計の鐘が午後十時を知らせたところで話の続きは明日ということになった。
クロエはレヴェリーに付き添われて部屋へと戻った。
「クロエだけじゃ返済できないなら、オレも一緒に働くよ」
レヴェリーは僅かに身を乗り出した。彼の紫色の瞳はクロエを真っ直ぐに見つめている。
ゆっくりと顔を上げると、レヴェリーと目が合った。クロエの耳を真剣な声が貫く。
「オレも一緒に頑張っから!」
「……レヴィくん……ど……して……?」
理由を訊ねようと向ける眼差しをレヴェリーは受け止める。
ヴィンセントとエルフェの仲間なら、返済を迫る側のはずだ。それなのにどうしてかレヴェリーは先ほどから庇うように前に立ち、挙げ句には返済に協力すると言う。
レヴェリーはこれまでも優しくしてくれた。それでも、お人好しというだけでは説明が付かないほどに親身になってくれる彼に、クロエは戸惑う。
最初から騙していたのだという事実がクロエの目を曇らせる。
レヴェリーは唇を引き結び、一歩前に出た。
「オレも【アルカンジュ】なんだ」
「え……?」
クロエが八歳から十五歳の間を過ごした【アルカンジュ】にレヴェリーはいた。
丁度クロエが十歳になる頃に施設のポストに預けられた。クロエが出て行く時にもまだ五歳だったレヴェリーは他の舎にいたから二人に直接の面識はない。
「オレもここにくるまで色々あってちょっとスレてたんだけど、お前が【アルカンジュ】だって聞いて慰められたんだ。ガキの頃に施設を出てから一人になって寂しかったけど……こんな近くに身内がいるんだって思ったらほっとしてさ……」
血の繋がりはなくとも一緒に育った仲間は絆で結ばれている。
施設の仲間は皆家族だ。それは里親が見付かり、天使のように旅立った後も変わらない。クロエも施設を出た後も弟妹たちの面倒を看に通っていたし、自立した兄姉たちとも連絡を取っていた。
クロエがレヴェリーから感じる【懐かしさ】はきっとそういうものだ。
「オレはお前の目が覚めて、話し掛けて反応が返ってきた時は凄く嬉しかったんだ。だから姉ちゃんを助けたいと思うのは当たり前だろ」
幼少時にクラインシュミット家に引き取られ、九歳の時にここにやってきたというレヴェリーは、九年の時を物言わぬクロエの傍らで過ごした。面識こそないが、同じ【アルカンジュ】。育つ過程でいつも共に在ったクロエを他人とは思えないとレヴェリーは語る。
「……ごめんね、レヴィくん……今は一人になりたいの……」
クロエはごめんなさい、と震える声で訴える。
声を出すと、押し込めた熱いものがまた頬を濡らすのを感じた。
「クロエ……」
どのような慰めであっても今のクロエは素直に受け止められない。
クロエは誰にも知られたくなかったのだ。継母と上手くやれなかった出来損なった己のことに、土足で踏み込まれた挙げ句にずたずたに踏み潰された。それも継母と同じ金髪緑眼をした人に。
頭の中がごちゃごちゃとして、何も考えられない。胸の中も様々な感情が渦巻いて破れてしまいそうだ。
押し寄せる虚しさにクロエは固く目を閉じた。




