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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
一章
6/208

眠りの森が見せた夢 【5】


「昨日の夜は冷えたからね。風邪でも引いてしまったかな?」


 ヴィンセントは自分の額とクロエの額、両方に手を当てる。そうして体感で熱を計った後、「風邪を引いたのかもね」と言って部屋のカーテンを閉めた。

 今朝、クロエは具合が悪くて起き上がることができなかった。いつもは目覚ましが鳴る時間に起きるクロエが寝坊をしたことに皆は驚いた。


「これくらい平気です。すぐに起きて朝ご飯の支度をします」

「病人は寝てなきゃ駄目だよ」

「大丈夫です」


 ヴィンセントは風邪だと勘違いをして心配しているが、クロエの体調の悪さの原因は心的なものと寝不足が大きく関係しているだろう。

 昨晩は例のことが気になって眠れなかった。

 不遜な態度で物騒なことを語っていたヴィンセントを前にして、クロエは猜疑の念が顔に表れないようにすることで一杯だった。


『いざとなったら――』


 いざという時はどうするというのか。

 そんなことを考えると、作ろうとする笑顔が歪んでしまう。歪む前に萎んでいってしまう。


「無理は駄目だって言ったよね。暇なら後で遊んであげるから、今日は大人しくしてなよ」


 遊んでやるなどと子供扱いをするヴィンセントはクロエと二、三歳違うくらいだと思われる。

 その【遊ぶ】という言葉に得体の知れないどす黒さを感じ取ってしまったクロエは硬直する。


「分かったね?」

「……はい」


 甘やかし半分、有無を言わさないようなヴィンセントの威圧的な調子に、クロエは本能的に何度も頷いた。

 約束を守ってくれたのか、店が閉まる時間になるとヴィンセントは飲み物を持ってやってきた。

 律儀にこなくても良いのに。クロエは内心青色の溜め息をつく。

 昨日の今日で、はっきり言って三人と――特にヴィンセントとは顔を合わせたくない。


「さて、何をしたい?」

「別に……何もしたくありません」

「へえ、そう」


 終わる、会話。


(何なの、これ!?)


 気まずい。

 物凄く気まずい。

 これは何の拷問だろうか。何の罰だろうか。

 先ほどの返事は本心だが完全に墓穴だった。クロエは唇を噛んで黙り込む。その姿をヴィンセントはにこにこと笑いながら眺めている。意地悪だ、とクロエは思った。

 ヴィンセントは口許こそ笑んでいるが、ピーコックグリーンの瞳はやけに冷たくて、押し隠したい気持ちを暴かれているように感じたクロエは参ってしまった。


「何考えているの? 凄く楽しそうな顔をしているね」

「べ、別に何も考えていませんよ。楽しくもないです」

「……ふうん、そう」


 一層深く微笑み掛けられ、クロエは思い切り引き攣った笑顔を返した。そして、腹を括る。


「何をしたい……ということではありませんが、絵の話がしたいです」

「僕がどんな絵を描くか、そんなに気になる?」

「はい、とても。ローゼンハインさんはどんなものをお描きになるんですか?」


 昨日の夜、スケッチブックは自分のものだという話を聞いてしまったクロエは、立ち聞きをしたという罪悪感があるので話を合わせるしかない。


「裸婦だよ」

「……ラフ?」

「女の人の裸の絵が描いてあるんだ。お子様の君にはちょっと刺激が強過ぎるよね?」


 だから、見せられないよね。そう言うヴィンセントは何が何でもスケッチブックの中身をクロエに見せたくないらしかった。

 しかし、隠されると余計に見たくなるのが人間の(さが)


「別に良いと思いますよ。芸術は形を問いませんから」


 クロエは唇を引き結んで彼の声を待つ。

 すると、くっくっと喉の奥で笑う声が聞こえた。


「じゃあ、君も脱いでくれる?」

「は……?」

「モデルになってくれる?」

「私が脱いだって何も楽しくありません」


 この人は何を言っているのだろうか。誤魔化したいからといって、言うに事を欠いてそれはないだろう。


「魅力的だと思うけどなあ。()()()()()()()()()


(金髪碧眼は……?)


 今のはかなり含みがあった。容姿に並々ならぬコンプレックスを持っているクロエは敏感に感じ取る。


「骨っぽく角張った肩もなだらかな胸も真っ直ぐな腰も他にはない魅力があるというか……ね?」


 あんまりな評価にクロエは言葉を失った。


「ああ、悪気があって言ったんじゃないよ。僕は思ったまま感じたままを素直に言っただけだから」

「もっと酷くないですか、それ!?」


 ヴィンセントは容赦がない。あたかもクロエには描く価値がないと言うように、気にしている部分を突く。

 レヴェリーやエルフェには同僚の気安さから、何ということもない顔をして酷い言葉を投げ付けていたヴィンセント。その標的として初めて狙い定められたクロエは戦慄(わなな)くしかない。

 ヴィンセントの瞳はきらきらと楽しげな光を湛えている。


(ローゼンハインさんって人のことからかっている時、輝いてる……)


 草食動物の姿を擬態した肉食動物、もしくは天使の皮を被った悪魔。そんな物騒なフレーズが浮かんできてクロエは慌ててその考えを頭から追い出す。

 例え彼等が何かを隠しているとしても、こうしてクロエを家に置いて生かしてくれているということには変わりない。この居候を疎ましく思っていたとしても恩人ということは事実なのだ。

 そんな人たちを疑い、嫌うようなことをするなんていけない。あってはならない。

 だって、自分には人に好かれるような価値がない。そんな人間が一端に他人を嫌うようなことがあって良いはずがない。人の迷惑にならないように、不快に思われないように、目立たないようにして生きていかなくてはならないのだ。

 いつだっていつだってクロエはそうして生きてきた。


『メイフィールドさんは真面目なタイプだなあ』


(私は真面目なんかじゃない)


 脳裏を過ぎった声に、クロエはきっぱりと否定する。

 これは【真面目】や【シャイ】というものではない。クロエは自分が嫌いだ。

 実の母親に捨てられ、継母とも上手くやれなかったような欠陥品の自分が呪わしくて仕方がないのだ。


「……あ…………?」

「どうしたの」


 ぽつりと漏れた声にヴィンセントはクロエの顔を覗き込もうとする。その視線を、放心したクロエは受け止められなかった。

 何故、今まで忘れていたのだろう。

 失っていた記憶を取り戻すのはあまりにも呆気なかった。

 自分の名前はクロエ。五月五日生まれで来年十九歳になる。物心付いた頃に両親と別れ、【ベルティエ】の児童養護施設で育った。現在は花屋に務めながら一人暮らしをしていて、写生に出掛けることが趣味だった。あの日も仕事帰りに林檎の森に立ち寄って――――。


(どうして? 何があったというの?)


 頭に溢れるように廻る記憶にクロエは奇妙な欠陥を見付ける。

 肝心な部分が思い出せない。あの日、【何か】があったはずだ。【何か】があったから今こんな場所にいる。それなのに何も覚えていない。

 何故、どうしてとクロエは自らに問う。

 考えるほどに息が苦しくなって、くらりと目眩がする。五感全ての感覚が消え掛けた。

 だがその一瞬、一つのことに気付く。


「ローゼンハインさんにお訊ねしたいことがあります。【ベルティエ】の林檎の森を知っていますか?」

「顔色が悪いね、メイフィールドさん。暖まるようにいつものスープを作ってあげようか」

「ローゼンハインさん!」

「待ってて、すぐに用意するから」

「ご、誤魔化さないで下さい!」

「誤魔化すも何も、僕は君の疑問に答えるなんて一言も言ってないじゃない」


 あからさまな拒絶だった。クロエは目を見張るが、ヴィンセントはその反応に構わずに離れていく。

 彼のいうスープとは、やけに甘い代物だ。それを飲むと、クロエはいつも眠気を覚えてすぐに眠ってしまう。

 悪魔に妙な食べ物を餌付けされているような感覚を今更ながらに覚えて、胸に手をあてがう。


「飲んだら眠って。ちゃんと眠らないと、いつまで経っても身体はよくならないよ」


 ヴィンセントは微笑んだ。

 口許は穏やかだが、目は全く笑っていない。クロエはぞくりと背筋が震える。

 自分の認識が間違えていたことに気付く。本当に冷たいのはエルフェではなく、ヴィンセントだ。

 甘い言葉には裏がある。美しい人ほど残酷だ。そんなこと嫌というほど理解していたはずなのに騙された。

 ヴィンセントの浮かべた笑みは春に綻ぶ花を凍て付かせる氷のように冷たい笑顔だった。






 その数日後、クロエはヴィンセントとの約束を破った。

 見るなと念を押されていたスケッチブックを見た。

 ヴィンセントはそれを捨ててしまうつもりだったのか、ゴミ置き場となっている納戸に押しやっていた。いつものように掃除をする中でそれを見付けたクロエは躊躇(ためら)わなかった。

 青々とした木で羽根を休める小鳥、フルーツ盛り合わせのバスケット、夕日に照らされたビル、朝焼けの空。色褪せたスケッチブックには、クロエが今まで描いたものが残っていた。そして、一番新しいページには春の林檎の森と金髪の青年の姿があった。

 天使だと錯覚してしまうほどに美しかった。あんな人が勤務するバーがあったら繁盛するだろうなどと目出度いことを考えた。夢中になって描く中で聞こえた恐ろしい悲鳴。誘われるようにしてそちらを覗き込むと、辺り一面が真っ赤だった。

 お伽話に出てくるような剣を持って、人を殺していった男――ヴィンセント。

 スケッチブックを閉じる際に挟み込んでしまったのか、そのページには林檎の花弁が一枚あった。

 変色した花弁を手に取ると、今まで形を保っていたことが嘘のように崩れてしまった。

 この二ヶ月間の夢が消えていくような気がした。

 クロエは皆が寝静まったのを確認し、夜が明ける前に飛び出した。知らない【クレベル】の街を彷徨(さまよ)い歩き、どうにか【ベルティエ】に降りられた時には陽が傾いていた。

 やっと帰ってこられた、と息をつく余裕もなかった。

 半年振りに見るはずの街の様子は、不気味なほどに様変わりしていた。

 知っている店がなくて、知らない店が存在する。公園だった場所にビルが建っていて、空き地には見たこともない立派な木が植えられている。あの五月からこの十月の間に何があったというのだろう。

 クロエは自分が三ヶ月の間、意識を失っていた事実以上に街の変わり様にショックを受けていた。

 こんな不安定な気持ちで施設に顔を出して先生たちに心配を掛ける訳にはいかない。そうだ、まずは謝りに行こう。半年も仕事を無断欠勤したことを店長は怒っているはずだ。クロエは謝っておきたかった。

 知らない街並みに困惑しながらもやっとのことで花屋へと辿り着く。幸いまだ営業中だった。

 恐る恐る扉を潜る。すると、老人のような嗄れた声が掛けられてクロエはどきりとした。


「いらっしゃい」

「店長、ご無沙汰してます」


 あのふくよかだった男が、まるで病に侵されたように痩せ細っていた。窶れたからか随分老けたように見える。この半年の間に病気でもしてしまったのかと痛ましく思いながらも、まずは頭を下げた。


「ご無沙汰? はて、どなたかな」

「……な、何を言っているんですか、店長! 私です、クロエです」

「クロエ?」

「クロエ・メイフィールドです」


 もしや彼は頭をぶつけて、自分のような記憶障害になってしまったのだろうか。

 しかし、現実は残酷だった。


「クロエ・メイフィールドだって? 何の冗談だい、お客さん。メイフィールドさんは十年前に亡くなったんだよ」

「え――」


 十年前に死んだとは、一体何の冗談だ。

 人は異常な事態に遭遇した時、心の均衡を保つ為に笑う。奇妙に微笑みながらクロエは訊ねた。


「……どういうことですか?」

「公園で強盗に襲われたらしくてね、遺体は惨い状態だったらしいよ」


 店長は訝しく思うような顔をしながらも、死者の名前を名乗るような可哀想な娘に教えてくれた。

 クロエは林檎の森で殺された。金品が奪われていたことから、物取りの犯行と見られていて犯人はまだ捕まっていないらしい。クロエの育った施設で葬儀が開かれて、店長も参加したのだと語った。


「ああ、でも言われてみれば君は彼女に似ているね。私が好きだった金髪碧眼の感じが――」


 クロエは最後まで聞かずに店を飛び出した。


「私は殺された……?」


 だったら、ここにいる【クロエ】は何だというのだろう。

 何かに化かされたとしか思えない。もしこれが夢ならば、何かが狂ってしまったあの場所に戻れば【あの日】に戻れるかもしれない。クロエは期待を抱きながら林檎の森へと足を向けていた。

 冬も近い秋にはもう林檎の花など咲いてはいない。代わりにあるのは小さく実った林檎の果実。

 確かこの辺りのはずだ。クロエは震える身体を叱咤して辿り着く。

 林檎の赤がぶちまけられたようだったその場所。ここで自分も潰されてしまったというのか。


(……どうしてこんなことに……?)


 吐き気を伴う目眩に膝を折りながら、クロエは嗚咽を漏らしたその時。


「メイフィールド、ここで何をしている?」


 耳に届いたのは信じられない声だった。

 滅多に口を開かないからこそ、その声色は印象的に耳に残っている。厳しさも優しさも持ち合わせている公平な人。親しい訳ではないけれど、【大人】だと感じられて安心する。彼に訊ねたら、この事態は解決するだろうか。そうして振り返るクロエの目が見開かれる。


「どうして勝手に飛び出したりしたのか、教えてくれる?」


 クロエの双眸に映ったのは金髪の男と、銀髪の男。

 ちぐはぐな雰囲気を持っているのに、身に纏っている冷気すら伴うような気配は奇妙なほどに同じだ。クロエの前に、天使の顔をした悪魔と、冷厳な死神が立っていた。


「――ねえ、クロエ・アルカンジュさん」


 ヴィンセントは唇を歪めて笑った。冷ややかな微笑だ。

 彼等が持つ短剣と銃がクロエに否応なしに現実を突き付けてきた。

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