さっちゃんとぼく 6
◇◇◇
――おばあちゃん、おばあちゃん。
昨日、『おつうや』だったよ。それでね、今日、『おそうしき』をしたよ。みんなまっくろな服を着て、しずかにしてた。ぼくも育郎もちゃんとしずかにしてたよ。マアちゃんは疲れて寝ちゃってた。お父さん、ずっと笑わなかった。お母さん、目がまっかだった。たくさんの人が来て、お母さんたちとお話してた。お花がいっぱいで、きれいだったよ。おばあちゃんの写真も、にこにこしててとってもきれいだった。ホントだよ
――おばあちゃん、おばあちゃん。
お母さんはお手玉のつくりかた、知らないんだって。『それはおばあちゃんの形見なのね』だって。カタミっていうのは『死んだひとのおもいでのしな』なんだって。おばあちゃんのカタミ、一個だけだけど大切にするね
――おばあちゃん、おばあちゃん。
ぼく、おばあちゃんに逢いたいな。逢えないんだってわかってるんだけど、やっぱり逢いたいな。逢えなくなるのって、とってもかなしいことだね。ぼく、もうおばあちゃんとお話できないんだ。とってもかなしいよ
――おばあちゃん、おばあちゃん。
お母さんが『ヒデちゃんが長男だからって思って、ずっと我慢させてきた、本当にごめん』ってぎゅってしてくれたよ。育郎がわあわあ泣いて大変だった。どこも痛くないよってマアちゃんに説明した。お父さんは、なんにも言わなかった。でも、おそうしきのときみたく目がまっかだった
――おばあちゃん、ねえ、おばあちゃん。
家族って、あったかいね
◇◇◇
闇夜が忍び寄る時間帯に現れた、一人の男。そいつは、秀郎が今まで見たこともないような姿をしていた。
「だれ、ですか」
まず目につくのは白い髪の毛だ。後ろにざっと流し肩にかからない短さに適当に切ったような髪形。ぼさぼさなのにオールバックなせいで無造作風に決まっている。気の抜けたプリン頭でなく、根元から毛先まで綺麗に真っ白だった。太めの眉毛まで真っ白で、そこだけ見るとおじいさんに見えなくもない。
「誰か、などという問いはこの場では詮無きこと」
ただし顔に皺は無く、背も曲がってはいない。発される声もしわがれていないふつうの男の声だ。ただ、大きくもないのに不思議なくらいによく通る声で、使われる言葉はどこか、古めかしい。
「せんなき……?」
「意味が無いということだ」
がっしりと太い首の下はふわっと柔らかそうな毛皮風のノースリーブを着ている。これまたがっしりとした両腕は遠目から見てもムキムキで、ふわふわの服と面白いくらい対照的だった。下はハイウエスト気味の黒パンツ。むき出しの二の腕とは違って足下はきっちり露出が無い。
夏だというのに、足首の締まったブーツを履いている。踵も高く、かつり、と高い足音はこのせいのようだ。
「信ずるか否かはおぬし次第」
かつり、とその高い踵が鳴る。背がすごく高いのに、靴のせいで更に高くなっている。秀郎の背丈ではほとんど仰向かないと視線が合わないだろう。でも、今はちゃんと合っている。立っている場所が、少し離れているせいだ。
「つがいを探す、幼き人間よ」
暗い場所に離れて立っているのに、声は囁くようなのに。その姿ははっきりと見え、言っていることもちゃんと聞き取れた。
夜道に現れ、変なことを口走る変な格好の白髪男。
「ついてくるがいい」
どう見ても不審人物であるそいつに、秀郎はふらふらとついていった。
真っ白な髪が、闇の中でさらさらと揺れる。
謎の男の背後を歩きながら、秀郎はうっすらと考える。このひと、誰だろう。
格好は友達のお姉さんがファンだという都会のロックバンドを彷彿とさせる。真っ白に脱色した髪にモノトーンの衣装。共通点が多いけど、なぜかそれと同じ種類ではないと思った。化粧していなかったようだし、ムキムキだし、目立つファッションの割りに気取りが無い。それでもここらのような田舎の村では、あまり見ない格好だ。ひとたび間違えば、仮装になってしまうくらいの。
でも。
(ヘンなかっこうなのに、かっこいい)
時々こちらを振り向きながらゆったりとした速度で歩く後ろ姿。そこから漂ってくるのは、シンプルな誘導の意図だ。見上げるように背が高くしっかりした体格といい、ロック系なのに雰囲気が体育系というか。それでいて、浮いていない。子供の感覚でもわかるくらい、顔がすごく男前――さっちゃんのお父さんも俳優みたいにかっこいい男性だが、それとはまた違ったかっこよさ――なせいだろうか。
こういうひとに、秀郎は今まで出逢ったことが無かった。顔見知りであるはずもない。
(誰だろう)
もう一度、考える。でも、やっぱり思いつかなかった。不可解なのに、脚だけは動く。まるで街灯に誘われる蛾のように、ふらふらとあとを付いていってしまう。どうしてだ。どうしてだか自分でもわからないのに、歩みは止まらなかった。
心なしか、足取りも軽い。息切れも収まっている。さっきまで疲れきっていたはずなのに。
(あ……)
ふと気付いた。あのどろりと不快な空気が変わっている。暑気と家畜舎の臭いが消え、代わりにうっすら漂う清涼な気配。森の奥の木々から香ってくるような、雨のあとの土からさらわれてくるような。
自然区域の、静謐な空気。それが、眼前を歩く白い頭の周囲に漂っている。夜なのに、まるで早朝のような爽やかさだ。
(朝?)
秀郎はそこで、もう一つの事実に気付く。
(なんか、明るい)
民家が少なく人があまり通らない田舎道は、外灯も最小限だ。車が通らないと、それだけで真っ暗になる。けれど、今は不自然に視界が開けている。懐中電灯も無しで、秀郎は臆することなく彼のあとについてゆけているのだ。かなり、距離が離れているのに。
――離れて立つ相手の髪と服の色さえはっきりとわかるほど、周囲は明るい。
(どうなっているんだろう)
不可思議なものが降り積もるも、秀郎はすべてのことを後回しにするようにこの男についていくしかなかった。言われたとおりに。それが一番いいような気がしたのだ。
秀郎は自覚が無い。しかし生き物の本能が、無意識に判断したのである。「この存在は敵ではない」と。
一つの答えは、ついていった先にあった。
「さっちゃん……!」
見慣れた小山の、山道入り口。あの、古ぼけた石祠の前に、さっちゃんはいた。冷たい石の段々に寄りかかるよう、瞳を閉じて。
それを見た途端、秀郎の中で何かが弾ける。ぼんやりしてたものが瞬時に晴れ、まろびながら勢いのまま駆け寄った。
あの不思議な照明はまだ続いているようで、人工的な灯りは皆無だというのにはっきりとさっちゃんの顔色がわかった。あまりに真っ白なそれに、ぞっと胸の中が冷える。
(発作のときと同じだ……!)
「さっちゃん、」
震える手を伸ばす。白い頬に触れると、ひんやり冷たかった。呼吸はしてる、でも、ひどく弱い。顔色が悪く、意識も無い。真っ白な両手は、胸の前でぎゅっと握り締められていた。
「さっちゃん、さっちゃんさっちゃんさっちゃん」
何度も呼びながら、肉付きの薄い両肩を握る。どうして、こんなところにさっちゃんがいるんだ。昼間、さっちゃんは自宅のベッドの中にいたはずだ。真っ赤な頬をして、熱で潤んだ瞳をこちらに向けて。決まり悪そうに、照れ臭そうに、秀郎をからかいながら眠って。穏やかに優しく、治癒の眠りについていたはずだ。なのに、今のこの状態は。なんで、こんな暗くて冷たくて寂しいところで一人で寝てるんだ。
ふと、さっちゃんの頭が動いた。長い睫毛が震え、色素の薄い瞳が開かれる。
「さっちゃんッ」
「ヒデ……ちゃん」
叫ぶように呼ぶと、少女はゆっくりと瞬きした。そして小さな声で。
「……ぷーる、おちたんでしょ……。けが……ない? だい、じょうぶ……」
(え?)
さっちゃんは何を言っているんだろう。プール?落ちた?そんなこと、今更だ。とっくに過ぎたことだ。
今更、なのに。
「ッ、ぼくはどこもケガしてないよ、だいじょうぶだよ! それよりさっちゃん、発作がきたの!? お薬は、」
「……よかった……」
それきり、また瞳は閉じられた。ことん、と細い首が傾ぐ。淡く微笑みを浮かべつつ、また呼吸の薄い眠りへと旅立ってしまった。頬は真っ白のまま。
「さっちゃ、」
プールに落ちた寒さとは比べ物にならない、得体のしれないものが秀郎の奥歯を鳴らせる。不可解なことが重なり過ぎて、気持ちは混乱の極みにあった。こどもの頭では瞬時に打開策が思い浮かばない。ただ、さっちゃんをこんなところにいさせてはいけない、それだけを感じた。夏なのに、どうしてだか寒い。
(だめだ)
ここは、寒すぎる。はやく、あったかい場所にいかないと。
さっちゃんの両手を自分の肩に乗せようとする、しかしぎゅっと握り締められていて外せない。ならばと腰に両腕を回し、抱き上げようとした。しかし細いとはいえ自分より背の高い体格の人間を、背の低い子供の力でどうこう出来るわけがない。意識の無い人の身体は、なおのこと重い。
それでも。ぴくりとも動かないさっちゃんを抱きしめながら、いつしかぽろぽろと涙を零しながら。秀郎は無力過ぎる両腕にいたずらに力を込める。他にどうすればいいのか、わからなかったから。
「さっちゃん、」
こんな状態なのに、なぜだか笑み混じりの声が洩れた。泣き笑い、そんな言葉が似合いそうな、ぼろぼろの声だった。思いのままにならない自分への苛立ち、焦り、でもどこか不思議な満足。そういったものがごた混ぜになって、頭の中はぐちゃぐちゃだった。同じくぐちゃぐちゃの顔で、さっちゃんに語りかける。
「――帰らなきゃ。さっちゃん、ねえ、帰ろう、帰ろうよ、」
さっちゃん。
ぼくらの家に、早く帰ろう。
「……強き霊法師。生まれたときからおのれに『癒しの霊力』を放ち続け、今日までか細き命を長らえてきた。それでも命数は明日で終わったというに」
かつり。また、あの高い足音が響く。低く広がりのある声と共に。
「けなげな幼子。大切なものの危機を思うあまり、おのれのことは考えられなくなった。体力が弱り、霊気薄くなったその身でここまで歩き力尽きた」
かつり、もう一度鳴った足音の主は、秀郎の背後から大きな手を伸ばす。清涼な気配と香りが濃くなり、また頭の隅がぼうっと霞んだ。山間にただよう霧のように、不明瞭ながら涼やかな霞。
「未熟で盲目、痛々しき愛。もとより残りすくなかった命数を更に縮めつつ、それでもおぬしを想っている」
さっちゃんが胸の前でにぎりこんでいた両手。大きな手はそれをそっと開かせる。くしゃくしゃになった紙切れと――白黒の布地で作られた、小さなお手玉。
しゃり、といつもの音が。
白と黒のコントラストが。
「危うくも一途な情。このようなただの遊具も、持ち運ぶうちいっぱしの『霊具』にしてしまうほど、それは強い。……幼き霊法師につがいと定められた、只人の子よ、」
至近距離で見上げた男の瞳は、髪とは対照的な黒色。さらさらとまた、その周囲で白が躍る。清涼な風は秀郎の短髪を騒がせ、さっちゃんの栗毛もそよそよと撫でる。
「……!」
秀郎の視線を奪ったのは、男の見事なまでの白髪ではない。撫で付けられたその生え際、その境目あたり――額に、先ほどまで視えなかったものが現れていたのだ。
円錐状に盛り上がった、肌色の突起。
ふつうの人間にはありえない、淡く柔らかく光を発する小さな角であった。
「おぬしに、そのすべてを受け止める覚悟はあるか」
とぽとぽと、近くの湧き水の音だけが聴こえる。蛙の鳴き声は、いつの間にかやんでいた。
◇◇◇
――ヒデちゃん。またいじめられたの?
――う、うん……あ、違う、ちがうよ、なんでもないよ
――ウソ言うと怒るよ
――だいじょうぶ、だよ。こんなの大したこと無い。あの子たちだって、最初からやろうと思ったんじゃなくて、ぼくがトロくてじゃまだったから……
――どうして! どうしてヒデちゃん、あんな奴らかばうの。ヒデちゃんだって、あいつらにされたことくらい、出来るでしょ。やり返してやりなよ。仕返し、当然のケンリだよ
――だって……ケンカ、したくないもの
――……。ヒデちゃんがやりたくないなら、あたしがやる。仕返し、する
――え!? さ、さっちゃん!
――じゃましないでよね。これはあたしがやりたくてやるんだから。ヒデちゃんのためなんかじゃないんだから!!
・
・
・
――ヒデちゃん。ヒデちゃんは、どんな子がすき?
――え?
――いいから答えてよ。どんな子がすき?かわいいかんじ?それともきれいなかんじ?
――か、
――か?
――かっこいい、かんじ。うん、かっこいい子が、すき、かな
――……。ふ~~ん。わかった
――ね、ねえそれよりさっちゃん、この前の朝礼、とちゅうで保健室に行ったって聞いたよ。だいじょうぶ?
――え?だいじょうぶだよ、だいじょうぶ
――ぼく、さっちゃんがムリするのイヤだよ。お願いだから、ムリしないで
――だいじょうぶだって。あのねヒデちゃん、あたしだって『だいじょうぶ』な日はあるの。そういうときは、何やったって平気なの。逆にね、ふつうの子よりたくさん動けるんだよ、――
かっこよくなろう。だって、ヒデちゃんに好かれたい。
『だいじょうぶ』でいよう。だって、そうすればヒデちゃんは安心してくれる。
……ずっと一緒にいたいもの。
◇◇◇
「ぼくの、せい……?」
ぽろり、と。また新たな雫が、秀郎の瞳からこぼれ落ちる。
「さっちゃんが無理をしたのは、ぼくのせい? ぼくがプールに落ちたから、だからさっちゃんは、」
「直接的な要因はおぬしではない」
勝手に震える声を、静かな声が断じた。
「この幼く未熟な霊法師が、勘違いをしただけのこと。おぬしの一時的な危機を察知し、思念を勝手に解釈し、霊気が不十分の状態で動いた。容量が足りぬ状態で己に『癒しの霊力』を行使しようとした結果、自得の理で弱った。おぬしの非ではない」
角持つ男の言葉は相変わらず古めかしくて、聞いたことの無い単語や難しい言葉がたくさんで、よくわからない。「れいほうし」って何だ。「いやしのれいりょく」って何だ。どういうことなんだ、一体。
でも、一つだけぴんときた。わかってしまった。
(ぼくのせいだ)
さっちゃんはやはり、秀郎のためにこんなことになったのだ。秀郎が、秀郎さえあの状態にならなければ。本当は回避出来たはずのことを、回避出来なかったから。低俗な理由で、つまらない嫉妬を受け流せず自分から危機を招いておいて、冷たい水の中で「さっちゃん、助けて」なんて一瞬でも思ったりしたから……!
「さっちゃん、さっちゃん……!」
堪えていた最後のものが、ぶわっと溢れ出す。
ぼくがあまりに弱いから。こんなにも、無力だから。
(ばかだ、ばかだ)
苦しいほどの自責が襲う。生まれて初めて、秀郎は自分を真正面から責めた。人より形ばかり大きい手が、今は何より憎かった。こんなもの、本当に見かけ倒しだ。何もつかめず、力も弱く、大切な人を抱き上げることも、その身体を温めることすら出来やしない。
『自分からケガしていいのは、身体が大きくて強い奴だけ』『ちっちゃくて弱いのが粋がったって、そんなのギゼンなんだよ』
そうだ、その通り。元から弱いのが非暴力を唱えたって、そんなの意味が無いのだ。偽善を偽善でなくするのは、青臭い理想でなく断固とした実行力。自分自身を護る力があってから初めて、大切なものを護れるのだ。それをわかっていないで、口先ばっかりのいいかっこしいをしてた自分が情けない。
(一番男らしくないのは、ぼくじゃないか)
いつの間にか、水の音さえもやんでいた。
「落ち着くがいい。歳若きものが相応に未熟であるのは、当然のこと」
静かな空間にて、男の額の角が緩やかに発光する。その光は周囲の不思議な照明と同調するよう瞬く。なぜだろう、この不思議な人と視線を合わせていると、胸の中のもやもやが晴れていく。あったかくて優しい熱が心に触れ、真っ白な光が開いた傷口をじわじわと癒していく。柔らかくも眩しいそのなかで、ひとすじ切り込むような真っ黒な瞳は、声無く秀郎に語った。
無意味に己を責めるな。今大切なものを、見失うな。
さっちゃんは。
「ただ、おぬしのつがいたるこの霊法師は違う。幼き身で強き力を持ちつつ、器の寿命がそれに見合っていない。覚悟を決める時間も無い。そして残りの刻限もわずかだ。ゆえに、焦りがあったのであろう」
そうまでして、秀郎の傍にいたいのだ。だから、想いのままに行動した。
秀郎と同じく……大切なものを、大切にしたかったから。
「生きる上でとうに無理をしているというに……まこと、情深き娘御よ」
――いいかいヒデちゃんよくお聞き。その子はね、山の神様のいとしごだよ。だから、生まれたときから特別な力を持っている。自分で自分を無理矢理に強くしているんだ。生きる上で無理をしながら、それでも生きようとがんばっている、本当にえらい、けなげな子だ――
前に、同じ場所でさっちゃんに手当てしてもらった膝の擦り傷は、かさぶたとなっている。もちろん、もう痛くない。
でも、涙が、止まらない。
ぼんやりとした秀郎の視界に映る、石の階段。その上に祀られた、ご神体。真っ黒にくすんだ像に張り巡らされた、真っ白な紙縄。
もう一度、大きな手が秀郎の背後から伸びた。秀郎ごとさっちゃんの身体を包むふわふわの温もり。力強い腕が、温かな体温が、まるで秀郎自身の腕のように大切な人を抱きしめる。しゃり、と視界の隅でお手玉が鳴る。白と黒の見事なコントラストが、少年と少女を優しく包んだ。
豊かな、光。
秀郎には視えない何かが、秀郎を通してさっちゃんに流れ込んだ。
「あ……」
命が。命の気配が、周囲に満ちてゆく。
さっちゃんの頬に、赤みが差す。細すぎた呼吸が、深さを取り戻す。秀郎の目の前で、秀郎の大切なひとは息吹をよみがえらせていく。言葉にならない何かがこみ上げて、止まらない涙と一緒に、秀郎は細い温もりにしがみついた。背中の温もりは、いつしか離れていた。
背後からの声は言う。
「只人の子よ、おぬしは無力ではない――現に、おぬしらの強き想いが、こうして『私』を呼び寄せた」
まったく、幼き身でなんと強い思念か。そう続けて、低く豊かに嘆息した。
清涼な靄のなか、しばし静謐な時間が流れる。とぽとぽ、ちゃぽちゃぽと何かが聴こえてきた。近くの湧き水の音が、戻ってきたのだ。そしてわずかに、蛙の鳴き声も。家畜舎の臭いは今度は不快でなく、土っぽくあたたかな生き物の気配を伝えてくる。
徐々に取り戻される、夏の空気。そして今なお秀郎たちを包む、命の光。
秀郎の脳裏に急激に閃いたものがあった。久しく思い出すことの無かった言葉が、懐かしい声と共に蘇る。
――山の神様は、命の神様なんだよ
(おばあちゃん)
「やまの――いのちの、かみ、さま」
呟きながらゆっくり見上げると、無表情だった男の顔が、ふっと緩む。まるで苦笑するように。
「神とは大仰だが……人界では、そう呼ばれることもあるな」
秀郎には聴こえない「声」で、彼はそっと続ける。
《私は毅き角の一族。風と光の霊力をまとい、清廉と慈悲を是とする気高き麒麟種。天では、『命の獣』とされるゆえ》
眠るがいい、と大きな手が秀郎の額に伸びた。
《眠るがいい。器の鋭気を取り戻すために。疲弊した心を休めるために。……そして、おぬしの望みを叶えるために》
その温もりが離されると同時に、秀郎の瞼が落ちる。抗い難い、眠気と一緒に。
ことん、と意識を失った少年を少女と一緒に寝かせ、白髪の男は立ち上がった。周囲の照明が額の角に収束されるように消えていき、辺りに自然の暗闇が戻る。あまり間をおかず、遠くから人工的な灯りが近づいてきた。車のライトだ。
それを確認しつつ、男は徐々に像を薄れさせる。白い髪が闇にほどけるように消えていき、最後にかつり、という足音だけが残った。
幻視にて姿を「視えなく」させた彼は、一つ息をついて踵を返す。暗闇の更に奥、人界での棲み処へとひとまず戻るために。
《人型とはいえ人間と会話をしたのはおよそ七十年ぶりか――それでも相手は幼子に限る。年端もゆかぬ者であれば、忘れることも簡単であるからな。まあそれでも、たまに覚えている輩もいるが》
宵闇に溶けるような漆黒の瞳が、ふと眼下を見つめる。日焼けした少年の手と色素の薄い少女の手は、しっかり握り合わされていた。少女のもう片方の手には、少年の筆跡と思われる拙い手紙が握られている。薄汚れた白黒の遊具も、一緒に。
《幼きつがいに、幸あれ。――私も早く、巡り逢いたいものだ》
やれやれ、と嘆息しながら、豊かな「声」は山の中に消えていく。鳴り出した蛙の声と水の流れる音のみが、それを見送っていた。




