さっちゃんとぼく 2
――ヒデちゃん、山にものを捨ててはいけないよ。山には神様がいらっしゃるからね
――かみさま?
――そう、山の神様。ただ、八百万の神様とは違う。この辺りの山神様は、他所からおいでなすった神様なんだよ
――よそって?どこから?
――こことは違う、不思議な場所からさ。とってもきれいな場所だから、そこから来られた神様は、汚いものを嫌う。山はいつでもきれいにしておかなければならないんだよ。そうすれば、神様は長くその山に留まってくださる
――山のかみさまは、どうしてここにいるの。よそから来てここで何をしてるの?
――山に棲む生き物を、助けているのさ。放っておいたらどんどん弱ってしまうものを、その不思議な力で助けて、強くしてくれる。山の神様は、命の神様なんだよ
――いのちの、かみさま
――そう。おばあちゃんはね、小さい頃一度だけそのお姿を見たことがあるんだ
――ほんとう……!?
――本当さ。とても美しい、神々しいすがたをしてなさった
――ぼくも、見たい。ねえ、見れないの
――運が良ければ見れるかもしれない。けど、神様は滅多にそのお姿を見せない。だから、見れなくたって構わない。ヒデちゃんもね、そのうちわかることさ
不思議は目に見えなくったって、いつでも傍にあるんだから。
◇◇◇
秀郎少年が二歳のとき弟が、五歳のとき妹が生まれた。建設業の父親が職場で大怪我をしたのは妹が生まれたその直後だった。命に別状は無かったが安静期間を長く必要とし、しばらく現場に立てない状態となる。入院手術費は保険で下りたものの、元からそんなに豊かでなかった家計は逼迫とまではいかないが、かなり余裕の少ないものになった。入院したのが職場に近いが自宅と離れた都心病院だったのも大きかった。
母親は父親と赤ん坊の世話、託児所備え付けの職場で目の回るような忙しさに追われ、大人しくて聞き分け良かった長男は自宅でお留守番しつつすぐ下の弟と一緒に保育園に通った。そして父方の祖母が大体の家事を取り仕切ってくれ、こども達の面倒もみてくれた。
秀郎少年の弟はやんちゃだったが素直な気質で、兄の秀郎少年にくっついていさえすれば大人しかった。当の秀郎少年は、長男らしい賢さで祖母を仮の保護者と認識、母親相手にするようにくっついてまわった。お迎えのバスから降りるとき、出迎えてくれたのはお母さんではなくおばあちゃんだったから。お弁当やお夕飯を作ってくれるのも、いつもおばあちゃんだったから。
おばあちゃんは秀郎少年らの面倒をみてくれた上、昔の色々な遊びも彼らに教えてくれた。昔ながらの知恵袋やしきたりや言い伝え、御伽話なんかも語ってくれた。眠れない時はいつも一緒に寝たし、保育園で体験したことも沢山話した。お陰で秀郎少年は幼児ながら歴史や年季物に対し造詣が深くなり、お年よりに対して親しみも大きくなった。そう、大のおばあちゃんっ子になったのだ。
父親が退院・復調した頃、まるで入れ替わるようにおばあちゃんの体調が悪くなった。姑に信頼と恩を感じていた母親はこのまま一緒に住むことを提案したが、本人は断ってみずから病院施設に入居した。秀郎少年はおばあちゃんに逢いたくて、何かと両親にくっついてお見舞いに行った。父親は「ヒデにとっては父ちゃんの入院よりばあちゃんの入院の方が深刻なんだな」と冗談混じりに笑っていたが、確かにそれが当時の秀郎少年の真実だった。親愛の差というわけではない。子供心にうっすらと予感し、優先順位を判断していたのだ。いずれ帰ってくることがわかっている人と、帰ってこないかもしれない人と。
おばあちゃんはやはり、帰ってこなかった。秀郎少年が最後に見たのは小学校入学前の春のある日、白いベッドの上で老眼鏡をかけ縫い物をしていた姿だ。色とりどりの布を膝に広げ、小石のような粒状のものを机に開けて丁寧に数えていた。「お手玉だよ」「出来たらマアちゃんにあげるからね」そう言って微笑んでいた。マアちゃんとは秀郎少年の妹のことだ。一つ作り終えた後、おばあちゃんは「もう一つ出来るまで、ヒデちゃんが持っていてくれないかい?」と言った。そしてそのまま、お手玉を作り足すことなく白いベッドの上で亡くなったのだ。
幼いこどもにとって「死」という概念は遠いものだ。でも、お葬式が済んで、家からおばあちゃんのものが残らず引き払われて、手元にぽつんと一つだけのお手玉が残ったとき。もうこれを作ったひとはいないんだ、作り足されることもない、おばあちゃんにもう逢えないんだ、と思ったとき。ぷつん、と糸が切れたように秀郎少年は泣いた。わんわん声を上げて泣いた。普段あまり手のかからないはずの長男の突然の取り乱し様に、家族はみんなびっくりした。びっくりして、慰めてくれた。お母さんはなぜか「ごめんね」としきりに謝りながらぎゅっと抱きしめてくれて、弟が釣られたように抱きついて、泣き出して。お父さんがくしゃくしゃとかき回すように頭を撫でてくれて、小さな妹が大きな瞳で見上げてきて「たいたい?」と言った。そうした中で、感じた。家族の温もりにめいっぱい包まれながら、その瞬間少年は確かに、目に視えない決心をしたのだ。
大切なものを、大切にしようと。
◇◇◇
「最近裏山に野犬が出るってほんとうかな。どこから来たんだろう」
「あの子はすごく昔からいるよ。人間のこともちゃんとわかってる。最近は山に食べ物が少ないから、行動範囲を広げてるだけ。人間に危害を加えるつもりはないよ。ただ、ひどい奴に捨てられたから相当傷ついてるみたい。放っておいて欲しいって」
「え……さっちゃん、もしかして逢いに行ったの!?」
「うん。賢い子だったよ」
「いくら『だいじょうぶ』な日だからって、一人はあぶないよ……!」
「だいじょうぶだって」
じゃわじゃわと元気な蝉の声。緑の光落とす木立の間、二人で歩く。
「そういやさっちゃん、来週はだいじょうぶ? 誕生日、お父さん帰ってこれそう?」
「帰ってこれなさそう。あのクソ親父、なんだかんだ言っていつも帰ってこない。そういう奴なんだ。嘘つきでいいかげんなカイショウ無し」
「お父さんのこと、そんな風に言っちゃダメだよ」
「はんッ」
さっちゃんの綺麗な顔が歪む。お父さんのことを話すとき、いつも彼女はこうなる。忌々しくてたまらないような、でも話したくて仕方ないような。日差しが強い日はいつも被っている白い帽子、その短いつばをぎゅっと深く引き降ろす。白い影の下、薄桃色の唇はむくれた。
「親父はさ、あたしのことなんてどーでもいいんだよ。いつだって仕事しごと仕事シゴトで、家に帰ってくるのなんて忘れてる。きっと現地妻作って、毎晩うっはうはなんだ。あんなんだから、母さんにも逃げられるんだ。最悪だよ」
(ゲンチヅマってなんだろう)そう考えつつ、彼女が父親のことを良く言っていないことくらいはわかるので、慌てて言い返す。
「そんなことないよ。さっちゃんのお父さん、いっしょうけんめい働いてると思うよ。ぼくのお父さんが言ってたもの、『泉川さんの関わってるプロジェクトは大きなものなんだ』って」
(そのプロジェクトってのも、よくわからないけど)
でも、お父さんが言っていることなんだからそうなんだろう。そう少年は素直に思う。すると白い帽子の下から、色素の薄い瞳が睨みつけてきた。
「プロジェクトプロジェクトって、いったい何がそんなに大きいの。一人娘の誕生日より、大事なものなんだ」
「それは……」
「もういい。ヒデちゃんに愚痴ったあたしがバカだった」
案の定、中身の無い説得は意味を成さなかった。臍を曲げてしまった少女を前に、秀郎は唇をすぼめた。やっぱりこうなっちゃった。さて、どうしよう。
(ほんとうは)
本当は、前から準備してた言葉があった。でも、始めからそう言うのは照れ臭くて、ちょっと言い難い。今も気持ちが胸の奥に丸まって、中々出てこない。
しゃり、と斜め前から軽い音がした。さっちゃんの細い腰に巻きつけられたウエストポーチ、その上ポケットに入っているものが擦れた音だ。さっきあげた、お手玉の音。まるでおばあちゃんに「がんばれ」って言われてるみたいで、勇気が湧いた。
蝉の鳴き声に負けないよう、声を出す。
「さっちゃん、」
あと少しすれば、この音も変わる。夕方になると、代わりに聴こえてくるのは別の蝉の声。今はそういうことがわかっているけど、昔はわかっていなかった。虫じゃない何かが、違う場所で鳴っているんだとばかり思っていた。
どうして夕方の蝉は、ああも寂しげなんだろう。
「あのさ……もし良かったら、今年もウチにおいでよ。またウチで誕生日パーティーしよう。ウチの家族も喜ぶよ。お父さんも、お母さんも、育郎も、真由美も。さっちゃんのこと、……だいすき、だし」
「……ヒデちゃんは?」
「え」
昼間の蝉と同じく、あんなにやかましいのに、どうして。
「ヒデちゃんは? ……あたしのこと、すき?」
「ッ、あ、え、その、」
どうして。
「……………す、す、すき、だよ」
「え? なに? 声が小さくてきこえなーい。もっと大きな声で言ってよ」
「ッ、……さっちゃんのいじわる」
「なーんのことー?」
「もういいっ」
「ふふっ……………………あたしは、ヒデちゃんのこと、だいすきだよ」
「なんか言った?」
「なーんにも」
どうして夏の音は、名残惜しげに聴こえるんだろう。
◇◇◇
――おばあちゃん、おばあちゃん。あの女の子、やっぱり病気なんだ。今日はすごく苦しそうにしてた。昨日はあんなに元気だったのに
――そうかい。……やっぱり無理をしているんだろうねえ
――むり?さっちゃん、無理してるの?
――さっちゃんっていうのかい、その子は
――うん。すごくランボウで、女の子なのに「くそ」とか「ぶっころす」とかよく言うんだ。でも優しいし、難しいコトバしってるし、すごくか、かっこいい子だよ。だから、気になるんだ。病気なのに、どうしてさっちゃんは時々元気になったり動物としゃべったりできるんだろう
――ヒデちゃん、その子の秘密は人には言っていないだろうね
――うん
――よしよし、いい子だ。……ああ、おばあちゃんがもう少し若ければねえ。きっとその子の力になれただろうに
――え?
――いいかいヒデちゃんよくお聞き。その子はね、――
◇◇◇




