引き継ぎは、あと百日で終わります
辞職の届けというものは、出すより、受理されたあとのほうが長い。
ユリエの届けは、その日のうちに受理された。神殿長は「わかった」と一言だけ書いて判を押し、そのまま朝の会議に出ていった。引き止める言葉も、理由を問う言葉もなかった。
あとは百日。神殿の規定で、聖女の職は百日かけて引き継ぐことになっている。
「百日、でございますか」
侍女が、朝の茶を置きながら言った。
「ええ。長うございますでしょう」
「短うございます」
「あら、そう?」
「四十七件を百日で、でございましょう。三日に一件では足りませんわ」
ユリエは茶を一口飲んで、指を折った。折っても四十七には届かない。両手でも足りないから、途中でやめた。
「まあ、なんとかなりますわ。毎朝、井戸を四十二ヶ所回っておりますもの。数の多いのには慣れておりますの」
つまりユリエには、自分をこの場所から剥がしていく時間が、きっかり百日ある。
届けを出したことは、その日のうちに神殿じゅうが知った。誰も驚かなかった。年嵩の神官は「そうかね」と言い、若い者は目を丸くして、それから笑った。
「聖女様、また辞めるって言ってる」
――そして、誰ひとりとして、本気にしていない。
あと九十九日ある。届けを出した夜、ユリエが最初に思い出したのは、十七歳の春のことだった。
その前の晩、ベルンハルトが初めて父に叱られた。祭具の目録が合わない、と。彼は帳場に座ったまま、数字の並んだ紙を裏返したり戻したりしていた。数えるのが嫌いな人なのだ。昔から。
ユリエは黙って隣に座った。
「わたくしがやりましょうか」
「いい」
「では、数だけ読み上げますわ。ベルンハルト様が照らし合わせてくださいまし」
「……頼む」
燭台、六。香炉、四。銀の匙、十二。ユリエが読み、彼が指で追う。三度やり直して、四度目の途中で彼は肘をついて眠ってしまった。
残りはユリエが一人で合わせた。朝までかかった。
銀の燭台が二本、別の棚に移されていただけだった。移したのは去年の秋の祭りのときで、戻し忘れたのも彼だった。ユリエはそれを目録の余白に書いて、書いてから消した。
書いておくと、彼が父に叱られる。
朝、廊下で会った彼が、足を止めた。
「ユリエがいてくれてよかった」
それだけだった。名前を呼ばれたのも、その日が最後になった。
当時のユリエは、うつむいて目録の角を指でなぞった。
「あの、ベルンハルト様」
「なんだ」
「燭台は、秋の祭りのときに東の棚へ移しましたの。次からは、そこを先にご覧になれば」
「ああ。……ああ、そうか」
彼はもう歩き出していた。聞いていたかどうかは分からない。
それでもユリエは、その背中に向かってもう一度、東の棚、と言った。
冬至の大祭は、神殿でいちばん人が集まる日だ。
ユリエはその年も、祝詞を三晩かけて書いた。冬至の祝詞は長い。街の四十二の井戸の名を全部読み上げ、そこで水を汲む者の暮らしを一つずつ言祝ぐ形式になっている。名を間違えれば、その家は一年、神に忘れられたことになる。
だから毎年、ユリエが書く。井戸の名も、そこに住む者の顔も、彼女しか知らないからだ。
当日、それを読み上げるのはベルンハルトだった。
白い祭服を着た彼が祭壇の前に立ち、朗々と読む。声はいい。昔からそうだった。四十二の井戸の名が広間に響き、寄進者たちが目を細めてうなずいている。
ユリエは柱の陰にいた。風で扉が鳴らないように、内側から押さえている。押さえていないと、祝詞の途中で音が入る。それも毎年のことだ。
三年前、一度だけ手を離したことがある。腕が痺れて、どうしても持たなくなった。扉が鳴って、ベルンハルトの声が一拍止まった。
あとで神殿長に呼ばれた。次からは気をつけなさい、と言われた。誰が押さえていたかは、訊かれなかった。
だから今年も押さえている。腕は、もう痺れない。慣れた。
読み終わると、拍手が起きた。神殿長が息子の肩に手を置き、寄進者の一人が「今年もお見事な」と声をかけている。
「あら、お上手ですこと」
ユリエは扉を押さえたまま、小さく言った。
「……わたくしの書いた祝詞ですけれど」
隣で扉の下を押さえていた侍女が、噴き出しそうな顔をした。ユリエは唇の前に指を立てて、笑った。
拍手が引いたあと、ベルンハルトが柱の陰まで来た。十年、ユリエの婚約者ということになっている男だ。
「助かった。父上の前で恥をかかずに済んだ」
「よろしゅうございました」
「来月の名づけも、君に任せる。……ああ、それと井戸の順も、そろそろ増やしていいか」
「かしこまりました」
彼は行きかけて、思い出したように振り返った。
「君は強いから、頼りにしている」
悪気はないのだと、ユリエは知っている。十年、ずっとそうだった。
その夜、神殿長に呼ばれた。
執務室の火は落ちかけていて、部屋は少し寒かった。神殿長は書き物机の前に座ったまま、ユリエに椅子を勧めもしなかった。悪気がないのは、この人も同じだ。
「あの子は不器用だから、君が支えてやってくれ」
三度目だった。
一度目は八年前、ユリエが名づけの帳面をベルンハルトの名で出すよう言われたとき。二度目は五年前、評議会の報告書の書き手を彼に変えたとき。そして今夜。
「神殿長様」
「うん」
「今年の祝詞は、三晩かけて書きましたの」
「そうか。よく書けていた」
「ベルンハルト様が、でございますか」
神殿長の筆が止まった。ほんの少しだった。
「……あれも、ずいぶん苦労したろう」
「ええ。読むのは大変でしたでしょうね。四十二もございますもの」
ユリエは笑って言った。責める声にはしなかった。責めたら、この人は困る。困らせたら、話が終わってしまう。
「神殿長様」
神殿長は筆を置かなかった。
「わたくしは、支えているのでしょうか。それとも――」
言いかけて、飲み込んだ。
神殿長は顔を上げた。目は優しかった。だからよけいに、言葉が出なくなる。
「イーディト……いや、ユリエ。君は賢い子だ」
名前を、少し間違えた。三十年この神殿にいる人だ。仕方がない。
「神殿を割らないことが、わしの仕事なんだ」
火が、小さく爆ぜた。
「息子を立てねば、寄進者が離れる。寄進者が離れれば、井戸の縄も買えん。縄が買えねば、街の四十二が干上がる。……そういう順で、わしは考えねばならん」
「ようございますわ。理屈は分かります」
「うん」
「君が我慢すれば、丸く収まる。……でございましょう」
神殿長がうなずいた。ユリエが先に言ったことに、気づいていなかった。
ユリエは礼をして、部屋を出た。
廊下を歩きながら、明日の井戸の順を頭の中で並べ直す。三番目を先にするか、二番目のままにするか。
(……いえ、その前にお茶をいただきましょう)
十七回目の詫びは、隣領の領主の館だった。
祭具の貸し出しの手違いで、婚礼の日取りに祭壇の飾りが間に合わなかった。手違いをしたのはベルンハルトで、詫びに行ったのはユリエだ。
相手は高位の家だった。
応接の間に通されて、椅子は勧められなかった。当主は書き物机のほうを向いたまま、こちらを見なかった。
「神殿の代理と伺ったが」
「はい」
「代理ではなく、当人が来るべきではないかね」
「ごもっともでございます」
ユリエは膝をついた。神殿の白衣は膝が薄い。敷石はよく磨かれていて、冬の朝で、火は入っていなかった。冷たさが膝から腿へ、腰へと上がってくる。
当主は何も言わなかった。ただ、顔を上げてよいとも言わなかった。
ユリエは十を数えた。もう一度、十を数えた。三度目の十を数え終わったところで、頭の上から声がした。
「もうよい」
上げると、当主はもうこちらを見ていなかった。
「神殿には、あなたのような方がおられるのだな」
「恐れ入ります」
「褒めてはおらんよ」
その意味を、ユリエは廊下に出るまで考えた。手違いをした者は暖かい夜会にいて、していない者が冷たい石に膝をついている。あの方は、神殿がおかしいと言ったのだ。ユリエを褒めたのではなく。
分かって、それきり考えないことにした。
その時刻、ベルンハルトは王都の夜会にいた。彼が悪いわけではない。夜会に呼ばれていたのは事実だし、どちらか一方しか行けなかったのだから、行ける者が行けばいい。
帰りの馬車で、侍女が膝の土を黙って払った。
「ありがとう。……ねえ、この土、ラウフェン家のお庭のものですわ。橙が植わっているのは、あの一角だけですもの」
「お嬢様。お召し物の話をしております」
「あら。わたくしは次の香の話ですわ」
侍女が呆れた顔をした。ユリエは窓の外を見た。
誰も、彼女に礼を言わなかった。
引き継ぎの一日目。
ユリエは大広間の卓に、一冊の帳面を置いた。
神殿の規定で、引き継ぎは帳面に記すことになっている。左に渡した者の名、右に受けた者の名、真ん中に何を渡したか。一件ずつ線を引いて書き出して、渡し終えたら、その線を消す。それだけの決まりだ。
ユリエは自分の仕事を数え上げて、四十七本の線を引いた。
「これを、百日で消していきますの」
「四十七、ですか」
顔を上げると、書記のアンゼルムが立っていた。墨で汚れた指をしている。神殿の記録を写すのが仕事で、ユリエとはほとんど口をきいたことがない。
「多すぎませんか」
「そうかしら。一日に一つも渡せば、余りますでしょう」
アンゼルムは帳面を覗き込んで、それから少し口を曲げた。
「失礼ですが、要領がいいだけの人だと思っていました」
「まあ」
ユリエは笑った。
「よくご存じですこと。わたくしもそう思っておりましたの」
最初の一件は、参拝の割り振りにした。どの家がどの日に来るか、誰と誰を同じ日にしないか。
「こういうものが、四十七件ございますの。……たとえば、井戸ですけれど」
「井戸」
「三番目の井戸は、二番目の次に回りますのよ」
「順番ですから、そうでしょう」
「いいえ。三番目の井戸に、二番目で水を汲む婆様がいつも待っていらっしゃるの。腰が悪くて、二番目の釣瓶が重いから。三番目のほうが軽いんですのよ」
アンゼルムの筆が止まった。
「……それは、どこに書いてあるんですか」
「どこにも。ですから、こうしてお渡ししておりますの」
「ほかにも、そういうのがあるんですか」
「四十七件ぶんございますわ」
「……全部、どこにも書いていない」
「書いてありますのよ。今日から」
ユリエは帳面の左の欄を指した。渡した者の名を書く欄だ。
「ここに誰が渡したか、こちらに誰が受けたか。真ん中に何を渡したか。神殿の規定ですの。書かないと引き継いだことになりませんから」
「面倒な決まりですね」
「そうかしら。わたくしは好きですわ」
「なぜ」
「残りますもの」
アンゼルムが、少し黙った。
ユリエは帳面の線を一本消した。参拝の割り振り。四十六本になった。
「引き継ぎは、済ませました」
事務の声だった。
三十日目。
その日が終わるころには、残りが二十九本になっていた。渡した先は年嵩の神官が四件、若い夫婦づきの者が三件、そしてアンゼルムが十一件。
「なぜ、私にばかり」
「お上手ですもの」
「そうじゃない」
アンゼルムは帳面をめくった。三十日ぶんの記録が並んでいる。
「順番です。あなた、渡す順番まで考えてますね」
「あら」
「祝詞は年に一度、井戸は毎朝だ。毎朝のものを先に渡さないと、受けた者が慣れる時間がない。名づけは終いのほうに残してある。あれは覚えることが多いから、他が回るようになってからでないと潰れる」
ユリエは、少し驚いた顔をした。
「お気づきになりましたのね」
「四十七件ぶん、写していますから」
アンゼルムは目を上げなかった。
「写すのが仕事ですもの、当然ですわ」
「いえ。写せと言われているのは記録だけです。引き継ぎ帳は、私の仕事ではありません」
ユリエは、筆を止めた。
「あら。では、なぜ」
「……順番が気になったので」
彼は言い訳をするような口ぶりで、それから咳払いをした。
「一日目に、あなたは参拝の割り振りを渡した。五日目に祭具の目録。十二日目に冬至の支度。ばらばらに見えて、渡した相手の手の空き具合の順になっている。年嵩の神官には冬に忙しいものを先に、若い者には毎日のものを先に」
「よくご覧になりましたのね」
「気づかないほうが難しい。……ただ、一つだけ合いません」
「あら。何がでしょう」
「井戸の順です。毎朝のものなら、いちばん先に渡すはずだ。それが、まだ帳面に残っている」
ユリエは、答えなかった。
「……あなたがいなくなった後の、他人の朝の心配をしている。そういう人だとは、思っていませんでした」
「まあ。ずいぶん買いかぶっていらっしゃいますわ」
ユリエは笑った。
「わたくし、ただ面倒が嫌いなだけですのよ。渡し方を間違えると、あとで訊かれますでしょう。訊かれたら答えなければなりませんし、答えるためには戻ってこなければなりませんもの」
「戻ってきたくないんですか」
「ええ」
即答だった。アンゼルムが、そこで初めて顔を上げた。
「わたくしも、あなたが最後まで写してくださるとは思っておりませんでしたわ」
その日、ユリエは十八本目の線を消した。
六十日目。
残り十七本。
ベルンハルトが廊下で足を止めたのは、この百日で二度目だった。
「まだやっているのか」
「ええ。残り十七ですわ」
「どうせ君は残る」
彼は笑った。
「毎年言っているじゃないか。辞める辞めると言って、冬至になったら祝詞を書いている」
ユリエは首をかしげた。
「わたくし、辞めると申し上げたことがございましたかしら」
「あるだろう。何度も」
「一度もございませんわ」
「そんなことはない」
彼は笑ったままだった。
「まあ、よろしいですわ」
「ほら見ろ」
「いえ。よろしいというのは、そういう意味では」
言いかけて、やめた。
――ユリエがいてくれてよかった。
ふと、十七歳の春の声が浮かんだ。あのとき彼は名前を呼んだ。十年で、名前を呼んだのはあれ一度きりだ。
ユリエは目を伏せて、その声を仕舞った。
「ベルンハルト様。冬至の祝詞、今年はどなたがお書きになりますの」
「君だろう」
「三十四日前に、年嵩の神官様へお渡ししましたわ」
彼が黙った。
「ご存じありませんでしたのね」
「……そうだったか」
「ええ。帳面に書いてございます。広間の卓に置いてありますから、いつでもご覧になれますわ」
「見る必要があるのか」
「ございませんでしょうね」
ユリエは帳面の背を、指で一度撫でた。
「引き継ぎは、済ませました」
「何が」
「今日のぶんですわ」
ユリエは帳面を閉じて、行った。
その日の夕方、神殿長が広間を通った。卓の帳面の前で足を止め、消えた線の数を目で追って、それから何も言わずに行った。
止めるつもりなら、三十本目までに止めている。
八十日目。
残りは六本になっていた。
その朝、ユリエは井戸の前で少し立ち止まった。三番目の井戸だ。婆様が桶を持って待っていて、いつものように会釈をする。今日から祝詞を落とすのは若い神官で、ユリエは後ろで見ているだけだった。
婆様が、若い神官のほうへ会釈をした。
いつもと同じ、深くも浅くもない会釈だった。若い神官は少し慌てて、祝詞を早口で読んだ。婆様は気にした様子もなく、桶を持って帰っていった。
それだけのことだった。
ユリエは、少し離れたところで見ていた。
「聖女様。今の、あれでよかったでしょうか」
「ええ。ようございましたわ」
「早すぎませんでしたか」
「早うございました。でも、婆様は何もおっしゃらなかったでしょう」
「はい」
「明日も同じに読めば、明後日には慣れます。慣れたら、少しゆっくりになさいまし」
若い神官が、うなずいた。
婆様はもう振り返らなかった。
帰り道、ユリエは自分の足が重いのに気づいた。神殿の門が見えて、その手前で立ち止まる。
あと六本。
六本ぶんの理由を、まだ持っている。
(……このまま、置いておいてもよろしいのでは)
そう思った自分に、少し呆れた。
「……いえ、お昼にいたしましょう」
台所の裏に、干した無花果があるのを知っている。今日はそれを二つ食べようと決めて、ユリエは門をくぐった。
九十九日目。
卓の上に、残った一枚がある。「井戸番の順」と表紙に書いた、たった一枚の紙だ。
「明日、渡しますわ」
「それで、終わりですね」
アンゼルムは帳面を見ていた。四十六本の線が消えて、最後の一本だけが残っている。
「終わりですの」
「明日から、どうなさるんですか」
「さあ」
「さあ、ですか」
「決めておりませんの。決めると、そのぶん荷物が増えますでしょう」
アンゼルムが筆を置いた。今日は写しに来たのではないらしい。
「聖女様」
「はい」
「一つ、伺ってよろしいですか」
「どうぞ」
「なぜ、こんなに丁寧にお渡しになるんです」
ユリエは、少し考えた。
「丁寧でしょうか」
「丁寧です。腹立たしいくらいに」
彼は、そこで初めて声に棘を出した。
「私なら、投げて出ていきます。四十七件、全部机に置いて、勝手にやれと言って。そのほうが、あなたは楽でしょう」
「楽ですわね」
「では、なぜ」
ユリエが答えるより先だった。
「――あなたが、消えます」
言い方が静かだったので、ユリエは顔を上げた。
アンゼルムは帳面から目を離さない。
「四十七件、全部あなたの名前で書いてある。それを全部渡し終わったら、この帳面のどこにもあなたのいる場所がなくなる」
「ええ」
ユリエは、なんでもないことのように答えた。
「それが目的ですもの」
アンゼルムは、それ以上何も言わなかった。
筆を取って、最後の一枚の余白に、日付だけを書いた。
百日目の朝、神殿の大広間には、いつもより多くの人が集まっていた。最後の一件が今日渡るという話は、前の日のうちに寄進者の家々まで届いていた。
この百日、アンゼルムが写しに来なかった朝は一度もない。その朝だけ、姿がなかった。
引き継ぎ帳の最後の一枚を、ユリエは祭壇の前の卓に置いた。表紙には「井戸番の順」とだけ書いてある。街の四十二の井戸を、どの順で回るか。それだけの紙だ。
「これで、最後ですわ」
受け取った若い神官が、紙を一度見て、それから顔を上げた。
「……あの、聖女様。これ、もう三週間ほど前から僕がやっています」
「ええ。存じております」
ユリエは若い神官のほうへ、ひとつ頷いた。
「ですから、お渡しするものがもう何も残っておりませんの」
広間が静かになった。
四十七本あった線は、今日で全部消えた。
誰も困らない。
「ユリエ」
人垣の後ろから、ベルンハルトが出てきた。この百日、一度も引き継ぎの席に来なかった。
「行くな」
ユリエは首をかしげた。
「あら。今、おっしゃいましたの?」
「……行くな、と言った」
「いいえ。その前ですわ」
ベルンハルトが、分からないという顔をした。
「わたくしの名前。十年ぶりでございましょう」
帳面の背に指をかけたまま、ユリエは続けた。
「百日、ございましたのに」
ほんとうに不思議そうな、確かめる声だった。
「わたくし、毎朝ここにおりましたのよ。帳面も広間に置いておりましたし、線が減っていくのもどなたにも見えるようにしておきましたわ」
「ユリエがいてくれて――」
言いかけて、ベルンハルトは口を閉じた。
その先を、ユリエが継いだ。
「君は強いから、と」
「十年、そう言われてまいりました。強いから任せられる。強いから後でいい。強いから、言わなくても分かる。……ええ、分かりましたわ。ぜんぶ、分かってしまいましたの」
彼女は帳面を閉じた。線の消えた紙が、ぱたりと鳴った。
「ですから、困らないようにしてまいりました。わたくしがいなくても、この神殿は明日から何ひとつ滞りませんわ。祝詞も、名づけも、井戸も」
息を吸う。
「わたくしがいた場所だけが、きれいに空きます」
ベルンハルトの顔から血の気が引いていくのが、居並ぶ神官たちにも見えた。
「引き継ぎは、済ませました」
ユリエは深く礼をした。十年、毎朝この広間でしてきたのと同じ、きれいな礼だった。
「長らく、お世話になりましたわ」
――そこで、若い神官が帳面をめくった。
悪気はなかった。渡された最後の一枚を綴じようとしただけだ。開いた頁には、百日ぶんの引き継ぎが、日付とともに一件ずつ並んでいた。誰から、誰へ。
どの行も、左側の名は同じだった。
「……あの」
神官が顔を上げた。
「これ、ぜんぶ、聖女様からですね」
広間が、二度目に静かになった。
冬至の祝詞。子どもの名づけ。参拝の割り振り。祭具の目録。
ユリエは帳面を見なかった。
「そう書いておかないと、次の方が困りますでしょう」
それだけ言った。
寄進者の一人が、ゆっくりと立ち上がった。冬至の朝に「今年もお見事な」と声をかけた男だった。
「ベルンハルト殿。冬至の祝詞は、あなたがお書きになったと伺いましたが」
ベルンハルトは答えなかった。
「昨年も、一昨年も、そう伺いました」
男は帳面のほうへ顎をしゃくった。
「わたくしどもは、その話を信じて銀を出しております。……どちらに出したことになりますか、これは」
誰も助け船を出さなかった。人垣の端に、神殿長が立っていた。
「父上」
ベルンハルトが呼んだ。
神殿長は、顔を上げなかった。
男は帳面から目を離して、一歩下がった。ベルンハルトのほうは見なかった。
その一歩を、広間の全員が見た。
広間の扉が、外から開いた。
朝の光が差しこんで、その真ん中にアンゼルムが立っていた。外套の肩が濡れている。井戸を回ってきた者の濡れ方だった。四十七件のうち十九件を引き受け、三十日目に「あなた、渡す順番まで考えてますね」と言った、あの書記だ。
「ユリエ様」
彼は広間を横切って、まっすぐユリエの前に立った。手を取るでもなく、ただ帳面を指した。
「一件、残っています」
「あら。全部お渡ししたはずですけれど」
「井戸の順は渡りました。祝詞も、名づけも」
アンゼルムは、線の消えた最後の頁を開いた。何も書かれていない余白を、指で押さえる。
「――『それを全部、誰にも礼を言われずに続ける』は、どなたに渡しましたか」
ユリエの喉が、詰まった。
「十年、あなたがひとりで持っていた。私はそれを引き継ぎに来ました」
「……それは、お役目ではございませんわ」
「存じています」
彼は帳面を閉じて、ユリエの手に返した。
「ですから、私が引き継ぎます」
「アンゼルム様。お手が、墨だらけですわ」
「四十七件ぶん、写しましたので」
「まあ」
ユリエは笑った。子どもみたいな笑い方だった。
「では、四十八本目を引きますわね」
彼女は帳面を開いて、筆を執った。
消すためでなく、残すために筆を持ったのは、十年で初めてだった。
神殿の門を出るとき、ユリエは一度だけ振り返った。
大広間の卓に、帳面を置いてきた。四十七本の線が全部消えて、四十八本目が一本だけ引いてある。誰が見てもいいように、開いたままにしてきた。
「よろしいのですか」
アンゼルムが訊いた。
「ええ。あれがあれば、どなたでも回せますわ」
神殿長のことも、ベルンハルトのことも、それ以上は言わなかった。
「三番目の井戸の婆様には」
「あの若いのが、もう三週間まわっております。私も横で見ておりました」
「まあ、頼もしいこと」
「写しながら、憶えましたので」
「釣瓶の縄は、右から掛けてくださいまし。左から掛けると、婆様の背では届きませんの」
「……それは帳面に」
「書いてございませんわ。今、申し上げましたから、憶えてくださいまし」
アンゼルムが立ち止まった。
「まだ出てくるんですか」
「出てまいりますわね。歩いているうちに、次々と」
「では、歩きましょう」
「え」
「歩いているうちに出てくるなら、歩けばいい。私が全部憶えます」
ユリエは、彼を見た。墨で汚れた手で、荷物を持ち直しているところだった。
門の外は、まだ朝が早かった。街のほうから水を汲む音がしている。四十二の井戸のどこかで、誰かが釣瓶を落としている。
その音は、ユリエがいてもいなくても、同じように鳴る。
「アンゼルム様」
「はい」
「明日の朝、どこにおりましょうか」
訊いたのは、ユリエのほうだった。
アンゼルムは少し黙って、それから墨で汚れた手を、自分の外套で拭いた。拭いても落ちなかった。
「どこでも。ただ、朝には私が伺います」
「毎朝ですの」
「四十八本目ですから」
ユリエは笑って、歩き出した。
背中で、神殿の鐘が鳴った。十年、毎朝この鐘で起きていた。明日からは、この鐘で起きなくていい。
そう思ったとき、初めて少しだけ、泣きそうになった。




