神位の牢獄、人外の接触
数分後、静寂を切り裂くように修練場の重厚な扉が勢いよく撥ね飛ばされた。
ジャック「リヒトさーん! 連れてきましたよーっ!」
ジャックの突き抜けるような声とほぼ同時に、一人の女性が修練場へ足を踏み入れる。メーガスだ。
艶やかな紫の髪を無造作ながらも機能的にまとめ上げた彼女は、白衣を翻し、手には何やら複雑な数式が書き込まれた資料を抱えている。まさに「研究者」の風貌だが、その整った顔立ちはあからさまな不機嫌さに染まっていた。
メーガス「まったく……私だって暇じゃないのよ? 研究の瀬戸際だったっていうのに、いきなり呼び出すなんてどういう風の吹き回しかしら」
リヒトは壁に背を預けたまま、視線だけを彼女に向けた。
リヒト「悪いな。要件は単純だ。――飛鳥が持つ『玄武』の封印を一時的に解く。その際、何が起きるか、万が一の暴走も含めてお前に見てもらいたい」
その言葉が出た瞬間だった。
メーガスの顔から、先程までの退屈そうな不満が霧散した。代わりに浮かび上がったのは、未知の深淵を覗き込もうとする、狂気にも似た探究の光だ。
メーガス「なるほど……。玄武の封印を外し、その内側に眠る魔力の底を叩いてみようっていうのね? 面白いじゃない。私やあなたのような『異端』であればいいのだけれど」
メーガスは獲物を見つけた肉食獣のような足取りで、床に横たわる飛鳥の元へと歩み寄る。
依然として飛鳥は呼吸を整えるのに必死だった。
先程よりは幾分マシになったとはいえ、ジャックの打撃による肉体的ダメージと、酸欠による意識の混濁は深刻だ。客観的に見て、このまま稽古を続行するなど正気の沙汰ではなかった。
だが、メーガスにとってそんな「常識」は考慮の対象外でしかない。
メーガス「まずは、彼女を直さないと話にならないわね」
メーガスは杖を持つことも、複雑な魔方陣を描くことも、神への祈りを捧げる詠唱を行うことすらしなかった。ただ、日常の挨拶でも交わすかのように、無造作に飛鳥へと掌を向ける。
メーガス「――ハイ・ヒール」
その瞬間、修練場が真っ白な光に包まれた。
通常、上位治癒魔法を行使するには膨大な魔力と精神集中、そして数小節に及ぶ詠唱が不可欠だ。
しかし、彼女はそれらすべてを省略し、文字通り片手間で奇跡を顕現させた。
光が収まったとき、飛鳥の顔からは苦悶の色が消えていた。
瞬時に呼吸器官は安定して細胞の一つひとつが爆発的な活性化を遂げ、混濁していた瞳には再び「意識」の灯が力強く宿った。
あまりに手際が良すぎる、神をも恐れぬ魔道の業。
飛鳥は、自分の体に起きた信じがたい変化に目を見開き、信じられないものを見る目でメーガスを仰ぎ見た。
飛鳥「えっ……?」
戸惑いの声が漏れる。さっきまで死を覚悟するほど破壊されていた内臓も、焼けるようだった肺の痛みも、霧が晴れるように消え去っていた。
メーガス「さあ。治ったでしょう。さっさと立ちなさい」
メーガスは、まるで転んだ子供の膝に絆創膏でも貼ったあとのような、あまりに軽い口調で告げた。呆然としたままの飛鳥は、事態を飲み込みきれないまま、反射的に近くの床に転がっていた「玄武」へ手を伸ばした。
しかし、その指先が薄橙の鞘に触れることはなかった。
リヒト「しばらく、これは預かる」
いつの間にか間合いを詰めていたリヒトが、無造作に玄武を拾い上げていた。
飛鳥「……っ、待って! 返して……! 私はそれを、一瞬たりとも手元から離してはいけないの!」
悲鳴に近い訴え。だが、リヒトはそれを一蹴するように、手の中の刀を眺める。
リヒト「なるほど。だが、俺が手にしても魔力の吸収は起きていないな。……お前のときとは大違いだ」
飛鳥「それは……よく、わからないけど……でも、ないと……!」
リヒトとの問答の最中、飛鳥の容体が急速に変貌を始めた。全快したはずの肌から、滝のような脂汗が滲み出し、血色はみるみるうちに土気色へと変わっていく。
視界が歪み、立っていることさえ困難なほどの重圧が、彼女の「内側」から溢れ出していた。
飛鳥「とにかく……玄武を……っ!」
苦悶に顔を歪め、縋り付くようにリヒトの手元へ手を伸ばす。
その一歩。
彼女が石畳を踏みしめた瞬間、メーガスが精緻な魔法で強化したはずの修練場の床が、爆散するように砕け散った。
メーガス「これは……リヒト!! すぐに離しなさい!!」
メーガスの悲鳴にも似た警告。だが、すでに臨界点は超えていた。
飛鳥「あああああああああ!!!!!!!」
絶叫と共に、修練場の空気が物理的な質量を伴って爆ぜた。
――魔力暴発。
通常、人間が体内に留めておける魔力には「器」としての限界がある。魔力耐性が高ければ高いほど多くの魔力を保持でき、それは強大な魔法や戦闘力に直結する。だが、一般的な人間であれば、余剰分は呼吸や汗と共に体外へ霧散し、自然に調節されるものだ。
しかし、飛鳥は違った。
彼女は、溢れ出す魔力を外に逃がすことができない、極めて稀な「完全閉塞型」の特異体質だったのだ。
本来、これほどの魔力量があれば、魔法として放出すれば済む話だった。
だが、彼女が生まれた義洞は、純粋なる剣士の家系。魔法の行使という概念を持たず、剣技によってのみ魔力を循環させる彼らには、飛鳥の「異常」を制御する術がなかった。
魔法として放つこともできず、剣術の枠でも放出しきれない。
そのまま放置すれば、彼女は幼少期に自らの魔力によって内側から爆発四散していただろう。
ゆえに、義洞が選んだ苦肉の策。
それが、所有者の魔力を際限なく喰らい続ける刀「玄武」を与え彼女の魔力を吸い出し続けるという方法だった。
しかし、今、その玄武が手元から離れ行き場を失った飛鳥の膨大な魔力は、暴虐な濁流となって世界へ解き放たれたのである。
メーガス「――『忘却の揺り籠』!!」
メーガスの鋭い言霊と共に、飛鳥の全身を濃厚な蒼い魔力の奔流が包み込んだ。
このまま解放を続けさせれば、堅牢な地下修練場はおろか、地上の施設ごと跡形もなく吹き飛ばされる。そう瞬時に判断したメーガスが放ったのは、対象の精神と魔力回路を強制的に沈静化させる「超位魔法」だった。
一国の宮廷魔導師が一生をかけて到達できるかどうかの極致。本来、この魔法を受けた者は、どれほどの逆上状態にあろうとも深い安らぎの中へと強制的に引きずり込まれるはずだった。
だが、しかし。
飛鳥「あああああああああっ!!!!!!」
大気を物理的に削り取るような絶叫が、メーガスの超位魔法を紙切れのように食い破った。
ビリビリと空間そのものが悲鳴を上げる異音。飛鳥を中心とした強烈な衝撃波が同心円状に広がり、メーガスが補強したはずの壁や床には、さきほどとは比較にならないほど深く、禍々しい亀裂が刻まれていった。
メーガス「冗談でしょ……!? 超位魔法で沈静化できないなんて。一体、どんな魔力濃度をしているっていうのよ……!」
メーガスの顔に、戦慄が走る。
超位魔法が無効化されるということは、目の前の少女が放出しているエネルギーが、すでに個人の域を超え「天災」の領域にあることを示していた。もはや出し惜しみは死に直結する。
メーガス(リヒト! 超位魔法じゃ話にならないわ! 私が空間を完全に断絶するから、その隙に『玄武』を彼女に戻して!!)
メーガスは即座に「思念伝達」を飛ばすと同時に、自身の魔力回路を限界まで励起させた。
メーガス「――『断絶する銀世界』!!」
飛鳥を核として、周囲の空間を世界の理から物理的に切り離す透明な銀色のドームが出現した。
それは「神位魔法」
世界広しと言えど、扱うことのできる者は各国に数人という伝説上の階梯。概念そのものを遮断する銀の壁が、内側から荒れ狂う魔力の濁流を辛うじて押し留める。
だが、神位魔法という絶対の牢獄をもってしても、飛鳥から溢れ出す魔力の圧力にドームの表面がミシミシと軋み始めていた。内側では、飛鳥が自身の内側から溢れ出す「力」に焼かれ、血の涙を流しながら悶絶している。
その光景は、もはや「稽古」の域を完全に逸脱していたのだった。
リヒト「これは……想像以上だな……」
目の前で吹き荒れる魔力の暴風を眺め、リヒトの口から漏れたのは、驚きよりもむしろ純粋な感嘆だった。
だが、彼自身もまた人外の魔力と称される存在である。周囲が天変地異に慌てふためくような状況にあっても、その瞳に揺らぎはない。
とはいえ、このまま傍観を決め込めばメーガスが限界を迎え、神位魔法による断絶結界さえも内側から粉砕されるだろう。そうなれば、ジャッカルの本拠地ごとすべてが灰燼に帰す。
リヒトはメーガスの指示通り、「玄武」を彼女の手に戻すべく動き出した。
彼は無造作に右手をかざすと、神の領域とされる結界の表面に、まるで薄紙でも引き裂くかのように容易く「切れ目」を入れた。
神位魔法の理さえ力ずくでねじ伏せるその所業もまた、大概に常識を逸脱したものであった。
結界の内部へ足を踏み入れた瞬間、リヒトを襲ったのは絶望的なまでの「拒絶」だった。
鼓膜を打ち鳴らす轟音。立っていることさえ困難なほどの凄まじい衝撃波。そして、飛鳥を中心に吹き荒れる荒れ狂う突風が、侵入者の肉を削り取らんと牙を剥く。
魔力暴発の最終段階――「魔力爆発」の直前。
飛鳥の身体は重力を無視して宙へと浮き上がり、彼女の心臓部を中心として、禍々しくも神々しい鈍色の光が膨張を続けていた。
常人であれば、この空間に足を踏み入れた瞬間に圧死するか、あるいは精神が崩壊していただろう。近づくことなど、およそ生物に許された行為ではない。
だが、リヒトは止まらない。
彼は自身の膨大な魔力を全身に巡らせ、肉体を劇的に、かつ緻密に強化した。異常な突風も、叩きつけられる衝撃も、すべてをその強靭な「個」の力で押し通す。
一歩、また一歩。
リヒトは、死の色に染まる鈍色の光の渦中を、真っ直ぐに飛鳥に向かって歩み始めた。
リヒト「……っ!?」
飛鳥へと歩を進めるリヒトの手中で、薄橙の刀――「玄武」が異様な変貌を遂げた。
それは、まるで飢えた獣が獲物を前にして歓喜に震えるかのようだった。刀身が微かに、しかし激しく振動を始め、周囲を蹂躙していた暴虐な魔力衝撃を、巨大な渦の中心に吸い込まれるようにして「吸収」し始めたのである。
リヒト(この刀……これほどの高濃度な魔力であっても、関係ないというのか。弍科は、とんでもない『概念』を有していたのだな……)
リヒトは内心で舌を巻いた。
彼やメーガスのように人外の域に踏み込んだ者であっても、これほど膨大かつ荒れ狂う魔力を強引に抑え込むには、相応の労力と集中を必要とする。
だが、今、彼の手にあるたった一振りの刀は、天災にも等しい魔力の奔流を「当然の権利」であるかのように、涼しい顔で飲み込み続けている。驚くなという方が無理な相談だった。
そして、その異質さに目を輝かせている者がもう一人。
メーガス(一体どんな『法理』を組み込めば、あれだけの魔力を再現なく処理できるのかしら……。そもそも、吸収した魔力はどこへ消えているの? 異次元? それとも……)
魔導を探求し、世界の真理を暴くことを至上命題とするメーガスにとって、玄武が見せる現象は至高の謎だった。
通常、肉体に保存できる魔力に限界があるように、魔力を器物に封じ込めるにも必ず「臨界点」が存在する。だが、目の前で飛鳥の魔力をみるみる吸い上げていく玄武には、その限界の底がまるで見えない。
メーガス(まさか……私と同じ、あるいはそれ以上の領域。……『無限』に辿り着くための技術が、あの刀には刻まれているの?)
神位魔法「断絶する銀世界」の維持。本来であれば全神経を注がねば維持すら危うい高難度魔法を、彼女はもはや「当たり前」の無意識下へと追いやり、思考のリソースのすべてを玄武の解析へと注ぎ込み始めた。
その姿は、魔導士としての圧倒的な格の違いを見せつけると同時に、どこか常軌を逸した狂気を孕んでいた。
リヒトが「玄武」を飛鳥の震える手に戻した瞬間、刀身は歓喜に震えるかのようにさらなる唸りを上げた。
周囲を狂乱させていた魔力の濁流は、巨大な排水口に吸い込まれるかのように「玄武」へと収束し、修練場を支配していた破壊的な衝撃波は一転して凪へと変わった。
飛鳥を包んでいた禍々しい鈍色の光は、彼女の体内へと引き戻されるのではなく、すべてが刀へと食い尽くされた。光が消えると同時に、宙に浮いていた彼女の体は重力を取り戻し、ゆっくりと地面に降り立つ。そして、糸が切れた人形のように、その場にぐったりと横たわった。
その全身には、暴発した魔力に焼かれた火傷のような裂傷が広がり、服の隙間から覗く肌は痛々しく赤く染まっている。呼吸は浅く、意識は混濁の極みにあった。
だが、その朦朧とした意識の最果てで、彼女の指先は「玄武」を壊れ物を守るかのように、しかし力強く握りしめていた。それこそが、彼女が自らの命を繋ぎ止めるための唯一の楔であることを、本能が理解していたのだ。
リヒト「玄武……これほどまでとはな」
事態が完全に収束したことを確かめ、リヒトは横たわる飛鳥の傍らに跪き、静かにつぶやいた。その瞳には、一振りの刀が秘めていた底知れぬ「深淵」に対する、隠しきれない畏怖が宿っている。
メーガス「――『ハイ・ヒール』」
寄り添うように近づいたメーガスが、再び無造作に掌をかざす。
柔らかな光が飛鳥を包み込むと、見る間に全身の裂傷が塞がり、荒れていた吐息は穏やかな眠りのリズムへと整えられていった。しかし、肉体の損傷は癒えても、魔力の急激な流出による精神的な消耗までは拭い去れない。飛鳥は安らかな表情を見せながらも、深い眠りの底へと沈んだままだった。
メーガス「玄武……。どんな摂理で作られたのかは知らないけれど、とんでもないわね。私やあなたと同じように、この刀の奥底には『無限』が横たわっている。そうでなければ、あの質量の魔力を一瞬で処理できるはずがないわ。……もっとも、その無限をどうやって物理的な刀に閉じ込めたのか、今の私の知識でも想像がつかないけれどね」
メーガスは感嘆と、それ以上に強い知的好奇心をその瞳に湛えていた。彼女にとって「無限」とは、魔道の探求者が生涯をかけて追い求める究極の概念だ。それが目の前の少女の腕の中に、一振りの鋼として存在している事実に、抗いがたい魅力を感じていた。
リヒト「ああ。だが、飛鳥はこの刀と向き合わねばならない。ただ吸わせるだけではなく、吸収された魔力を自在に引き出し、自らの力として行使する。それができなければ、ジャッカルで生き残るのは不可能だ」
リヒトは飛鳥の寝顔を見下ろしながら、その先に待つ苛烈な試練を見据えていた。
ジャック「いやぁ、驚きました。あの魔力、もし戦闘で完璧に扱えるようになっちゃったら、僕じゃ勝てないかなー。ギークさんでやっと……いや、もしかしたらギークさんでも……」
ジャックは後頭部を掻きながら、ワクワクしたような、あるいは末恐ろしいものを見るような顔で笑った。
ジャッカルの怪物たちが揃ってその才能を認めた瞬間。
深い眠りにつく飛鳥の傍らで、漆黒の刀「玄武」だけが、主の再覚醒を待つかのように静かに、冷たく光を反射させていた。




