空へ続く階段 ―スルベリア廃村の黙祷―
ルシウスとの綿密な打ち合わせを終えたリヒトは、自室に戻り、一人ベッドに身を横たえていた。
もっとも、彼が「休む」といっても、常人のように泥のように熟睡することなどあり得ない。ただ身体を横たえ、数刻の間、肉体の疲労を取り除くだけの行為だ。
意識の表層は常に外界への警戒を怠らず、刃のように研ぎ澄まされている。
……一体、何年、このような張り詰めた休息を続けているのだろうか。
それは、リヒト本人にさえ、もう判然としないことだった。傭兵として、あるいはジャッカルの長として生きる日々は、安らぎとは無縁の泥濘だったからだ。
その、微睡みとも呼べない休息の最中だった。
??? 「……限界なのだろう……。無駄な抵抗はやめ、無理せずとも我を受け入れよ……」
唐突に、鼓膜ではなく、脳髄に直接響くような声が聞こえた。
どす黒い粘液を思わせる、身体の芯まで凍りつかせるようなどこか不気味で、悍ましい声。それはリヒトの精神の澱から這い出してきたかのようだった。
リヒトは目を見開くことなく、心の内で鋭く言い放つ。
リヒト 「舐めるな。この俺の身体は、俺のものだ。……お前こそ、寄生虫のように俺の内にいる以上……つべこべ言わず、ただ力を貸していればいい」
リヒトも臆することなく、その悍ましい声に真っ向から抗う。
彼にとってこの声は、己が内に宿る強大な力の代償であり、忌むべき呪いのようなものだった。
??? 「はっはっは! まだそのような戯言を吐くか。いずれこの世界はお前が壊すというのにな。……我と共に」
リヒト 「……言っている意味がわからないな」
??? 「今はわからずとも、そう遠くない未来、お前は我に屈服する。……せいぜいその時まで、矮小な人間として足掻くがいい。我はその時を楽しみに待っているぞ……」
リヒト 「……だまれ。俺は……誰にも、何にも屈しない」
??? 「ふふはははははは……」
嘲笑と共に、声は次第に遠のき、やがて聞こえなくなっていった。
湿った不快な気配だけが、微かに部屋に残る。
リヒト (この声……いつになれば消える。……耳障りだな)
リヒトは内心で悪態をつきながらも、寝返りを打つ。
自身の持つ強さと意志の強固さに絶対の疑いを持たないリヒトは、その声の正体が何であれ、深く気に留めることはなかった。ただの不愉快な幻聴として処理し、彼はまた、静かな警戒を伴う休息へと戻っていったのである。
その声が、この先の世界において重要なものであるということを今の彼には知る由もなかった。
〜〜〜〜〜〜〜〜
リヒトは意識の覚醒と同時に、自身の肉体に走る奇妙な違和感を捉えた。
心なしか、いつもより身体が重たい。鉛を流し込まれたような鈍い圧迫感が、四肢の末端から這い上がってくる感覚だ。
リヒト「……。あの不快な声のせいだろう…。」
リヒトはそれを一時の気の迷いか、あるいは単なる体調の揺らぎだと一笑に伏し、強引に意識を切り替えて自室を後にした。
廊下に出た瞬間、真っ先に肌を刺したのは、修練場の方角から漂ってくる二つの濃密な魔力だった。一つは荒々しくも純粋な飛鳥の気配、もう一つはそれを冷静に御するメーガスの峻烈な気配。
リヒト(ほう……。早速修練か。たいしたもんだ)
リヒトは微かに口角を上げ、誘われるように修練場へと歩を進めた。
実際のところ、昨日のように自我を失うほど追い込まれ、無様に介抱されたのであれば、合わせる顔がないと組織を逃げ出しても不思議ではない。だが、彼女は折れるどころか、即座に己の弱さと向き合い、克服しようとしている。その不屈の精神は、素直に賞賛に値するものだった。
重厚な修練場の扉の隙間から、そっと中の様子を伺う。
メーガス「集中しなさい! 私が『玄武』を近くで保持しているから、どうにか形を保てているだけよ。これが離れた瞬間、貴女はまたあの暴走の渦に飲み込まれるわ!」
飛鳥「っ……はい……!」
そこには、メーガスに徹底的に扱き上げられる飛鳥の姿があった。
飛鳥の肌身から離された『玄武』は、一メートルほど先でメーガスの手に握られている。刀から切り離された飛鳥の表情は、脂汗を流し、今にも崩れ落ちそうなほど苦悶に満ちていた。
しかし、以前のような魔力の暴発という最悪の兆候は見られない。必死に己の内側に渦巻く奔流を、精神の力だけで繋ぎ止めている。
リヒト(一度あの限界に陥ったことで、魂に耐性がついたのか……。それとも、メーガスの指導がそれほどまでに的確なのか)
その特訓の光景を眺めながら、リヒトは胸中で静かに感銘を受けていた。飛鳥の成長速度は、彼の予想を遥かに上回ろうとしている。
だが、ここで声をかけるのは野暮というものだ。
リヒトは彼女たちの集中を乱さぬよう、足音を消したまま、一度も修練場の床を踏むことなくその場を後にした。
アジトの薄暗い回廊を抜け、外の世界へと繋がる重厚な扉を目指すリヒトの前に、一人の男が立ちはだかった。
ルシウス 「……もう帝国に出向くのかい? 少し早すぎるんじゃないかな。まだ二ヶ月も先の話だというのに」
ルシウスは腕を組み、リヒトを値踏みするように見つめた。その声には、軍師としての計算以上に、友を案じる色が混じっている。
リヒト 「数年ぶりに入る敵地だ。どのような変化があるか分からん。リュドたち隠密がいるとはいえ、現場の生きた情報は多ければ多いほどいい」
リュド 「リヒトの言う通りだ」
いつも通り、空気の揺らぎと共にどこからともなくリュドが現れ、リヒトの言葉に静かな肯定を添えた。その気配のなさは、傍にいたルシウスでさえ一瞬身構えるほどだ。
リュド 「帝国の情報統制は、我々の想像以上に苛烈を極めている。配下の隠密を放っても、掴める情報は表面的なものばかりだ。この俺でさえ、王城の深部へ忍び込むのがやっとというレベルだからな。一般の者では、門をくぐることすら叶わぬだろう」
実際、現在の帝国の鎖国状態は異常だった。帝国に住まう民ですら、帝都の真の実態を知らされず、ましてや外部の人間が内情を察知するなど不可能に近い。そんな鉄壁の防御を誇る王城へ、単身で「忍び込むのがやっと」と言ってのけるリュドの才は、隠密として既に常人の域を遥かに凌駕していた。
ルシウス 「……最高峰の隠密がそこまで言うか。なら、気をつけて。くれぐれも……無茶だけはしないでくれよ。万に一つもないとは思うけれど、僕たちが到着する前に命を落とすなんて、そんな馬鹿げた結末だけは勘弁してほしい」
ルシウスの言葉は、単なる警告ではなく、祈りに似た響きを持っていた。リヒトという存在を失うことが、計画の破綻だけでなく、自分自身の半身を失うことに等しいと理解しているからだ。
リヒト 「ああ。向こうで待っている」
リヒトは短く、だが確かな重みを持って答えた。
交わされたのは短い言葉と、命を賭した固い約束。
二人の背中がアジトの影から光の中へと消えていくのを、ルシウスはいつまでも無言で見送っていた。
こうして、リヒトとリュドは、かつての因縁が渦巻く帝国への過酷な旅路についたのである。
アジトの喧騒を背に、中立国の南側玄関口へと続く石畳を歩くリヒトの隣に、気配もなくリュドが並び立った。
リュド 「……さて、リヒト。帝都へはどうやって入るつもりだ? 正面から関所を抜けるほど、今のあいつらは甘くないぞ」
歩調を合わせながら、リュドが低い声で問いかけてくる。
リヒト 「案ずるな。俺もかつては帝国に身を置いていた男だ。関所を介さずとも、奴らの監視網の綻びを抜ける道はいくつか心得ている。心配には及ばん」
リュド 「そうか。ならば、俺は一足先に帝都の深部へと潜らせてもらう。ギークたちの偽装工作の要否も含め、奴らの喉元で情報を拾っておこう」
リヒトが短く頷くと同時、リュドの姿は陽炎に巻かれたように影へと溶け、完全に消失した。
しばらく歩くと、中立国の安寧と外の世界の混沌を隔てる巨大な鉄の門――南側玄関口に辿り着く。出国の手続きを待つ列の中で、リヒトの姿を認めた門番の一人が、驚きに目を見開いて声をかけてきた。
門番 「お、リヒトさん! どちらかへお出かけですか? あんたがここを通るなんて珍しい」
リヒト 「ああ。先日、広場で起きた『あの件』の精算をしに行かねばならなくてな……」
リヒトが視線を落とすと、門番の表情が瞬時に曇った。数日前、帝国の兵によって引き起こされた凄惨な光景。石畳に染み付いた血の跡は、まだ人々の記憶から消えてはいない。
門番 「ああ……あれ、ですか……。帝国も、本当に酷いことをしますよね。……ですが、俺たち中立国の軍力じゃ、あいつらには到底太刀打ちできない。悔しいですが、黙って見過ごすしかないのが現状でして……」
門番は拳を固く握りしめ、言葉の端々に隠しきれない憎悪を滲ませた。そして、周囲を気にするように声を潜め、リヒトの目を真っ直ぐに見据える。
門番 「ですが、リヒトさん……。もし、あんたがあの傲慢な帝国に一矢報いてくれるっていうのなら……。無念のまま亡くなったあいつらも、少しは報われるって。……どうか、気をつけて。あんたまでいなくなっちまったら、この街は本当におしまいだ」
リヒト 「……ああ。分かっている」
門番の託された想いを、リヒトは無言でその肩に受け止めた。
手続きを終え、重厚な門が軋んだ音を立てて開く。リヒトはその隙間から差し込む外の世界の光の中へと、迷いなく足を踏み出した。
背後で門が閉まる音が響き、周囲に広がるのは荒涼とした国境地帯の風景。
リヒト 「さて……。帝都に向かう前に、少しだけ寄り道でもするか」
ひとりごちたリヒトの瞳に、鋭い光が宿る。
彼が「寄り道」と称するものが、一般的な散策などではないことは明白だった。今この場には、彼の暴走を止めるルシウスも、冷徹に窘めるメーガスもいない。
リヒトを縛る鎖は何一つなく、彼はそのまま、国境のさらに深淵へと歩き出した。
〜〜〜〜〜
関門を抜け、帝都へと続く荒野を歩き続けて、果たして何日が経過しただろうか。
リヒト自身、その月日を正確に数えることはなかった。内に宿る膨大な魔力が肉体を絶えず活性化させ、彼に凡庸な「疲れ」を感じさせることを許さないからだ。
だが、リヒトもまた、血の通った一人の人間である。
遮るもののない地平線を、ただ一人で数日間も歩き続けていれば、嫌でも「飽き」という感情が胸をかすめる。
リヒト「……何度移動しても遠いものだな。無理を言ってでも、メーガスの転移魔法を使わせるべきだったか」
ふと、独り言が口をついて出た。
しかし、乾いた風が吹き抜けるだけで、それに応える声はない。
分かっていたことではあるが、返ってこない言葉の虚しさに、リヒトは無性に込み上げる寂寥感を覚えた。彼はそれを「無かったこと」にするように自嘲気味に鼻を鳴らし、さらに歩を進めた。
それから数刻。
陽炎の向こう側に、ようやく目的地の輪郭が見えてきた。
――スルベリア廃村。
かつてリヒトが生まれ、育ち、そして全てを失った場所だ。
十数年前、ある凄惨な事件によって緑を奪われ、永遠の静寂を強いられたこの村は、帝国の地図からも抹消されたまま放置されている。
人の手が入らなくなって久しい家々の残骸には、野生動物が住み着いているのだろう。あちこちに獣の足跡や爪痕だけが残り、人の気配は微塵も感じられない。
廃村の入り口から数分。リヒトはある「廃墟」の前で足を止めた。
リヒト「……すべて。すべて、ここから始まったんだな」
震える声を押し殺し、リヒトは目の前の残骸に向けて呟いた。
そこは、かつて彼の家族が睦まじく暮らしていた家だったはずだ。
質素ながらも温かみのあった二階建ての家。一階には使い込まれた台所と、家族の笑い声が絶えなかった二つの部屋があり、その中央を二階へと続く木製の階段が突っ切るように伸びていた。
だが、今のその階段は、安らぎの寝室へと繋がっているのではない。
屋根も、壁も、床も、全てが焼き払われ、あるいは朽ち果てた結果――階段はただ、何も無い青空に向かって、虚しくその腕を伸ばしていた。
かつて二階だった場所には、ただ冷たい風が吹き抜けるだけ。
リヒトは、かつて家だった場所と思われる敷地へ、ゆっくりと足を踏み入れた。
その土を踏みしめた瞬間、堰を切ったように記憶の奔流が脳髄を駆け巡る。
視界の端々に映るのは、陽だまりのような温かな色彩。
自分よりも遥かに大きな、安心感に満ちた男の背中。壁に立てかけられた、精緻な装飾が施された一振りの両刃剣が、窓からの陽光を反射して眩しく輝いている。
傍らには、慈愛に満ちた笑みを絶やさず、自分を包み込んでくれる母らしき女性の姿。
ーーそこは、紛れもない「幸福」の象徴だった。
だが、その平穏は、世界を叩き割るような激しい震動によって無惨に引き裂かれる。
視界を埋め尽くすのは、すべてを飲み込む紅蓮の炎。
逃げ場のない熱気の中で、自分を無理やりタンスの暗闇へと押し込む男女の、悲痛に歪んだ顔。
「――生きなさい」
声にならない叫びが聞こえた気がした。
タンスの隙間から見えたのは、幸せだった家庭を焼き尽くし、両親の姿を黒い影へと変えていく無慈悲な業火の赤だけだった。
リヒト「……っ!」
激しい眩暈と共に、リヒトは強く自身を律して自我を繋ぎ止めた。
大陸を震撼させる組織「ジャッカル」を束ね、数多の修羅場を潜り抜けてきた彼であっても、この場所が呼び覚ます過去の傷跡はあまりに深く、鋭い。
これ以上、この負の情動に身を任せていては、意識の深淵に引き摺り込まれかねない。リヒトはあえて突き放すように敷地の外へと足を向け、崩れた門柱の跡に立ち止まった。
そして、かつて愛した者たちの魂へ向けて、静かに、丁寧に黙祷を捧げた。
その静寂を破ったのは、凛とした、それでいてどこか世捨て人のような枯れた声だった。
???「……このような地で、独り黙祷を捧げるとは。お主は、もしやこの地に所縁ある御仁か?」




