22話 などと意味不明な供述をしており斧、ですよそれは!
ぼくたちは逃げ出した男、そして残っている生徒がいないかどうか校内を探してくる、と言って、ヤマダとルーちゃん先輩はどたどたと部室を出て廊下を走った。
嵐で道が塞がれ、閉ざされた学校、そして逃げ出した、顔が不明の死刑囚(暫定)。
この設定は、すこし知られているけどあまり知られていない有名なトリックサスペンス映画のパクリ、というかほぼ同じだな。映画の中では学校ではなくてモーテルだったけど。
樋浦遊久先輩と樋浦清は、ふたりでカーテンを外した。
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「真犯人は、斧を持った狂人、ってのはどうでしょう。校庭の、あそこのところにある桜の樹の幹にそれで切りつけてるの」と、市川醍醐は言った。
おれと市川は、男子専用ゾーンの窓から外を眺めていた。この、1時間に100ミリ以上降っていそうな雨は、多分1時間以上は降り続くだろう。
春にはちゃんと桜の樹っぽく見えた、校庭の塀のところに並んで植えてあった樹の根元には、ヒョウで折れて溜まった木の枝が見えた。その枝には、秋には色づいて落ちる葉とは違って、葉の盛りに無残に緑色のまま落ちて泥色に染まった真夏の切片がついていた。
「それは………そのときはいい考えだと思った斧、かな」とおれは言った。
「などと意味不明な供述をしており斧、ですよそれは!」と、物語部サポーターでいろいろつきあいのいい松川志展は言った。
こういうのって、それはどういう意味だ、って誰かが聞かないといかんでしょ。そのための、説明の相手役として物語部のサポーター、志展と関谷久志がいる、ぐらいにおれは思ってたんだけど、志展は話を、意味がわからなくても合わせてくるのよね。
遊久先輩と清は、窓と直角に部室を区切ってロープを張った。部室には、凶器を持って襲いかかった殺人鬼を拘束するための長いロープ、拷問に使うための様々な大きさと色の物干しクリップ(洗濯ばさみって言うんだっけ)、胴体を乗せて首を斧で切るための踏み台などがある。カーテンも含めて、剣道演劇部(剣道部と演劇部を魔合体させたもので、関谷が仮部長である)がうちの部室に預けておいたものだ。
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ジョージ・ワシントンに桜の樹を斧で切ったことを、「こんなことをしたのは誰だ!」と怒られたところを、自分です、と正直に言ったら逆に褒められた、という逸話がある。
この逸話の問題点はふたつある。
ひとつは、嘘をついてはいけない、という教訓の話のはずなのに、この逸話は実際にあったことではない、つまり嘘である、ということだ。
もうひとつは、ワシントンが桜の樹を切った動機が、これだけではさっぱりわからない、ということだ。
遊久先輩と清は、張ったロープにカーテンをかけ、物干しクリップで数か所を止めた。
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嘘をついてはいけない、という教訓なら、一休さんと和尚さんの話のほうが普通に納得できるね。
この中の壺は毒の水飴が入っているから、舐めると死ぬぞ、と言われた一休さんは、和尚さんの留守に、大事にしていた茶碗を割って水飴を全部いただいた。帰ってきた和尚に言い訳として、「茶碗を割ったので死のうと思いましたが、この水飴をいくら舐めても死ねませんでした」と言う。
この逸話の問題点は、これもまた嘘(作り話)である、ということだ。
でも、嘘をついたらひどい目に会うということと、一休さんが水飴を舐める(犯行を犯す)動機がはっきりしているところは評価してもいい。
和尚の名前は大徳寺という禅寺の高僧、華叟宗曇ということになっており、一休という道号の名付け親でもある。
遊久先輩は、カーテンをすこしまくって、ジェリコのかべー、反対側は男子立入禁止、とかやってる。
これはネタバラしてもいいほうなんで言っちゃうけど、その映画は『或る夜の出来事』で、最終的にジェリコの壁はなくなる。
「むしろ今の私たちが、誰かの脳内世界にいるってことはないのかしら、たとえば………………」と、千鳥紋先輩は、おれが、あわわわわ、ってなりそうなことを言った。
まあまだ、このあたりで出てくる真相はたいてい真相じゃないし、犯人は真犯人ではない。
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この世界が誰かの脳内世界だとしたら、いや、それについてはおれ個人にとってはもう解決した問題だから、つまり作者の脳内世界だということでの話が進まなくなる難点は、おれが知っていることは市川たちはみんな知っている、というところだ。
たとえば映画や本、アニメや哲学書など、どんな話題でも市川はおれに合わせられる。つまり、おれたちふたりの中で、え、それどういう意味なの、みたいな質問と説明のやりとりはない。それどころか、物語部員全員が、おれと同様の知識を共有している。市川なんかもっとひどいことに、ウィキペディアの引用みたいなことも言える。作者はずるすぎ。
そしておれたちは、あわただしく階段をのぼって、廊下を走る複数の人間によると思われる足音を聞いた。




